落書き文化

正直、私はパブリックな場所に落書きをした記憶がないです。相合傘なんて書くことは、むしろかっこ悪いことだと思っていたし、移ろいゆく物事を、瞬間や衝動に近いもので表現するのは、ちと苦手・・・。イタリアの大聖堂やドゥモゥに落書きをする観光客が増えており、それがクロースアップされていますが、モラルアップのための、抑止力としての報道はいいにしても(効果に関しては疑問が残りますが・・・)、あの代表者制裁態度というのはどうなのかなぁ・・・。高校野球の監督さんが解任されたということらしいのですが・・・。どうせなら世界各地に落書きしたヒトを募って、みんなで募金をするなり、落書きを消しに行くなりするツアー開催なんてどうなのよ?げ・・・、私はあまりにシニカルすぎなのか?

私がやってこなかったからと言って、この分野はなんとなく考えないままに来たなぁと思う。落書きにしても深いなぁ・・・>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E6%9B%B8%E3%81%8D 

確かに歴史学や民俗学や考古学でも、かなり重宝されている分野ではあり・・・。心理学的にも、描くことにより心の中を捉えてみようという手法はあり・・・(私はこの統計学的なばらつきに関して、正確性において疑問を持っています。しかも絵が描けないヒトはどうしたらいいのか?という不思議があり・・・)。芸術性が高いものが描けるヒトにとっては、世界中がキャンバスなのでしょうが、他人のモノと自分のモノの区別は、つけなくていいと言い切ってしまうのは、ちと無責任かとも思うし・・・(どうしよう、と正直迷う・笑。私は自分はやらないけれども、芸術性を求めたり、はけ口としていたずら書きをしたりするヒトたちを否定したくはないので)。

私は絵が描けないので、字をひたすら書いたのですが、それは家の中と決まっていました。蝋石というのがあったのですが、それはお小遣いが1日10円の日々、その10円がふっとんでしまう高さで、わりとすぐになくなってしまうので、天国地獄やら、バレーボールやら、必要な線を地面に描くのに使われたのです。私個人は、よその子どもたちとは違い、クレパスやクレヨンや色鉛筆など豊富に使えなかったので、しかも、絵が苦手だったので(爆)、近所の壁などに何かを描いた記憶もありません。むしろ、樹木にカーヴィングをしたという記憶のほうが強烈に残っています。私の木、というのがあったので(イヤ、実際は植木屋さんの木なんだけどね・・・)。

字の練習をするのに、広告の裏面を使ったりしており、それに飽き足らなくなると、ふすまというふすま、壁にも字を書くことになるのですが、それに辟易した母が、表面がつるつるの合板を買ってきて、トイレの壁に張り、そこにしか字を書いてはいけないことにするわけです。辞書を片手にいろいろな字を書きましたねぇ・・・。今思うと、どうして絵ではなかったのか?と、本当に不思議でなりません。

未だにいろいろな人に笑われるのが、私の絵で誰かにわかってもらえるのは、花だとチューリップとひまわりのみ(爆)。動物だとキリンとネコだけ。犬を描こうとすると、クマなんだかタヌキなんだかわからないようで・・・(汗)。でも、字を書くのは、ホワイトボードを商売道具として買ってからも好きだなぁと実感しています。特に字がきれいなわけではないのですが、意味があるこの字というシロモノに、たいへんな深みをイチイチ感じるわけですよ。絵心が育っていれば同じことを感じたのかなぁ・・・。

絵が下手なせいで絵をパブリックな場所で落書きすることはなかった・・・。では、字はどうなのか?壁に順位を書いたりすることはあったかもしれないし、正の字を書いたことはあったかもしれませんが、「私はここにいる」という手合いのことを書いた記憶はありません。黒板に書いたあとに消すということなら、よくやりましたけど・・・。

そもそも、観光地に行くということすらしたことが数えられるほどしかないですし、そのときに落書きができるようなペンやエアゾールスプレーやその他の便利な書き物を持っているなどということはありえず・・・。修学旅行や観光地で、どうしてペンがあるのだろうか?と、むしろそっちのほうが素朴な疑問です・・・。私が貧乏に育ったせいで、落書きも制限されたということなのだろうか?イマドキだったら、ペンなどは誰でも簡単に手に入るということなのか?観光地に落書きできるようなペンが売っているわけはないと思うのですが、売っているのだろうか?

ちなみにアメリカも落書きが多い国です。表現したいという渇望に、ちょうどいい手段なのでしょう。立ち止まって見惚れてしまうほど、上手なものはけっこうあります。Vandalismという言葉が示すように、「文化・芸術の破壊。蛮行」という要素があるのです。Graffiti(落書き)もあるひとつの文化ではありますが、既存の文化を覆い隠すようにして主張してしまうと、確かに破壊行為なのかもしれず・・・。

アメリカでびっくりするのは、フリーウェイの高架に絶妙に描かれたもの。絵だったり、ポップアート風の字だったりしますが、たいていはスプレー缶を使って描かれています。あの高さにどういう姿勢で描いたものなのか?と想像すると、ものすごい情熱と時間と体力と才能が必要だったんだろう・・・ということに、まず驚きます。街中にある壁などに描いているヒトたちよりも、もっと情熱が必要なんだろうな、と。

日本でも暴走族が、「○×参上」などとよく足跡残しをしていましたが、私はアレをかっこいいと思ったことが一度もなく・・・。10代の頃から醒めていた私は、「ねぇ、2・3年経ってこの行為に恥を感じないわけ?」などと思っていたのであった(爆)。私にとっては、政治家のポスターなども似たようなもので、そりゃー宣伝活動としては大切なのだろうけれども、「2・3年とは言わないけど、数年経ってもここに書いてある文言は有効なわけ?」と、やたらと醒めて見ています・・・。

私のエッセイは、もう1000を超えたんですが、たいていのものは有効だと思うんですね。イチバン古いものは、10年くらい前のものだと思うんですが、当時考えていたことが、今は発展版になっているというのが目論みで、目標です。基礎的なことでドラマチックに変わったことはほぼないと見ています。なので、落書きと同じではないと思いたい・・・。けれども、作家のようなすごいプロットを練った、登場人物のしっかりした、フィクションを書けるわけもなく、今に至っています。私は自分のエッセイを落書きとは思っておらず、書付よりももう少し発展したものだと思いたい。望むのは勝手だよね(爆)。

ただ落書きができてしまう人々に対して不思議なのは、何百年も数千年(まぁ、2000年以上古いものはなかなかないと思うけど・・・)もの歴史が詰まったものに、微小な自分の名前やらその主張をどうして刻めるのかなぁ・・・という自負。私の場合は、こうしてインターネットの片隅にエッセイを溜め込んでいるわけですが、とりあえずパブリックの中で書いていい場所なんで許していただいています。しかも、自分が微小な存在だということや、自分の考えはあくまで自分のものだということは、痛いほど理解していますし・・・。自分が作れるわけもない建造物や遺物に、どうして自分の名前や主張を刻めてしまうのか、それは正直、インタビューしてみたいところです。私には、レミントンやウィンチェスターのライフルを収集するシュミもないですし、ステンドグラスを集めることもできないですし、本ですら図書館でいいと思っていますし、モノを作るなんてとんでもないことなので、作ったものに対しての敬意というのは、所有すらしないことでもわかるように、大いにあります。自分の存在をそれほどアピールしたいのはなぜなのか?世界のどこかでこの時代に確かに生きているよ、ということを主張したいのであれば、きっと他の形でできるだろうに・・・と思うのではあります。

でも、まぁ、文化にしても変化しないものなどないわけで、文化・芸術の破壊も大いにけっこうなのか?うーん、私は宮大工さんしか作れない建物や、今となっては材料も代替でしかないものなど、貴重だからそのまま残してほしいなぁと思うんですが、古い人間なのか?

とはいえ、スケジュール表をパラパラと見ていたら、わからない記述がいくつかありました。落書きと似たようなものになってしまっているのか?とりあえず意味をなさないので、消しゴムで消しておきました(爆)。

紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その76

Q76.

ずばり、何歳まで生きたいですか?

A76.

ものすごく若い頃、10代のころは50歳まで生きれば御の字だと思っていたんです。なぜならば10代、私は織田信長が大好きで、彼が舞う『敦盛』の
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ

が強烈すぎて、その後すぐに孔子の
吾、十五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども、のりをこえず。
の意味を知ることとなり、「天命まで生きられたら上等」と思うようになったわけです。

実際大人になり生きていく中で、「あれ?私は相当に丈夫なんじゃないか?」と疑うようになりました(笑)。そこで、60歳までに遅延します。

自分が39、40の境目になった時に、「おいおい、待て待て・・・」とふと気づいてしまうんですね。気づくと、風邪をひかない、便秘や下痢にもならない、40°ぐらいまでのやつだったら普通に動ける、寝込まない、何でも美味しく食べられる、体が動く、柔軟性が損なわれない、筋肉もうんと減らない、などなど、非常に健康なことを現実するわけです(笑)。

まあ贅沢なことです。そこで、60歳で死ぬのは、絶対に叶わないことを知るわけです。自殺をしないことは10代の時にもすでに決めたので、それだけはできない。となると、非常にお金がかかるわけです(笑)。そこで、アメリカでのんびり好きなだけ大学に入っていたところを、日本で出稼ぎをしなくてはいけないと決意するわけです(笑)。

そして帰ってきて10年。非常に健康です(笑)。父が死んだ年齢を去年過ぎてしまいましたが、とても死ぬような兆候がありません (・・;) 母が81歳になりました。彼女の内臓遺伝子をたくさんもらっているとしたならば、私は恐ろしく長く生きてしまうかもしれません。まだ白髪も一本しかないわけですよ(笑)。その白髪もおでこなので、目に見えるので一か月に1回ほど抜いています。ちょっと増える傾向はありません。あと数年で1000本ぐらいになればカラーリングも考えるんですが、しばらくは黒髪で行こうと思います。

もう何歳まで生きたいという希望の話ではないような気がしています(笑)。何歳まで生きなければいけないか?という義務の話になっているような気がしているのです (・・;)寝たきりになったり、他人様にご迷惑をおかけしたりしながら生きていくという最後は避けたいので、とにかくこの健康維持しなければなりません。このままアクティブに暮らして行って、ボルダリングをしながら、滑落して死ぬ、ちゃんと保険はかけておく、という死に方ができればいいんですが、そうシナリオ通りにはいきません(笑)。

一体どうなるのか??今のところはまだ全く見えてきません。のぞみとしては、普通に死にたいです。

婦人科の疾病

01/08/2008 にアップした文章です。

何がつらいかというと、女性であることで疾病にかかってしまうこと。婦人科に行って治療する病気というのは、検査だけしっかりしておけば、早期発見で生命を脅かされるものはとても少ないのにも拘らず、検査を癖にしていないがゆえに、という「後悔先に立たず」が実在してしまうのです。私がびっくりしたのは、世の中の女性たちの多く、大半は、結婚しても共稼ぎで、さらに子どもができて育児に追われ、子どもの手が少し離れるとまた就職したりパートに出たりして、本当にせわしく日々を過ごしていくわけです。その中で、検査する時間や意識をもてないのは、本当に残念でなりません。

子宮頸がんとは>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E5%AE%AE%E9%A0%B8%E7%99%8C
h

なんと、防げるガンがあるというのは、生きているうちに医学の進歩を目の当たりにした大きなヨロコビです。私の母の母、祖母は、子宮がんが発端で全身転移をして、昭和45年に亡くなりました。1970年のことですから、今からもう38年近く経っています。その頃は、婦人科の病気を早期発見するという概念そのものがなく、戦中一生懸命生き延びるだけに専心し、その後も食べていくのが必死だった祖母は、病院になど行くこともなく、発見されたときには相当に進んでいました。それでも、婦人科のガンが全身に廻るまでには3年以上の歳月を要し、54歳で亡くなりました。そのたびに自転車の後ろに乗せられて、病院の廊下で待たされていたのですが、モルヒネをふんだんに使ってくれなかった当時、祖母の叫び声は今でも胸の奥にくすぶっています。

しかもこのサイトでは、時間がない人や気後れする人のために、自宅でできる検査を推奨しています>http://orangeclover.org/ 見てみてね♪

男性諸氏には関係のない話だとお思いでしょうが、実際は関係あるんですよ、密接に。この子宮頸がんは、細菌での感染によるものなので、それを女性の子宮内に運ぶのは男性でもあるわけです。愛する女性ではないからいい、という考えは棄てて、ヒトの生命の重さについて考えてみていただきたいですね。HIVなどの「不治の病」ではないから、と軽く、風俗や乱交を重ねても、家庭や恋人に感染源を持ちこむ男性は後を絶ちません。HIVだけでも、ものすごい感染経路の数があり、その意識の低さは、世界的に証明されています。日本でも、HIV感染者は増え続け、把握されている数と実数には大きな隔たりがあるとされていま
す。
http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/2250.html 
http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/2260.html
http://data.unaids.org/pub/EPISlides/2007/2007_epiupdate_en.pdf >2007年12月の最新>世界分

1年3ヶ月日本の生活をしてみて、やはり「せわしない」というのは感じます。私個人の事情で、一生懸命日本に慣れてきたというのもありますし、時間給主体で働いてきたというのもあります。が、病院にも何度か足を運びましたし、人々の健康志向についても、ネットでよく読んでみました。が、検査は会社勤めをしている人や、学校に就学していて義務教育中であれば、義務化されているものの、主婦においてはなかなか行き届かないのが現状です。高校生や大学生であっても、大人に足を踏み入れていくからこそ必要な検査というのは、年代によって変遷するのに、検査という意識は低い。

どうも意識として、「病院は病気に罹って行くもの」という意識が大半で、「予防」については、家で民間療法を賢く使いつつ、それでおしまい、という傾向が否めないようです。

もちろん、医療制度という大きな壁はあるものの、日本の医療制度は世界の中でも上に位置する水準です。問題点は確かに山積ではあるし、時代の変化やニーズの変化に対応していくことは、いつでも必須なことではあります。たとえば、産婦人科医が激減しており、救急車での輸送にも拘らず、妊婦が病院をたらいまわしにされるケースなどは、取り沙汰されている大きな懸念です。少子化問題を騒いでいるのに、この矛盾はいかなるものか?という穴ではありますが、「お金で生命を買う」という印象が強い、アメリカの医療制度などより、多少はましだと評価されており、「人殺し助長制度」でないでしょう。ただ、問題点は山積です。社会全体の高齢化に伴い、医療制度をどんどん改善して即した形にしていかねばならぬのですが、刻々と変わっていく医学の進歩と、ヒトの心がついていかないという喘ぎは、私は多少理解してもいいと思っています。それでも、もちろん、責任者の位置にある方々にはがんばっていただきたいですけれどもね・・・。

市井の私たちひとりひとりにできることは、システムである制度に依存しきることではなく、健康がいかに大切なものであるかという考え方をしっかり持つことで、「タダで国が保障してくれるものなど何もない」という覚悟を持ち、健康なうちにしっかり備えておく意識を持つことです。

その最たるものが婦人科系の病気で、早期発見さえすれば、生命を脅かされる確率は、とてもとても低いのです。この前も、生徒さんのお母様が更年期障害でたいへんだ、という話を聞いたのですが、「え?Estrogen(女性ホルモン)パッチはやってないの?」というのが、私の第一声でした。アメリカに住んでいたせいなのか、ホルモン量の激減に順応できない更年期では、そのホルモン量の調節をパッチで行うことが主流です。自然に移行できる女の人たちはいいのですが、鬱病のような症状が出てしまう場合には、本当の鬱病になることがあり、疾病の増殖が懸念されます。他にも、人間関係や仕事の能率などでの障害が出ないためにも、副作用が軽いのであればどんどんやったほうがいいでしょう。今までできていた料理や掃除すらできない女の人は重症ですから。http://www.kenko-network.jp/byoki/konenki/chiryo.html Estrogen Patchは、サプリメントと概念は変わりません。自分の体内で作れなくなったものを補充するという考えです。それで起きる副作用は、睡眠薬や抗生物質に比べると非常に少ない。

女性であることというのは、ヨロコビも大きいですが、疾病の第一ターゲットになることでもあります。生命体は、「性」という部分を最も原始的システムと捉えており、単細胞などでは雌雄同一などで肩代わりしているところから見ても、ヒトでは、「生命維持」ではなく、「生命増殖・生命充実」のシステムとして使っています。なので、ターゲットになる確率が高いのです。胃ガンや脳腫瘍が多いよりはましなニュースですが、だからこそ、検査が必要なわけです。助かる確率が多い疾病を、検査を怠ったがために避けられないことは、本当に悲しいことです。ぜひぜひ、時間を作って、検査を定期的にしてみてくださいね。男性も、ご家族やお友だちに薦めてね♪

現代国語の読解力

01/07/2008 にアップした文章です。

昨日、佐藤信夫の『レトリックの記号論』が問題になっている、現代国語の問題を高2の生徒さんといっしょに解いたのですが、なんだかまんざらでもないなぁ、と自分の現代国語能力には満足しました。言語学の入門のようなもので、分類すると、「説明文・解説文」というところなのでしょう。隠す必要もなく、私は受験後、日本の大学は国文だったので、これくらいわからねばならぬのですが、途中、英語をやったので、かなり毒されているのではないか?と不安ではあったのです。さらに、現代国語の読解力、あるのだろうか・・・と不安だったのは、遠藤周作をはじめ、いろいろな人が「受験問題に出されたけど、俺はあれを意図してないよ」などのコメントが多かったからです(笑)。

国語:(1)国家を形成する成員が自国語として使用し、共通語・公用語となっている言語。(2)(自国語としての)日本語。(3)漢語・外来語に対して、日本固有の語。和語。やまとことば。(4)学校教育の教科の一。「国語科」に同じ。(5)書名(別項参照)。
読解:文章を読み、その内容を理解すること。
理解:(1)物事のしくみや状況、また、その意味するところなどをわかること。納得すること。のみこむこと。(2)相手の立場や気持ちをくみとること。(3)道理。わけ。また、道理を説いて聞かせること。

英語学校でも、読むスピードが遅いなぁと思う人たちはかなりたくさんいます。スピード以前に、「読むことが嫌い」という人々がいるわけです。言語の中で、読み書きがない言語がありますが、少なくとも、日本語も英語も、読み書きが含まれているわけで、それを飛ばしてマスターするということは叶わず、やはり読み書きの恩恵は受けていただきたいもの・・・。なぜ読み書きがある場合できたほうがいいのか?を考えてもらっています。

1. Temporary(一時的)ではなく、言語が継続する性質を加味できる
2. 物理的に存在しておらずとも、第3者の考えや意志を読み取り、また、第3者に自分の考えや意志を伝達することができる
3. 表現や理解の可能性の幅が広げられる

と、まぁ、単純に考えただけでも∞(無限大)を予測させる可能性が3つも出てくるわけです。読み書きを持たなかった言語は、歴史の中でも埋没する運命を持ってしまったものが多いです。生活用品などが考古学者などによって発見されても、説明が文字として残っていない場合には、100%の確率で解明されることとはほど遠い確率に下がってしまいます。エジプトの遺跡の発掘は20世紀に熱病のように広がりましたが、残されている文字があったために、かなり多くのことがわかっており、再現できることも多いです。当時とまったく同じ味のビールやヨーグルトやパンなどを、商売にしている人々さえいるほどですから、その流布率というのは恐ろしいものがあります。ピラミッドの石がどうしてあのように高いところまで、クレーンもないのに上がったのか?という謎を持っている人がいたとしても、こうして書き文字として残っている場合、「知っている人を探して歩く」必要などもなく、書物やネットを調べれば簡単にわかってしまうわけですね。すばらしいことです。

ヒトの記憶力はアテにしきれないものなので、書きとめることができるかできないかで、日常的にもドラマチックな効果を得ていることはたくさんあります。お買物に行くときのメモから始まり、レシピやThings to do(やらねばならぬこと)や電話番号、日記、ブログなどなど、読み書き言語である恩恵は大きなものです。読み書きがない言語しか持たなかったならば、俗説である民話などが継承されただけで、書き留められることもなく、「伝言ゲーム」のようにいろいろなお話は変節していったに違いありません。書き留められた物語ですら、変わってしまってきているものもたくさんあるくらいなのですから・・・。

そこで、気づいているのは、読むスピードはともかく、読む量ががくんと減っているということ。もう年末年始からこれに関することは既に書いていますが、しつこくもう一度(笑)。以前から、私は自分が読書をするので、これを自慢するかのように書いているのですが、恩恵は余りあると思えるのです。

英語の生徒さんに、「日本語でいいからたくさん読んで」と頼みまくったところ、今年の抱負で、「読書量を増やす」方々がたくさんいて、とてもうれしく思いました。その中でも、「大学を卒業してから、雑誌以外は何も読んでいないかも・・・」と不安に慄いていたビジネスマン諸氏のうちのひとりは、私の大好きなRobert B. ParkerのSpenserシリーズを手にしてくれて、まず『初秋』を読んでいるものですから、おもしろくなって、シリーズ全部とはまだ言っていないものの、きっと多くを読んでくれるのではないかと思っています。『初秋』は、父親と母親が、自分たちの人間性のだらしなさや虚栄などを離婚劇でぶつけあっている中、子どもである男の子が武器として利用されるのです。そこで、クライアントに呆れた主人公のSpenserが、Paulという男の子に、着るものから食べ方、大工仕事や音楽、読書など、フツーに暮らしていくことを、ただただひたすらハードボイルド風に披露していく、という物語。偉そうに教えるわけじゃないんですよ。ベンチプレスをしているところを見せてみたら、Paulもやってみたくなり、無理をせず、彼に見合うようにただ、調整してやってみるときに事故が起きないように監督する。彼がいやなことを我慢してがんばったら、彼がイチバン今好きだと思えるダンスを見に行く。そのときにもだらしないカッコウではなく、スーツを買って着せてみる。食べ物にしても、好きなものを食べてしまったときには、健康のために何かを我慢したり(たとえば、ビールを飲んでしまったらデザートは抜くとか)、嫌いなものを食べてみたりする、というただそれだけのことなのです。

私は、子どもたちに対してそれらを実行しているのですが、たまに甘く見られるのかもしれません・・・(汗)。

日本人に生まれてよかったなぁと思うのは、言い回しが日本語独特のもので、自分が会話で日常的に使っていないものに出遭うとき。池波正太郎や京極夏彦やら、本当にお世話になっています(ぺこり)。今日も、テレビ朝日で海音寺潮五郎の『天と地と』をやっていましたが、ずいぶん端折っちゃったんだなぁ・・・、と少し悲しかったですが、原作を読んだのでよしとします。

現代国語の問題はよく読んでいるのですが、ここのところ忙しくて、図書館にも新年明けてからまだ行っていません。明日は行きたいと思っていたのですが、それもかなわず・・・。明後日もきっとダメだろう・・・。明々後日ならば何とか行く時間を作れるかもしれないです。

毎日、何が楽しくてこんなに長い時間教えているのか?と、ここのところ、はたと思っています。英語を教えるのはとても楽しいのですが、やはり受験のための勉強を教えるのはしんどくなってきたところ・・・。しかも、相手がいたいけな小学生や中学生が多いと、少しきついです。が、NASAに将来お勤めしたい中学1年の男の子とは、英語で軽い会話ができますから、少し息抜きになっています。楽しいです。

現代国語は、授業としては大しておもしろくもないのでしょうが、本は本当に読んでおいたほうがいいですっ!小説だけではなくて、論説文や解説文や批評文なども併せ、新聞や雑誌だけではなく、詩や時代モノなど、バラエティに富んでいたらなおよしです。

キャパの量

01/06/2008 にアップした文章です。

ヒトが持っているCapacity(量で考えるもの)というのは、増える・減ると考えられます。では、一定量や基準量というのはあるのか?モノによってはあるんでしょうねぇ・・・。たとえば感情量。ヒトによって個人差があるのでしょう。感情の量や振幅が大きい人というのは、確実に存在するような気がします。ところが、それを数値化する機会というのは、ごく少ない。私は、この感情量というのが多いと、自分で思っているのですが、これをTame(飼い馴らす)のに本当に時間がかかりました。喜怒哀楽の幅を狭く持とうとしてもみたのですが、これは無理でした。ただ、安定した真ん中をターゲットにしようとするくらいしかできず・・・。

Capacity: n. 容量, 容積; 収容能力; (最大)生産力; 才能, 力量; 資格, 能力 ((to do; for, of)); 立場; ((形容詞的)) 満員の, 許容限度いっぱいの; 【法】権限.
容量:(1)入れ物に入れることができる分量。容器の容積。(2)「静電容量」の略。
収容:人や品物を一定の場所や施設に入れること。
生産力:社会が物質的財貨を生み出し得る力。労働力と生産手段が一定の生産関係のもとで結合して成立する。
力量:(1)力の強さの度合。また、能力の程度。腕前。(2)能力があること。力があること。

ふむふむ。たとえば感情量というのは、体力と似たようなもので、生まれながらにしても違いがあり、さらに育っていく過程でも違いが出てくるものなのでしょう。喜怒哀楽をもたらさない環境に長く身をおけば、ある一定のなだらかな感情だけが見え隠れするようになり、感じたとしても外に表象しないでやっていけるのかもしれません。箸が転がっても笑えてしまうような、若い女の子ではなかったものの、泣くという行為だけは8・9歳くらいから毎日続けており、それが喜怒哀楽のどれからも来てしまうので(楽しいというよりはうれしい、ですが・・・)、それらは私はひとりになったときに行うことにしてきました。トイレやひとりで部屋にいられるときや、自転車や車の運転の最中など。まぁ、たまに電車の中で泣いたりしていますが(読書のせいですね)、他人様にバレないようにしています。しかし、相も変わらず毎日飽きずに泣いていますねぇ・・・。

知性のキャパはかなり無限にある、ということは既に書きました。脳細胞そのもののキャパはすでに算出してあり、平均すると凡人は3-6%ほどしか使わずに死んで行きます。それを1%以上使うように心がけることは、不可能なことではないです。この知性のために使うキャパの量を増やすことが、生きていく私の使命でもあるように考えており、既に記憶した物事を反復して使うのもそのためです。新しいものを仕入れるためには、今まで自分が見たり聞いたりしたことのないモノにも果敢にチャレンジすることが大切であり、物理的に移動してみるくらいの根性が必要です。なので、私は一見損に見えるようなことでも、長い目で見た学習の場になるならば、いそいそと出かけていくことにしています。

私が小さい頃、母が内職をしており、半田ごてや銅線巻きなどはさすがにさせてもらえなかったものの(熱かったり、重量だったり、スピードが速すぎたりするために危険だったから)、仕分けや貼り付けや数えたり、検品のような内職は山ほどやらせてもらえました。1時間我慢して続けて作業して10円もらったり、競争して夕食のおかずを増やしてもらったり、など、本当に簡単な子どもではあった(笑)。今、振り返って考えるに、あれもかなりキャパ量を増やすのにいい体験になっており、今でも検品まがいの単純作業などは得意です。タイプなどのシステマチックな仕事は苦ではなく、指がチャカチャカ動くのもこれのおかげですし、読書などの永遠にいつ終わるかわからないような作業もまったく楽しく、つらいことなどありません。

体力ですが、やはり落ちました。子どもの頃は、なぜ、あんなにも跳び廻ったり駆け回ったりできたものなのでしょうか。単純にだるまさんが転んだや鬼ごっこや球技をした日々を考えると、1日に50m走を50本くらいしていたような気がします。小学校に通うだけでも、片道子どもの足で25分はあったし、縄跳びや水泳などを入れたら、一体どれだけになったものか・・・。おなか一杯になるまで食べて、かたーんと寝る日々。私はロクに勉強をしなかったのですが、あれだけ遊んでいたらやっぱり勉強はできなかっただろうなと苦笑できます。

スキーに行ったときには、読書もせず、ただ運転を片道3時間半ほどして、朝の8時から夕方4時くらいまで、お休みなく、滑り続けるのですが、西さんに言わせると2/3以上の時間はリフトに乗っているので、体力をロクに使っているわけではなく、実際の運動は2時間半くらいなのではないかと。確かにそうなのかもしれない。寒さ対策だけしてあれば、それほど体力は使っていないのかもしれず・・・。

それよりもテニスをみっちり1時間半したときのほうが、きっと運動量は多かったのかもしれないです。筋力が発達すれば、それだけ熱量消費もするのに、体力はしっかり上がる。今、燃費がものすごくいい(ということは、太ったので、基礎代謝が多少増えたものの消費熱量がうんと減っている状態)のに、どうして動けなくなったのかなぁ・・・。

新しく始めた教える仕事は、4コマ、6時間~6コマ、9時間ほど、立ちっぱなしなのですが、相当に疲れます。ウェイトレスをやっていた16歳から24歳までは、1日14時間くらい立って歩いていても、翌日筋肉痛になるようなことはなかった・・・。だから痩せていたのだけれども(笑)。

英語学校のほうは、立ったり座ったりしていますが、それでもイチバン長い日には10時間で、立ちっぱなしの新しい塾の仕事よりはずっと体力的にラク。これはやはりブースと部屋という狭さも大いに関係しており、教える内容ではないように思います。立ちっぱなしで動く場所が狭いというのは、本当に疲れることなのでしょう。

冬期講習会が終わったら、やっぱりお仕事は格段に減らしていただこうと思っています。椎間板が2枚なくなっているため、腰痛を呼び起こします。時給も格段に違うし・・・(汗)。

私は小さい頃、自転車に乗るのが上手だったのですが、もう10年以上自転車には乗っていません。キャパは落ちているのでしょうか?やはり体重が増えた分だけ落ちているような予測です。ヘリの操縦のキャパも落ちていると思われます。が、身体を使った技術・能力というのは、少し練習をすれば、取り戻せる確率が高いので、さほど心配してもしょうがないでしょう。ただ、いくつくらいが「元に戻れない体力・運動技能」なのかは、見極めておいたほうがいいのかな、と、近頃思います。

もしも、認知症の症状が私に起きると、今までがんばってきた脳のキャパも減ることになるのでしょう。このキャパの伸び縮みは、とても耐え難い気がします。特に、記憶が失われることにはどうしても耐えられないかと。自分が自分であることを忘れたときには、どうやって生きていけばいいのか、今、ちょっと考えようもありません。いろいろな映画や小説で考えさせられており、学界論文などで新薬の進み具合なども見ていますが、「明日は我が身」と考えようとする自分としては、まだこれについてはスタンスを決めていません。明日突然、認知症になる、ということはないと思うので、まだもう少し時間が与えられているのではないかと思うし、母を見ると大丈夫そうなので、油断をしているのでしょうね。

好奇心に関してのキャパや、他人に対して寛大であることのキャパなども含め、私のキャパは減ってばかりいるわけではなく、増えているものも大いにありますから、Give and Takeなのかもしれません。が、やはり今年は体力をある基準までは復活させたいな、と思っています。血液検査の結果がよかったので、気をよくしてはいるのですが、実際に筋力をアップさせてみたいですねぇ・・・。

みなさんのいろいろなキャパは、今、どんな具合ですか?

成長期の不思議

01/05/2008 にアップした文章です。

どうしてこのニュース?とはお思いでしょうが、私はこの手のニュースがたいへん好きだ・・・。メシの種にならないことをしつこく続けることは、ある種、私の誇りでもあり、うまいこと行ってメシの種になればいいな、とは思っているのだけれども、それほど世間は甘くない、と(笑)。けれども、研究者になるのはとても怖い。世間が狭くなってしまいがちになることもあるし、チームワークが大切なこともあり、しかも選んだトピックに基金(政府や公的機関や学校などの)がもらえなければ、ゼロのまま進まないのである。そこにはやっぱり政治が絡むのだ。心理学を選んだ時点で、「お金にならない分野」と諦めていたのだけれども、本当に日本では特にそうです。かといって、もうひとつの航空学のほうも、この歳になると、日本での蓄積・履歴がない私は、もうダメだしなぁ・・・。

さて、今日のニュースはこれ。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080101-00000050-jij-soci 私の目標は、生涯学生で居続けられる環境を獲得して、死ぬまで学生を続けることなのですが、それにはお金がかかるので、目下、働きながらいろいろ模索しているところです。理想的には、高等教育を受け続けていくために、アメリカに戻ることなのですが、西さんの仕事の関係もあり、それにはどんなに早くとも3年から5年はかかることでしょう。そのあいだ、日本で可能なだけ、自分のフィールドを広げておくために、いろいろな分野を見て廻っていますが、「食べていくだけ」であれば確保できることがわかり、あとは貯蓄部分にもがいています。

ヒトが成長していく不思議というのは、私にとっては大きな興味で、このおサルさんの研究は、「うーん、やはり・・・」と思えるおもしろいもの。これはあと2年以内には心理学の教科書に載るんだな。

この研究の含蓄は、「実際の顔の表情を見ずとも、表情の違いを見分けられる」という結果から、表情を見分ける能力は、すでに脳にDNAとして内包されていることがわかるというもの。しかし、おサルさんが、人間かサル、どちらかの表情しか最長2年後、1ヶ月どちらかしか見ないで育つと、そちらしかわからなくなる、というおもしろい結果が出たわけです。

1個目の「実際の顔の表情を見ずとも、表情の違いを見分けられる」というのは、生きていくためのサバイバル確率を増やす大切なツールで、保護が必要な年齢である2歳までに、どうしても必要である「大丈夫か大丈夫でないか」という安全基地ルールを読み取るための必須。子どもが、たとえおサルであっても、Mobility(可動性)を身につけたあと、世界を広げていくためには、親あるいは親代わりからの「Go、Don’t Goサイン」を見分けていくことで、生き延びる確率と行動範囲を増やします。

鬼ごっこでいうところの「鬼に捕まらない安全地帯」が、正常時、親がいる場所であり、そこから離れるときに、GoかDon’t Goなのかのサインを発してくれる親か親代わりがいるかいないか、その表情が読み取れるか読み取れないか、は、自然界では、結果に大きな違いをもたらします。実験での、2年間、サルとヒトの表情を見ずに育っても、最長2年までであれば、その表情が読み取れる、というのは、歩行や行動範囲の広がりに比例している時間の幅で、とても納得できるもの。

その後、1ヶ月、どちらかの顔の表情にだけ露出されると、その露出された方の表情しか読み取れなくなるというのはおもしろく、その後の「依存度合い」が大きく哺乳類の脳に作用するという証拠になりえるという、すばらしい結果です。ある時期までに何かをやったり、触れたりしなければ、その後、花開かない能力は、これまでもいくつか見出されてきました。Critical Period(重要な期間)とされています。その逆で、「サルとヒトが生まれ持っている能力が、ある時期の偏り露出により、変化される」というのは、本当におもしろいことで、共存への大きなヒントになっていきます。

考えられることは、1.最長2年間、実際には見なかった表情をやっと得られたことにより、ヒトかサルかどちらかの表情に絶対価値を見出し、その他の哺乳類の表情は「ないものとみなしても大丈夫」という削除が行われる、のか、2.最長2年間の露出がなく、補強・反復学習がなされなかったために、神経回路の中で、表情を読む能力が萎んでしまい、キャパが減り、自分という個体に最も密接な親あるいは親代わりの種の表情しか読めなくなる、という2つの可能性。あるいは、両方かもしれず・・・。

ここから学べることは、1.たとえDNAにインプリントされているにしろ、人生の最初の2年間に、同種や亜種の顔の表情を読み取れたほうが、その後の人生にはよく作用する。2.同種や亜種の顔の表情を読み取る能力は、神経回路として他の能力とは別回路なので、キャパを増やすためには補強・反復学習をしたほうかいいかもしれない。

母親だけに密室で育てられるよりは、父親、デイケアや託児所、祖父母や親戚、兄弟などによる育児は、よい影響のほうがきっと多いのではないかと推測できる。信用できて、危険にさらされることがないのであれば、子どもは大勢で育てたほうがいい、ということが、推論として仮説が立てられるのではないか、ということ。

トラの赤ちゃんが、犬に育てられるというニュースを、昨年見ましたが、トラの赤ちゃんのほうがずっと大きくなってしまい、ふたりは引き離されてしまったようです。あのトラの赤ちゃんは、トラの親の表情が読めないのか?あるいは、身体が小さい犬である親の表情は読めたのか?セオリーがここでも通じると考えると、犬の親の表情は読めたはず。そして、2年以内に引き離されたので、その後、トラの仲間の中に入れられても、彼は充分に同じ種の社会の中で生き延びることができるはずです。

少し考え難い状況ではあるのですが、自分の種に育てられない赤ちゃんというのは、いかほどいるのだろうか?昔、オオカミ少女が実際にいましたが、彼女が見出されたのは、もう10歳近かったので、彼女は死ぬまで人間の言語が話せないままでした。人工的には、動物園で、上記のような擬似親子は組み合わせられることがたまにはあるようです。自然界では、どのくらいの頻度で起きるのか・・・。

ヒトだけで考えてみても、養子や養女を他の種が行うことは法律的にできないにせよ、そうしたアクシデントは、本当に稀なことで、報告されているケースはごくごく少ない。

核家族化が進んできた戦後、高齢化が進んでいく社会の中で、やはり祖父母が担ってきた役割を、もう一度返してあげることを検討したほうがいいと、私などは思います。相互自助ができるという意味で、社会はメンバーがたくさん詰まっているわけです。特に、離婚率が増えて、子どもを育てるのがたいへんな、女手ひとつの家庭などでは、こうしたボランティアを使いたい家庭は増えることでしょう。責任問題が伴うので、システム化するのはたいへんでしょうが、不可能なことではないです。考えてみたらいいと思うなぁ、行政・・・。

ことわざや慣用句を教えていて、やっぱりそう思うし・・・>子どもは大勢のバラエティがある人々の中で育つほうがいい。成長期の不思議を探索する研究者はまだまだたくさんいて、また新しい説をどんどん教えてくれるんでしょうね。楽しみです。

紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その75

Q75.

お勧めの作家を何人か教えて下さい。お勧めの理由もお願いします。

A75.

アメリカに20年いたので随分アップデートされてない部分も多くあるんですが、私はなぜか日本の大学が文学部国文学科だったので、古典を読むのは全く苦痛ではないのです。むしろ喜びと言っていいかもしれません。子どもの頃ド貧乏だったので、他の子どもたちが習い事に行っている時には、私は一人で遊ばなければいけませんでした。いい加減自分の順番がたくさん来てしまって疲れると、本を読むことになっていましたし、雨の日には必ず本を読むことになっていました。

小学校3年生か4年生ぐらいから、江戸川乱歩全集というのを全部読んでしまい、すんなり横溝正史も読んでしまいました。小学校5年からは大人の本を借りることが可能になり、ミステリーのいろははここでかなり習得したつもりでいます。ただ大人になってからは、渡米して しまったこともあり、ミステリー大賞などは全て網羅できておりません。

https://matome.naver.jp/odai/2147713936052807601

ザラッと見てみたんですが、過去30年出版のもので選んでいないものがちらほらあります。乗せられて読んでみる、という手もありますが、どうしたもんでしょうか(笑)。 こっちに帰ってきてからは、明治時代以降の作家を読んでおこう!という意欲があって、 作家ごとに住んでいます。 http://www.coara.or.jp/~dost/bun1-2.htm こんな感じですね。その中で誰がおすすめか?というのは、人の自由でいいんじゃないかなと思います。ただ古典は読んでおいて損は本当にないんじゃないかと。

昨今、時代小説も 古い時代に書かれたものを読んでいて、岡本綺堂・林不忘・野村胡堂・久生 十蘭・佐々木味津三など、全巻が100円程度でKindle本で読めるものは、かなり楽しめます(笑)。

藤沢周平・海音寺潮五郎・司馬遼太郎・池波正太郎・山本周五郎・吉川英治・大佛次郎・柴田錬三郎・子母澤寛・山手樹一郎・山田風太郎など、作家ごとにあらっぽく読んできました。昨今の方々では、佐伯泰英・浅田次郎・小杉健治など、数冊読んでまだ全巻制覇しておりません (・・;)

日本にいるあいだに、手に入るものを読んでおきたいというのがあって、古いものにこだわる傾向が昨今あります。東野圭吾や宮部みゆき、売れている作家のものはいつでもまだ読めるんじゃないかと思っているところなのです。淘汰されてもまだあったら、おばあちゃんになって読めばいいじゃーないか、というところがありますね(笑)。

絵本もまた読み直しています。大人が読んでもいい絵本はたくさんあって、https://honcierge.jp/articles/shelf_story/869 
https://mamagyutte.jp/otonaehon/ 
昨今は立ち読みを3冊はしてから書店を出ます(笑)。

とはいえ、商売で英語をけっこう読んでいるので、自分の時間がなかなか取れないところです。スキマでけっこう読んでいますが、昔ほどではないのかなぁと思う、けふこのごろです。

Rescue Personality

01/04/2008 にアップした文章です。

近頃、英語の本を読んでいなかったので知らなかったのですが、いや、生活に追われていたので、ネットで検索する事項が多岐に渡っていなかったのですが、どうやら心理学界では、Rescue Personalityという新たなる展開があるらしい。うーん、おもしろい。アメリカのドラマを見てもわかるように、たくさんの「人助け」な人道的ドラマが人気が高い。それもこれも、911以来のことなのですが、ドラマや映画の人道的風潮は世界的な常識になっている。実際に、日本でも24やらERやらずっと「人助け」は流行ってきたんですもんねぇ。

http://www.massey.ac.nz/~trauma/issues/2005-2/wagner.htm オーストラリアには災害ジャーナル(学界論文をジャーナルと呼ぶ)があるのか・・・。さすが自然災害に準備を怠らないところは違う・・・。
http://www.defrance.org/artman/publish/article_1491.shtml が、これを全否定している学会もあり、けっこう物議をかもし出しているようである。

レスキュー:〔rescue は救助の意〕消防や警察に置かれて、火災や大事故などのときに人命救助を主目的として出動するチームの通称。
救助:災難や危険にさらされている人をすくいたすけること。
災難:思いがけない不幸な出来事。わざわい。難儀。災厄。

Fictionなのか、Factなのか?(事実か虚構か?)というところで、性格とするのはどうなのかな?と私もそれは思う・・・。長らく心理学を学んできたものとしては、やはりこれは性格の中のある一部で、大きな一部だと考えるかどうか?という度合いの問題であり、それに支配されてすべての言動が動いたり、決断をしたりすることは、ごくごく稀なことで、ゼロと決して否定はできないものの、おそらく天文学的確率になるのではないかと・・・。なので、性格として既定するのには、かなりな難易度がある、というのが、私の早々とした結論。

しかし、これについて考えてみるのは、とてもいいことだと思える。

たとえば、Critical Incident Stress Debriefing (CISD):危険な事故のストレスについての詳細質問をすること、という能力は、たくさんの職業の人々に要求されていることで、日常の暮らしの中でもこれがあるかないかで、危険回避や危機管理や立ち直りの部分で、たいへんな貢献度をもたらす能力になります。このStressという言葉は、日本人には、ストレスとカタカナでしか意味が取れないかもしれないですが、英語の場合は、事故そのものの中にあった重要性や強勢を解く鍵にもなり、原因究明のための詳細質問をする技術でもあり、警察官や検査官や消防員などにはとても必要な能力です。

少しスケールを小さくすると、それは母親や父親であろうが教師であろうが、兄弟であろうが友だちであろうが、上司であろうが、持っていたほうがいい能力であり、どんな物事でも、問題がゼロだという完璧な世界を確立しているものはなかなかなく、このCISDを持っていることは、オトクなのだ。

実際に、火事やレイプや殺人に直面する人の数はそれほどではないにしろ、愛する人の死や自殺、地震や解雇など、ありえないことではないわけです。そんなに年がら年中起きてもらってはつらいことではありますが、鬱病やPTSDに繋がるほど、立ち直れない落ち込みがこれらを境にして起きることはよくあります。

しかも、災難に遭ったことがゼロ・皆無だという人は、そういう意味ではあまりいないのではないかと思います。たとえば、ある人にとっては、「かけっこをして転ぶこと」は災難かもしれない。昨日までとても倖せだったのに、突然別れを告げられたことも災難かもしれない。その人には「そんなことも起きる可能性はあったのだよ」といくら他人が諭してもわからなかっただけで、聞いてこなかっただけで、青天の霹靂のように起きてしまった不幸と捉える人は、やっぱりかなりの数いるんじゃないかと予測できます。ヒトの成長のスピードはそれぞれなので、それでいいと思うのです。

その点、私はどうも慎重すぎるようになったのか、思うことを低め設定にしているのか、事故確率をしっかり掴んでいるのか、「たとえ自分が万全を排していても事故に遭う確率は、物事によって5%以上はあるし、他人がたくさん関与したり、人が山ほど集まるところでは事故や災難は起こりえるし、物事は予定通りには行かない」ということを、よく知っています。

たとえば、受験や失恋や昇進で渦中にいる人に何が言えるのか?これが、CISD能力なのですよね。この(彼らにとっては突然起きた衝撃的な)事故や問題について、それらの痛みやショックが拡散するように、事故が起きた直後に、詳細に質問をしながらの充分な聴き取りをしていき、その人がその後もPTSDに強く苛まれないよう(あるいはまったくPTSDの症状が出ないよう)にするものです。

その点、昔は井戸端会議などという近所の奥さんたちが集まって、それほど重大ではない会議をしていたものですが(あ、ただの雑談ですし、終わりも始まりも秩序があったわけでもなく・・・)、あれはあれで、役割があったんですよね。実は他の文化にもあのような形態のものは見られており、洗濯場というのが多く、井戸や川や貯水場のそばで、女性たちが話す文化については、けっこうな数の報告がされています。あの頃の質に比べて、今、日本に残されている井戸端会議に近いものは、Openness(開放度)が下がっているように思えます。公園デビューをした子どもたちのそばで、ベンチに腰掛けて見ている母親たちの心の中には、だんなや子どもの悪口をあけっぴろげに言っていたときとは、少し変遷したものが渦巻いているような気がします。そもそも、時間がなくなってきた、というのがあり、幼稚園バスなどの送迎でも同じことが言えるのでしょう。共働きが増えて、手を動かしながら不満を発散するようなシステムは、今、都会に住んでいる人の生活にはなかなかありません。回数が減ったということは、たとえ他人の問題だとしても、問題解決や心の暗さ軽減のために、話しかける言葉も発していないわけで、第三者が別の第三者に対してアドバイスをしている場面も目撃していないわけで、それが殊(こと)自分の身の回りにいる人に起きたときの「いざというときのための練習」も足りておらず、どんどんプロへと行くことになっていくのですが、「プロに行くなんて・・・」という意識もまだまだ確かに風潮としてあり、医師は投薬するばかりで、実際の根本解決には大して貢献しません。

企業では、産業カウンセラーを置くところも増えてきましたが、パートやアルバイトに対しての措置がない会社も多いです。ましてや、家で子育てや家事に専念している人たちには、公的機関のカウンセリングやセラピーはめったにないわけです。ましてや、介護をしている人々に対してのヘルプは、時間的に穴が空けられないという、切ない現実もあり、どんどんと煮詰まっていくのでしょう。

Critical Incident Stress Debriefing (CISD)とまで行かずとも、人の話を、特に不幸なことを聞いて、アドバイスをしてあげられる能力は、あったほうがいい。共感して、自分のことのように扱って、問題が軽減するようにしてあげたいと思える熱意があったほうがいいです。

その機会(チャンス)が減ってきたことを知っている人々は多いはずですが、その措置はなかなか為されていないのが現実です。Rescue Personalityは社会に生きていれば、各個人の心の中にあって然りな性格の一部であってほしい、と、強く願います。

バイオリズムをもう一度考えてみる

01/03/2008にアップした文章です。

物事が周期的に起こるのだ、という自然法則を見逃して日々暮らしている人は、けっこう多いのではないかと思うのである。新年の始めに、このポイントを押さえておくと、気分が萎えることを避けられたり、来るべき不調な時期や出来事に備えたりすることができるのではないか?と、ちょっとお節介かもしれない提案。とはいえ、これは自分に向けての啓蒙であり、あまり他人様には影響がないかもしれない(笑)。あ・・・、生徒さんには直接関係あるよなぁ・・・。

周期:(1)一まわりの期間。(2)〔物〕 一定時間をおいて常に同じ現象や運動が繰り返される時、その一定時間。(3)〔化〕 周期表中で、横に配列した一群の元素。
自然法則:(1)自然界の現象や秩序を支配していると考えられている法則。自然律。(2)当為を表現する規範法則に対して、自然界における事物や出来事の間に成立する普遍的・必然的な因果関係を表現する法則。
バイオリズム:生物体の生命活動に生じる諸種の周期的な変動。体温・ホルモン分泌・代謝・月経など生体の重要な機能にみられ、一日を単位とする睡眠と覚醒はその典型例。人間の知性の働きや感情の変化の周期性についてもいう。生物リズム。→生物時計

ヒトの周期は、身体的なものを考えるだけでも数多くあり、ここにすべてを掲げようとしてもできないかもしれません。1日をつかさどるのが、体内時計ですが、そのほかにも、月・季節・年・数年(たとえば細胞周期は事細かく、ここに記載するには大きなジャンル)で、最後が人生という単位になります。生命体のすべての連鎖の中に組み込んで考えていくと、もっと大きく世代なども枠組みとなり、ヒトの周期にはいろいろなものがあるということがわかります。

学校の理科や科学で、これを教えてくれたはずなのですが、日常と密接に関係あるように説明してもらえないものだから、どうも忘れてしまう。「へぇ・・・」と思うに留まり、あるいは「試験に出るかもしれない」に留まり、ものすごく高学歴でも、すばらしいお仕事をしている人であっても、これらを無視するような暮らしを続ける人々は多くなってしまいます。

ただし、バイオリズムという考え方そのものは、統計学的なものであり、実際に女性の月経にズレが起きるように、内因&外因の影響を受け、絶対値があるものではないので、擬似科学とするのが一般です。自然界から遠く離れるように文明や利器を使い始めてから、脳が大きくなってから、ヒトは「自然だけではなく、人工的に作られた物事からの影響」を大いに受けるようになりました。国際化が進むことにより、メディアが発達することにより、その影響の受け方はさらに細分化し、影響の強弱にも個人差が大いにあるようになってきました。そのため、自然法則である周期が崩れ、疾病や精神疾患などが起こるようになっています。交通手段が発達したり、メディアが発達するということは、物理的な移動が叶うことになり、会える人間の数が増えたり、処理しなければならぬ情報が増えることになります。

バイオリズムの基本情報>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0 
http://en.wikipedia.org/wiki/Biorhythm >英語の解説

この英語の解説の中にあるように、この9つの周期だけは確かですから、これがズレた場合には、内的あるいは外的要因に左右されたがゆえにズレた、と考えられます。
Ultradian :24時間以内の周期。たとえばヒトの集中力など。鍛え方にもよるが、45分や90分など。睡眠ステージサイクルも90分刻み。
Circadian :およそ24時間周期。太陽に支配されているリズム。
Infradian :3・4日周期。
Exogenous :外的要因に影響を受ける周期。
Endogenous :外的要因に影響を受けない周期。
Circatrigintan :25-45日周期。月経や皮膚細胞などの周期がこれです。
Circavigintan :3週間周期。
Circadiseptan :隔週周期。
Circannual :年周期。

http://home.att.ne.jp/yellow/tryspace/ このサイトは、疑似科学になる感情・知性・身体の3つのサイクルを生まれ日から計算するもので、外的要因を含みませんが、参考にはできるかもしれないので、覗いてみてくださいね。

たとえば、大食い。「年末年始に過食をしてしまい、元に戻したいのに戻らないよぉぉ!」というのがあるかと思うのです。今年、私はそれがないんですけれどもね(笑)。食べ物がしっかり消化されて体外に排泄される周期があります。それが、24時間以内の周期なのですが、これが過食してしまったために作業時間がかかってくるようになる。ゆえに全体的時間がズレてくると、活動している胃が大きくなったために、さらに食べ物を欲する。精神的にも食べたくなる。食べてしまう、と、またこれが繰り返されて、ズレは後ろに時間が足されていくことになる。女性の月経前後の過食はこれに当たりますが、ホルモンなどがサインを出してくれれば停まるのですが、内的影響がない限りは、飽食の時代、たくさんの食べ物があるので、なかなか歯止めが利かない・・・。ここにまた、食事の内容や、いっしょに食べる人たちや、機会(忘年会・新年会・誕生会などなど)も違って、好き嫌いやその他まで加味されていくと、リズムが変わっても、なかなか戻すのが難しいことになります。

睡眠もそうです。一度夜更かししてしまうと、リズムがズレてしまいます。私は睡眠が足りないとまったく使い物にならないので、食事を抜かすことよりももっと注意を払っています。

こうした周期について考えてみることで、「しないほうがいいな」だとか「こうしたほうがいい」というアドバイスを、自分の身体の自然なリズムから聞き取ってあげることができることは大切です。最初は、ただの知識かもしれないですが、直に、自分の身体が訴えてくるものがわかってくるようになります。

私がいつも驚いてしまうのは、自分の月経周期がわかっていないお嬢さんたちが多いことや、わかっていてもすぐに忘れてしまっている女性が多いこと。男性にしても、疲れのピークがどこに来ているかに鈍感になっており、休息が必要だということが認められず、降参してバケーションやお家にじっくり居てお休みすることができない人が多いこと。

校長センセは、睡眠確保のために、時差ボケで苦しまれたこともあられるようで、メラトニンをネット購買していらっしゃるようですが、こうした努力は必要ですよねぇ。そして、こうした努力をしたあとでも、やはり海外出張の直後に出社せねばならぬのであれば、休息の取り方もしっかり心得たほうがいいです。無理をして、その疲労を蓄積していくと、どこかでやはりツケは払う羽目になるものですから。

さらに、精神的なことも加味して、自分の周期を掴んでみる。これは今年の抱負にしてみてもいいかもしれません♪ご自分の睡眠時間は何時間がベストかわかっていて、それを実行していますか?

思ったよりいいかも

01/02/2008 にアップした文章です。

今だから言えることなのですが、毎日の日々をこなしているだけではなく、それなりに思い通り・計画通りに行っているという実感を得られるのは、やはり毎日にチャンスがいくつも転がっているのだなぁと、久々の発熱に喘いだあとに思うのです。医者がどこも閉まっていたせいで、市販薬しかなかったのですが、母が買ってきた1800円で18カプセルのもの、今回ものすごく効きました。それも「思ったよりもいいかも」で、それには根拠がたくさんあるにせよ、期待値が低かったがために、余計にヨロコビもでかいのだろうし、立てないくらいになっていたので、もうすでにピークだったからなんでしょうが(笑)。思ったよりいいかも、と思えることが1日何度くらいあるのか、ちと考えてみる・・・。

私は楽観的な人間のはずなのに、自分でやること以外に関しては、何も期待しないよう、自分を躾けています。世間に対してはそれほど楽観しておらず、他人に対しては期待せず、に徹しているところが、私がチームワークやオフィスワークに向かない由縁です。うーん、こう表現すると語弊がありすぎますが、信頼していないから、ということでもなく、人としてある段階までについては、最初に会ったときにスクリーニングをしており、それにクリアしていれば、そこそこは信頼しています。が、人というのは状況やメンツやプライベートなことで左右されて然りなので、いつもそのたびに、内容(Context)と登場人物(Characters)と起きている時期(Timing)とそれらが位置している器にもなる環境(Environment)を、チェックリストで、もちろん行き届かないにしろ、チェックを心がけることは忘れていません。やはり被害者になったことがある人間としては、面倒でも、「もうあんなことは繰り返したくない」という大いなる決意のようなものがあるんでしょうねぇ。もちろん、どんな問題にしろ、いくらでも「うまく根本解決してやりぬく道」というのがあることは信じていますが、人がたくさん関与することに積極的に関係していくようなエネルギーはないのだということがわかっており、自分が求められている範囲が明確であれば、そこまでであれば、という心持になるんですが、キリのないことにはどうしても参加できない勇気のなさがあります。

逆に言うと、ダメであろうと思ったことにやはり心が萎えるために参加することはできない、ということですか。学びの場としてナニモノも得られず、徒労になることをわざわざやろうとする勇気は、誰かの生命が掛かっているなどがなければ、とてもできそうにないです。けれども、私は怠け心があるわけではなく、働かせてもらえたり、招いてもらえたりすればどこにでも出向きますしね。学ぶ場と必要とされている技術が提供できる場があれば、条件が整っていさえすれば拒否はほぼありません。

私がOLにならないと決めたのは相当に早く、「将来何になりたいか」というのが夢ではなくなったステージ、だいたい中学生くらいのときだったと思います。小学校でも中学校に入っても、私には団体による達成感というのが、どうもうまく得られなかったことにあります。中学のときには、合唱部だったのですが、部活動なのに、合唱部だけは、合唱団と自称しており、全国大会に出るいい成績の中学校だったのですが、そこには中学生が充分考えられるくらいの政治が渦巻いており、パワーゲームの縮図を見るのはそこから始まったとも言えます。そこでは、ピアノやその他の楽器を今までに習ったことがある人のほうが、やはりチャンスは大いに増えたし、先生に気に入られたり、先輩に気に入られたりした人のほうがずっとコンクールに出られるチャンスがたくさんありました。なんだか暗い気分になったことが多かった。クラシックコンサートは嫌いだったはずで、それでも入賞した賞品として案内されるコンサートに行かされて、眠らないように努力した記憶があります。

「合わせる」というのがいかにたいへんで、団体の中で行動することをミニマムにしようと心がけてから、私は「思ったよりいいかも」と毎日感じることができるようになったことに、ものすごく驚きました。「自分が」考える・予測する期待値に左右されればいいことになったからです。第三者の感情的な物事が左右する回り道を迂回することができるからです。

たとえば、多摩川までの冒険決行にしろ、子どもたちの人数が増えれば増えるほど、決行までの道のりは遠くなり、ハードルは多くなる。子どもたちの年齢やその能力、親御さんたちの意見、行く手段に関するいろいろを考え、何を以って冒険とするか、などなど。さらに第一歩をよしんば踏み出したにせよ、泣き言を言われたり、アクシデントがあったりすると、冒険はおろか、家路に戻ることすら覚束なくなる。

大人の世界では、特に仕事では、これらがもっと顕著に顕れて、私はどんどん何もしたくない病になるわけです。

一時期、自分のことをずーっと責めてばかりいたわけですが、そこで誰かが「君は君らしくいていいんだよ」と言ってくれただろうか?という記憶をなぞってみました。やはり私には死ぬほど殴ったし怒られたけれども、褒めてくれる父はいたし、文句も多かったけれども、優しく励ます母はいたし、知らないおじさんや、近所の人たちも決して直接嫌味なことを言ったわけでもなく、「楽しいな」と思えることはあったのです。けれども、どうしても他人に決められたことがうまくできない。

他人が決めた尺度・期待値・規範などに合わせようとすることは、私に気がないあいだは、何もうまく行かず、よしんばうまく行ったとしても、私が「思ったよりいい」ところまでは行かないし、感じないということに気づき、図書館通いのほうに逃避するわけですが、あの選択は本当によかったのか?そして、他人と違うことを貫き、特例としていくつかのことを許されてしまったがゆえに、仲間の年代からの不評を買い、それでも生きてはこられて、尖がりながら、やはり就職はせずに渡米したことは本当によかったのか?と、その後の積み重ねについても考えてみています。

今、こんな大人になった私は、負け惜しみではなく、「よかった」と思っています。もちろん、「威圧感」「違う」「変」「社会経験が少ない」などなど、今でも支払わねばならぬ代償はありますが、私がやっていることは、私が決めたことを目標としたことを達成するためのGive and Takeを伴うが、必ず自分の信念のうちにある品格を落とさぬ範囲のもの、と決めている譲歩です。

自分が考える正しいことや、恥ずかしいことや、やったほうが学びになることや、決められたルールの向こう側にあることを、ずっとずっと考えながら来たことに関して、とてもいいことだと思っており、マニュアルや他人が考えたルールにただすんなり乗らないことが、日々の「思ったよりいいかも」をどんどん繋げてきてくれていると、今では、子どもの頃のけなげな態度を貫いたことを、なんだか宝物のように思えています。

私は質問魔のようで、どこに面接に行っても、どこに営業に行っても、質問をたくさんして、「お!?」と思ってもらえる半面、「鬱陶しいやつだな」と思われるリスクも持っています。いつも何かに対して疑問を持ち、こうかもしれない、こうなるだろう、こうなってほしい、こうなるようにこうしよう、と考えながら、何かを行う。もう癖になっていて、考えるのをやめろ!と言われても、高熱が出て考えられないだとか、酔っ払いすぎたとか、眠くて死にそうだとかいうとき以外は、もう無理なようです。

「思ったよりいいかも」とそれでも謙虚に出てくる結果について考えられるゆとりもあって、毎日いくつもの「思ったよりいいかも」があると、「ああ、今日もいい日だった♪」と思えるバロメータ。ひとつひとつの授業もそうだし、乗った電車での時間の使い方もそうだし、手に取った本もそうだし、料理にしてもそうです。買い物はめったにしないんですが、買い物も同じ。

今年もたくさんの「思ったよりいいかも」が増えていき、たまに大いに「世の中捨てたもんじゃないな」があると、元気に生きていけるような気がします。みなさんは、「思ったよりいいかも」を感じていますか?