思ったことをすぐに口に出す人の特徴は?

思ったことをすぐ口に出す、というのをもう少ししっかり定義しないといけませんよね・・・。「考えなしに」「誰彼かまわず」「場に合わないのに」「タイミングズレで」というネガティブなものと、「率直に」「ここぞという時に」「向き合って」「考えたものをしっかり」という場合では、天地ほどの差が出てしまいます。

 

多くの場合、前者に対する不愉快が募ってしまうので、ネガティブに使われがちですが、心理学の概念では、Self-Disclosure:自己開示、という意味では、意図的であれ意図的でなかれ、自分に関することや思ったことを率直に言えることは「よし」とされています。そのトライアル&エラーがない限り、コミュニケーションスキルは上がらないため、やらないよりはやったほうがマシ、という意味があります。

 

さらに、この自己開示には、「返報性」という重要な側面があり、聴いた相手は、同じくらいの質や量の「自己開示」をしてくれるといういいオマケがついてくるのです。

 

ただ問題がいくつかあります。日本人の多くは「平均」「基準」から大きくズレないように心掛ける傾向があり、

  1. 思っていること、話し手の自分に関する解析が、非常に平均的・基準からズレていると受け手が不愉快になる。あるいは嵌っていると「本音」ではないのではないか?という疑いが湧く
  2. 質よりも量に偏って話す場合に、50-50の法則が破られ、一方的になりがち
  3. トレーニング中の人は、相手の想いや立場や距離感を考えることなく、天衣無縫に話してしまうことがあり、受け手が攻撃的に感じてしまう
  4. トレーニング中の人で、自信がない場合は、自己開示の量が少なく、質も相手とのズレが多くなってしまう傾向に陥る

 

など、いくつかすぐに考え付きます。

 

では、これらができない人たちはどういう人なのか?

 

Self-Esteem:自己肯定感が低いため、どうしても自分の主張や意見、考え方を相手に否定されたくないため、相手の意見が通らないように阻止するわけです。過大評価している場合にはとても口数が多いことでしょうし、考えナシに自分の考えを展開する傾向はありますね。そしてかなり一方的にすぐに畳みかけられている気がしてしまいます。過小評価している場合も同じようなもので、ただし内容が、自己弁護:Self-justification:自己正当化に走る傾向があり、そのため、内容はやはり反対意見や違う意見を否定していくことになり、自分の考えや意見が正しいと主張し続けることになります。

 

ゆえに、思ったことをすぐに口に出している印象になるわけです。考えている層はもっと深くできますから、自分の視野を広げて、さまざまな考え方を入れ、その本質や論理を考えてみる時間を作ってみることが肝心ですね。

 

そういう人がそばにいるとしたならば、「ちょっと考えさせて」と回避です(笑)。

 

 

自己理解の希薄

05/05/2008 にアップした文章です。

 

自分を水溶液にたとえるのは、たいへんに難しいかもしれませんが、実際、やってみるととても参考になるので、やってみるといいと思えるのです。ヒトの脳は、もうそれだけで小宇宙になっているので、それをフルに意識して、使ってみようという意志や動機付けができていないことだけで、私などは「ひぇぇ、もったいない!」と思うのですが、この観点からいくと、ヒトというのは、実際はとても濃い水溶液になれる可能性があるにも拘らず、どこかでダムを自分で作っているわけです。水溶液を想像する際には、小学校の実験のときに使ったビーカーがわかりやすいと思うんですが(好きだったらフラスコでもなんでもいいんですが・・・)、そこにいくつかの敷居・仕切りのようなものを、どこかで持ってしまったというのがあり、その敷居や仕切りの開閉システムが、もしも自分でコントロールできるようなものであれば、とてもとてもいいのですが、ヒトも所詮、生命体の1個の種類でしかなく、コントロールせずに、自然の摂理に任せて、ただただ浸透圧などに頼っている人は多く実在しています。

 

うーん、ここまで考えると、本当にヒトというのは各種の液体を使って、人体というものを維持しているので、あながち悪いアナロジーでもないじゃん、とにやついてきています(笑)。

 

ヒトの欲望はかなり本能的で、それをいくら理性で自分では抑えているつもりでも、実際は名残っており、私も日々、「怠けたい」という欲と闘っています。その達成のために、多忙を続けて、一気に憂いなく休む、というスタイルが好きになったのは、「ダラダラといつまでも休んでいられないヒト社会での大人のポジション」を理解してしまったせいです。

 

お金に何の不自由もなければ、本当に子どもの頃のように、毎日学校に行き、スポーツをし、健康にはそれほど不安もないように暮して、定期健康診断を欠かさず、おいしいものを食べて、たっぷり眠って暮したい、というのが、私の希望ですが、実際はそんな暮らしは、みんなにできるものではないわけです。私の場合、特にあちこちに旅行したいわけでもなく、モノが欲しいわけでもなく、車も家も合理性の上に成り立っており、高級なものが好きではない貧乏な口ですしね・・・。楽しみは、映画と読書とアイスホッケーですから、アイスホッケー観戦にはお金が多少かかりますけども・・・。いや、でも、こんな暮らしを労働なしでできるわけもないので、やはりがっちり一気に稼いでみたいというのは、大きな目標ですねぇ。贅沢に暮したいなどという大望はなく、ただただ、ずっと学校に行ってフツーに暮したい。それがフツーではないと言い切るのは、学びというものの考え方の違いだとは思うのですね。

 

うん、こう考えると、私の目標というのは至極全うなものなんだなぁ・・・←かなりいまさら(爆)。

 

自分を理解しているがために、これまで一度たりともOLになったことがなく、帰国してからも通訳・翻訳の仕事ではなく、英語講師を選んだのですが、これも1年半を振り返ると、正解だったなぁと。Interpersonal Relationshipの近い人々に関しては、それほど大きな失敗があるわけではないのですが、距離感との関係で、人付き合いがうまく行かなくなる原因もわかっており、やはりいろいろな人が集まる会社などで、同じ目標に向っていくことが、私個人としてはできるとわかっていても、他の複数の人間が、サブ目標を作ってくれていたり、こうでなければならぬをたくさん押し付けてきたりすると、とてもじゃないがやっていけなくなる。私が譲らないところが全面的に悪いと、幼い頃は思っていたところもあるのですが(いや、渡米するまでフルに感じていたんだろうなぁ・・・)、今では、大勢の人の歪みやズレを変える努力をむやみにすることは、私のような微力な人間には到底できないことは感じており、そこにそもそも行かないということで、終結してしまっています。

 

企業の基本的存在意義および目標は、市場主義の下、営利を得ることが第一目的で、それを社会の発展と繋げていくことなのですが、人々や動物や地球そのものに悪影響を及ぼしたり、人心管理のための行き過ぎの規律があったり、ヒトとしての存在を損なうほどの労働条件を明文していないのに、パワーや多数決で押し通したりするところがあったり、ある一人のエゴの塊のようなヒトのために、パワーゲームが横行していたり(派閥や学閥は未だにある会社が多いしなぁ・・・。お局様現象だって、これのスケールが小さい版だし・・・)、マイナスばかりが多く、私個人にとっての+はごくごく少ないわけで、優先順位としてはひどく小さくなってしまうわけです。

 

が、考えるに、これが技術職だったり、研究職だったりすると、やはり潤沢な資金や実績を持っているところで働きたいと思えば、それしか選びようがないのだろうなぁ・・・。あるいは、純粋な技能発揮動機だけではなく、子どもや家族のことを考えたり、経済的事情を考えたり、周囲と自分のスタンスや性格などを考えると、やはり仕事で悩む人は多いのかもしれない・・・。

 

「自分を理解しているんだけれども、二進も三進も行かないんだよ。我慢するしかないんだよ」ってこと。

 

私は非情で冷たいので、それもやはり最終的には言い訳のひとつ、しかもかなり説得力のある言い訳と思ってしまうのでしょう。実際、結婚したのも子どもを作ったのも自分だし、自分の技能がそのフィールドだけにあると思いこんだのも自分だし、自分の性格や考え方を形成してきたのも自分だし、ということは言える。それというのも、死刑囚が殺人を犯してしまったときに、「ヒトを作るのは最終的には自己選択の積み重ねであり、社会が形成したものではないから」という本人起因理由を逆手に取っているようなところがあるのかもしれません。実際は、私たちひとりひとりが、他人の人生を影響しており、ピンポイントすることは難しいけれども、みんなに責任はあるのだというシェア説を採りたいのですが、それはあまりに複雑すぎてしきれない作業です。

 

だからこそ、私は死刑執行にも反対ですし、悩んでいる人に対していつも寛大でありたいと思っているのですが・・・。

 

いわゆる、その選択をしてきたいろいろが、水溶液ビーカーに入れ込んでしまったダム装置(仕切り)なのでしょうね。その開閉システムやら、ロック方式など、しっかりした設備を持てば、浸透圧だけに流されていかずともよく、自分を理解することはできるし、まったく濃度の違った溶液を、自分の中にいくつもの仕切りに分けて持つこともできるはずなのですが、実際は、その仕切りを持っていることもあまり考えたこともなく、自分の溶液濃度も考えたことがなく、ましてや開閉システムについても、ロック方式についても、想いを馳せたことはないヒトのほうが多いのでしょう。

 

せっかく脳の大きなヒトに生まれてこられたのだから、考えてみるとおもしろいです。そして、意図的に、溶液の濃さの違いを、自らの意志で均等にしていくことができたり、しなくてもいい溶液濃度を大切にキープしたり、ビーカーそのものを揺らす何かがあっても大丈夫やように、耐震システムも兼ね備えたり、折れない心にするための防弾ガラス使用をしたり、まぁ、そりゃいろんなことができるわけです。

 

今振り返って考えるに、なんだかむしろ、このために、理科の実験があったと考えてもいいくらいなのではないかと・・・。対流(熱により空気や水の流れが変わること)も学んだし、溶液の濃度によって反応が違うことも学んだし、加熱する部分によっての変化も学んだのではないか、とすら考えてしまうわけだ(笑)。そして、私のような人間に接すると火傷したり痛い目に遭うと思えてしまうヒトは、最初から私を敬遠するために、理科の実験を経たのかもしれない・・・とすら、思えてしまったりする・・・。

 

とはいえ、他のアナロジーもたくさん今後思いつくのだろうから、これが最良の喩えだとは想わないよう、ますます考えていこうと思います←懲りない(爆)。

 

残したいほどまずいレストラン

05/04/2008 にアップした文章です。

 

昨日の夜、近所のでっかいデパートであるPARCOのレストラン階に行きました。3ヶ月も新装開店のために閉まっていたので、けっこう楽しみにしていたんですが、お題にある通り、その中のひとつがこんなレストランだった・・・。ゲンダイの日本でこんなことはありえるのだろうか?と、昨日は自分がTwilight Zone(アメリカのクラシックな不思議なストーリーを集めた秀作揃いのTVシリーズ)に入ったような気分だった・・・。母もいっしょだったのですが、戦中・戦後の動乱の中、食糧不足だった彼女ですら、「まずい」と言ったのですから、こりゃ相当なものです。うーん、実在したかぁ・・・。

 

最初にこれをどうぞ。Twilight Zoneを出しておいて、そのまま放置はできません。

http://en.wikipedia.org/wiki/The_Twilight_Zone >英語版

http://www.scifi.com/twilightzone/ 今でもケーブルTVでなら見られます。

うへぇ、日本語でもあった!>http://www.geocities.jp/twilightzone_jp/ 

 

30分完結なので、私はけっこう見ているんですが、150数話をすべて見たとは言い切れず・・・。私が思うに、『妖怪人間ベム』だとか、『ゲゲゲの鬼太郎』だとか、さまざまなミステリー要素が入ったものを作った方々は、これを見ているに違いない!と思わせるようなところがけっこうあります。基礎なんだろうと思うのです。

 

わからない例(たとえ)を説明したところで、お題の話に戻ります。

 

通信交通網がこれだけ発達した世の中で、陸の孤島でもない限り、イマドキ、「残したくなるようなメニューがち」なレストランって実在するんですねぇ。

 

http://www.parco-chofu.com/web/restaurant/ 昨日は、あまりに驚愕していたので、帰り道、わずか3分ほどだったのですが、母とふたりで、「これ、投書ものだよね・・・」と怒りに変わり、こうしてお題になったわけです(笑)。

 

英語の生徒さんと、すでにオープン日の29日にパン中心の洋食を食べたのですが、そこのワインの品揃えなどもかなり中途半端で、「やっぱり調布だもんね・・・」とあきらめていたのですが、味はそれなりだったのです。

 

昨日は、中華だったのですが、日本の中華って日本流にアレンジしてあるものも含めて、なべてハズレなどないではないか!というのが、私の感想だったのです。これまで、「残す!」と思った中華には、出会ったことはなく、私の行動範囲が狭いだけなのか?東京に住んでいると、過酷な競争のため、残すほどまずいものを出す店は、長続きしない法則があるんですが・・・。

 

中華でこんなにどうしてまずく作れるのか?というと、

1. ダシがまったく利いていない

2. 薄味を徹底しすぎていてメリハリがない

の2点に尽きたのです。私が濃い味だからまずく感じたわけではなく、薄味になってしまった母も(彼女いわく、歳を取ってくると薄味好みになるらしい)、食卓についていて従業員に聴こえない小声で、「まずい」を20回は言いましたね・・・。

 

頼んだのは、開店記念のコース料理だったのですが(ひとり3000円を切るほどの)、イチバン最初に来た冷菜3品には、なぜかすでに酢・醤油・ごま油・砂糖を調合したタレが掛かっており、すでにここで、「うわっ!甘い。薄い!」と思ったので、自然と母と顔を見合わせてしまったのです。ここではまだ笑えたんですが・・・。おなかが空いていたので、これは軽く残しただけだったんですが、この恐怖はさらに続いたのです。

 

次に来たチンジャオロースーが、全品の中で最もマシだったもので、それでも母が作ったほうがおいしいし、素材の味は生かせておらず・・・。ただ、これが最も味が濃かっただけ、という噂もあり、もしもしょうがが入っていなかったら・・・と想像するとホラーになります。私は自分のシェア分も半分以上残しました。

 

エビチリが次作で、これもエビの品質はいいのに、なぜかソースがすごいものに・・・。ダシが利いていない上に(中華スープの素を使ってくれていたほうがよっぽどよかったような・・・)、にんにくもしょうがも利いていない。砂糖が多いというシロモノ。塩気が薄く、「少々」というのを誤解しているような・・・。下味はついているのか?と疑問を呈したのでした。私は1匹しか食べませんでした。

 

コース料理のほかに、私が炒飯が好きではないので、「五目つゆそば」というのを別に頼んだのですが、このスープがひどい・・・。同じように、ダシがまったく利いておらず、味が薄すぎるので、「すみません。お醤油を貸していただけますか?」と頼んで、じゃーっと掛けた・・・(汗)。麺は悪くないし、素材も悪くないのに、「どうしてここまで殺せるんだ?」と思えてしまうほどのスープで、なぜか子どもでもないのに、食べているうちに麺が伸びていくのがヒシヒシとわかる感じでした。

 

点心は、エビ餃子とシュウマイだったのですが、私はおなかが一杯すぎたので食べず、母が食べたのです。が、ここでも頼まなければ、醤油も酢もラー油も出てこないし、からしも出ないのです。不思議なコンセプトだ・・・。客人の好みは無視らしい。でも、これは食べられないほどではなかった模様です。

 

次に出てきたのが、炒飯とふかひれスープだったのですが、このふかひれスープがこの日イチバンのホラーで、ダシが利いていないスープほど哀れなものはなく・・・。せっかくのふかひれが台無しで、どうして鱶はこのスープのために捕獲されて死ななければならなかったのか?と考えこんでしまうほどでした。もちろん、ふかひれの量はうんと少なく、卵などでお茶を濁してはあるものの、母は2口でおしまいで、私も1/3でおしまい。炒飯は、やっぱりダシがまったく利いておらず(まぁ、ご家庭でもダシを入れない流儀のところもあるけどさぁ・・・)、とにかく塩気がまったくないくらいに感じられて、母はお醤油をかけて、「せっかくお金を出すんだからもったいない」と食べていました。私は、3口だけであとは残したのです。

 

ごま団子は私は苦手なので、母が包んで持って帰ると言うのを制止せず、最後に出たのが杏仁豆腐。信じがたいことに、これがイチバンおいしかった。ココナッツミルクのおかげなんですね。しかも、これはそれほど甘くもなかった・・・。

 

昨日のTwilight Zoneは、帰り道、本当に怒りに変わり、ぬるいビールと、水で薄めたような白ワインとの合計は、1万でちょっとおつりが来た程度。あまりに頭に来たので、メールでも出そうかと思ったところ、そんな場所が見つからない・・・。カスタマーサービスやコンタクトはないのか・・・。どうして、大金をかけて新装開店したというのに、こんな質なんだ!?と、チェック機能がまずいことにも激怒し、以前の中華料理のほうがこの13倍くらいはおいしかったのに、と思ったのです。しかも、メニューの数が減ってるしさ・・・。

 

ということで、ゆるゆるな日の、どこにでもあるようなダラダラとした怒りに、お付き合いいただきまして、ありがとうございました。淘汰されてすぐになくなるといいと思います←本気。

 

 

渋滞に巻き込まれる覚悟

05/03/2008 にアップした文章です。

 

アメリカでは、Thanks GivingとChristmasでの民族大移動。日本では、GWとお盆と年末の民族大移動。これをハタで見ていて思うのは、「出かける前の覚悟とはいかに?」というもの。私はこの年齢になって、珍しいことに、この民族大移動に巻き込まれたことが一度たりとてなく・・・。が、この時期ではない渋滞に巻き込まれた経験は幾度となくあるのです。事故渋滞もあれば、日常的な渋滞もあり・・・。事故渋滞のときは、のちのちニュースを見ていた人に聴いてみると、それでも10キロ渋滞くらいだったから、私などの持っている「堪忍袋」では、キャパが小さすぎて、この時期の渋滞に巻き込まれることなど、到底無理かと・・・。それを思うと、みんな気が長いよなぁ・・・。

 

そもそも、これはある種の「中流階級にすらなれなかった貧乏人の負け惜しみ」と思ってくださって、大いにけっこうなのです。実際、その通りなので、渋滞に慣れる学習ができなかったわけです。それがどれだけうんざりすることなのか?という想像は、日常的渋滞からしかできないので、それが「地獄のようにすごいもの」としか思っておらず、もしかすると、渋滞に巻き込まれるポジティブな面もあるのかもしれないのですが、とてもとても考え付かず・・・。

 

幼い頃は、私たち姉弟を行楽地に連れて行くことを、ミニマムで抑えようとしていた両親は、GWは「混雑するから家にいよう」とスローガンにしていたし、お盆と年末も渋滞するので、学校の都合が終わり次第、すぐに父の実家に送る(あるいはいっしょに行く)ということにしており、ほんに、渋滞に巻き込まれた記憶は、さほどないのです。あっても、本当に10キロ渋滞くらいで、事故渋滞だったんでしょうねぇ・・・。それでも、子どもの車内での苛立ちは、両親には耐え難いものだったのだろうから、彼らなりに工夫して、どんどんオフなときに父の実家に行くことにしたのだろうし・・・。中央高速が名古屋まで開通してからは、わずか3時間ちょいで父の実家までたどり着くことができるのですが、昔は、八王子経由大月ののち、諏訪を経て、と8時間くらいはかかっていたのです。だからこそ混雑しなかったというのもあるのかもしれないですが・・・。ナヴィゲーションシステムがあるわけでもなく、調べるという作業を怠る人には、並大抵のドライブではなかったわけで・・・。

 

子どもの頃、親に連れて行ってもらった遊園地の回数、私は数えられます。ええ、わずか3回。京王遊園という今ではつぶれてしまったところに1回。よみうりランドに1回。後楽園に1回のみ。近所のおじさんにサマーランドに連れて行ってもらったことが1回。あとは、中学生くらいになってから、子ども同士で行ったことが数回ほど。そのせいか、その生涯回数を増やすために、アメリカに行ってからは毎年「あ、まだ今年は行ってない!行かなくちゃ!」という不思議な義務感すら生まれたものです(笑)。ダメだねぇ、今でもジェットコースターは大好きだ♪(ちなみに英語ではRoller Coastersと言いますので、間違えないでね)動物園も、上野はたったの1回しか行ったことがないし、多摩もおそらく3・4回。しかもそのうち遠足というのがあったはず。水族館は一度も行ったことがなかったくらいかもしれない。大人になってから、くらげの妙を知ったのだから・・・。

 

それでも、東京ディズニーランドには1回しか行ったことがなく、その理由は、「並ぶ」と聴いていたから(笑)。ものすごい拒絶反応なわけですよ・・・。母も2回ほど行ったことがあるらしいのですが、私よりずっと並んだらしい・・・。私は消防士さんとのデートで行ったのですが、前日大酒を飲んだので、ものすごい二日酔いで、乗り物に乗れるモードではなく・・・。私は、その消防士さんが大好きで、アメリカ行きが決まっていなかったら、「こういう人と結婚したらものすごく倖せになるだろうなぁ・・・」と思っていたのですが、今は何してるのかなぁ・・・。きっと誰かをうんと幸せな気持ちにしているんだろうなぁ・・・。

 

他の観光地と呼ばれるものにも、記憶の限りは数回しか行ったことがなく、みんなが観光を敢行している最中でも、私はひとりでぼーっとしていたり、動かないで温泉に入っていたことが、鮮明な記憶になっています。

 

バブルの最中に10代後半から20代前半だった私は、いわゆる「行列のできるお店」の初期を体験しているのですが、ええ、一度も並んだことはありませんっ!(笑)並ぶくらいならば行かない。私の「待つ限度」は、銀行ではチケット制になってから(番号札が出てくるよね・・・)10人。たこやきやさんやファストフードなどの出店カウンターでは3人。レストランでも3組。時間に直して8分以内かなぁ・・・。

 

みんな、こうして冷静に限度を考えたことはあるのだろうか?私が固執しすぎなのだろうか?

 

とにかく、混雑は、アメリカに行く前からダメだったわけです。アメリカに18年半も住んでしまった今、さらにダメに拍車はかかっているわけで・・・。

 

日本に居た頃は、アポ制度というのがないことにやたらめったら腹が立っており、アポ制度は高級レストランくらいにしかなかった・・・。今も、それほど変化は現れていないようで、ビジネスやクリニックなどではあるにしろ、高級感とアポは伴うらしい。それは人々の時間泥棒の根源になっているような気がする・・・。

 

アメリカでは、医者も最初に主治医のところにアポで行き、そこからのReferralなので、書類はすでに完備しているので、待つこと数分ですね。遊園地も、私は平日派なので、10分以上待った記憶はないです。あ、ただし、LAのDisney Landではものすごい混雑しており(平日だったのに)、チケット制度だったので、散々歩いてから戻ったりしたなぁ。それを日本も昨今取り入れたらしいですね・・・。遅いと思う・・・(汗)。日本でバカみたいだと思ったのが、アイスクリームやさんの行列で、アイスクリーム1個くらいしか食べられないだろうに(がんばっても2個くらい?じゃないと溶けちゃうし・・・。あるいはドライアイス代を払って持ち帰り?)、1時間半も待って「食べたい!」と言っていた人々は、アリの行列のように続いていたこと。レストランでも、アメリカでは、ファストフードこそないですが、パパさんママさんビジネスのレストランでも、予約は受け付けてくれるので、私は待ったことがないです。

 

当然、アメリカはほとんどの高速は、High wayではなくて、Free wayなのですが、混雑するのは、料金所のせいなのでしょう。確かにBay Areaでも橋代を払うところは混雑している。渋滞をする時間帯は決まっており、私はそれを避けて学校のクラスを取ることにしていたし、それほど渋滞に巻き込まれたという記憶はないのです。

 

こうした生活習慣のせいで、とてもじゃないが、この時期、ガソリン代も税制が戻った折、どうして人々は、車に乗って渋滞の中に吸い込まれるようにして出かけていくのか?ということがどうも解せぬ。満タンにしたら、1,500円くらい違いが出るのだろうし、渋滞しているときには平素よりももっとCO2がたくさん出るんだろうし、いっしょに車に乗っている人々同士も、決して気分がいいものではないだろうし・・・。うーん、その覚悟はどこから?

 

叔母が八王子で病気なので、いつも駆けつけることができるようにはしているのですが、トヨタレンタリースは近所で飛び込みができて、京王線+タクシーでも1時間以内で行けるようになっています。それくらいの事情しか、私はGWのこの混雑のさなか、動く理由が見つけられないでいます。「子どもを持つと違うのよ」という声も聴こえてきそうですが、だったら歓んで「子どもを持たなくてよかった」と言えてしまえそうなくらいの混雑イライラさを持ち備えているわけです。

 

生粋の貧乏でなくなってよかったことは、新幹線などで予約して、指定席が取れるようになったことかなぁ。それでも混雑したらその時期には行かないです。人々が群がるということに、どうも私の頭の中では、「イナゴの大群」が思い出されてならぬのです。どうしてこの連想なのかわからないんですが・・・。ということで、GWにも躊躇なく仕事を入れてしまっているわけです。特に休みたい!旅行したい!という欲は、目下のところないので、時間ができたら、どこかに行きましょう>8月の渡米は決まったしね。

 

 

ゆるゆるとやっていくこと

05/02/2008 にアップした文章です。

 

昨日は、大サービスで、無料である女性に英語を教えたのです。たまにはこういうことをしたほうがいいと、天からの声がしたからです。その代わり、英検に合格したときには、「志」をくださいと、恩の押し付けをしないようにとはブレーキを掛けてきました。実際、薄給の中で、高い英語講師の費用を捻出するのはたいへんなことでしょう。支払いをしたあと、勤務に必要な備品を揃え(通勤費用や衣装や化粧品)、食べたあとに、残るものは、鬱憤のはけ口をするにも、なかなかまとまった金額でもなく・・・。将来のために、教材には惜しむことなくお金を使え!と、私はいろいろな人に言って来ましたが、実際のところ、「(使い切らなかった)無駄が山積」になっているかもしれません。だから、それほどいいアドバイスでもなかったのだろうなぁ・・・。生活のほうが優先だ・・・(汗)。

 

そして、私は午後授業が一コマしかなかったので、久しぶりにパチンコをしてしまいました(汗)。なんだかびっくりしたことは、最初2万も使ったのでそろそろ止めようかと思っていたところ、急に出始めてしまい、結局2万2千円にもなったのです。心の裏側では、「ふむ・・・・。今日いいことをしたからなのだろうか?」と天を仰いでみたのですが、誰も返事をしてくれるわけもなく・・・。そして、中途半端な時間に仕事が終わり、地元に戻ってきたときに、「6時を過ぎたらATMを使うにもお金がかかるのか・・・。世知辛い世の中だよなぁ。自分のお金なのに・・・」と思いつつ、「今日はあまり疲れていないから、○×さんがいるかどうかちょっと寄って行こう」と思い、見事にその知り合いを見つけたので、隣に何の迷いもなく座ったところ、1000円で出た(爆)。いつも、彼の経営している大衆食堂でごはんを食べると、お金を取らないでくれるのです。老舗の大衆食堂で、お肉をたんまり食べたいときにはそこへ。1000円分の玉がなくなりそうになったときに、「来たんじゃない?」と言われたので、止めたところ、本当に来た(爆)。彼は、そのあと、お店があるので「経営者はつらいよ」と帰ってしまい、私はひとりで打ち続けたのですが、気づくと16箱・・・(汗)。そこの箱は小さいので、1箱5000円ではなく、7万4500円だったのですが充分だよっ!結局、合計で1日9万5500円も儲かってしまった日なのです。ところが、無料で2コマ教えたため、昨日の本業の稼ぎは、わずか5000円。こんなこともあるんだなぁ・・・と、不可思議に首を捻った次第。

 

バクチの奨めではありません。バクチは、適性や洞察や統計学や、いろいろな面で攻めないと、やはり銭失いなのですから。楽しいわけでもなく、ある時期を過ぎてしまうと「惰性」になりますし、その中毒性(依存症度合い)といったら、やはり見ていて悲しいケースのほうが多いです。勝ち抜けてもうやらない人のほうが少なく、やはり負けが込んだから止めた人のほうがずっと多いのです。

 

ところが、私は、この忙しい中、負けて当たり前だと思ってやるからなのか、勝ちますねぇ・・・。ここのところ、5000円以上負けたことがない5ヶ月です。というのも、時間があまりないので、疲れてもいるし、座る時間を決めているのもあるし、金額でキリがいいところで止めているから、というのもあるのでしょう。いや、このほうがいいね・・・・。なので、昨日、続きまくって、結果、家に戻ったのが10時過ぎだったときには、ほとほと疲れていました。途中、出ている感謝もなくなり、「もういいよ・・・(汗)」と罰当たりなことを思ってしまったほど。

 

そして、ふと思ったのです。ゆるゆるとやっていくのも、決して悪いことではないのだろうな、と。私は、フルに活動しなければ生きていけないサメのようなやつなので(マグロもか・・・。泳ぐのを止めてしまうと死んでしまう・・・)、なんだか今までこんなゆるい動きはしたことがなかったのですが、1日外だったとはいえ、ゆるかった日だなぁと。なのに結果オーライだった・・・。まぁ、負けていたら散々なのだろうけれども、実際は、ここのところ時間が決められているため、ずっと投入し続けてお金を失うこともできず、明日のことを考えて早々と帰宅したに違いないのですが・・・。

 

今日も、このエッセイを書く前に、仕事を2時間でこなして、郵送物を仕分けして、ラベルして、レッスン内容のまとめを文書化して、今に至ります。その間、母にごはんを食べさせられたし、これからゆっくりお風呂も入れと言われています>肩がめずらしく凝っていると言ったら心配された。しかも、彼女はみのもんたなのか、何のTVで見たのか、入浴剤バブの炭酸ガスを出すには「重曹」がいいというのを見たので、それを自分だけで試すのがもったいないらしく(判断力に自信がないんだろね・・・)、私を巻き込んでの評価大会なのである。今、入れている最中らしいので、私が先に入って、彼女はあとからゆっくりエンジョイしたあと、ネコの毛だらけになったマットを洗うそうなのである・・・。お疲れ様・・・。すまないねぇ・・・。

 

というわけで、モードもけっこうゆるゆるな24時間が過ぎようとしており、しかも私は、自分の若い高校生の生徒さんに、レッスンが終わったあと、チョコレートやケーキやいろいろなお菓子をあげることにしているのですが、その買いだめもしたので、このPCから見る風景も、かなりソフトでゆるやか。面倒がりの私は、勢い余って12個も買ったんですよね・・・。1週間に5個くらいしかなくならないので、2週間分以上買ったということで、昨日の朝、焦って賞味期限を見てみたら、お菓子ってかなり長いのね・・・(1年くらいあるんだねぇ)。

 

今日は、めずらしく午後4時から夜までのレッスンが、4人の違う生徒さんで入っているのですが、けっこう楽しいのです。明日は英検用の授業で、明後日が産業カウンセラーの授業が朝の9時から5時まで。月・火曜日も英検用のレッスン。そのあとは、また同じようにお休みのない日々が続きます。ただし、昼間の新人研修が終わったので、半日はゆるやかなので、この手の日々が増えるのかもしれませんし、あるいはまたどこか探してくるのかもしれず・・・←探すのはけっこう得意なんだよなぁ(苦笑)。

 

しかも、つい最近、座談会のバイトをしたのです。2時間で8000円ももらえてしまい、試食まであるやつだった>アイスクリームだった。すっかり気をよくした私は、その座談会に参加できる資格(消費者だったほうがいいし、消費者ではなくとも厳しい目で商品を見られるヒトがいいらしい)があれば、どんどん応募だけはしてみるつもり。キャッシュでもらえて、レッスンとレッスンのあいだの暇つぶしになるわけですよ。しかも、新しい人に会えて、けっこう楽しい。

 

こんなことばかりしているから、フツーの日が「ゆるゆるとやっている」ことになってしまうのですが、まぁ、それでいいわけです。私はそうでなければ生きていけないのだろうし、そのせいでむしろ健康なのかもしれません。遊んでいたら遊んでいたで、ものすごく巨大な罪悪感に苛まれてしまい、もしかすると立ち仕事や内職の仕事までするかもしれない。だったら、忙しくてもいいから、自分に向いている仕事であっちゃこっちゃに飛んでいたほうがいいのでしょう。

 

そりゃ、たまにはパチンコくらいできたほうがいい。本当に、この5ヶ月は忙しすぎたので、空き時間2時間じゃちょっと行く気にすらならず・・・。それよりも、ネコとうだうだベッドの上で転がっていたほうがいいや、と思っていたのですが、もちろん、転がっているだけではなく、本を読んだり、書類を作っていたりしたんですけどもね・・・。PCの前にいると仕事だけではなく、調べ物やらしてしまい、どんどん範囲が広がっていくので、遊びに徹するふうにがんばろうとしても、そうはならないことが多いです。

 

ゆるゆるとやっていくのは、けっこう難しいことなのかもしれず・・・(汗)。

 

子供が夢中になっている事は、他がおろそかになっていても応援すべき?

 

ヒトの本能は、二元論で成り立っているものばかりです。物事の分類の基本で、これは自然の摂理とも言えます。

 

二元論:世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念のこと。 例えば、原理としては善と悪、要素としては精神と物体など。 二元論的な考え方は、それが語られる地域や時代に応じて多岐に渡っている。

 

これを踏まえ、子どもが夢中になっていることが、「いいことがたくさん生まれることなのか vs. 悪いことがたくさん生まれることなのか」に分けて、本質をしっかり見極めてみることが大切です。夢中になっていることがただ単に「好きなこと」というだけだったら?この将来的にいいことがたくさん生まれるかどうか?をしっかり見極めてみることで、中長期的時間軸を持つことが、子育てにはとっても役立ちますし、自分自身の人生を長く考える力になります。ひとつの行動やコミットメントが、将来、どのくらいの広がりをもたらすのか?これを継続していけば、先に何が待っていて、どのくらいの大輪の花になり、実や種をもたらすのか?などと、しっかりとその中身について検討してみていただきたいです。

 

たとえば、読み書きに関することは、ベストです。昨今出ている学術論文でも、読書は「やりすぎる」というデメリットは、環境を整えないと視力が悪くなる、程度のことしかありません。経済的にも図書館やブックオフやオンラインにあるものなどがたくさんですから、さほどの負荷はないです。

 

本質:そのものとして欠くことができない、最も大事な根本の性質・要素。

 

他がおろそかになってもいいのか?という点についても、少し考えてみなければなりません。おろそかになっているものが、本質的なものなのかどうか?です。

 

ヒトとして生きていくのに、日々使う、使う頻度が高い、その技量・知識が問われやすい、夢や目標の中に必須なものである、などなど、少し考えてみなくてはならないです。

 

たとえば、ゲームをしたいために片付けができない、というのは、応援してはいけませんね(笑)。片付けは、脳内の整理にも重要に関連していますし、モノを増やして平気でいたり、お金を粗く使ってしまう機会を増やしてしまいます。ゲームのよいところと悪いところも、ゲームの種類を選んだほうが時間を費やした分の「成果」が上がらず、悪いところもたくさん生まれてしまうので、この場合はNGですね。

 

学校の勉学がおろそかになっても、友人を大切にする、というのも簡単に表現しすぎなので、ちょっと判断しかねますし、塾をがんばって、学校を手を抜く、というのも、さまざまな個体を取り巻く条件やカリキュラムの内容を観てみないとわからないです。

 

一芸に秀でれば、その気になったら何歳になっても他のことが「けっこうできる」という状態を作ってあげるのが、親の子育ての重点であっていただきたいです。勉強をして勉強ができるのは当たり前。それよりも物事を理解するためのさまざまな底力になる基礎的・本質的な力をしっかりつけてあげてください。<(_ _)>




動物園の是非

05/01/2008 にアップした文章です。

 

昨日、最後の日本のパンダがいなくなりました。22歳の高齢で、メキシコにも出かけて行って、本当にヒトのために尽くしてくれたパンダだったそうで、リンリンの生涯のうち、私は18年半も日本に居なかったわけで、当然、見に行ったこともなく・・・。それでも、このものすごぉくさみしい気持ちは何なのだろうか?と不思議でならぬのです。特に動物保護団体に属しているわけでもなく(アメリカはカリフォルニアのSPCAに定期的な寄付をしていたことは別としても)、黒柳徹子女史のように、パンダが死ぬほどかわいくて好きでたまらないわけでもなく・・・←というか、これについて世間のみなさまは知ってらっしゃるのだろうか?おそらく、私のこのさみしい気持ちは、動物園の存在からして発生しているのかもしれないと思うのです。

 

以前も書きましたが、西さんは「動物園の存在そのもの拒否派」です。彼は、母が来たときに、San Francisco Zooにホワイトタイガーを見に行きたい!というのに、しっかりとつきあってくれましたが、苦々しい顔は時折自然と出てしまい、孫たちにホワイトタイガーの小さいぬいぐるみを買ったときも苦笑でした。やはり、あの狭い空間に動物たちが閉じ込められている感というのは、西さんにとって、自分のことのように苦痛なのか、あるいはヒトのエゴを象徴するようなものなのでしょう。

 

確かに、動物たちを研究している学者によると、クマやトラなどに代表される狭い空間での「行ったり来たり行動」というのは、自然界にはほぼありえず、苛立ちを顕すのだそうです。考えてみると、Monkもイライラしてくると繰り返し行動をするよなぁ・・・とは思いませぬか?←校長センセにしか相手にしてもらえていないか?(笑) そういえば、ゾウも自然界よりも回数を多く、必要性がないのに鼻を口を使うあの行動をするのだとか。しかも、多くの動物たちの檻は、噛み付きや腕力などでいじられており、近くに寄って見ると痛々しい傷跡が残っていることが多いのだそうです。

 

OCD(Obsessive-Compulsive Disorder=強迫性障害)に近いものがあるのでしょう。改めて読んでみると、確かに動物たちも強迫を感じているように思える。社会性が強かったり、自由意志が強い傾向にある動物では、確かに狭いところに閉じ込められたり、行動に制限を加えられると、このような症状が出てもなんら不思議はないもののようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B7%E8%BF%AB%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3

 

かたや、サバンナや密林(ジャングル)に直接行くことができない私たちヒトのために、めずらしい動物たちと『共生』できぬものかと、心を砕いている人々を全否定するわけにもいきません。特に、子どもたちのためには、確かに役立っているわけです。映像を見慣れてしまっている世代の子どもたちは、おそらく、私などとは比べ物にならぬくらい、想像力は低いのではないでしょうか?映像で動物たちを自然界で捉えたものを見ても、なかなか実感が湧かないのかもしれませんから、生きている動物たちを見る機会というのは、人類が動物たちと共生していくためには、本当に深く必要なものなのかもしれません。

 

が、どうして、今、動物園に住んでいる彼らが犠牲にならねばならぬのか?というのは解決できる問題ではなく・・・。

 

ましてや、私がつらつら思うに、もう野生育ちで捕らえられて連れてこられた動物たちというのは、うんと、極端に少ないのではないか?とも思うわけです。動物たちとて賢いので、順応傾向を持ち合わせてはいます。あまりに本能が強い動物は哀れです。自傷行為などをして、寿命を縮めてしまいます。そうやって淘汰されていき、動物園暮らしが楽しいと思える動物たちが、生き残り、子を生し、生粋の「人間たちに育てられる野生ではない動物」が作られてもいくわけです。

 

これは新種への進化なのかなぁ・・・などとも考えているわけです←そこまで考えずともよいのか?いや、いいだろう・・・(汗)。

 

絶滅種の保護のために、ヒトの手を加えて人口を保つというのが、動物園関係者の名目ではありますが、実際に人工的な環境の中で、生殖行為および生殖活動はうまく進められているのか?というのも疑問ではあります。有名なのは、パンダのセンターですが、あの近隣では、環境破壊が進んでしまったという記事が、大学受験のための過去問題集に英語で載っていました。そのあらすじは、何もなかった地域に(そりゃそうだ。パンダが自然に暮せる環境で、竹林ばっかりなわけです)、突然近代的な建物と研究者たちがどっと集まり、その資金を捻出するために一般公開もし、観光客が「わー、かわいい!」と押し寄せる。なるべく自然界に近い姿を醸し出そうとしているものの、なかなか自然界には帰っていけないパンダたちは、ヒトに優しくされてパンダらしくないところをたくさん持ちつつ暮している。が、その近隣の人々は、「よっしゃ、オレたちも儲けてやろう!」と、軒を連ねて観光客相手の商売を始める。主に食べ物で、豚肉をBBQ風に焼いたものらしいのですが、ガスも電気も高くてままならぬ田舎です。元も子もないことに、竹林の竹を切り出して、それを燃料にして焼いているわけですよ。竹林は剥げ山になっていくし、燃やしているせいで二酸化炭素が大量に出る。彼らばかりを責めるわけにもいかず、補助金を出すようにはしたものの、竹林が元の姿に戻るには、相当な時間がかかるわけです。

 

うーん・・・。ヒトはやはりバカなのか?

 

確かに、動物を見るだけで心は癒されるし、抱いたりしたら死ぬほど温かい気持ちになれる(実際に温かいし・・・)。この動物と共生キャンペーンのせいなのかどうか、噛み付きガメだとかワニだとか、かなり珍種と言えるものまでが、ワシントン条約を掻い潜ってペット化されているのも確か。そして、要らなくなったり、世話ができなくなったりすると、捨てるバカが出てくる。最低なのは「飽きたから」ということを平然と言ってのけるやつすら居ること。

 

私もけっこうたくさんなネコといっしょに暮していますが、買ったネコはひとりもおらず、すべてSPCAからもらったか、捨て猫だったものに来てもらったのです。いくばくかではありますが、ヒトとしての罪滅ぼしの気持ちも多少あります。

 

旭川動物園はものすごい人気だとかで、入園料を上野よりも高くしたとかするとか・・・。富士サファリパークも、自然のままで動物たちが暮せるように努力をしているのだとか・・・。私は水族館でくらげを見るのがかなり好きなのですが(あっという間に1時間くらい経ってしまうのがいつも謎・・・)、あれもいいのか悪いのか、と思うのよねぇ・・・。

 

私はまだまだ西さんのような強気な否定はできないものの、やはり納得できない何かをしこりのように感じています。リンリンが死んでしまったこの機会に、考えたことがなかった方々は、動物園の存在是非をちょっとだけ考えてみるのもいいかも。

 

ひとつだけ言えるのは、私が宇宙人にUFOで攫われるようなことがあって、宇宙人が持っている動物園のようなところに収容されたとして、そこから抜け出す努力は、生きている限り続けるだろうな、ということ。まるで、Arthur HaileyのRootsのようですが(西アフリカからアメリカに連れてこられた奴隷のお話)、やっぱりそうなるだろうなぁということ。だったら、やっぱり動物たちにもやってはいけないんだろうな、と思うのです。

 

うどちゃんたちも、究極のところ幸せなのだろうか?と顔を覗きこんでみたところ、ひなたぼっこが気持ちよくて、それどころじゃないそうです(爆)。

 

心の歪み

4/30/2008 にアップした文章です。

 

いじめというのはどうして起きるのか、すでにいろいろな人が書いているに違いない。私にとっては、かなり距離感のあることなので、これまで真剣に書いたことがなかったのですが(例に出したことはあるけれども)、いろいろ検索してみると、「いじめには原因がない」と明言しちゃっている人たちがいるらしい。けっこうあんぐりだ・・・。ひとつだけが原因ではないにしろ、原因がゼロなことは、確率的にかなり少なく、社会現象にはならんだろう・・・。そして、私はいじめについて、つい1ヶ月ほど前までの体験者から話を聞くことができたのでした。あまりにも幼すぎる感性が多数決で掛かってきて、それにどうしようも対策が立てられないというのは、本当に忍びない。

このサイトはけっこうまじめに書いてあると思います。http://jtrue.blog110.fc2.com/ ただし、私は多様性容認人間なので、いや、むしろ多様性なしでは、私は生きてはいけないので、この原因フローチャートなどのかなり初歩地点から反論があるんですが(笑)。態度はたいへんに立派です。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%98%E3%82%81 不思議とWiki には「原因」という言葉が使われていません。あまりに決定的にするのがいやだったのか?

 

検索してみておもしろかったのは、「いじめられる側にも(多少は)原因がある」というのに、反論する人も多かったこと。「いじめる側が100%悪い」と言い切る人たちもいて、歪みという言葉がぴったりだなぁと思ったのです。この対立を子どもたちに見せているから、真似っこされるんでしょうが・・・と思うわけなのよ。だからゆえに、最初のまじめに取り組んでいるサイトで、原因の背景は「大人世代の腐敗」と大きく書かれてしまうのだけれども・・・(汗)。かといって、ユートピアなどあるわけもなく、あったらむしろ進歩がなくて怖く、何が理想形だというのも実際は怪しいわけなので、極端な形でマイナスがあることだけが避けられればいいじゃないか、というのが、私のスタンスでもあるのです。マイルドなマイナスを悪とする風潮は、余計に悪を増やす法則性は、自然の摂理の中でも証明されていることですしね・・・。それが社会学的に応用されていないのは、やはり「多くの人々が関わりすぎていて、なかなか実現しにくい」という状況になってしまっています。鉄のような強い意志を持っていたとしても、愛する人のためにならば、ヒトは自分の意志を曲げることもありますからねぇ・・・。愛するという錯覚かもしれないことを疑いもせずに。

 

実は今日は二日酔いぎみなので、こんなすごいお題を取上げてはいけないと思いつつ、昨日聞いた話が新鮮なうちに書いておきたいと、心から強く願っているわけです。シャワー浴びてきます←この程度で晴れるほどのアルコール残量感(笑)。

 

そこで、世界観が重要になってきます。これらのすべてを統合的にしたものが世界観で、たくさんの物事に対する価値観の総合体です。子どもたちは、育つ過程でこの価値観を貯めていくための体験をしている最中で、世界観をしっかり造りだす体験を重ねている最中で、彼らがいじめという過渡期があることは、それほど驚くべきことでもありません。が、不可逆性の強い痛みや傷、ましてや死などにまで到達するようなことは、確かに、大昔は少なかったし、流行するようなものではなかったのでしょう。

 

私は、子どもの頃から変わった子どもで、なかなかみんなと同じ行動ができなかったので、よく「ハブられ」ましたよ。この言葉、最近覚えたので、使いたかった(爆)。村八分のようなことらしい。「はぶる」という日本語は、「葬る」と書くので、相当に激しい言葉だよなぁ・・・。http://zokugo-dict.com/26ha/haburu.htm でもまったく堪えていなかったのは、私は基本的に「ひとりでいることが大好き」だったということ(笑)。身も蓋もないわけです。無視されるほどひどいことはなかったのですが、学年で4人くらい口を利いてくれない女の子はいました。たくさんの人を巻き込んで激化しなかったのは、おそらく、政治的に動くのが面倒くさかったからなのでしょう(笑)。多数決をするにも、やはり感情だけではなんともいかないわけなのね・・・。しかも、ドッヂボールや徒競走やマラソンやポートボールで、私は必要メンバーだったのだ(笑)。劇的にはぶっても、多くの人に利益はないのよね・・・。しかも、私本人は、はぶられているという自覚が薄かった(笑)。ひとりでチャリに乗って図書館に行くなんて、私の日常だったし、カエルを見たら蹲(うずくま)って他人を関知しないで観察するわけで、足手まといでよく先に行かれてしまっていたし・・・。みんなが拾ってはいけないと言われていた、猫も犬もチャボも拾っては、隠れ家で育てており、規範などなかったし・・・。「へぇ、やりたくないの。わかった!」と、自分ワールドの中心に他人を嵌めようとする志もなかったので、他人が他人ワールドに私を嵌めようとすることもないだろう、と、高を括っていたわけです。だから別行動になるだけだと(笑)。

 

そして、渡米してしまって、自由すぎてうれしくて狂喜していたわけですから、未だに他人と違う行動をとる確率はとても高く、こんな歳になっても化粧はしないだとか、日焼け対策をしていないだとか、できたらスーツではなくヨレヨレのカジュアルを着て町に出たいだとか、いろいろ不便はあります。が、場を飲み込むことはできるので、そこをなるべく避けて生きているわけで・・・。

 

多様性が悪いというのは、どうも違うと思われ、秩序やルールなどは、人間が後々便宜上作ったものが多く、核にある最低ルールというのは、幼稚園のお砂場で学んだことくらいで、それができないからいけないわけでしょう。確かにメディアによる刷り込みの機会は増えました。これだけ技術革新をして、安価でたくさんの情報が得られることは、不幸をさらに招く機会も増えるということです。情熱的に図書館に行き、数時間掛けて調べなければわからなかったことが、ネットで簡単にわかってしまうというのは、かなり肩透かしです。「なんでもあり」というのは、核があってこその延長で、基礎が身についていない場合には、その先はないのだということがわからないのは、愚かです。http://blog-imgs-13.fc2.com/j/t/r/jtrue/iii1.jpg このチャートを肯定しまくってしまうと、お笑い芸人さんたちは明日から食うのに困るでしょうよ・・・。

 

世界観の中で重要なのは、これです>http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/deai/013kizoku.html 何かがあると、原因がどこにあるか?ということを「ヒト」を中心にして、「出来事・モノ」が原因だという可能性を薄く見積もってしまうという傾向。待ち合わせ時間に遅れると、渋滞や事故や子どもの急病などの事故性だということはそっちのけで、その人の根っからの属性だと思うほうが簡単だからなわけです。面倒じゃないんですね。だから死刑賛成論者もまだまだ多く、犯罪はみんながこうした社会を形成して維持しているからだという反省は起きない。私は反省していますねぇ・・・。たまたま私がラッキーなだけであり、あんなに貧乏だったら、私だってバイトをして学費を稼ぐよりは、万引きから始まって、窃盗や強盗をしていたかもしれず・・・。モデルのバイトを続けて、一見ラクな商売に流されて売春をしていたかもしれず・・・(売春は体力的にもきついし、神経も使うし、実際はラクじゃないんですけどね・・・)。とやっぱりラッキーをありがたいと感謝するわけです。

 

確かに子どもは模倣学習をしているわけで、大人を真似しているというのは否定できません。だからこそ、生涯学習は必要なのだ、私が先陣を切って生涯学生でいてやる!と思っているのですが、まだまだお足が追いつきません(笑)。なので、教える仕事をしつつ、謙虚で反省する気持ちは忘れないようにしています。自分には一点の曇りもなく、歪みがないと思い込むことも、相当に危険です。権威という名の下で安堵して暮している人々は、相当数いますしね。その安心している自信過剰な人々が、子どもたちをいじめから守ってあげられるはずなどないと思うのです。極端な形でのいじめではなく、マイルドな過渡期としての儀式程度で済ませられる「すべての人間がすべての人間に好かれるわけではない」というのを、誰かまともに教えてあげてくれぇと思うのです。私は、昨日、そんなことをいろいろ考えつつ、ワインを飲みながら、話をしていたのです。そして、自分の歩いてきた道のりは、本当にラッキーだったと想い、やはり自分にできることをしていこうと、想いをまた新たにしたわけです。

 

さて、私の心の歪みは何だろう?規範がゆるいことなのだろうか?(爆)

 

 

健全な自己顕示欲はいかほど?

04/28/2008 にアップした文章です。

 

どうして生命体は、自分を実在よりも大きく見せたいのか?過少評価を自分に下すよりは、健全なのか?それとも・・・。と考えていると、けっこう迷いが生じることかもしれません。本日、ニュースを見ていたら、秋葉原で、路上撮影会なるものが、大昔のタケノコ族のようなイベントになっており、しかも下着を露出させていたことから、逮捕となったということで、「うーん・・・」と唸ったから、考えてみた次第です。コスプレ(これが、Costume Playの略だということに気づいたのは、最初にこの文字を見てから3週間も後のことだった。アメリカに居たので、誰も知らず、出張者を捉まえて聞き出したのであった・爆)は、性的嗜好だけではなく、もっと健全な範囲でも、多くの人々に愛好されているというのが、ニッポンの常識らしい。健全なのか?(爆)

 

http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20080425-352401.html

元ネタのニュース記事。

これによると、【自称】アイドルらしい(爆)。自称してしまうということが、すでに危ない気がするんだけれども、どうなのだろうか?都の迷惑条例防止違反だということなのですが、他の都市ではどうなんでしょうか?確かに、真昼間の秋葉原には子どもも居るのだろうし、それを不快だと思う人々も山ほどいるのだろうし、迷惑っちゃー迷惑ですなぁ・・・。私は、若い女の子の下着は、見たくもないです。

 

自己顕示:自分の存在を目立たせ、他人の注意をひくこと。また、自分を実際以上に見せかけること。

 

コスプレをもう少し学習色を帯びさせて考えていくと、生物の由来から始まります。生命体の第一の欲(Needs)は、生き延びることに根ざしており、「睡眠欲・性欲・食欲」で、第二に当たるのが、「安全の保証確保」になります。この2つめが、「自分を実際以上に見せかけること」の動機になります。

 

弱肉強食の自然界の中では、食う者の側になるのか、食われる者の側になるのかが、日々繰り返し行われていますが、食う者と固定観念が持たれている動物の行動の中には、この「自分を実際以上に見せかける」が思ったよりもずっと多く見られます。怒ったり、闘志を燃やしたりするために、唸る・咆える行動に口腔を大きく開けて見せ付ける行為がありますが、あれも「自分を実際以上に見せかけること」の一環です。

 

ヒトも同じようなことをしてきましたが、日本の歴史の中でそれが取り入れられたのが、甲冑などの武具をつける戦場に向かう武士軍団で、そもそもは踊りなどの化粧や衣装からヒントをもらって、色を派手にしたり、柄を発展させていったり、大きさを増やしていったりしたのですね。戦場で、「恐れる自分よりも、恐れられる自分になりたい」という、二元論のどちらに廻るか?という知恵の発達です。

 

というわけで、私はこの自己顕示欲というものを、全否定できないでいますが、「いかほど?」というところが引っ掛るんだよなぁ・・・・。

 

ヒト社会の多くで、未だに目にはなかなか見え難い闘いが残っているにしろ、敵意などがないところで、コスチュームで自分を実在以上に大きく見せるというのは、なんだか虚しくはないのか?原寸大から一回りか二回りくらいの大きさで、充分気が済んだほうが健全ではないのか?などと、思うのは歳を食っているからなのか?いやいや、私はディスコ通い(昔は、クラブじゃなくて、ディスコだったんだよ・・・汗)もしなかったし、衣装と呼べる範囲にジャンプするほどのファッションも身につけたことがないし(せいぜい、バイト先の制服くらいだよねぇ・・・)、バイクに乗っても実用性だけを追求していたと思うなぁ・・・。

 

タケノコ族が流行っていた頃も、なぜあんなふうに世間に自分の存在をアピールせねばならぬのか?と、非情に醒めていたような気がする。むしろ、誰かに見られるよりは、放置しておいてもらいたいと願っていた日々である。誰かに見られてしまうと、貧乏であることが露出したり、まだまだ頭が空っぽなことが露出してしまうではないか!と、たいへんビクビクしていたような記憶あり。サーファーが流行って、ブルーのアイシャドウが主流だったときにも、私のブルーシャドウはなかなか減っていかず、茶系ばかりが減ったよね・・・(汗)。

 

しかも、私はアニメを見るやつでもなく、時間が許す限りバイトをしていたので、アニメ系のコスチュームをかわいいだとかかっこいいだとか、思う時間すらなかったというのがゲンジツ。映画も、アメリカに渡るまでは、20本以下しか見たこともなく・・・。アメリカのコスプレ代表の、Star WarsやStar Trekなど、渡米してから知ったくらいで(笑)。Halloweenのコスプレも、私自身は一度もしたことがなかったのです。見て楽しんではいたけれどもねぇ。

 

私は、今の自分を少しだけでも進化させることに夢中になっており、それが貧乏からの脱出だと信じ込んでおり、何ステップも上のかっこよさなど、追い求めているゆとりがなかったようです←結論(爆)。

 

性的嗜好で看護婦さんが好きだとか、セーラー服がたまらないなど、見て満足するのであれば、なんとなく気持ちはわからないでもありません。私も、消防士さんを見ると、胸がときめきます(爆)。でも、あれらはゲンジツの中でのユニフォームであり、コスチュームと呼ばれるようなものからはマイルドな位置にあると思うのだなぁ。しかも、こっちの満足は、見て受け手側に立って得るもので、発信する側ではないですし。発信したことにより、受け手を刺激して、その反応を待ち望むというのは知的作業要素が入るよなぁ。うん、高度なのか、それともそうでもないのか・・・。

 

私は、英語を教えているだけで、発信したあと、受け手の反応を待つというのには慣れています。期待通りの答えが得られたときには、ちとびっくりうれしいというのはあるので、きっとそれに近いのかなぁ・・・。でも、この場合の主役は、あくまで英語の法則だとか成り立ちだとか実在であって、私には何の関係もないし(爆)。

 

ガンダムやらStar Warsの主人公や、被り物やその他の「他人に変身すること」で、何が得られるのか?と考えると、自分ではない人間になってみたい願望というのがあると思うのですが、自分ではない他人になるのは、日々やっていませんかい?『共感能力』というのを使って、「もしも私がこの人だったらどうするだろうか?」というやつ・・・。それじゃ、あまりにドラマがなくってダメなのかなぁ・・・。もっと過激で、非日常的な変身をしないと、どうしても気がすまないのかしら?

 

私はむしろ、自分ではないものになるなどというのは、怖くてたまりません。どんなふうに振舞えばいいのかわからず、もしも、秘密クラブなどに連れて行かれて仮面などをつけられたら、と思うと、背中にびっしょり汗をかいてしまいます(笑)。匿名で何かをやることを潔しと思っていないので、そうした自分ではない自分に対して、憧れも願望もなく、自分として一回りか二回りの変身をすることで、日々満足しています。しかも、それを顕示する必要など、カケラも感じられない・・・。顕示してしまったあと、誰かに見張られてしまったほうが怖い(爆)。

 

いかほどが健全なのか?私は、あまりに顕示しないほうが安心に偏っているので、あまり参考になりませんでしたね・・・。近所のお祭りなどで、かっこいい法被姿などを見せる若衆や、習い事の発表会や、出世を左右するプレゼンなどで、どうしても我慢できませんかねぇ・・・。数万もかけて、オリジナリティが濃いのか真似っこなのかわからないコスプレで、得られるものが何なのか、その恍惚状態をぜひぜひ語って聞かせていただければ、私も今後の参考にさせていただきます。

 

家にいてぼーっとする

04/27/2008 にアップした文章です。

 

家に長く居る、急かされないというのは、こういう感覚だったっけ?と、今日はしみじみ実感しています。今日のレッスンはわずか2時間から3時間(始めてみないとわからず、生徒さんも親御さんもそれでいいと思っているので、そのように進んでしまっている。いずれ、定型化しないといけないと思いつつ・・・)なので、私自身のための時間が、なんと21時間から22時間もあるんですねぇ。そして、刻み睡眠というのを、本当に本当に久々にしてしまった(笑)。おそらく、12月の上旬以来ではないかと思うのです。やってみると、たまにだからなのか、かなり心地よい(爆)。あ、風邪で寝込んでしまったから、12月30日以来だな。が、あの時は、気持ちいいというよりは、身体が欲していたので、あれしかできなかった・・・という事情だから←わかるかなぁ(笑)。

 

気づくと、ネコも私のゆったりさに感染したらしく、いつものようにしつこく寄り添って来ないのはなぜ!?(爆)いつもは、私がどこかに居なくなるので、競ってそばに寄ってきて、競って泣き喚きつつごはんをくれ!だの、お水が少ない!だの、もっと撫でてほしい!だの、ブラシはかけてくれないのか!などとアピールするのですが、今日に限ってはなんだかゆったり。少ない時間で、メールを返信したり、仕事をしているので、この足元にも寄ってくるのが常なのですが、今日は誰も寄ってこない・・・。さみしくもあり(爆)。

 

ここのところ、激務のため、授業中に飲みやすいように、熱いコーヒーではなく、アイスコーヒーに切り換えていたのですが、たまの家なので、今日は昼寝が終わったあと、熱いコーヒーを自分だけのためにポットに落としました。私のコーヒーマシンはアメリカから持ちかえったものなので、10杯分が淹れられるのです。豆をグラインドして、落ちているあいだ、その香りを楽しめるのですが、ここのところ満喫していなかった、あるいは、気づいてすらいなかった香りが、狭い部屋に充ちてきて、なんだかうれしい(笑)。コーヒーは、ネットで福袋のような売り方をしているものに定着したのです。けっこうお安くなるものなので、きっと町場のコーヒー豆販売店は、相当に利益を乗っけているんでしょうねぇ・・・。まぁ、USの値段よりは高いんですが・・・。でも、目くじらを立てるほどの値段ではないので、4月に入って、アイスコーヒー用の豆と煎り方でオーダーしたのです。5分休憩に追われている日などは、やっぱりアイスでないと・・・←香りが強くて、濃く入れて冷たいのがいい。

 

身体には、温かい飲み物のほうがいいのはわかっているのですが、未だに白人体温の私は、特にいつもいつも熱い飲み物ではなくともいいような妥協をしているところです。新人研修では、社内販売機がとても安いんですよ。紙コップのペプシが50円で飲める(だいたい、120mlは入っていると思われる・・・)。さらに、講師だけは、授業中も話しているせいなのか、ボトルのお水かお茶をいただけるのです。なのに、生徒さんが飲めないので、ちと恐縮・・・。

 

さらに、家にいると気になるのが(そこでゆったりすればいいのに、どうしてか気になる・・・。母がいないせいでもある・・・)、自分の持ち物の行方。忙しすぎて、頓着がなさすぎて、自分の持ち物もすべて母に管理してもらっており、整理整頓の好きな彼女は、何の不満もなくやっているのですが、彼女の整理の仕方というのは、脳の作りが違うせいなのか、ちと私の考えているものとは違うのである(笑)。とはいえ、普段やってもらっているのだから、それに私が合わせなければならぬので、今日も私が手を下して順番等を変えることなく、その彼女の論理を読むことに終始しているところです。

 

使用頻度の高さでアクセスしやすいところに置いたり、使用目的で分けたり、というのを、使わない母が徹底できるわけもなく、形状を主にかなりまとまっているわけです(笑)。だから、私はその形状テーマの中で、使う頻度や使用目的をちょろっとだけまとめるという日々に徹しているのです。今日のように、10時間以上、家に居て自由に使える時間があることなど、めったにないので、与えられた分類の中で、その順番をちょこっといじるくらいしか・・・(笑)。

 

持ち物は少ないはずなのですが、書類や教科書やプリントものがどんどん増えていくので、これを整理しようかなと、今日は少し決意しているところ←決意に少しがあるかどうか(爆)。郵便も、封筒ごと保存しておいたほうがいいものと、中身だけを分類分けしたほうがいいものがあるのですが、事務処理が下手クソな私は、西さんが今度いつ戻ってくるか?だけを考えているようなところがある・・・(笑)。

 

とにかく、食品庫や冷蔵庫の並びは、母に制覇・制御されているので、私が変えることなど以ての外なので、今日も地味に納豆ごはんだとか、母が作り置きしておいてくれたものだけで、作ることはやめようとしています(笑)。

 

そして、ぼーっとする究極は、TVではなく、PCで英語の動画を無料で見ることでしょうか・・・。その他、Outlook Expressの整理をしてみると、やはり受信ボックスと送信済みボックスに日付が溜まり溜まっており、そのくらいゆとりがなかったのだなぁ・・・と、なんだかとてもシビアに響くのです(笑)。なるべくまとめなくてはならぬ、と、いろいろOutlook Expressにもカテゴリーを作っているのですが、その中に入れることが面倒くさいと思うくらい、時間にゆとりがなかったのだなぁ、と。それが終わった今、なんだかとてもぼーっとできるような気がしてきたのですが、あと1時間かそこらで、生徒さんが来てしまうので、それほどのぼーっとはできないのです(笑)。

 

お風呂に入るか、動画を1本見るか・・・。どうしたらいいのだろうか?(笑)そして、またもや、どちらもせず、気づくと、本をオーダーしたり、チェックしてしまっている私がいます(笑)。後日発送のものをポストイットにタイトルを書いて、PCに貼り付けておき、また英語の本をオーダーしました(笑)。1冊800円~1000円に下がったものであれば、8月までは仕方ないだろうと←ええ、8月に渡米することになったので、3ヶ月半くらい分の英語が原書の本をたんまり買えるのだ。

 

ダメだなぁ、PCをつけたままにしておくと・・・。こうしてぼーっとしているようで、実はあまり頭を休めておらず、身体も凝るような状態をかもし出して、人は生きているのだな・・・。これほど時間にゆとりがあるのに、パチンコも行かず、図書館にも行かず、散歩にも行かないのはなぜなのか?きっと、ほとほと疲れてしまっており、行く気持ちまで自分を持っていけないんでしょうね。パチンコやさんは、音がうるさいし、空気が汚いし・・・。図書館は線路をまたぐだけなのですが、頭が興奮するので、どうもやりたくなかったらしい。しかも、2週間借りられるので、かばんがものすごく重くなり(14冊借りちゃうんですよ)、今珍しく感じている肩こりを助長すると思ってやめてしまった・・・。散歩は、ネコたちといっしょに居たかったせいもあるのですが、なんだかやっぱり手足もだるいし、やりたくなかった(笑)。だったら、家でCore Rhythmをやったほうがいいや、と、午前中にやってしまい、汗をかいてシャワーを浴びてしまったので、お風呂にも入りたくないんだよねぇ(笑)。

 

結局、ぼーっとすることがなかなかできないやつなのだ、ということを、またもや実感し、仕事に入ることになります。校長センセがおっしゃっていた産経新聞の過去記事を読んで、生徒さんがピンポーンと来るのを待つことになるんだろうな(笑)。そして、サービス残業を自らして、いっしょにごはんを食べに行くか、母が戻ってくるのを待つかして、今宵の半日以上の豪勢なお休みは終わっていくのであった・・・。無趣味な人間って、やっぱりつまらないわね・・・。