妥協の境界線

03/09/2008 にアップした文章です。

 

私が最初に妥協という語彙を学んだのは、小学校5年くらいだったので、今考えると相当に早いとは思うのですが、私はあえてこれを使わないようにすることを、その当時から心がけてきました。読書が進むと語彙は増えていくものですが、それがどんな言葉で、どこで使うとぴったり来るのか?というのはなかなか子どもではわからず・・・。そんな言葉たちはたくさんありますが、わたしはこの妥協という言葉が、今でも嫌いです。妥協したと思う気持ちが、後を引くせいなのでしょうね。なぜか、「妥協してやったのに・・・」と奢り高ぶる気持ちが芽生えるせいです。

 

妥協:対立していた者の一方が他方に、あるいは双方が譲ることで意見をまとめること。

妥協点:両者のおりあいのつくところ。

対立:二つの反対の立場にあるものが並び立っていること。互いに相いれないものが向かい合っていること。対峙(たいじ)。

 

私は好戦的だと思われがちなのですが、必要がなければ、闘うことなどやらないに越したことはないと強く信じています。そもそもの生命体の逃れられない宿命が、『生き延びること』ですから、勝てない勝負をすることで、エネルギーをたくさん消耗してしまってはいけません。が、小さく小さく毎日負け続けても、エネルギーは目減りし、いつしかその貯金がなくなったり、エネルギーをもらえるエネルギー源が消滅してしまったりして、どちらにしても生き延びることが厳しくなるかもしれないことは、予測したほうがいいわけです。

 

そんなわけで、たまには勝負しないといけないことがあり、そこには対立があり、妥協になるのか、真っ向からの勝負になるのか?という二択になることも多いのですが、私は対立してとことん話したあと、自分が選択したことに関して、「妥協した」とは一切感じない、考えないようにしています。

 

しかも、ですよ。私は対立状態が継続することが、それほど悪いことだとも思っておらず・・・。根本解決ができる個人的な問題であれば、私は必ず解決に向けて動きますが、たくさんの人間が関与する問題に関して、他人の考え方を積極的に変えようとは、まったく思わないでいるからです。「変わったらいいよなぁ・・・。不自由だろうなぁ・・・」とは思うし、根がいじわるなわけでもないので、知識としてのいろいろ話はしますし、質問をされれば答えますが、相手が私の考え方を変えようという積極的意図が見られたら、ちょっとげんなりします。

 

しばらくそんな場面には遭遇していません。が、たまにありますね。宗教団体の活動や、占いなどの勧誘やその他。それほど隙アリで歩いていないのだろうから、たぶん大丈夫でしょうが・・・(帰国してきたばかりのときはやばかったかもしれないですが・・・汗)。

 

右寄りの考えの人を左にしようなどとも思わないし、勉強しない人を勉強させようとも思わないし、性の快楽に溺れる人を救いたいとも思わず、です。ただ、意見としては、「中庸ってむずかしいけど、それがいいのかもねぇ」だとか、「勉強かどうかわからないけれども、学習を続けてよかったことはたくさんあるよ」だとか、「性の快楽は一時(いっとき)だけれども、快楽には上があるかもよ」などとは言います。それでも相手の反応がなければ、そこでおしまいです。押し付けるということほど愚かなことはないと考えているので。

 

ですので、相手を妥協させようなどと思ったこともなく、卑近な例で言わせてもらえれば、食事のメニューなどでも、私がその日食べたいものがステーキだったとして、西さんがお刺身だったとして、誰も妥協しないように、半分ずつの量を買えばいいだけのことで、これは妥協とは言えないのだろうと。私がお刺身を嫌いで、西さんがステーキを嫌いならば妥協なんですが・・・。では、この時、私はお刺身にしてあげる、という思いやりのあるジェスチャーができるか?といえば、できない(笑)。あとあと禍根を残すことになるとイヤなので、やらないのです。限られたお金(リソース・材料)の中で解決するには、分量を分けてシェアするのがイチバンなので、何かを後日に持ち越しするようなことはしない。たとえ、西さんが中国や台湾やタイやシンガポールのごはんに飽きていたとしても、です←非情(爆)。ところが、ステーキが食べたい日などというのは、1ヶ月に1回ほどで、日常的には「何でもいいよ」な、中年サラリーマンメンタリティを持つ私は、こんな難問にはぶち当たらないんですが・・・←これが難問かよ!?と言われれば返す言葉がございませんが、食べ物のことはけっこうでっかい禍根を残すように思われます・・・。

 

時間給を取るか、長い時間働いてもいいから総収入を取るか?という難問でも、自分に実力さえあれば、それほど妥協をせずとも何とかなるものですし、他人の頭や心が「対立」するようなところに、私はそもそも属さないので、こういう暢気なことばかり言っているのかもしれません。

 

ニュースによると、http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0803/06/news105.html 職場の人間関係に悩んだ人は75%以上なんだそうで。生徒さんから聞いた話でも、本当にお局様などは実在するそうで、あんなのは笑い話だと思っていた私は、あまりに暢気なのだろう・・・。だったら、やっぱり上場会社は産業カウンセラーは設置したほうがいいだろよ、と思うんだが・・・。

 

内容的には、上司について悩む人が多いらしく、それはやはりTVのニュースを見ていてもよくわかる構造ではあります。どうしてか年功序列や儒教的な年上や経歴のすごい人が意味なく崇められるような形式的美学というのは、政治のような曖昧な結果しか出ないものだけではなく、数値化できるような「営利団体」にも実在しており、そんな怪物には歯が立たないと悩む人は多いのかもしれない。企業派遣で講師をやって思ったことは、これがまかり通っている上場会社はかなり多いということ。「渦中に存在しなくてよかったな」と思うだけ思って、期間が終わってしまえば、それだけであっさりと「うーん、学べた」と思いながら去って行ける立場は、姑息だし、おいしいです。

 

10代で、そんな世界には無縁で生きていこうと思った私は、それを実体験する必要もなく、対立などとは無縁で来てしまったのだけれども、対立が始まる前に、「私は好戦的だから負ける勝負はしないほうがいいよ光線」というのは、出しているかもしれないなぁ・・・とは、ふと思う・・・。いや、実際はまったく好戦的ではないし、サービスレッスンを誰よりもする講師として有名ではあるんですが(笑)。そう思わせることで、無益な勝負や対立はしなくて済むので、妥協する必要もなくなってくるわけです。しかも、私は少数の友だちがいれば満足だし、知り合いと友だちと職場同僚との境界線は、かなり明瞭についていますし、友だちの意見が私と違っても、うまくやっていけると強く信じていますしねぇ。誰にも妥協させない代わりに、私も誰かのためには妥協せず、自分の中の自分とのネゴシエーションだけにエネルギーを使いたいと思うわけですよ。

 

こんな人間なので、子どもは持たなくてよかったと、こんな折に思います。いや、子どもと対立する人って少ないのかなぁ・・・。対立する緊張感っていうのは、悪くもないとは思うんですが、勝負して得られる何かが大きいのでなければ、私は勝負はしませんし、至ってドライなやつなんでしょうねぇ・・・。妥協の境界線を持っているか持っていないかで、やっぱりラクに生きられるかどうか決まってくるね、というお話でした。

課題を考えてステップを踏む

03/08/2008 にアップした文章です。

 

私はダンスがそれほどできるわけでもないのに、ステップを踏むというメタファーがやたらと好きだなぁ(笑)。ゆとりがあれば、ダンス教室だって行きたくないわけではないのですが、ゆとりは今のところはない・・・。いや、仕事をしていてゆとりがそれほどたくさんあってはいかん、とも思っているのかもしれず・・・。課題というこの言葉はあまりに堅いのですが、英語ではTaskといい、軍隊の目標ターゲットから、宿題まで、幅広く使われています。なので、私もついつい日本語でも、「課題」と使ってしまうことが多いのですが、これは最もしてはいけない翻訳ではないかとも思いつつ・・・(汗)。この漢字から想像できるのは、ある範囲(課・チャプター・部署など)のテーマなのです。なので、個人がどこからどこまでを範囲にするのかは、至って自由な気がするので、堅く考えなくてもいいんじゃないかとも思う・・・。

 

課題:(1)仕事や勉強の問題や題目。(2)解決しなければならない問題。

 

うん、やっぱりTaskでいいんだな・・・。翻訳の仕事が入っているので、まず日々のスケジュールの次に優先順位が高い課題は、翻訳の締め切りに間に合わせて納品することです。ダブルスペースで13枚しかないので、余計にやる気がフツフツと湧いてきておらずいけません・・・。

 

私は家を出る直前にシャワーを浴びるのですが、その理由は、喫煙者なので、髪がタバコくさいから、という単純なもの。禁煙に成功したら長い時間をかけない限り、この習慣は改まることはないとは思います。母などは、どんな基準でお風呂の時間を決めているのか、まったくわからず・・・。足湯をするときもあれば、半身浴のときもあれば、しっかりあったまるときもあれば、シャワーのときもあり、絨毯や毛布を洗ったついでにお風呂に入ることもあり、彼女には「一貫した法則性」を同居している私ですら、見出すことがあまりできず・・・。が、彼女は彼女なりの法則性があるんだろうから、あまり気にしないことでうまくやっています。

 

こう考えると、生きていくということは、平凡な日常ですら、「解決しなければならない問題」を山積にされて、それをひとつひとつこなして=生きるってことに思えるなぁ、ということ。やることがない人というのは、きっとあまりいないに違いなく、「歯が汚い」→歯磨きしなくちゃ、と感じないためには、何も食べないことや、口を開けて息をしないだったり、喫煙はダメだし、飲み物も水一辺倒でなければならず、やっぱりこなしていかねば、次には進めないのである。

 

ここのところに来て、私は受験生を無事に合格させたのち、やっと「成果が出る教え方」というのを、強くつよく意識するようになったことがわかります。それまで不真面目にやってきたわけではないし、ちゃんとTOEFLであれ、TOEICであれ、英検であれ、それなりの結果を出してきたのです。まぁ、主にがんばったのは私ではなく、生徒さんですけども、彼らが知らなかったノウハウや心持や勉強方法やら、論理などを教えてきたのですが、それを体系化していなかったことに対して、この頃、猛烈に反省をしているところなのだ。

 

大枚を叩いてレッスンを受けてくれている生徒さんには、大きな声で言ってはいかんのですが、私は授業準備というものを、細かくしないのです。グループレッスンでは、教材がしっかりあって、その内容に大きくそぐわなければいいので、たとえば「関係代名詞」であれば、中学・高校でやったことのレベルに合わせてから始めていくので、そもそも細かくやっていると、ロスが途轍もなく多くなるわけです。文法的に押さえておけばいい基本の基本を書き出しておくだけで、あとは、やりとりの中で広げる範囲を決めていきます。あまりに「ここまで網羅」と広げすぎたり、例題までを考えておくと、生徒さんたちが不自由だし、記憶や学習のメカニズムと矛盾したものになるからです。

 

ところが、基本中の基本を、どうしてこれまでその場だけで披露して、書き出して体系化してこなかったのか?と、生徒数が増えてきた中思うわけです。ある人には耳寄り情報を披露しておいて、ある人にはしていないという杜撰さ・・・。現場処理もいいこともありますが、悪いことは多い。

 

しかも、私はその場で生徒さんに教えてもらう思いつきというのもたくさんあり、それをどうしてイチイチ書き留めておかぬのか?と無念でなりませぬ。だいたいのことは記憶できるのですが、体系化することはマッピングの基本なのだ。そうすると、私を指名してくる生徒さんが増えるという図式になるわけです。いや、もう充分なんですが、たまに期末テスト前で4コマ空いたりするときに、新規の生徒さんを増やすという色気くらいあってもいいんじゃないかと・・・。

 

そうなんですよ。今の私にはこれが課題。

 

いろいろ思い出すのは、朝の小学校の通学路。どうしてあんなにも自分に課題を作れたものなのだろうか・・・と。暇だからなんでしょうが、頭の中に浮かぶのは、今日の課題ばかり。勉強に関してはひとつもないところが、私が私である由縁なんですが、ドッヂボールで球をどうやってスピンさせるか、だとか、大車輪を誰にも見られないあの時間にどうやって組み立てて練習するか、だとか、ひまわりの種をどうやって拾うか、だとか、水着を着替えるときに最短記録を作るだとか、本当にくだらないことばかりなのですが、私はそれぞれの課題を、できるまでやってきたからこそ、私になれたんだなぁと、いまさらながら実感するわけです。

 

どうして課題を途中で投げ出さなかったか?これですよねぇ・・・。

 

あまりに達成できるものばかりを選んでいたとも思えず、かと言って、それほど簡単なものばかりを見繕っていたとも思えず、あくまで結果論から言えば、今の自分の才能や実力よりは、一回りか二回りのものをステップ方式で何段階も上を見据えて作っていた課題だったということ。

 

図書館の子ども部門の本を制覇したときもそうですが、まずは著者から始めていき、その次に棚の段になり、棚全体になり、角になり、どんどんとアイルが進んでいき、いつしか気づいたら終わっていた、ということになる。このステップ方式はとても有効なのだけれども、それをどうしてか子どもの頃にあれほど習って学んだはずではあるのに、大人になってから、それを効率よく組み立ててやろうとしないのはなぜなのか?

 

そういう意味では、私はとても素直なやつなのかもしれず、4月から始まる講座でも模範的な日曜学生になるのではないかと思っているのです。自分の好きな文房具をすでに揃え始めており、どうしてこんなに楽しいのか、自分でもよくわからず(笑)。教科書が来たら、どんなふうに使うんだったか、すぐに思い出すに違いなく、名前を書くのも忘れないに違いなく・・・(ここで私は旧姓を書くんですが、それは気にしない・・・)。

 

こんな私が西さんがフルマラソンができるやつだから、私にも耐えてくれるだろう、と考えたのは、本当にすばらしい理屈だったと思うのです。私ですら、それなりにこらえ性があるはずで、課題を次々に昇華したはずなのですが、西さんはもっとこらえ性がある(爆)。彼と初めて出逢ったのが、1988年の12月ですから、そろそろ20年になろうとしていますが、ちっとも飽きませんねぇ。別居時間が長すぎるからなのか、それともおもしろいことがそれなりにたくさん詰まってきたからなのか。両方なのでしょうが・・・。

 

そして、私は翻訳をやらねばならぬステップを、しっかり考えつつ、今日の仕事を消化してきます。

よいことが続けて起きると不安?

03/07/2008 にアップした文章です。

 

私の尺度での「よいこと」というのは、他人様から見てみると、それほどよいことでもないのでしょうが(なにしろ、貧乏症なので、ささやかなことでとても歓べる・・・)、なんだかここのところ、よいこと尽くめなんじゃないか?と、不安にすらなってきています(笑)。人生や世間や地球の在り方を、ネガティブにそもそも捉えていて諦めているわけでもなく、大きな希望もあるし、可能性を追い求めてもいるのですが、それにしても、春が見えてきてからこっち、いいことがけっこう連続して起きている。うーん、なんだろう・・・。

 

吉事:めでたい事柄。縁起のよいこと。きつじ。慶事。

凶事:不吉な事柄。不幸な事柄。わざわい。

 

日本に戻って来て1年半になろうとしています。これまでの時間感覚は、長かったようで短かったので、いつもとなんら変わりはありません。楽しいことやうれしいことを体験している瞬間の時間というのは、感覚的に早く過ぎる法則性があります。逆に、つらいことや苦しいことを体験している瞬間の時間というのは、過ぎるのが遅い。ということは、長かったようで短かったというのは、それなりにつらくて苦労をしつつも、結局は楽しくうれしく過ごせたという成果なんだろう、と言って安全なんじゃないかと・・・。

 

ただし、これには元々の個人が持つ世界観というのが引っ掛っており、それが基準になっています。私の場合は、よいことよりも悲しいことやつらいことのほうが圧倒的に多い、という持論を、生涯続けて持ってきています。だからこそ、ヨロコビは倍にも数倍にもなると思っており、つらいことも続けて努力していけると思い込んでいます。これが正しいか正しくないかは、その個人の心の持ちようなので、あえて否定はしないでおいてください(ぺこり)。それでも私は自分を悲観的だとはまったく思っておらず、とても根拠がある楽観性を持つやつだとうぬぼれています。でないとやっていけないじゃん・・・とも(笑)。

 

お給料日を待ち望んでおり、どのくらい入るかを大雑把に計算していたよりも多かったので、ちょっとうれしくなり、さらに、当日、母に隠れてパチンコに行ったら、なんと8万8千円も勝ってしまい、その晩、飲みに出かけて奢ってしまい(笑)、その翌日は生徒さんたちとカラオケナイトだったのですが、とても楽しくてノンストップに6時間ほどはしゃいだあと、二日酔いだったのですが、二日酔い後、月曜日にもパチンコで6万も勝ってしまい、その後も、生徒さんの集まりやスケジューリング、新しい話や耳寄りな話など、ここのところ、「うがー」という落ちる話がないんだよなぁ・・・。飛び入りの翻訳のバイトも、実物が手元に届いたらとても簡単なもので、しかも得意な日本語から英語のものだったので、うれしかった・・・。だるま市も楽しかったし、図書館も楽しかったし、と、まだ1週間ほど落ちる話がないわけです。

 

とはいえ、私のよいことと感じる基準があまりに低すぎるので、という前提は無視することができず、「あまりに不安なため、さらによいことの基準点を低くして、気分がいいままをキープしようとしていないか?」という不安が(笑)。もー、どうして私はこんなにごちゃごちゃと面倒くさいやつなんだろうか?もっとシンプルに歓んで生きて、何か悪いことがあったら、すぐに立ち直ればいいじゃないか!と、もうひとりの自分が私を叱咤するんですが・・・。

 

そうなんだよねぇ。『となりの猫村さん』の第3巻が3月21日に発売されることもわかって、なんだかあの続きが読めるだけで倖せな気分になるっていうのは、それをよいこととカウントするのは、あまりに基準点が低いよねぇ・・・。

 

でも、おかずが豪勢なハムステーキなのに、サラダしか期待していなかったのに、さらにミネストローネがついてきたら、母に抱きつきたいくらい倖せを感じてしまうことは、いまさら止められそうもなく・・・(汗)。安いよなぁ(笑)。

 

不安:(1)気がかりなこと。心配なこと。これから起こる事態に対する恐れから、気持ちが落ち着かないこと。また、そのさま。(2)〔哲〕〔(ドイツ) Angst〕人間存在の根底にある虚無からくる危機的気分。原因や対象がわからない点で恐れと異なる。実存主義など現代哲学の主要概念。(3)〔心〕 漠とした恐れの感情。動悸(どうき)・発汗などの身体的徴候を伴うことが多い。

 

↑こんなに大げさな不安じゃないにしろ、いつイヤな落ちる話が来るのかな、と、逆に楽しくなりつつあり、ここですら、低燃費消費型の自分を見つけてしまうことは、さらに止められそうにもなく・・・。何をどうしたらよいこととするのか?というのは、自分が願ってもいないし、努力もそうそうしていないことに対して、いいことが起きることで、運ということに繋がるのかもしれません。

 

期待をしないで、予測を値として持っていると、その意外な出来事には相当に歓べる。パチンコなどは、2箱1万くらい儲かればいいと思っていたのに、20連荘などが出てしまうと、統計学的に考えて、そうザラに起きることではないという確率を計算してしまうんですね。しかもまた近日中に9箱ずつ別のお店で2回出てしまったりすることは、さらに確率的には低いわけで・・・。頼んでもいないのに、なぜかお魚が続いたのち、ステーキは食べたいという気分まで盛り上がっても集中してもいないのに、なぜか母が読んでくれていたりすると、「いつもはひとりでTVに話しかけたりしているくせに、どうして魚が続いていることがわかったんだろう。すごいなぁ・・・」と、大甘な点数をつけてしまっており、実際に「よいこと」なのかどうかもブレてきたな(爆)。最初に定義したはずなのになぁ・・・(汗)。

 

たとえば、私の書いていることは、おそらく多くの人には伝わらないと思っています。なぜならば、私は躁鬱病で子どもの頃から混乱した子どもだったので、人に伝える術というものをかなり無視して、ひとりで駆け抜けてしまってきており、その後、やっと物事がまともにできるようになってきたかもしれないときに、英語を使うようになり、日本語での書き言葉がさらにぐちゃぐちゃになりました。英語と心理学を学んでわかったことは、私の不遜さには折り紙つきなところが大いにあり、「自分にわかっていることは他人にもわかっているであろう」という前提がたくさんあったということで、私はそれを修正しつつ書くように心がけてはいるものの、それが万民の頭と心にいつも通じるとは限らず。

 

だから通じたときには、それも「よいこと」に数えてしまっており、私の今の仕事は、生徒さんに物事を教えることですから、その機会の絶対数が多くありすぎます(笑)。何をやってもダメな時期でもなく、可もなく不可もなくな時期であれば、ただ相手が「わっかんないっ!」と表現しなければ、私はそのシグナルを見落としているだけかもしれず・・・。しかも、よいことばかりが起きていて私は上気していて、いつもよりもそのシグナルを見落としがちな傾向にあるのかもしれず・・・。

 

ということで、結論は、不安がらずともいいということになりました。エッセイを1本使って、このような結論にたどり着くというのは、オソマツ千万ですが、天才ではなく、努力のみでここまで来たやつにとっては、こうした活字の使い方はあるのだ、と笑ってやってください。あ、耳が抜けたことだけは、生物学的にかなりラッキーだったんですが←まだ言ってる(爆)。

 

やはりだるま市でだるまを買ったことで、運ということを考えすぎたのかもしれないとも思っています。あまりビクビクしないで、今からすぐにでも起きるかもしれない落ちる悲しいつらいことにもめげない、鉄の心臓を持ってがんばろうと思います。

人恋しい?

03/06/2008にアップした文章です。

 

私には、人恋しいという感情がかなり欠落しているのかなぁと思っているところ。最後に感じたのは、いつ頃だったのか?一生懸命考えても、頭のファイルキャビネットを、ごっちゃごちゃになるまでひっくり返しても、なかなかビンゴファイルが出てきません。母が、水曜に洋裁に行き、そのあと、ボーイフレンドの家でごはんを食べてきて、夜の9時に戻ってくるのと、土曜日の夕方に出て、日曜日の夜9時まで出っ放しであるのが習慣なのですが、一度もさみしいと思ったことがない。ただし、困ったことはある(笑)←調味料などの場所がわからなくて、買ったことすらある。祝日や連休などで、3日くらい空けることがあるんですが、そのときもゴミだしやら洋服やらのせいで、帰って来るので、特に不自由は感じないのですが、たとえ帰ってこなくても、さみしいとは思わないんだろうなぁ、と。

 

そうでなければ、西さんとも6年半別居のあと、1年半のオンーオフ別居はできないはずだもんなぁ・・・とは思うのです。人恋しいというのは、どういう感情だったか・・・。

 

人恋しい:何となく人に会いたい、人と一緒にいたい気持ちである。

さみしい:〔「さびし」の転。中世末期から現れる形〕「さびしい」に同じ。〔「さびしい」「さみしい」の両形のうち、古くからある「さびしい」を標準的語形とする見方が強かったが、最近は両形が同様に用いられるようになっている〕

さびしい:(1)あるはずのもの、あってほしいものが欠けていて、満たされない気持ちだ。物足りない。さみしい。(2)人恋しく物悲しい。孤独で心細い。さみしい。(3)人けがなくひっそりしている。心細いほど静かだ。さみしい。

 

ひとつには、ネコがいつもいるせいだろうとは思うのです。会話をするわけではないのだけれども、空気と同様なくらいに、彼らは私を緩やかに束縛しており、それでも特に必要とされているわけでもなく、ただただ存在しているだけの甲斐のない存在同士であるのかもしれず・・・。

 

でも、なんとなくそれでいいんだろうなぁ・・・と、たいへん緩やかなわけですよ。

 

あるはずのもの、居るはずの人などは、私にとってはひょっとすると、「どこかで生きていてくれればいい」という大雑把な括りで、目の前である必要はまったくないのかもしれず・・・。満たされないだとか、物足りないだとか、そもそもの規定値が、私ひとりの会員制クラブのようなもので、たまたま居るときには大切にするし、そうでないときも気にしない、という不思議構図ができているのでしょうね。

 

それは、学習の結果なのだろうか?いえいえ。私が生まれて育った家は、少ないときでも4人。多いときには3部屋で7人住んでいたわけで、混雑していたのです。だから、反面教師として、「とにかくひとりになりたい」といつも思っていたか?というと、そういうところは多少なりともあったような気がしますが、家の中ではトイレやお風呂。外では木陰や図書館や川原など、たくさんひとりになるところはあったしなぁ・・・。

 

逆にたくさんの人がいて迷惑だということもそれほどあったわけでもなく、本さえあれば、私はいつでもひとりになれたし、父親に話しかけられたときにも無視するなどという無礼もしなかったし、それを疎ましいと思ったこともそうなかったです。

 

渡米して、最初は寮。その次に日本人女学生4人で一軒家。そのあとにアメリカ人女性(英語の先生)の家に間借り。そのあとに、アメリカ人パイロットの家に間借り。西さんといっしょに暮らし始めて、その後はそのスタイルを続けて、途中留学生を何人か住まわせたあと、ひとりになったことも長かったですが、今は基本は母とふたりで、西さんが何ヶ月に1回だったり、1ヶ月に1週間くらいは戻ってきます。

 

アメリカに住んでいるときには、人恋しいと思うことはなく、「日本のブツ恋しい」と思ったことは多々ありました。食べ物から始まり、文房具や文字そのものや、文化の香りがするものやらいろいろ。たとえ目の前に人が現れたからと言って、それらの「恋しい気持ち」が解消されるわけでもなかったので、きっと「人」を対象にしたことが皆無だったのでしょう。

 

戻って来て1年5ヶ月。サービス業をやっているせいか、人にはコンスタントに対面しており、人恋しいと思うことはありません。ただし、特定の人をわずらわしいと思うこともめったにありません。特定の学校で曜日および時間契約をするようになってからは、私がどうしても苦手と思った生徒さんはわずか二人です。そのふたりに共通するのは、「自分の感じ考えたことはとても正しいので通す」という話し方をすること。教えられる立場に、そもそもそぐわないので、こちらの提案に対して聞く耳を持たないわけです。

 

昨日は、高校3年生の女の子の最終日でした。私のクラスを半年も取ってくれたんですよねぇ。台湾人の女の子で、お父様のお仕事の都合で日本に若い頃に来て、ビザ暮らしをしているのですが、このあと、高校卒業を機に、英語の専門学校に行き、1年通ったあと、その学校が提携しているアメリカの大学に留学します。このように生徒さんとのお別れはさみしいものですが、たいていは「旅立ち」なので、我慢の範疇です。いや、我慢というよりは、ずっと「祝福」寄りで、背中を楽しく見送っています。こう考えると、ひとつのグループ授業は、3ヶ月なので、これまで相当数の生徒さんの背中を見送ってきましたが、本当につらいと思ったことはなかったですね・・・←冷たいんだろうか?愛着はそれなりに湧くのだけれども、引き止めるような気持ちはまったくなく・・・→お金の都合があえば、その学校内で私のプライベートレッスンを取ってももらえるのだろうけれども、そんなことを勧めたこともなく・・・。

 

今日も母は洋裁に行っており、私はこのあと仕事に出かけるので、限りある時間でこれを書いているのですが、ネコたちはたまに見上げて「にゃー」をしたり、じーっと見つめるだけで、特に私を必要とはしていない模様(笑)。ごはんとお水とキャットリッターが整備されていれば、彼らはそれぞれで充分やっていけるわけです。

 

私は基本的に、「ひとりでも充分にやっていける人」が好きで、その余った時間を私にくれるならばうれしい、と思う性質なのでしょうねぇ。そして、おつきあいする相手にもそうあってほしいと願っており、人恋しいと思っている場合じゃないと、なぜか自然に考えている・・・。

 

恋していたときはどうだったか?「会いたい」と思うことはなかったのか?いやー、ありましたねぇ(苦笑)。そんな気持ちがあったときには、会ってどれほど充たされた時を過ごしたかというのは、今考えると、「あんなに会いたがっていたのに何してたんだろ・・・」と思うくらいに笑ってしまうような(爆)。無意味にドライブをしてガソリンを撒き散らしたり、彼の友だちに紹介されるときに好かれたいなどとスケベ心を出していたり、と、まぁ、なんて幼かったことだろうと・・・。

 

気づくと、いつからこんなに醒めて強い人間になってしまったのかわからんのですが、今、とてもラクですし、楽しいですから、結果論としてよかったし、人に会えば会ったで途轍もなく充実した時間を過ごしている気がするわけです。人恋しい病は、西さんが私より先に死んだときの想定だけですかね、今のところ(母は私より長生きしそうなので・爆)。

GW Boot Camp 記 IV

4月30日(火)

学習法の再検討:日常生活を振り返る

学習に+になる認知と行動

コミュニケーションスキルチェック

コミュニケーションの演習

 

文化を踏まえたコミュニケーション 英語演習

文化の理解:宗教・生活・政治など

自己を高めるためのヒント

 

この日は心理レッスンを中心にして、習慣化する学びに重点を置き、内面をもっと深く掘っていくという考え方を学んでいただきました。

 

小学校の夏休み以来だという、スケジュール表を作成して、平日(仕事がある日)と休日の別を比べてもらったり、無駄な時間があるのかないのか、ゆったり過ごすために何をしているのか、などなど可視化していただきました。

 

ポジティブ vs. ネガティブの認知と行動のチェックをしてもらい、何がひっかかるのか、どうしてこう考えてしまうのか、などをディスカッションしたり、実際に日常的に何ができるのか?というヒントを交換してもらったり、楽しく過ごしてあっという間に時間が過ぎていきました。

 

その後、コミュニケーションスキルの具体化をして、非言語コミュニケーションと言語コミュニケーションの別や割合、実際にどのようにコミュニケーションをとっていて、相手からの印象などをRole playing で実施してみました。

 

ひとりの人間がどのように立ち居振る舞い、視線や相槌や笑顔で印象がどの程度変わるのか、言葉尻や口癖などが与える感情への影響など、いろいろとトピックも広がりました。スキルはいつでも身に着けられるものであって、意識化せねば習慣は打破できませんから、気づきのための時間としては、たいへんに貴重なものになったはずです。

 

って、思い込みだったりして(笑)。

 

午後は、文化を踏まえて、文化人類学的に Totalitalianismを取っているのか、Individualismを取っているのか、という国や文化別のモノの見方・考え方についておさらいをして(普段のレッスンでしつこくやっているので)、日本語をそのまま英語にしただけでは、たいへんな誤解や無理解・不理解になってしまうことを証明していきました。

 

その後、自分たちとは違う文化を理解するために Big 5という性格診断テストを行い、Opennessに着目してみて、誠実性や外向性なども質疑応答の形で深く、個々人を掘っていきました。

 

特に、政治・宗教・生活習慣などは、アメリカに20年弱住んでいた経験・逸話・おもしろい出来事などを話して、体感していただけたかと思います。

 

最後にこの多様性を追いかける時代に、国際化時代に生きていく中、自分を高めるためには具体的にどのようにしていけばいいのか、を生徒さん自身に考えていただいたり、ディスカッションをしました。

 

たいへんに充実して、裡側をひっくり返して見つめられた日になりました!

11015950 – think positive, do not negative, colorful words on blackboard

聴力の不思議

03/05/2008 にアップした文章です。

 

先週あたりから、生徒さんたちの切実なるListening Skillについて思いつめています。なぜならば、私が受け持っていたPre-TOEICの生徒さんたちを、今後も継続して教えられると思っていたところ、違う先生の違う曜日に移動してしまうことがわかったからです。TOEICのListeningセクションは、Part Iが写真を見て答えるもので、それについては9割以上の正答率がなければ・・・と焦っており、本当にそれくらいしかクリアしていない状態。いけません・・・。まずいなぁ・・・。

 

聴力:音を聞きとる能力。

音の仕組み基本編です。

 

まず、簡単なことでは、S+Vだけを最初は聴くようにする、次に、その次に、と、6段階くらいに分けた意識の持って行き方の指南はしているのですが、どうしてもそれがわかっても聴き取れない。ということは、もっと生物学的なことなのかもしれないと、私が難なくクリアしてしまったところを、もうちょっと意識して考えてみることにした。私は、50数日目で耳が抜けてしまったので、このへんをまったく苦労していないわけである。突っ込んでみたところ、カラオケに行ってわかったことは、

 

1. 自分自身の日本語の発音も明瞭ではない>英語の発音もごまかしが多い。

2. 知っているようで歌詞が正確ではないことがある>聴き間違いの恐れあり。

3. 聞きやすいポジション取りをしていない>耳の方向や座る位置やその他含めて。

4. 基本的に自分の周りの音を差別化していない。

と、大別してこの4つがわかったわけです。

 

解説すると、

1. 関東圏出身者ではなく、九州出身者がひとりいたのですが、西さんの例もあり、耳のよさというのはこのへんでも顕れるのかもしれないと、はたと思い当たったことがあり。西さんは「聴けている」と思っていても、実際は九州から関東に出てきてからずっと、薩摩訛りが抜けていません。自分では標準語を話していると、真剣に思っていたあたりがあやしい(笑)。Mimic=模倣をしていると思っていても、実際は模倣できていないのかもしれない。

2. 歌詞については、日本語の流れの思い込みというのは大いにあるかもしれないです。英語でも、使役動詞の後ろでは、toが短縮されたり、前置詞のforが人の前や時間の前やモノの前に来ることが一文で3つあったりして、不自然に感じることはままあるのでしょう。そのせいで、抜かしてしまったり、間違えて思い込んでいることがあるように、日本語での思い込み、聞き間違いを正しいと信じている姿勢というのは、Unlearningの範疇なので、なかなか直し難いかもしれません。

3. カラオケボックスなどでは、限られたスペースしかないのですが、自分が音を聴き易い姿勢というのを、もしかするとわかっていないのかもしれません。音楽をやったことがある人であれば、すぐにこの意味がわかると思うのですが、音というのは反響するものですから、自分がどこにいるかによって、大いに変わる。時差が生まれるほどの大きな場所で歌ったり演奏した経験がある人であれば、小さい空間での微妙なこの場所取りに関しても、だんだん繊細になってきます。私は、家のTVの向きですら、けっこう気になります(スピーカー内蔵なので、聴こえる音が違う)。

4. なんだか大きな括りになってしまっています。喩えとしては、私が自分が耳がいいと感じる瞬間は、アニメを見ていて、すぐにその声優がわかることです。日本のアニメがアメリカに上陸してきて、それなりの著名人が吹き替えをやることになると、99%ほどの割合ですぐにわかります。それは、画像を見て視覚だけで「みなさない」態度を保ち続けていることがあります。これだけでは、「違う」ことしかわからないのですが、気にし続けると「誰の声」かもわかる。鳥の声にしても、いくつもの違う鳴き声がわかるかどうか。同じネコから発せられた音でも調子がわかるかどうか。人であれば言葉には左右されず、その抑揚やストレス、間の取りかたやボリュームがわかるかどうか、で、内容がつかめることが多いわけです。これがわかっていないのかもしれないし、「ささやかだけれども重要な違い」の積み重ねを舐めてしまう出発点になっているのかもしれない、と思ったわけです。

 

結果論でしかありませんが(なぜならば私は英語が聴けるし、聴けるだけではなく、南部訛りであろうとも、どんな母国語の外国人が話していてもわかるので)、小さい頃からの耳の使い方の蓄積がこれなのだと強く言えるわけです。

 

今日はたまたま聴力について話していますが、日本語で文章が読んだり書けたり話せたりするからこそ、英語で読んだり書けたり話したりすることができるようになる、というのと同じです。

 

もう少し英語に特化していくと、日本は母音が必ず組み合わさっている音なので、耳が鈍るかもしれない可能性がたくさんある言語なわけです。ところが、英語は子音だけでも構成できる言葉が山ほどあり、無声音という聴力に挑む音があることで、日本人には聴き取り難いことになります。だからこそ、2歳までのあいだに、母国語以外の言語の発音に触れておくことは大切になってくるわけです。母音が伴う音というのは、有声音。伴わないものは無声音と類別されます。

 

有声音:発音するとき、声帯の振動を伴う音。無声音に対する。[b][d][g][m][n][ ][v][z][ ] などの子音や、普通の母音がこれに属する。

無声音:発音するとき、声帯の振動を伴わない音。主として子音の [p][t][k][s][ ][Φ][ ][h] の類。

 

さらに、日本語のアクセントは箸・端・橋などで代表されるように、音でわかれ!という大雑把判別をしていますが、実際は場所(どこ)へのアクセントです。が、英語は場所ではなく、「強弱」のアクセントなのですね。しかも、無声音の強弱が圧倒的に多いわけです。たとえば、ファーストを日本語で言うと、母音が4つもあるんですが、英語だと1つしかないことに気づいていただけるでしょうか?そのせいで、母音を発音してしまうわけで、なかなか通じない。その意識のままで聴いていると聴こえない。だから、fast-firstの違いがわからないのだということが、見えてくるわけです。

 

生命体として与えられた聴力器官の基本的な訓練を身につけたうえで、さらに英語と日本語の違いを考える。このような考え方をしなければ、生物的な違いを短時間で埋めていくことはなかなかできないと思います。私はたまたま耳が抜けてしまったので、このへんの違いが明確にわからなかったのですが、もう7ヶ月も教えているのだから、細分化して文章にして、伝えられるようにせねばなりません。がんばりました(笑)。ちょっと光が見えてきましたが、個々人が努力するのはこんなに簡単なことではなく、努力ですから、そこそこの時間はかかることでしょう。これを実務的に現実化するのは、私の腕次第です。がんばりますっ!

愚かな選択の積み重ね

03/04/2008 にアップした文章です。

 

人生というのは、愚かな選択の積み重ねでできていると思うのですが、その中でいくつかのよりよい選択ができれば、まずまずの人生になると思うのです。昨今、クイズ番組が増えてきていたり、脳トレや漢検が流行っていたりしており、知的モードへの希求は「そこそこある」模様。だったら、それを土台にして、よりよい選択を重ねることができれば、きっと人生はうまく行くに違いないのですが・・・。とはいえ、私も日本に戻って来て、19年弱の不在をちゃらにするまでにはきっと行かないとも予測しており、さらに時間がかかっています。これは自分にも言えることなので、謙虚に行かねば(笑)。

 

愚か:〔「おろか(疎)」と同源〕(1)頭の働きがにぶいさま。考えが足りないさま。(2)ばかげているさま。(3)未熟である。劣っている。

選択:二つ以上のものの中から条件に合ったもの、また、よりよいものを選び出すこと。

 

ちょっと困ったと思うのは、愚かが「疎=うとい、まばら」と同じ漢字を使っているということで、知識があっても、まばらではダメなのか?ということである。私は日ごろ、老いることについてはポジティブな考えを持っており、脳細胞は使えば使うほどよくなるものだと信じているわけで(脳細胞には再生はないが、Dendritesが伸びたり、太くなったりはするという学説にかなり支えられている・・・)、記憶がまばらになるとヤバイのか?と思わされてしまう漢字である。まぁ、そのまま鵜呑みにはしませんが・・・。

 

今日はだるま市が二日ある最終日で(3月3・4日なので)すが、去年買っただるまに目を入れて返してこなければなりません。母は、「もう面倒だから買わなくていいじゃない」という提案をしたのですが、私はこの1年悪くなかったと思うので、ご利益を少しくらいは信じてまた買おうと思うのです。愚かな選択なのだろうか?そりゃ、もちろんまた来年返しに行かねばならなくなるんですが、子どもの頃生まれ育ったところに足を向けることになるのを、義務にするのも、悪くないことだと思うのです。

 

昨日の夜は不思議な番組をやっていて、いや、日本の芸能界そのものを私はまだまだどうも全体図として掴めているのかどうか、怪しいものではあるんですが・・・、「どちらがいい女なのか?」というディベートを、芸能人女性たちが出て、2択から選んで、その理由を戦わせていくというものでした。

 

友だちが前々から想いを寄せていた男性に突然好きだと告白されました。あなたも彼のことが気になっていました。A.つきあう B.断る という選択肢なわけです。まぁ、大きく分ければこのふたつしかないのだけれども・・・。会場には31人の女性審査員たちがいて、どちらかを最終的に多数決するわけですが、その選択をする前に、芸能人たちが話しているディベートを聞くという設定。私が書いたこの問題文は主旨はかなり正しく、「気になっている」だけであり、「友だちと同様想いを寄せている」ではないわけです。でも、この答えとしては、A. が断然支持されたんですねぇ・・・。もちろん、細かい設定は組まれておらず、その友だちとどの程度の関係なのかもわからないし、男性の細かいプロフィールなどもなく、それだけなんですが・・・。

 

ここまでの経験則から行くと、ことヒトが関係してくる事柄というのは、「面倒ではないことがイチバン」という結論を持っている私は、やはりその友だちが「彼のことが好きなんだ」とこちらに言ってくれた時点で、「私もいいと思う。好きだなぁ」などと言えなかったり、その後であっても、「私も彼のことが気になってしょうがない」などというくらいのテンションの上がりがない限り、付き合うことはないと思えるわけです。そもそも、「つきあう」という行為は、チャンスでもありますが、賭けでもあり・・・。

 

特に付き合うということをせずとも、彼の人となりを知っていくという方法もあるわけで、どうしてこの短絡的なA.かB.かというのは、これが極端な二択だから、なのでしょうけれども・・・。

 

今年は、清原選手が最後のチャレンジをしているところですが、彼の言う「何もやらないで引退するよりは、手術という大勝負をしても、どうしてももう一度野球をしたい」という態度はわかります。彼は人様への迷惑を最小限にするために、一軍のキャンプにも参加しませんでしたし、愛車を売っ払ってオリックスの練習場にプールも作ったわけです。

http://www.nikkansports.com/baseball/p-bb-tp0-20080229-329092.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E5%92%8C%E5%8D%9A 

あ、私は清原はずっと好きですね、何があっても。

注:違法ドラッグのリハビリ後もやっぱり応援しております♬

 

でも、少ない数の人間が集中的に登場する恋愛などというキチガイじみた状況に、わざわざ飛び込む勇気やチャンスの話をするのは、上記のこととは違うと思いますなぁ・・・。むしろ、後悔するのはどっちか?と訊かれたら、恋焦がれているわけでもないのに、友だちの気持ちも知っていたのに、付き合うほうなんじゃないかと思えるんだが・・・。

 

しかも、告白のことを「告る」と短縮形で言うようになる以前からずっと、私は告白するという行為そのものをとても「幼いもの」だと思ってきています。気づいたらいっしょにいるようになっていて、物事はどんどん滑り始めていて、止めることや相手の存在がいないことなどは、生活に不可欠になっているのがいいんじゃないかと。トライアル期間がなくて、いきなり「つきあってください」と言われても、そこでの「束縛」はかなり迷惑だろう・・・。いやー、私の性格がいけないのか、これ・・・。私自身、告白してくれた男の人とは一度もつきあったことがなく、告白しないがゆえに結果的にはつきあってきたという経験値もありますしねぇ・・・。

 

今日の話は恋愛を例にしてみましたが、学校選びでも、通学路での寄り道でも、洋服選びでも、何でも同じではあると思うんですね←みんな同じ次元での大切さがあるとは言い切りませんが・・・。その中には、「絶対的正解」などあるわけもなく、いつもいつも自分の弱点や長所などを充分に生かした選択というのができるはずで、そのためには、自分の立ち位置がわからないといけないし、立っている場所がどんなところなのかわかっていなければならないし、登場人物についてもわかっていなければならない、と、けっこう人生はたいへんなわけよ・・・。

 

そのたいへんさがわかっているがゆえに、私は友だちの数をむやみに増やしたりすることには躊躇しているし(知り合いを増やして格上げしていく行為に関しては、時間が許したり、自分にゆとりがある場合はやぶさかではないですが)、何がチャンスで、何が余分すぎる負担なのかはわかっているつもりなのですが、取捨選択したずっと後に成果が見えることで、「軽い面倒があったけど、やっておいてよかったこと」というのも多々あるので、どこが明確なラインというのはなく・・・。

 

今日もだるまを買う瞬間まで、きっといろいろ考えるんでしょうが、私はおそらく買いますね(笑)。いつも愚かな選択なのか、よりよい選択なのかは、考えてみるようにしています。意識するだけでも充分違うしなぁ・・・。ただ、数字になってしまうようなパチンコなどのときには、きっと運が大きく絡んでいることにしてしまう傾向だけは、何とかして止めておかねばならぬでしょう。2ヶ月ちょいぶりのパチンコは、大儲けでした。20連荘という経験をして、自分でもびっくりしました(笑)。たまにあるんですねぇ・・・。

 

というわけで、黄砂のニュースの中、だるま市に行ってきます。

黄砂という読み

 

03/03/2008 14:48:53

 

昨日から気になっているのが、この読み方です。おうさ、ではなくて、こうさ、であることがどうも解せぬ。黄色人種だろうよ、と思うのです。黄色ということに関してであれば、おう、と読むのが正しいのではないか?とひとりで考えており、これからお題も浮かばないので、それを調べようと思っています。こうした漢字の読みで間違いをしたのは久々なので、どうもこだわっているのかもしれません・・・。どうでもいいだろうって?いや、あんまりよくないかもしれない(笑)。

 

黄色:きいろ。こうしょく。

黄砂:(1)黄色い砂。(2)砂漠。(3)黄土。

 

うーん、どうしてここだけ音が変わるんだよ?とやっぱり思う。黄土で、おうど、じゃないか・・・。黄色い砂をどうして素直に、おうさ、と読まないのだ?わからん・・・。あ、でも唯一、おうさで正しいと思わせるのは、黄河である・・・。でも、厳密には黄河の色は黄色には見えない。確かに濁ってはいるのだけれども・・・。

 

黄砂 黄砂情報なのだけれども、どうして「おうさ」ではなく、「こうさ」なのかは書いていない。どう考えても黄色-Yellowという象徴に間違いはないんだろうが・・・とまだ思っている(笑)。しかもこの土・砂(堆積した岩粉を使うから)が顔料にまでなっているんだから、間違いはないだろうと思うし・・・。とまだまだ諦めずに調べる(笑)。

 

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1211314392 ここでは漢音と呉音に触れています。

漢音:日本漢字音の一。奈良時代から平安初期にかけて、遣唐使・音博士や日本に渡来した中国人などによって伝えられた、隋・唐代の洛陽(今の河南)や長安(今の西安)など中国の黄河中流地方の発音に基づく音。「経」「京」を「ケイ」と読む類。平安時代には、それ以前に伝えられていた漢字音に対して、正式な漢字音の意味で正音とも呼ばれ、多く官府や学者に用いられた。

呉音:日本における漢字音の一。漢音の渡来以前に朝鮮半島経由で伝来した、中国南方系の字音に基づくといわれる音。「男女」を「なんにょ」と読む類。漢音を正音と呼ぶのに対して、なまった「南の音」の意で平安中期以後呼ばれるようになったもので、仏教関係や官職名などに広く用いられた。

他にも唐音と宋音があるよ。

唐音:日本漢字音の一。平安中期から江戸時代までに日本に伝来した音の総称。平安中期の中国商人や鎌倉時代の禅僧の伝えた、唐末より宋・元初頃までの音、江戸初期の僧隠元の伝えた明末の音、長崎の通訳の伝えた清代の音などが含まれる。「行灯」を「アンドン」、「普請」を「フシン」と読む類。とういん。唐宋音。

(宋音:宋から元初の頃までに日本に伝来した漢字音。「行」を「アン」、「鈴」を「リン」と読む類。一般には、唐音(とうおん)と呼ばれる。)

 

うーん、だとしたら、「おうさ」は間違いでもないような気がするけどなぁ・・・。

 

とはいえ、世の中が「こうさ」と読んでいるときに、心の中でいったん「おうさ」と読んでから言いなおすことは、これからもしていくのだろうと思います。どうしてそんなに頑固なのかって?(笑)うーん、頑固なわけではなく、癖なのだろうと思うのです。黄河という単語は、おそらく1年に1回も使わない程度で、アメリカに居て英語を使うようになってからはますます、日本語の語彙の登場回数・使用頻度というのは、減ってきたところに、また増やす作業をしているので、まだまだ勉強なのだ。そして、またもや、記憶について考えさせられるところなのである。黄をおうと読むところには、法則性があるわけで。そちらを記憶しておいて、黄河のこうだけを特例にしておいたんだが・・・。

 

とりあえず、おうさ vs こうさで1枚以上も書けてしまったのでびっくりした(笑)。まぁ、情報の羅列ではあるんだけれども・・・。

 

どうしてこうして調べないと気がすまないのか?というのを、土日の飲み会でもいろいろ話していたのだけれども、自分でたどり着くことが大切なのよね・・・。他人に「ほらね」と見せられたものだと、それなりのインパクトの強さがなければ、その場で消えてしまうか、いい加減な場所に仕舞いこんでしまい、すぐにリコールできなくなるという恐れあり。校長センセがコメント欄でおっしゃっている「まだら模様」の記憶の理由はここにあるのではないかと思ったり、さらに一度リコールすることができたとしても、どのように仕舞いこむのかで、またもや差ができるのではないかと思うのです。

 

私は記憶力だけを頼りに生きているというくらいに、記憶に関しては不自由をしたことがなく、あまりにたくさんの情報やファイルキャビネットがありすぎて、どうやって処置していけばいいのか?と思うことはあっても、これまではわりとすんなりとこなしてきたつもりでいます。たとえば、曲などは一度聴けば完璧とはいかずとも、二度目からちゃらっと歌える。歌詞は見ないとダメですけれどもね。去年と一昨年のCDは買っていないのでダメですが、それ以前のものであれば、ユーミンの歌の歌詞はすべて記憶していると思います。曲が流れれば歌える。

 

生徒さんの中で、私のスピードをびっくりするブームはもうとっくに終わったのですが、本の読みの速さだけではなく、英語のSpeed Readingというやつでは、だいたい750ワードを1分15秒くらいで読みます>生徒さんたちはTOEIC780-830レベルで、2分30秒から4分と、テーマによっても違います。ここでも純粋な実力だけではなく、ヒトは好き嫌いや能力の微量な差(ささやかだけれども重要な違い)に左右されていることがわかります。さらに英語は日本語の2倍から3倍のスピードで読めるようになれば、そこで頭打ちだと思います。なぜならば、英語は象形文字ではないからです。見てすぐにイメージ化することができなくて、パズルになっているからですね。

 

ボキャブラリーがないと読めないと言い張るヒトがいることは前に書きましたが、これももうひとつの証拠で、ボキャブラリーではなく、わかる単語でどの程度映像化できるか?というお話です。私の記憶はたいてい、文字で記憶されているのではなく、フィルムで記憶されています。非常識なものはそれほど数があるわけではなく、たいてい常識の範囲でしか物事は起きない。だから、たとえ多少の欠落があっても、ストーリーは作っていけるし、わかっているところのまだらなつなぎ目は、ちゃんと補えてきたのだろうと思います。だから歌詞などはとても記憶するのが簡単です。

 

おうさとこうさ、の話から記憶へと繋がってしまったのですが、私はやはりこれからも「おうさ」から「こうさ」に言い直す方法を採用していくのだろうと思います。中国語ができるようになったら変わるのかなぁ。今度、西さんに試してみよ(笑)。

 

追いついて行くことを諦める?

03/01/2008 にアップした文章です。

 

流行というナマモノが日本には驚くほどの数あり、アメリカでぼけーっと18年半暮したあとの私には、これはたいへん新鮮でした。アメリカに出発したのが24歳なので、それまでは流行についてなど、ソコソコにしか意識したことはなく、里帰りをしてきて浦島太郎になることが多かったにせよ、それほど気にも留めておらず。しかし、今回そろそろ帰国して1年半が経とうとしている今、「かりそめだからいいよ」と言えない事柄もけっこうあるのかなぁ・・・と思っています。いや、でも追いついていく必要など何もないのだろう、と心のどこかで開き直りつつ・・・。

 

当然、住んでいらしたのだから校長センセのほうが、情報獲得には恵まれていたにせよ、私は秋葉原発祥のオタク関連についての知識は、極薄です。コメント欄にいろいろ秋葉原系だろうと思われる情報を羅列してくださいましたが、読みつつ、ハタと「私はこれらについて一体どのくらい知っているのだろうか?」と思ったのでした。きっとわかっちゃいないな、と苦笑しつつ・・・。

 

この週末も遊び全開で、生徒さんたちの強化授業という名目で、英語でカラオケマスターナイト(カタカナを並べるとすごいなぁ・・・)をやるのですが(もちろんその前にごはんを食べてお酒を飲むので、本当に名目だけで申し訳ないのだが、生徒さんたちはものすごく緊張しており、オンラインからダウンロードして、真剣に練習してくれているらしい。ウヘヘ・・・)、私はそのお店がどこにあるのか?などを見ていたときに、カラオケ機種すらわかっていないのだ、ということに愕然としてしまいました(笑)。料金が違ったり、設備のすごさを謳っているのですが、そのすごさがわからん(爆)。もー、真剣に迷子だよ・・・。

 

その連絡に使うのも、メインは携帯メールなのですが、私は携帯メールを拒否しているので(Availableにすると、携帯に絡めとられてしまう気がしているので、緊急の場合以外は使わないことを選択しているわけです)、私ひとりだけ時差があるPCメールで受け取っているわけです。そこで、みんなが私の携帯をいじってくれようとするのですが、どうせいじってもらっても使わないという頑固さを兼ね備えており、なんとなく後ろめたい。参加しなくてはいかんのか?

 

日本に戻って来て、地デジというこの短縮形から、私はどのように正確な情報にたどり着いたかというと、やはり人に聴いたのです。もし、日本語があまり流暢ではない外国人だったら、誰に聞けばいいのかわからないかもしれないです。実際、私の質問はマニアックで、地デジとは・・・というけっこう人々が気にしていなかった事柄まで突っ込んでおり、最終的にはネットで満足したわけです。http://www.tidegi.com/ ←見てよ、このスペル。私がたどり着けるわけもない(爆)。「ティじゃねーだろ・・・」だし、「デジタルの略は、digitalだろ・・・」と言いつつ、検索をしたわけですよ(笑)。http://www.dpa.or.jp/ こっちのほうが初心者にはわかりやすい。

 

いつTVを替えればいいのか、どのくらいの値段の差があるのか、どれくらいの有益・有用度があるのか、などなど、それだけでも2時間くらいかかってしまいましたよ・・・>いや、TVの販売サイトなどに行くと、他のも見ているからなんですけどね・・・。

 

今日も「今日だけの生徒さん」をグループレッスンで教えたのです。今日だけの意味は、ポイント制度があり、支払った金額がポイントとなり、プライベートレッスンとグループレッスンでは、重きが違う、ということです。2ヶ月半ぶりくらいにパチンコをしてしまったのですが、今日はおかげさまで、8万9千円ほど勝ちまして、そのせいもあり、生徒さんにご馳走できることになり、生まれて初めて遭った彼女にも、やっぱりご馳走したのです。

 

彼女のお友だちの話をいろいろ聴いて思ったのは、「統計学以内のことで、どうでもいい」ということをあまりに考えていること。彼女がどれほどお友達を愛しているかを慮っても、血液型や価値観や相性という言葉で、男女の関係を話そうとしているカップルには、私は興味はないです。それが彼女のお友だちであったとしても、「お願いだから、そんな薄々な人々に関わらないで」としか言えない・・・。それが将来や、英語の話などにだんだん狭まっていくとしたら、私はどうしたらいいのだろうか?

 

校長センセにご解答いただいて、アドバイスいただいて考えたのは、生意気ではあるのだけれども、やっぱり2年か3年でGood -Byeだけを前提にした英語学校はできるだろうということ。そうでなければならん!くらいのことを言ってもいいんじゃないかと思っているところです。

 

私は多数決には流されないし、流行に追いついていこうとも思わない。むしろ、流行くらいだったら、私が作ってもいいかと思ったくらいの、10代ではありました。が、当時から流行は追いかけていなかったですねぇ。こっちから諦めるならばよかったんです。でも、「あんたが追いつかないんだから諦めるしかなかったんだろ?え!?」というのは、今であっても途轍もなくイヤですねぇ・・・。

 

大きな図柄を全体的に把握していないっていうのは、いかに恐ろしいことなのか?と、今では思います。流行は大きな図柄の中の瑣末なことのほうが多い。たとえば、留学志望の生徒さんに何を第一に求めるか?今日も、いぢわるな質問を生徒さんたちにたくさんしたのですが、その中のひとつがこれです。

 

模範解答としては;

1. 英語をずっと話し続けていく覚悟があるか。好きかどうか。得意かどうか。実力があるかどうか。などの英語に関する注目。

2. 経済的に立ち行くのかどうか。精神的にホームシックなどにかからないでいられるのかどうか。などの社会動物としての見地。

 

でも、そうじゃないんですよね、私が求めているのは。ええ、ええ。生物という科目が大好きな私が問わせていただくのは、サバイバルできるためのスキルがあるかどうか?なんですよ。英語であろうが、日本語であろうが、自分が困ったときにそれを根本的に解決するためのスキルや天性を持っているかどうか?なわけです。

 

そして、今日のテーマに戻ると、「追いつかなければ生き残れない」というのが私のバロメータになっており、相当にどうでもいいことが蔓延しています。地デジで知らなければいけないことは何なのよ!?先進国で励行されていて、日本でなされていないことは何なのよ?その指標は何なの?と、伺いたいです。それでも、カテゴリーをそれほど親身に分けず、それほど厳密さを必要とせず、それほど商業的影響を露骨に見せず、流行というのは、ずっと蔓延していきます。

 

私はそれに追いついていくことを諦めてもいいでしょうか?でも、ちと気になっているのは、ブルーレイ←スペルわかんないもん。どうしてこうなのよ?と思うくらいのスペルではないことを祈る。そして調べた結果、Blue Rayだということです。http://ja.wikipedia.org/wiki/Blu-ray_Disc 私の頭は英語なので、普段から英語サイトを見ることが多く、ブルーレイの英語サイトなどひっかっかっては来ないわけです。今、改めて検索しても、純粋英語ブルーレイサイトは、6ページまでないです>Google検索。

 

というわけで、それほど追いついて行く必要はないことを、またしてもここで宣言してしまいました(爆)。いいよね?

春の予感

02/29/2008 にアップした文章です。

 

ここのところ暖かい気がします。気のせいかもしれない(笑)。私の体温はあまりアテにはできないようですから。どこに基準があるのか、自分でもこのところ混乱しており、春一番まで吹いたし、それでも胸元が寒かったり、うーん、どうもわからん・・・。けれども、春だろうな、と思い、またデザインを変えてみました。落ち葉は冬でもなく、秋のデザインだったのですが、今回は季節でもないようなそんなハンパなものを・・・。またもやだるま市の季節になっているのです。気づくと、もう日本に戻ってからラクに1年半になろうとしているのだなぁと。それでもまだまだ完全には日本人マインドにはなっておらず、この先も東京に住む日本人として生きていけるのかどうか、自信はあまりないかもしれません・・・←弱気(爆)。

 

去年の今頃は、なぜ日本人は桜が好きなのか書いたんだっけなぁ・・・と思いつつ、それはもっと昔だったのかなぁとも思い、頭があまりよく整理されていないことを確認。なぜならば、私自身、どうして桜は好きな部類なのか、よくわかってもいないからなのでしょう。いろいろ理由はつけてみたものの、どうも自分でも納得していないのですねぇ・・・。

 

簡単に表現されるのは、「刹那な瞬間に咲いて散る」というその潔さが、日本人らしい決意や儚さや人生観を顕しているからだと言われます。では、私もそれなのか?と問われると、どうもそれも一部にはあるらしい。けれども、決定的なものではないような気がする。アメリカに長いあいだ住んでいたら、折々、日系人や移住日本人に同意を求められることがあるわけです。「もうじき桜の季節だね。見たいなぁ。日本人はやっぱり桜だよね」と。日本人=桜ではないのだけれども、なんだかこんな表現になる。日本人はやっぱり桜が好きだよね、あるいは、日本人であるからには桜のよさをわかっているよね、などということなのですが、会話は進むのですが、どうもどうしてなのかを追求してこなかったような気もする。ただただ、流されたまま、狂乱の中に埋もれて、桜の時期を愛でることを逃してきてしまったような気もする。

 

とにかくいろいろ読んでみようと決意。

http://homepage3.nifty.com/~tabi/c83/sakura1.htm

http://weathernews.com/jp/c/press/2006/060329.html 満開よりもやっぱり散り際が好きなのだそうだ。

http://www.geocities.jp/shin_nakaoka/zuihitu/zuihitu1/zuihitu1.htm やはり思い出が桜によって毎年強化される説を採っているようです。

http://www.katugaku.com/katugakusya/main/html/1gejinlong.htm このエッセイは深いなぁと思いました。読んでよかった。→なのにもうない!ごめんなさい <(_ _)>

http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/13/1329a.htm 壁紙が「植物とは」になっているので、ホームまで行ってしまった。うん、なんだかオトクな気分にはなった。

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/ginnan/200419/fu.htm そうなのか。留学生はこのように感じるのか。しかし、日本語じょうずだなぁ。→これもない!ごめんなさい <(_ _)>

 

他にもいろいろ読んでみたのだけれども、古事記や日本書紀の中にも桜の記述があります。平安時代、桜は短歌の題材にはされていました。松尾芭蕉なども桜は使っています。が、やはり日本人=桜の構図ができたのは、軍隊がその腕章や帽章などに桜を模したものを使い始めて、警視庁も使ったことが挙げられるので、まだ130年足らずで、ここまで浸透したのだろうというのが、本当のところかもしれません。

 

なぜならば、ラジオやテレビが開始されるまでは、桜前線などという言葉はなかったわけだし、桜開花予想というのもなかった。興ざめなのは、お天気が商業と結びついていることで、気温の高低をコンビニなどでは、温かい・冷たい飲み物の仕入れ指標にしているわけです。きっと桜予想も同じで、仕出し屋さんや酒屋さんや宴会場などの仕入れ予想にも使われているわけですね。便利と言えば便利なんだけれども、それでいいのか?という不思議も生まれます。

 

私の桜を愛でる気持ちは、日本人だから生まれているのか?と改めて聴かれると、そうではないような気がしてきた・・・。実際にあった話に多少付け加えがあったとしても、George Washingtonと桜の木の話は、けっこう共感ができるし、建国からこっち、アメリカ人の心に何か大きな愛国心を植えつけてきたことはわかるものなぁ・・・。

 

日本人は夜桜が好きだというのも特徴らしいです。私も夜桜は好きで、井の頭公園の想い出がいくつかあります。神代植物公園の桜は見事で、桜に抱かれたような気持ちになって、数時間を過ごした記憶もあります。西さんが去年撮った野川公園の穏やかな小春日和の中でひなたぼっこをするネコの写真もすごくいいです。必ず咲く季節になって、話題があり、実物があると、必ず思い出してしまうという作用は大きいのでしょう。たとえアメリカに居たとしても、なぜかその話題は出るし、異国にいるからこそ想いは募るのかもしれず・・・。そして、その想い出に対する愛着があればあるほど、強化は進む、と・・・。

 

イチバン好きな花は?という質問を、私は生涯でおそらく100回くらいはしているのですが、そこで「桜」と答えた人はわずか2人しかいませんでした。多くの人にとって桜はやはり樹木なのでしょう。さらに、やはり、春という季節が来なければ思い浮かばないものなのかもしれず・・・。

 

であるならば、やっぱり「臨場傾向」というのは否めないのかもしれません。私とて、季節が来なければ、桜を思い出すこともさりとてありませんし。

 

あ、でも森山良子女史の息子さんが、歌手としてデビューしており、そのアカペラは聴きました。上手なんですねぇ。他にも桜を題材にした歌はけっこうたくさん出ているようで・・・。こうして商業と一体化して、日本人の心は流れていくわけです。いや、いけないと言っているわけではないですよ。いいところもたくさんあるに違いないのですから。http://ranking.goo.ne.jp/ranking/025/sakura_song/ 思わず調べてみて、こんなにたくさんあるとは思いもせず・・・。歌をよく聴く人々は、季節が来なくても思い出しているのかなぁ・・・と少し疑問も湧くのですが。私は音楽を四六時中聴かずとも生きていけるので、わざわざマメに揃えたりもしませんし・・・。

 

春の予感とはいえ、まだまだ桜の開花には時間があります。宴会はしないことは決まっているのですが、ご予定があるみなさんは、粋なイベントのプランをぜひぜひ今から準備してくださいねー。それよりも、私は早くこの咳を止めたいです。もう2週間を越しましたから、そろそろ治ると思うんだけどなぁ・・・。