媚びる

媚びる:1.相手の歓心を買うために、なまめかしい態度をする。いろっぽく振る舞う。2.相手に迎合しておもねる。へつらう。

おもねる:(一説に「おも」は面、「ねる」は練る、顔を左右に向ける意)機嫌をとって相手の気に入るようにする。追従する。

この媚びるという字も「責任転嫁」や「姦しい」くらいすごい漢字です。確かに眉の表情というのは、人間の顔のアクセントになり、女性のほうが昔から眉をいじってきたかと思われます。けれども女へんのつく漢字ってどうも私はなじめません…。まぁ、漢字も言葉も使っているうちにいつか淘汰されるから生きているうちはだめでも、将来に望みを繋ぎましょ、っと☆

いろんな人といろんな話をしていると、私はついついとっても痛い質問:「ねね、人に好かれたいって思う?」と尋ねてしまいます。かなりの割合で多くの人は「そりゃーやっぱ好かれたいよぉ」とか「好きな人には最低限好かれたいよね」とか「うんうん、うまくやるためには好かれたいって思う」とかになります。

もちろんここですかさず私は「私はねぇ、ほーんとに好かれたいって気持ちないよのぉ、これっぽっちも」と言って、「しまった!」と思い、すごく長い説明が必要になる場合があります。私が何を大切にしたいのか、という基本コンセプトをわかってくれている人には、そーんなに長ったらしい説明は必要じゃないですが、説明を端折ると、「ただの横柄、自信家、傲慢、協調性なし」というふうに誤解されたり、「好かれる努力もできないはみだし者」とラベル貼られます。

私という人間がどのようなことを言ってもやっても、結局それは私から離れるときに、どのように受け取るかは、受け取る人の心にのみ反映します。責任を持たないとか、そのコミュニケーションを怠るとか放棄するとかの、傲慢や拒否ではありません。いつもがんばってできることをやっている、という実感があったあとで、「どう取られても相手の権利と自由」で、それを私は無理矢理コントロールしたり、翻心してもらったり、媚びたりはしたくないわけです。私が損なわれてしまうことだけは、どうしても避けたいのですね。

真実や確かなモノがあふれていたとしても、情報過多や時間の経過によって起こるさまざまな事件や、瑣末な言葉使いや、受け取り手と私の体調や心の変化によって、たぶん本当に確かなもの、すべて信頼できるようなことっていうのは、ものすごく少ないと思われます。

事実、愚かだった私は、田舎のおじさんが小梅を食べれば10円くれるっていうので、大っ嫌いだったにも拘わらず、食べましたよ、朝ご飯のときに、一夏毎朝。でもやっぱりそんなReward(報酬)につられても、心から好きになんかなれないわけです。大人になって、私の頑固さにもうちょっとバラエティができてきて、梅干しというのは保存食で、いろいろな大きさ・栽培・漬け方の梅のバラエティも見て、いろいろな梅の料理の仕方や他の食材との組み合わせも見て、多少大きな事件があって、それで食べるようになりました。

ツーリングをしていて、雨宿りをしていたときにおばあちゃんがお茶と梅干しを出してくれたのですね。たしか静岡でした。その暖かみ、その手作り感、見知らぬ若いねーちゃんへのおもてなしの心、大きな田舎の縁側の広さ、お仏壇の大きさとどっしり感、雨だれの音、おばあちゃんの手のしわ、そういうものすべてひっくるめて、ぴきーん!と来たんですね、梅干しの味。それから私は「嫌い」だと拒否することはしなくなりました。人でなくても、たとえモノでも「嫌い」とはなかなか簡単に言えなくなりました。

そして他の食べ物でも好き嫌いではなくて、興味があるかないか、なぜ食べないのか、食べられないのか、食べたくないのか、きちんと理由を探してみることにしました。

人間も同じことで、なぜその人に興味が持てないのか、気持ちが殺がれてしまうのか、なぜ付き合わないのか、付き合えないのか、付き合いたくないのか、きちんと考えてから、やっぱり梅干しのときと同様、他の食べ物のときと同様、必ずトライして、これだけやってもだめだ、全力尽くしたぞ、というところまで来ない限りは「嫌い」とは思いません。しかも、人間は変わっていきます。時間が経てばそれだけ変わる確率も増えるということです。だから切れない。

相手もこれくらい本気で私を嫌いで興味が持てなくて、気持ちが殺がれて、付き合わない態度で、付き合える気持ちになれなくて、付き合いたくないとまで考えたら、それは Let Go(見送る)しかないでしょう。だから「切ってくれていいです。私は切りませんが、それを負担には決して思わないでください。それはあなたのためにではなく、私のために切らないだけだから」ということです←別にストーキングするわけじゃないですよ、相手のスペースは守ります(爆)。

嫌われて哀しくないわけはまぁ、ないわけですが、私は好かれたいとはほんとーにこれっぽっちも思いません。好いてくれたらおまけでうれしいですが、他のみなさんと同様でいいし、冷蔵庫やライターと同じでも、それはその人の自由であると思っています。

私のことを好きでない人はよくあるパターンとして、たいていざざざ~っと引いていきます。さよならもなしだし、「今度ね」と余韻を残して連絡が少なくなります。私はそれでいいなぁと思います。また10年後に接点があったときに続きができれば。変わったことをまた察知して、最初からやり直しくらいにお互いが変わっていたら、それはそれでまたおもしろい♪時々、なぜだったんだろう?って考え込んじゃうけれども、まぁ、それも人生です。

さよなら、と言われた場合も同じです。いつか逢えたらそれはまた続きをやればいいのだし、逢えなかったらそれはそれで仕方ないです。

だから無理矢理「好かれるために媚びる」は一切なしです。そりゃねぇ、細かいところでの譲歩や我慢は当然あります。でなければ私はきっと学校も途中で行けなくなっていただろうし、今ごろ誰かに背中から心臓刺されて死んでるかもしれなかったでしょう。でも何度も主旨を伝える努力は怠らないです。それでだめでもまだ言いつづけます。私が自分で居てもいいよな、っていうところまで譲歩や我慢はしないことにしています。うーん、たまにやってて某Yさんに無理してんじゃねぇよ、と怒られるか?でも、その譲歩や我慢の動機は、「好かれるため」ではなくて、私の考えを充分に伝えるためです。自分が怠慢していたことにあとから後悔しないためです。

私は自分を好きで居続けたいのですね。これが私のリアリティです。他人のリアリティを尊重するために、媚びたら失礼でしょ?だから相手にそのときだけ気に入ってもらえるように、自分をへんげさせるなんて私にはできないです。嘘と同じで、続けていったら自己が損なわれます。実体の基礎である自分が保ちつづけられて、さらに柔軟性を持つことは大切です。けれども同じ話題で違う話をしていて、激怒型のいらいら人間と話すときには、好かれるためにうなずき、不安が多く愚痴が多い人間と話すときには、自分もいっしょに愚痴を言い、本能のままに生きていて次に何をするかわからない人間と話すときには緊張し続け、反応の振幅に合わせて矛盾を生んでいては、その基礎の自己がどれなのか、わからなくなります。

かと言って、自分と同じ傾向がある人間とばかり集まって生きていくのもあまりに温室育ちでしょう。どこに行っても、極微細であろうが多少であろうが、違いというものは必ずあります。その些細な違いにならば対応でき、自己の統一ができるならば、きっとかなり違うな、と思える人にも自分が自分であることは披露できるはずです。それで嫌われようが好かれようが、それは自分なのだから、それでいいでしょう。

「復讐が怖い」と言った人がいました。「好いてくれないとわかるともう態度をころっと変えるの」と。復讐したい人には生命の危険がない限りはさせておけばいいと思うのですが、どうなんでしょ。どういう形で復讐するのかにも拠るんだけど、大勢を集めて学校や職場から追い出すとか、家に火をつけるとか、いたずら電話するとかかなぁ。復讐しないと気が済まないような気持ちも、それはその感情を持った人のロスじゃないかなぁと私は思います。刑事事件になるようなことは論外だし、大勢を集めて嫌がらせして、多数決で個をやっつけようとする考えはきっといつか罰が当たると思います。

「いいの、適当に合わせておくの」で、解決するならばいいけれども、Learned Helplessness(学習・取得したあきらめ・無力感)になり、習慣にならないことを祈ります。

私は媚びないやつで嫌われてけっこう♪自信家だとか傲慢とか思われても言われてもけっこう♪歩み寄りと独断的であることの違いがわからないけどわかりたい人には説明しますが、わかりたくない人には強制しません。誤解したまま真実を知らないで背を向けていくのも、りっぱなひとつの選択なので、私はその選択を尊重します。

 

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スピード感

トイレが世界でいちばん速い女だな、とよく言われることはすでに書きました。すべてに関してスピードを求めてしまう私は、やはり10代の頃からバイクや車キチガイだったことにまだまだ根ざして生きているのでしょうね。居酒屋でも、「恐怖の二杯オーダー」などをやらかしてしまったり、テストも時間前に退室することもしばしばあります。こうしたブログも毎日書いているわけではなく、まとめてざざーっと5日分や10日分を書くのですが、2時間以内で書けてしまえ!と願いながら書くと、実際にできてしまうのです。考えていないわけじゃーないんですが、タイプも速いのでかなりなスピードを伴ってくれます。

ただし!

最近気を付けているのは、ごはんはできるだけゆっくり食べよう!ということ。母の歯が悪くなってから、彼女を踏み台にしているようで申し訳ないのだけれども、歯の健康がいずれ胃腸の健康にも影響が出るということがわかってきているので、ここ数年はごはんをできるだけゆっくり食べることにしています。意識の問題ですが、咀嚼回数をたまに数えてみたり(1口30回は噛むようにしています)、順番やバランスを考えたり、などしているあいだ、母や友人や生徒さんといっしょのときには、話すタイミングなども図り、材料その他を考えつつ、ゆっくりを心がけるようにしているのです。

驚いたのは、職住隣接生活を開始してから、歩くスピードも全般的にゆっくりになったようです。どうしてまぁ、せせこましく歩いていたのだろう?と振り返ると、見るべきものしか見ないで歩いていたからなのですねぇ。今でもよくやってしまうのは、大きな石を見たらひっくり返して裏側を見ることやら、蟻ん子を追いかけることやら、水たまりに足を突っ込んでしまうことなのですが、それらは忙しく歩いていたときにはやらぬことでした。子どもの頃に帰ったように、最近では歩くのもけっこう楽しんでいます。困るのは、レンガや敷石を数えたり、踏みたくなかったりするリズム感が狂っていることを、思い切り知ること(笑)。あれれ・・・。ボケまくってきているのか?

こうした緩急をつけた暮らしを追求してみると、なんだか見えていなかったことがけっこう見えてきます。とはいえ、平熱が高いため、お風呂にゆっくり浸かっていられないのは代わり映えがしないんですけどね (・・;)

見えるモノが増えると、なんだかゆとりを感じてうれしいものです♪

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涙の功罪

Dec 14, 2005  に書いた文章です。

 

私はどこかにも書いたように毎日泣きます。疲れないか?とよく尋ねられてしまいますが、泣くから疲れが取れるという利益をかなり強く信じています。フロイトではないのですが、人の身体にはエネルギーのキャパがあり、それを超えると吐き出さなければならないのではないか?というのは信じています。食べて栄養分だけを摂ってから、体外に排出するように、心も同じメカニズムで動いていると強く信じています>が、フロイト全体を信じているわけではないので。特にカタルシスなどはダメです。防衛本能のセオリーが彼の最も大きな功績だと解釈しています。

泣けない、しばらく泣いていない、というのをよく聞きますが、泣くのはそれほど難しいことなのでしょうか?今日はすでに、カリフォルニア知事のArnold Schwarzeneggerが、死刑囚のStanley Tookie WilliamsのClemency(恩赦)を拒否する表明を出したことや、それ関連のニュースで、午前中散々泣きました。事件のあらましはこうです;LAギャングのひとつを創立したWilliamsは、2つの殺人事件で死刑を宣告されます。が、彼は24年前から一貫して無罪を主張してきました。上告をしてきた24年間の中で、彼は子供向けの本を出版し、電話や手紙やインターネットによる若者へのカウンセリングをし、模範囚として過ごしてきました。大学の教授たち複数が、彼をノーベル平和賞文学賞に繰り返し推薦したほどの実績があります。51歳になった彼の死刑を、火曜日の00:01に予定し、カリフォルニアだけではなく、全米が討論を繰り広げています。しかも、最後の最後に、殺人現場の証人まで現れ、彼ではなかったという証言も提出されています。そもそも、死刑をターゲットにした犯罪において、DNAなどの法医学証拠ではなく、人間の証言や目撃を基礎にしているものは、私は執行をすべきだとは思えません。そんなことをいろいろ考えていたら、涙が止まりませんでした。人の愚かさや政府が行う殺人に対して、いろいろな考えが脳裏をよぎりました。しかも、Williams本人が最も潔く、自分の時間が来たということを受け入れているのが強く心に刺さります(これをアップする頃、彼はすでに死んでしまっています。1977年、死刑再開以来、12人目の処刑者となります)。

おそらく9歳くらいから、私はずっと毎日何かしらに触れて泣いています。お休みした日はわずか10日ほどくらいしかないでしょう。何が私を泣かせるのか?というのは簡単です。何にでも共感できてしまえる能力が、私を泣かせてしまうわけです。幼い頃は本当に自分のためだけに泣いてきました。悔しかったことが主で、父や母に理解されないことや、友人や先生に理解されないこと、生きていくのはつらいということでいつも泣いていました。20歳半ばくらいまでは、ほとんど自分のことのみで泣いてきており、悪態をつく代わりに泣いてきた、という感じです。泣くことができなければ、私は悪態をつきまくり、今よりもっと狭量な人間になっていたでしょう。父は「泣くならばこれぞ、という時に泣け。そうでなければ、他人に涙を見せるな」と、私を殴るたびに言っていました。以来、私は殴られて泣いたことはありません。

USに来てから涙のわけががらりと変わってきます。理解されない悔しさに泣いてきたことが、どんどんうれしさがゆえに泣くようになります。大げさに褒めてくれる先生や友人、それがただのオーバーな表現ではなく、真理を突いていることに泣けてきたり、苦労している最中に達成したヨロコビに泣いたりと、質が変わってきました。さらに、たくさんの人種や言語や文化が飛び交う中、私は私でいていいのだ、私らしさを追求してのびのびしていていいのだ、という環境そのもののありがたさにますます泣け、そこにいても不幸に暮らしている人々に共感して泣け、ニュースや映画に泣けてしまうようになりました。それから17年半、まだその傾向は続き、私はもう自分のために泣くことがなくなりました。以前、誰かの話を自分のことのように受け取り、そのために亡くした父を想うという連鎖になったとしても、父がいなくて悲しいのではなく、愛する人が確実に過去にいたことに対してのヨロコビのほうがずっと大きくなりました。

泣くという行動そのものがなぜに私の身体にいいのか?というと、泣いているあいだはあるひとつの物事に心が集中するからです。私は持病がゆえに、一度に2つ以上のことを平均以上のスピードでこなします。英語のTVを見ながら日本語のエッセイを書き、PCのウィンドウは今も6つ開いてあります(仕事用と目を休める用)。飲み物を飲みながら、ビタミンやうこんをさらに口にし、ネコ6匹の所在を確認しながら、持病の腰痛が寒さによって出ないようにと、立ってストレッチしたり暖めたりしながら、TVもZapping(かちゃかちゃとチャンネルを変えること)しています。私の心と頭は普段休まることがなく、眠るときは、脳みそがから揚げ状態になっており、へとへとになってからベッドに入り本を読みます。そして、ほんの数行しか読めないことに感謝して眠りにすーっと落ちていくのです>日中もトイレとキッチンと机の上とベッドの上に本が数冊置いてあり、手を動かす時間が数十秒でも空くと手にとって読みます。

こうした私には、泣いて他のことをしないでいられる時間はとても貴重です。誰かと話しているとき、幼いころは落ち着きがないとよく怒られていました。落ち着いてそのことだけに集中して話す、ということが今でもできてはおらず、相手が話をプロセスしている最中に、私は他のことを考えたり、メモを取ったりしています。食事をしながらTVをつけていても、食事がおろそかになることはないですし、食事をしながら読書をしても読書のみに集中して偏ることはありません。泣いていると、手も足も止めて、ついでに頭の中は泣いている対象物だけで埋まり、私にはとてもいい時間なのです。が、今日のような死刑執行については、内容や関連して考える命題が少し複雑で涙にも疲れが伴うのですが・・・。

浄化という考え方がありますが、涙を流すことにより、体内に埋もれていた澱みを流せるような気がしています。誰かに対して怒りや納得のいかないことを貯めておくと、心の中にマイナス要素を貯金しているような気分になり、どんどん膨らんでいき、最後に相手に対峙して話そう、伝えよう、と思うときには、意図していたより大きな爆発になることはないでしょうか?私はもうそんな貯めはとっくにやめたのでないのですが、若い頃はよくそういう愚かなことをやっていたと思います。悪循環を招き、いい結果が得られませんでした。「今言っても大丈夫だろうか?」「タイミングはいいだろうか?」「この場所ではあまりよくないのではないか?」と、恋をしていた頃はいつもビクビクしていました。素直ではなかったし、自分に自信が持てなかったからです。相手のほうがずっと大切で、自分はどうでもいいと思っていた節がありました。心を浄化するチャンスがないまま、私は自分でも自分の気持ちに整理がつかず、愚かしく繰り返し、自分のために泣いていましたが、自分をヒロインにして悲劇を創作し、あれはあれで溜め込んだ澱を少しは吐き出せていたのではないかと思います。

充分大人になってからは、映画を見て問題提起をされても、散々泣いたあとに、自分なりに何ができるのか?というゆとりも生まれました。今日は午前中にE-mailでシュワちゃんに恩赦のお願いをもう一度考えてくれるように、とだけ送っておきました。が、午後になってすぐにあの発表があったので、私のメールは読まれてもいないのでしょうね・・・。今晩、体力と気力があれば、San Quentin(死刑囚が8割の刑務所;車で約40分)に出かけて行きたいです。が、今の私にはその気力がありません。あの臨場感は自分に大きなゆとりがないと押しつぶされるものです。病み上がり以来、まだデモに出かけていないので、ひとりっきりでは無理かもしれません。

私は他人を泣かすのもかなり得意です。が、怒って泣かせるのは最近ないです。褒めて泣かせています(笑)。自分以外の人でも、私のここを見ていてくれたのだな、とうれしくなると、人は泣いてしまう傾向にあるようです。私を人前で泣かせるのはたいへんです。父のお葬式でも大粒の涙を流せず、目と鼻を真っ赤にして堪えていましたから。が、毎日泣いています。

P.S. Stanley Tookie Williamsは、0:35AM 1000人の人々が刑務所の外で、Joan Baez本人が歌う ”Swing Low, Sweet Chariot”に見送られ、Jesse Jackson, Mike Farrellが率いる反対派の人々が最後まで見守る中、処刑されました。Jamie FoxxやSnoop Doggなどは、スケジュールのため、刑務所には来られませんでしたが、最後まであらゆるところに電話をしていたそうです。私は、TVで見て祈っていましたが、知事からの電話は来ませんでした。

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ここのところのThings to do list消化率

明日から6月1日ですが、私の体たらくにより、Things to do listは白紙に限りなく近い状態になることがありませぬ(自嘲)。

Precious One English Schoolの生徒さんだけなのか、よそでもそうなのか、リサーチできていないのですが、Frictionで消すボールペンが流行しており、それがやたらと羨ましくなってしまい、Things to do listを作成→消去という作業に使うことにして、はや1ヶ月。ところが、赤ペンで、だだだーっっと消すより、快感が湧き上がらないので、どうしたものか?と思っているところなのです。とはいえ、ケチくさい私ゆえ、このペンのインクがなくなるまでは、この方式で行こう!と考えているところです。

それまでは、1・3mmの太字シャーペンを使っていて、赤ペンで消していき、半分以上が消えると新しい裏紙を取り出してきて、きれいに整頓するってことをしていたのです。

まぁ、やることがたんまりで、このリストはZERO化することはないんだろうな・・・、仕事をしている限り・・・、などと、たまに大きなため息が出ます(笑)。とはいえ、私などは仕事だけで、育児もしていませんし、主婦業もしていませんから、そもそもこんなリストに頼って生きていけるわけです。

洗濯物も食事の回数も掃除のためのゴミも次々生まれてきてしまうではないですか (@_@) 脱帽を10回X10セットやっても足りないくらいの敬意です。所詮私などがしていることは、得意なことを母と分業し、自分でできないことは外注し、生徒さんにご理解いただけるような可視化資料をたくさん作り、Kindle本の執筆をし、新たに立ち上げた会社のリサーチを行い、それをシステム化することくらいで、あとは飲んだくれたり、読書をしたり、と気まますぎるようです (・・;)

新たにジム通いも始まったのですが、そのシャワーセットですら、母が準備してくれる始末(笑)。バスケットにシャンプ-・コンディショナー・石鹸(ボディソープが使えない私である)・洗顔料・歯磨き・歯ブラシ・垢すりをセットしてくれ、いっしょに持参する着替えをスクールに持って行き、そこから空き時間にジムに行くのですが、その詰め替えやらも、母が心配してくれるという体たらくなのです (T_T)

「立っている者は親でも使え」はモットーではありますが、ここまで使い倒すと、さすがに気がとがめる (・・;)

自力で消去されているわけでもないThings to do listに、あまり胸が張れていない状態は、しばらく続きそうです。外注を快く引き受けてくださっているみなさま、本当にありがとうございます。

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強さの一例

私は自分は死ぬまで「ああ、上品な人ね♪」と言われることはないと思っています。それをほぼ確信のように実感したのは、映画 Jackie Brown(邦題も同じ)を見たときです。今宵もなぜかまた5回めなんだけれども、またまた見入ってしまいました。脚本・監督はPulp Fiction(邦題もパルプフィクション)のQuentin Tallantino(クェンティン・タランティーノ)です。

老いることは誰しも一度くらいは「恐怖」を感じるのではないか?と思います。それと相反するように「早く円熟したい」とも一度くらいは思ったことがあると思います。私は小さい頃から「早く30代になりたい♪」と思っていて、今、その間っ最中にいます。憂いを横に置いておきつつ体力と気力があるときには対峙し、たまにはトントンと叩かれるドアの音に耳を澄ませて開いてみています。けれども老いることへの恐怖は、私自身のなかにはありません。今まで培ってきたものがよりよく反映されながら、どんどんアタマと心が使えればいいなぁという希望があります。

暗い部分で言えば体力が落ちたときに、社会の冷たさや老人に対する配慮のなさなどにぶつかって、悪循環に陥ってしまったら?という仮想はしますが、きっと大丈夫でしょう。私が今まで乗り越えてひとつひとつ対処してきた問題と大筋が似ていれば、解決は可能です。付加があれば新しくまた学習していきます。それには健康でいなくちゃなとひしひし感じます。

Jackieは40を過ぎて年収16000ドル(200万いきません)のフライトアテンダントです。黒人でゴージャスな女性ですが、大手エアラインからどんどん落ちてきました。生きるために犯罪に荷担します。だんなも子どももいませんし、ボーイフレンドもいません。蓄えもなければ、資格も持っていません。よくない状況から抜け出るため、彼女がどうやって自分のアタマと心を使ったのか、というストーリーですが、喜怒哀楽全部ひっくるめて、問題解決したあとのエンディングの彼女はとてもとてもきれいです。

お決まりですが、アメリカで黒人に生まれてしまうと社会から無意識に押し付けられるラベル貼りがあります。いくら抵抗しても大勢の力に個は非力なあれです。日本にもありますが、質や段階やいろいろがちょっと違います。この映画でも、「NYの110th Street(110番街と訳すんだろな)を渡ると、そこにはPimp(売春婦からピンはねするぽん引き)が居て弱い女たちから金を巻き上げる」という歌がエンディングに流れます。そうやって闘いながら道を切り開いてきたんだろうなぁと思うとやたら共感して、涙がこぼれてきます。

けれども彼女は強いのです。すごいゴージャスなスーツを身につけても崩れた感じはぬぐえないのだけれども、きれいで強いのです。個人によって「きれい」の定義は違うでしょうが、私にとってはとてもきれいです。ストーリー前半はただの疲労感の固まりです。投げやりで言葉使いが悪く、自分が犯している犯罪に対して悪びれていない開き直りとあきらめがあります。「他に私はどんなふうに生きてくればよかったのよ?」という種類のものです。

その彼女が追い込まれ、一見すると警察に捕まるか、あるいは組んでいる犯罪者に口封じに殺されるか、という二者択一のところを、彼女は彼女にしかできないであろうもう一つの選択をします。どちらからも自由で居て、力を得て自分の道を切り拓くわけです。

決めるまでの潔さ、生きることへの執着には、上品さは感じられません。けれども、計画を進めるうちに彼女はどんどんきれいに強くなっていきます。見ている者の錯覚なのか、あるいは製作者の意図に乗っかっているのか?けれども、実際にこのような下地とこのような性格や魂があれば、これはあながち嘘ばっかりなストーリーではなく、きっとこういう人物は実在する、そういう人への応援歌みたいな映画なんだろうなぁ、と思わされます。

実際、私は自分に重ねて見てしまいました☆

演出や役者はもちろんうまいですよ。でもそれだけじゃないのは、これがありがちだろうストーリーだからです。実際にあんな窮地から逃れられるのか?と疑問を抱く人はたくさんいるかもしれません。でも私テキにはこの結末もありがちです。アメリカを見れば、社会や人々に踏みつけられた黒人女性は掃いて棄てるほど居ます。けれども、掃き棄てられなかった黒人女性もまた山ほどいます。

その分かれ道はどこなんでしょう?私も日本では底辺と言われた生活のなかで生まれ育ちました。条件や環境はとても悪かったし、子どもの頃からたくさん比較されて哀しい想いを何度もしました。親に悪態をついたこともあったけれど、「親のない人に比べればまし」なんていう比較に比較の論理で返すような哀しみ比べはしたことがありません。そんなのひとりひとり違うように感じることは、わかっていたことだからです。

幼稚園のとき、砂場で十二支を話し始めるおともだちがいました。「私ねぇ、うさぎ年なんだって。パパが言ってた」というやよいちゃんに、自分の干支を知っている子たちは「うさぎ」か「たつ」と答えました。そして無知であった私は、家に帰ってこの疑問を解くことにしました。父がねずみで母がとらで弟がへびで私がうさぎ…。これは大混乱でした。説明してくれたのですが、どうやら生まれた年で決められてしまうので、お誕生日が1月から3月の子はたつ年らしい、ということがわかり、生まれる月とかけっこの速さや、お遊戯のうまさが関係あるのか、などなどを、またその後もおともだちと砂場でとりとめもなく話すわけです。でも誰も、本当に誰ひとりとして、「うさぎ年の4月生まれのおともだちがいちばん」とは言いませんでした。「たつ年の3月生まれのおともだちがびり」とも言いませんでした。

ここまでわかるまでに年長組も卒業して、みんなとお別れすることになりましたが、私たちは幼稚園のときには、「みんながお遊戯がじょうず」「みんながかけっこが速い」という結論でいつも丸く収まっていました。運動会で順位が決められても、「OOちゃんは運動会の前にヤクルトを飲んだからだぁ!」とか「XXくんは一生懸命登園のときに、電信柱1個ごと走って練習したんだよ」と、順位という結果に対しての執着はそうありませんでした。もう少し大きくなって、努力もしないのにかけっこが遅いと嘆いていたり、成長には子どもそれぞれ違いがあるのに嘆いている子がいて、「他人が悪い。天気が悪い。先生が悪い。運動場が悪い」と自分には何の非がないことにして、他にだけ非があると言っている子が増えていきました。

Jackieはどうだったんでしょう?元だんなが悪い男だったというせりふはありましたね。けれどもその男と結婚したのは自分だったと自嘲していました。運び屋になったのも自分のせいだと事情聴取で言いました。やっぱりみんな知っているはずです。どんなことにも他人よりも自分にいちばん原因があることを。

他人よりも強くなることなんか、彼女はめざしていませんでした。そこのところははっきりしています。「こんな状態のままで老いることは怖い」という動機は、世間の怖さに立ち向かっていたわけではなく、流されてきて自分を連続して見失ってきたことへの雑感なのかもしれません。そのあと、Jackieが自分でできることをしたことに、私は大きな生命力の強さを感じ、それこそが私の感じるきれいさであるな、と思ったのですね。愚痴ることよりも、世間を恨むよりも、生い立ちを嘆くよりも、事実を、淡々と憂いを含み述べているだけ、という情景でした。今必要なことを短期間で達成したJackieはとてもきれいでした。

もちろん強くなることは哀しいことを振り切ったように見えることもあるのかもしれません。けれどもそんなことはありません。全部内包されてそこに残るだけです。石灰化するっていうのかな。強くなることは欠点を克服したように見えることもあるのかもしれません。けれどもなだめているだけのこともあるし、そのなだめている最中に繰り返し癖にして克服しきろうという最中なのかもしれません。少なくとも私はそうで、コンスタントに自分を叱咤しないと何もできません。

そして私はJackieのような強さを得られるのであれば老いることなんか怖くないぞ、と思いました。

 

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Random Sampling 無作為抽出

もうしばらく前になりますが、『統計学が最強の学問である』という本がかなり売れました。『統計学が最強の学問である』

論理を論理として解説していくのは、たいへんに難しいので、この本のレビューはかなりばらつきがありますが、それこそが正規分布ということになるのかもしれません (・・;)

統計学を学ぶときに、最も肝心な理解は、Random Sampling:無作為抽出という概念です。無作為抽出

難しいよね(笑)。

多くのアンケート結果は、決してRandom Samplingになっていないところがミソです。であるのに、その数値を信じてしまう消費者や読者の側に問題があることを、少し理解しておいたほうがいいのですが、この概念は、小学校・中学校の義務教育では強く教えられておりませんし、数学そのものが嫌いとなると、その後、それについて考えることが億劫になってしまい、それ以上の深みについて考えることがありません。

多くの社会科学の分野、生活に関することは、この統計学の理解が必須になります。自然科学であっても、「条件の一定化」をしなければ、確実な答えを1つ得ることは叶わないので、やはり統計学が必要となります。学術論文のほぼ9割は、この統計学を基礎にして論じられています。

消費者として、国民として、Random Sampling:無作為抽出の概念を深く知ることは、「よりよく、自分のために生きること」の早道ですから、ぜひとも入り口だけでも学んでみることをオススメします。

そろそろPrecious One English Schoolでは、『大人のためのやり直し算数&数学』というワークショップを開催しようと考えています。やってくださるN氏は、この統計学で生活の糧を得ているので、どっぷり浸かっている状態。その概念を、普段触れていない方々にわかりやすく説明することも、彼が日常から離れて、コミュニケーションスキルを試すよい機会になるのです♪

残念ながら私は統計学の深みは、英語で学んでしまったので、英語でなら解説できるんですが、日本語だとポロポロ抜けているところがあるような気がしています。まぁ、脳内では畢竟同じなのですが、語彙が間違っていることを、当日は確認させていただける♪と楽しみではあるのです。彼のスケジュールが整い次第、日程設定だ!

 

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弱者の反撃

1999年に書いた文章です。リハビリ中ですね。

今日も筋肉痛に伸びを入れて(←とてもストレッチとは呼べないくらい、まだ身体を動かしていい範囲に制限がある・爆)、トークショーや映画を見ていました。しかし、Blogのネタがないじょ、と思いつつ、最近はものすごく納得いかない事件が多いなぁとため息ついていました。

アメリカには People‘s Court(人民の裁判)、Divorce Court(離婚調停裁判)、JudgeOO(OOには人の名前)などの、公開裁判番組がたくさんあります。そうして洗脳されきってしまうのもよくありませんが、「自分がもしそういう事態に陥ったら?」という参考にもなるし、判断力の見極めにもかなりいいです。野次馬根性はいけません。登場している人たちは、実在の人物で実在のケースを持ち込み、待ちが長いCivil(民事)裁判に決着をつけたいがために、テレビに顔をさらしてまでも深刻に悩んでいるのです。大笑いするために見るのは失礼です。ま、それも自由なんだけど…。

映画 Rainman(邦題もそのまま)で、Dustin Hoffman(ダスティン・ホフマン)扮するRaymond(レイモンド∴タイトルはレインマンなのだ♪)が毎日欠かさず見ていた番組のなかにもありましたね。思い出していただければいいんだけど、ああいう感じです。思い出せない人はレンタルしてきて見てね。あれもいい映画です。自閉症の兄弟が繋がり合うっていう…(でも個人的にトム・クルーズは嫌いです)。音楽が切ないので注目して見てください。

そういった裁判によくあるのが、商店主が消費者に訴えられるもの。クリーニングやさんは多いです。「プロの仕事でもこれは落ちません。リスクがありますが(洋服がだめになることがあります))やってみますか?」と注意され、レシートまで受け取っているっていうのに、訴える人がいるのもおもしろいところです。けれども、予測してみると「そのやり取りはされていなかった」かもしれないし、「紙に小さく書きすぎていて見えないくらい」だったのかもしれないし、事情はさまざまです。ふたをあけて、そのやりとりを聞いてみるとたいへんおもしろいです。ああ、真実っていうのはこうやって検証するもんなんだよな、っていうことが、少なくとも裁判に巻き込まれる可能性がある庶民に学習の機会を与えています。

Judge Judy(裁判長ジュディ)という人はものすごい感情的になります。声を荒げて叱ります。もちろんこういうところのJudgeは引退した、元現役裁判官なのです。おもしろかったのは、ライブハウスでめがねを壊された女性が、彼女のめがねに直接手をかけた男性(たくさんのお客さんがいました)を訴えたケースでした。状況としては混んでいるライブハウスで彼女がどこに居て、どういうふうにめがねを壊されたのか、というのがポイントで、その見解が女性と男性で違うのですね、明らかに。女性は「もちろん人がたくさん集まる場所という認識があるので、自分は拍手喝采をしている場所におらず、バーの脇に立っていた」と言うのですが、男性は「ライブハウスで人と人がぶつかりあうのは当たり前。それをいちいち訴えていたら俺は今ごろ裁判成り金だ。第一彼女のめがねに直接触ったのは俺かもしれないが、俺を押したのは他のやつだ」と。

うーん、どっちも正当である。どうやってこれを解決するのか?とCMが終わるのを待っていたのですね。彼女は見積もりを二つもっていました。修理用のと新品のもの。不思議なことに修理用のほうが高かった。だから新品を買うほうの金額を彼女に払うこと、としたのです。リスクがあることを知っていて、注意深く行動してもこういうことは起こる、とした上で、さらに男性には、ライブハウスという文化がすばらしく発展していくためには、そこに集う人のマナーが大切ある、他人を押しておいて、他の他人に責任転嫁はできない、と叱っていました。

うーん、気持ちいいですね。こういう怒り方♪

トークショーで最近よく目にするのが、弱者である女性や子どもが、強者である夫やボーイフレンドや父親を殺して、裁判が起きている事件について取り上げるものです。どれだけ虐待が潜伏しているのかわかりませんが、これは他人事だとは思えなくなります。「正当防衛」という名の下にいくら虐待されたからと言っても、人殺しをしていいものか。なぜ虐待が殺人に進む前にどうにかできないのか、をみんなでよく考える機会になります。

もちろん暴力はいけないことです。話して済まないことはないと私も強く信じたいです。けれども、どうしてかドラッグやお酒の力に惑わされていたり、ストレスで身体がきちんと機能していないだろうときに、弱者に手をあげる人は後を絶ちません。「どうしてこんなこともわからないんだ!」という怒りで、事の前後がまったくわからなくなって、話すことより先に手が出てしまう、というパターンが多いですが、何度も何度も続くのは、言い訳にはなりません。ましてややられる側が防衛したときに殺人にまで至ってしまうというのは、頻度も一度の長さも質もかなりの暴力なのでしょう。

いろいろなケースがあります。アメリカの場合は閉鎖的であるRural(郊外)とオープンすぎて人付き合いのないUrban(都会)があり、どちらも他人には無関心です。Ruralのケースでは学校も近所も薄々感づいていますが、他人の家庭について干渉なんかできない、家庭にはそれぞれのやりかたがある、として結果的には、無関心でいて殺人まで起こってしまった、ということになります。都会の場合は密閉されていて、近所で何が起きているのかまったく付き合いがなく把握できていません。無関心以前に、そこには繋がる何もなく、ただの乾燥したHelloしかないわけです。もちろん、例外は何にでもあります。けれども、大筋のふたつのパターンはこうなります。私が自分に当てはめてみると、やはり都会に居ながらも、くっつきすぎないで離れすぎないこのご近所はいいな♪と思います。そういうお付き合いだと、「OOさんのお家、子どもを叩いているのよ」なんていうゴシップはすぐ入ります。誰がどのような根拠でそんな重大なことを言っていたのか、きちんと確かめ、次回子どもを見掛けたときは、ちゃんとアタマから足までチェックしてしまいます。疑うというのは嫌なことですが、生命を左右することに関してのこの程度最低限なことには、やりすぎということはないんじゃないか?と私は個人的に考えています。ただ軽はずみに根拠もなく、他人を責めるのはいけません。けれども確証を取る努力を怠り、子どもが死んだり殺人が起きたら、もうどんな善意も水泡に帰すのです。

「ん?他人のあなたに何ができるの?」と質問はたまにあります。「自分の家族や友達にその時間を当てたら?」と。アメリカというところはたいへん便利にバックアップシステムがすぐ形成されるところで、社会問題になると市の単位なり、法人寄付で必ず団体が発足します。それくらい人々の意識が高いのか、犠牲者が多いのか、それは卵と鶏の問題でしょうか?私は自分が覚醒して、今までにない問題にぶち当たると、必ず調べモノをして、自分にできる範囲のことを考えます。あ、私が天使だとか威張るものではありません。これはいい人になるためにやっているんじゃないわけです。他人によく思われるためではなく、自分がそうなったときのもしものために準備をする目的と、そうならないための学習です。

そして実際にその団体がどのような活動をしているのかまずは回報を見て、HPを見て、そのあとにチャンスがあれば訪問します。寄付を求めていたらできる範囲で寄付をし、勉強会の案内があったら一度は参加してみます。ものすごく魅かれるものがあれば、ボランティアワークについて尋ねます。うーん、今はボランティアワークどころの身体じゃないのですが…(汗)。

こういう草の根運動のようなモノや、マスコミで正しく弱者の立場が検証されることは、間違った方向に行くこともままありますが、悪いことばかりじゃないような気がします。テクノロジーがいくら進もうが、どれだけ世間に情報があふれようが、人々を人々として成り立たせているものの基礎はココロの動きにあり、どんなに世間の力が大きく、問題が地下に埋もれていても、無関心でいるよりはずっといいことではないか?と私個人は思っています。

そのためには日々心のアンテナをピキピキピキと伸ばして、いつでも身軽に動き、新しいことを学習して取り入れる準備がなければなりません。だからまずはリハビリなんだけど、明後日はSPCAにネコの缶詰を寄付しに行ってきます>社会的リハビリ第二弾♪もー、うちのネコたちはPicky(選り好みする)なのだ。

こうして私は弱者の反撃に与しています♪確かに哀しい事件は多いけど、希望だけは自分のために棄てたくないな、と。あ、でも勝負じゃないんだよ>反撃って言葉。

 

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運・不運の確率

私はパイロットになってから以降、かなりな分野が理系科目だったせいもあり、数的センスは鋭くなってきたようです。子どもの頃から、「なぜみんなはグリコで勝とうとするのか?」を真剣に3歩と6歩の違いが生む距離などにこだわっていたため(この遊び知ってます?グーで勝つとグリコ、チョキはチョコレイト、パーはパイナップルと叫びながら進むやつです)、数に置き換えることについてのあまり抵抗感はそもそもなく、バイクに乗るようになってからも、スピードメータだけではなく、タコメータをしっかり見るのは常。いろいろなバイクや車のスペック表もかなり好きで(笑)、馬力なんて言葉も今でも、好きな言葉100位以内に入っています。

それゆえ、すんなりと運・不運について、確率で考えることは日常化しておりました。そもそも、ド貧乏なんですから、自分の不運を嘆いていたら朝が来ない(笑)。よそと比べていたらみじめすぎて生きていけないですもん。なので、そんなものを不運だなどと捉える癖はなくなり、「場合」から開始し、そのあと確率についてちょいちょい考えるようになりました。

多くの自然科学は、条件さえ整えれば答えは出るものなので、その条件について考える癖もつきました。特に、ヘリコプターを乗っていると、ガソリンの減り方が気になります(笑)。生徒が自腹で払うんですから (・・;) しかもBushのパパのほうが湾岸戦争を起こして高騰中でしたしね。

品質管理などに携わっている方々がそばにいらしたら聴いてみてください。イッタイどの程度の「不良品」が出るのがフツーなのか?

http://www.lifehacker.jp/2014/01/140127book_to_read.html こんな本を読んでみるといいかもしれません。

この運・不運の確率を考えるようになると、非常に主観的な希望的展望もしなくなり、事件や予測外の事態にオロオロすることもなくなり、かと言って悲観的になるわけでもなく、成功への道のりも細かく見えてきて、どうすればこうなる、ということがだんだんわかってくるようになります。

他者に大いなる期待を抱くことなく、自分のことは自分でやり、どの程度第3者が介入してくるか予測がつき、それがいかに無意味だったり、感情的だったりするのか、読めてくるようになります。そうなると、本質と非本質の違いについても、直観的にわかってくるようになるので、人生がよい方向に転がっていくようになると思うんですね。

物事のほぼすべては、自分の選択の連続の結果です。そうなると運・不運はあまり関係ないのかもしれません。

Precious One English Schoolでは、この点についてLocus of Controlという心理レッスンで解説しております。

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ネコと犬、どっちが好き?

Dec 11, 2005 に書いた文章です。

こういうことを聞かれたことはよくありませんか?私自身も、「わざと」聞いたことがありますが、それに対する反応を見たかったからです>なんて、いじわるなやつなんだろう・・・。

私自身は、現在たまたまネコと同居していますが、犬とネコ、どちらかの好きの度合いを明確にすることはできません。ごくごく小さい頃犬を飼っていたらしいのですが、写真の中だけで、私の記憶には留まっていません。無理もないことで、私が2歳までのことだったそうです。そのあと、私はチャボやらひよこ、トカゲやカメ、犬、ネコ、十姉妹などなど、ありとあらゆる動物を拾ってくることになります。おたまじゃくしは大量に卵を盗み孵化させるのをヨロコビにしていましたし、虫でも私には苦手なものはありません>蛾だけがあの幾何学模様がダメなのです。色が鮮やかなチョウは色にごまかされてそれほど幾何学模様が浮き上がってこないのですが・・・。ですが、蛾が嫌いというわけではなく、直視できないというだけで、好きは好きです。ゴキブリは育てたことはないですが、特に嫌がる気分もなく、彼らは彼らで生き延びていくために必要な活動をしてるんだろうな、と思っています。

あ、今日はそんな話ではなく、物事のカテゴリー・分類をどのように捉えるか?という話。

ネコも犬も哺乳類で、確かに比較対照できそうな気がします(漢字に注意;対象ではなく、対照;てらしあわせる、Contrast)。幼稚園の割と初期に、物事をいかに分類するか、で知力を測られたことがあります。バスや電車、パンダやバナナやおサルなどの絵を分けていくやつです。アレで言えば、ネコも犬も同じカテゴリーになるわけで、さらに枝葉にしていくにはどのような考え方を持つか?というのが肝心です。

哺乳類・鳥類・爬虫類・両生類・虫類などに分けてみる方法もあるし、好き嫌いで分ける方法もあるし、飼ったことがあるなしで分ける方法もあります。本当に切り口はいろいろです。何を軸に物事を切り込んでいくか?というのは、その人を見るうえで大切なヒントになります。もっと細かく分類できるときに、どのように分類をしていくか?ここで、人の考え方の構築のユニークさが出ると思うわけです。

私は基本態度として、「犬とネコどっちが好き?」には、「どっちも好き」と答えます。「だからぁ、よりどっちが好き?」と聞かれても、「種ではなくて、わんちゃんもネコも個々の性格とかだなぁ」と答えます。USでも、Dog person, Cat personという表現はありますが、なぜそれが狐と狸、鯨とイルカではないのか、いつも不思議には思っています。万人にわかりやすい表現を借りることで、思考回路を働かせることを怠けている、とも思えます。が、人生は疲れることばかりが多いので、こうしたラクを考えた人々の知恵にも、反面、敬意を表します。が、私はコレを採用しないのです。私がいっしょくたにされたらイヤなように、犬やネコだってきっといっしょくたにされたらあまりうれしくはないと思うのです。

犬も人間も共通点があることについては、共通点を出した上で自分の意見を言うことはあります。小型犬と中型犬と大型犬の違いは、ヒトの背やガタイのサイズによる世間の風当たりや生物学的防衛などに、おもしろくも共通しています。ちなみに私は、ヒトは小さいヒトのほうがおつきあいはしやすいな、と思っています。が、パワーゲームではないので、自分の傘下に与してもらいやすいという意味ではなく、傲慢な自信を持っていないということにあります。私は高校生から背が高くなりましたが、そのあと、そのせいでみょうちくりんな自信があったのは言うまでもありません。中型バイクを簡単に操作したり、力仕事ができたり、人を見下ろすことができるチャンスが増えたことで、私は意味もなく傲慢になり、中身がついていかない時期を過ごしました。その横で、自分の好みである背の低めの男の人に振り向いてもらえなかった、というジレンマもあります。私のパートナーは私より4cmほど背が低いですが、彼はとても謙虚ですし、物事を立ち止まって考える余地を常に持っています。自分の意見を押し通さず、パワーだけで突き進むことが微塵もありません。それは彼の言によると、背の低かったコンプレックスからも来ているとのこと。彼のように「運動不可欠人間」にとって、背が低いことは、あらゆる運動でチャレンジでした。マラソンにしてもストライドが狭かったり、ロッククライミングにしてもリーチが狭く届かないことがあったり、ボートを漕ぐにも弧を描く力学的にも不利だったわけです。そんな日々の努力が、今の彼を創り上げてきたのだと思うと、やはり背の低い人のほうに、私はついつい「人間関係の構築のためのラクさ」を求めてしまうわけです。

が、わんちゃんはどうか?というと、実は我が家に来ていただくならば大型犬のほうがいいな、と思っています。ネコと長年暮らしてきましたから、サイズがネコと同じではバラエティもないですし、大きなわんちゃんのほうが統計学的におっとりしていて静かなようです>当然個人差のほうが大きいですが。ネコたちとうまくやってもらうには、小型犬よりは大型犬のほうが、お互いの共存にいい条件が揃っていますので、来ていただけるものならば、大型犬になることでしょう。わんちゃんはヒトといっしょに暮らすのが中心で、群れで行動することがあまりなく、力関係で言えば、たまにすれ違う犬や環境の中でのサイズの問題で、脅威が少ないがゆえに、おっとり静かでいられるわけですね。

が、ここで頭が暇であることを嫌う私が考えてしまうのは、小型犬で生まれたはずのチワワの中で、とてもでっかく生まれ育ったわんちゃんの気質はどうなのだろう?とか、ロットワイラーという大型犬に生まれたはずなのに、とても小さく生まれ育ったわんちゃんの気質はどうなのだろう?ということです。同じ犬種(Breed)であっても、その差はベルカーブになっているに違いなく、とても大きいわんちゃんと小さいわんちゃんが実在します。その性格や、人付き合いや、犬づきあいはどうなのだろう?と、さらに細かいことを思うのです。

なぜって、ネコでもやっぱり違うんですよ・・・。うちのネコたちは6匹ぜーんぶ雑種なので、猫種による傾向のようなものはバラバラすぎてありません。メスかオスか、身体の大きさ、色・毛並みくらいですね。あとは、鳴き声や歩き方、私たちには見えないフェロモンの出せ方、などなど。さすがに6匹も集まっているとヒエラルキーがあり、学習伝達もあり(すでにできるネコを模倣して学習したり、わりと半強制的に何かを学習させようとできるネコができないネコに指示してる風には見える・・・)、ごはんやトイレの順番もきちんとあり、私のそばで寝ていい暗黙のうちの了解もあるわけです。やはり、その中でもサイズは大きな要素です。うちのアルファMale(すべてのオスの中のボス)のうどちゃんは、15歳で最も身体が大きく、毛並みもよく、声もでかいのです。食べる量もハンパじゃないし、当然イチバン最初に食べます。私の最もそばの席をいつでも陣取ります。私が決めたわけじゃないんですが、ネコ同士でそうしているところが、とてもおもしろい・・・。彼がボスなのは、最も年上だから、というだけではないことは、兄妹が二組いるのでよくわかります。同い年で同じ親から生まれてきても、やはりヒエラルキーの位置には差ができるわけです。

こんなことをつらつら考えていると、やはりまだ私は、「犬とネコどっちが好き?」には、「どっちも好きだ」としか答えられないわけです。それはまるで、ヒトという種のなかの、「アジア人種と黒人種と白人種どれが好き?」と聞かれているのと似ているようで。さらに、「アジア人の中でどこの国の人が好き?韓国?中国?日本?インドネシア?インド?ベトナム?・・・・」と聞かれているのと似ているようで。

そもそも、そう聞いてくる人たちには、「じゃ、なぜ犬(あるいはネコ)を好きになったの?」と理由を聞いてみます。私の経験則では、8割が「もう片方とのふれあいが極端に少ないから」というのがほとんどです。食べ物で言えば『ただの食わず嫌いだろう』って話です。最初に飼ったのがたまたま犬かネコどちらかで、そのままそれしか体験していない場合、やはり自分が偏っていることに気づけないか、気づきたくないわけです。私のパートナーは、小さい頃から動物は食べるための鶏しか飼っていなかったので、ネコが家の地下室で子どもを産んだときには、まっさらな状態で両手を広げてWelcomeでした。犬に関しては、台湾でわんちゃんを飼っている大家さんのビルの2階を借りていて、楽しそうに頭をなでたり、北京語で話しかけたりしています>私は、わんちゃんは何語でも理解すると信じていますが・・・。会社のパートナーは、小さい頃、ずっとわんちゃんを飼っており、「犬はいいですよぉ」と今でも言います。が、彼はうちのネコたちをうんとかわいがってくれ、人間ごはんをネコに分けてあげる担当者はもっぱら彼でした>私はラクをしていたのです。社員のSちゃんはずっと犬を飼っていますが、ネコもカナダで飼ったことがあり、うちのネコたちにもよくしてくれます。

日本に戻ったときに、弟の家に来たJack Russell Terrierとはとてもなかよく楽しく遊んで、小型犬でもいいじゃん、とは思ったのです。小型犬かどうかではなく、やはり彼の性格なのだろう、と。おもしろいことに、わんちゃんは家の中での自分の位置をささっと決めるところがあり、弟-嫁-自分(犬)-姪っ子たち(順番はまだ査定中)だったようです。私の母と私はどこに入れてもらえるのだろう?と見ていたところ、私は弟の次くらいに入れてもらえていました。母のほうは、嫁の次くらい。まだ3ヶ月だったので、歯が痒いらしく、本当にあらゆるものを噛みまくっていたのですが、私は一度だけ手と腕を噛ませてあげたら、もう二度と噛まなくなりました。弟も同じだったようです。が、姪っ子たちは、パンツもスカートもブラウスも靴下もまだまだ散々噛まれています・・・(汗)。そろそろ直したほうがいいんだけど、甘やかしすぎてるからなぁ。

書きながら、「私と仕事どっちが大事なの?」などと聞く女も昔いたなぁ、とか、「パパとママどっちが好き?」と聞くバカ親もいたなぁ、と思い出していました。どちらかを選ぶということは、どちらかを捨てなければならないことと同義に捉える繊細な心の持ち主もいるわけです。犬やネコを飼っていない人にとっては、「犬!」と言ってもあとで後ろめたくなる瞬間は来ないかもしれません。が、道端で出会ったネコがあまりにかわいく、「どっちなんて大した意味もない質問に答えなければよかった・・・」と思うことがあるかもしれません。「仕事」と答えた男の人は、もう彼女とうまくやっていけないでしょうね(爆)。そんな愚にも付かない質問をする女の人とは別れていいと思います。が、パパとママどっちが好き、という命題を、いたいけな子どもにするのだけは、ぜひぜひやめていただきたい。どっちも好きでいいものは、この世にたくさんたくさんあり、嫌いだと言い切る必要があるものは、自分や家族や愛する人の生命や健康にかかわることだけです。そんな中、会話している人を知りたいと思うあまり、「どっちが好き」質問を投げかけるよりは、「どうして?」を中心にする質問を考えてみましょ。

そもそも、人の心や考え方は変わるものです。「どっちが好き?」でその時に得られた答えにいつまでもすがりつけないことは、よーく理解しておきたいものです。

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電車に乗るたびに

普段、調布駅前近辺からめったに出ないワタクシです。なぜ?と問われるとやはり「個人のための空間」がぐんと狭くなるからですね。駅前も人々が多く往来する時間帯は避けることにしており、銀行なども時間帯を選んで行くようにする徹底ぶりです。ランチタイムもランチしない(笑)。11時などに行くか、わざと遅めて14時過ぎにします。

ここのところ、補助金の申請をするのに前倒しで情報をしっかりチェックしなかったため、司法書士さんに依頼することもできず、自力で法務局に行き、印紙を買い、受け取ってきました。わずか特急で5分の特急に乗るにせよ、ちょいと意識的に我慢せねばならぬとは (・・;)

最近、老眼が始まってしまい(そろそろ半年ちょいくらい)、本をそそくさ読むというのもあまり気のりがせず、とりあえず中づり広告をじーっと見る(笑)。そのあとステッカーになっているドアの広告を見る。そして、上部をさらに見上げ、スクール系のクイズなどをやってみる(笑)。府中までの5分だとそれを周囲のみでやれば十分♪

もしも空いていたら、私は新宿で場所替えまでしてこれやってみます。

電車は基本的に座りません。まぁ、新幹線などは座りますけど、調布から新宿・東京駅程度であれば座る気はまったくありません。ふだんもレッスン以外はPC前で座っているので、特に座る必要性を感じないというか・・・。

ただ、バスは困りますね。もしもとっても空いている時間帯にガラガラだとしたら座ります。まぁ、揺れますし。今回も法務局までは武蔵小金井行のバスに乗ってバスで15分ほどかかるところなので、けっこう長く感じました。暇な私はいろいろとやるんですが;Things to do listの作成、法務局に到着してから必要なモノのまとめ、添削、そして最後に本を読むんですが、なんと曲がり角を数えてしまっていたのですね・・・。行きですら7回も曲がるので、調布から深大寺までの道のりを考えて「あらー、随分曲がるんだなぁ・・・」と驚いていました。

現在もひとり不買運動(ボイコット)は続いており、地上波を見ない他、スマホ&携帯を使わない他、あるブランドを不買しているので、ネットで偶然遭遇する以外、積極的にあまり広告を見ていないので、たまーに地上に降りた気分で広告三昧をしてみるのでした。それはそれで楽しいのか?いや、電車やバスに乗るのが苦痛なんでしょうね。なぜならば、私は運転手側に居たいと願う人間であり、運ばれる側がイヤなんだろうと。でなければ、10代にバイクや車、20代でパイロットの学校なんて行ってませんもんね。

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