ケアレスミス

03/29/2008 にアップした文章です。

 

ケアが行き届かないがためにミスる、という現象はよく起きます。いわゆる「気がなかったから」「注意していなかったから」「集中力に欠けていたから」などなど、いろいろな表現ができますが、なぜにこのような単純なミスを!?と思うことは、第三者には多いことでしょう。私自身、これがゼロか?と問われれば、ありえるありえる(爆)。ほら、最近、シュミで数学をやり直し始めたではないですか。+や-の記号を付け忘れるだけで、答えは大幅に違うわけで、「子どもたちはこのように苦労をしているのだなぁ・・・」などと、やけに感慨深いのです。大人だって、三人称単数現在のSを見ているのに、見ていないことだってありますしねぇ・・・。どうしてこのような現象は起きるのか?

 

ケアレスミスというのは、英語で日常的には使われていません。ミスというカタカナそのものが、実際はMistakeという名詞の略語なので、いろいろなジャーナル(日記)を見てきましたが、9割の生徒さんは間違えているので、おそらく全国的に日本人はかなり多く間違えているのではないか?と思われます。しかもその動詞は、Make a mistakeなのですが、努力と同様、慣れない使い方なのかなぁ・・・。この動詞が見せるように、英語では、ミスは「S(主語)である人物や団体や物事が作るもの」という概念になっており、「自然発生」ではないこととみなされます。

 

まず、どうしてミスが起きるのか?というのを、生物学的に考えなければ手落ちなのですが、どうもヒトというのは悲しい動物で、他人のせいにすることがかなり得意です。実際には、おそらく、体調が悪いという最初の存在の正常さチェックをしていないことが多いのでしょう。どんなに強靭なヒトであっても、体調はいつも万全なわけもなく、しっかり機能してくれるかどうかはアテになりませんが、健康であることは当たり前と思っている人々は多すぎるような気がします。

 

東京に戻って来て感じたのは、「身体の声」を聴くには、ちとうるさすぎるし、モノが多すぎるし、ヒトが多すぎる(笑)。TVもケーブルをいれずとも、7局あり、かと言って、違うことを提言してくれていろいろな可能性を模索してくれているか?といえば、そうでもなく・・・(苦笑)。同じニュースを扱うにしろ、どのチャンネルを見ても、微細な差を読み取るゆとりがあるヒトたちがいるか?というのも疑問。なぜならば、車や電車やヒトなどが出している音がうるさいから。いつも刺激が廻りを取り囲んでおり、本当にひとりになり、静かに「反応せずともいい瞬間」を持てて、それを満喫するような状況は少ないなぁ・・・と思えるわけです。まぁ、比較するものを持っていないヒトにとっては、「それが日常」なのですが、本当にフルに身体能力を使っているのかどうかは疑問。

 

よしんば、住居でひとりになれたとしても、モノがあって、任天堂DSライトやTVやPCを使ってしまえば、純粋な意味のひとりでもないしなぁ・・・。トイレやお風呂くらいしか、ひとりをしっかり満喫しきれていないのが、たとえ一人暮らしであったとしても、実態なのかもしれません。

 

私の母は独り言も多いのですが、彼女が「誰に向かって話しているのか?」を見極めるのには、かなり時間がかかりました。西さんが台湾に赴任してから、6年はひとりで暮しましたから、ネコたちのように内容に対してTalk backしない環境に慣れてきたわけです。母は、特に私の発言を重視しているわけでもなく、ひとりで好き勝手に話しており、それをイチイチ相手にしないようにコツを取り戻すために、けっこう時間を費やしましたね(笑)。何か作業中であると、どうも「中断させられた」という被害者意識になってしまっていけませんでした(笑)。

 

仕事場でも、「相互監視」という意味では、パーティション(壁や仕切り)がない職場というのは、欧米でも日本式が取り入れられたのですが、細密・緻密な仕事内容の人々にはアレは向かないでしょう。通訳やSEなど、ある程度の孤独や静けさが必要だと思いますねぇ・・・。

 

そこで、勉強をしている子どもたちにもインタビューをしてみましたが、他発生の音がいかに多いのか?というのは、実感しました。それに慣れてしまっており、フルポテンシャルが出ていないかもしれない、という疑いを誰も持たないのがすごい・・・。まぁ、勉強には完全なる静けさというのは必要ないにしろ、ラジオやTVをつけているのは、あまり効率がいいことではないように思います。「つけていないと勉強できない」とまで主張する人々が増えてきたのは、どういったことなのか?

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%92%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87 >ハインリッヒの法則。

 

そうだったんですねぇ。日本では、爆笑問題がTVで世間に広めたんですねぇ。

 

http://en.wikipedia.org/wiki/Behavior-based_safety>英語版

 

こんな災害予防や発生率がなぜケアレスミスに繋がるのか?と不思議に考えていてはいけません・・・。関係あるんだよぉ・・・。社会という大きな枠組みで生きているからには、状況(Situation)設定があって、その中でのパフォーマンスでのミスを考える必要があります。これを個人に掘り下げて応用していくのが、ケアレスミスを減らす方法に繋がります。

 

1. 目標を設定する:無理な目標は到達できないので、現実的な数字や計画の中、目標を設定。

2. 期待される失敗行動を考える:ハイヒールが折れるだとか、電車が止まるなどと考えないヒトいますよね・・・。アレ、ダメです。悲観的になれと言っているわけではなく、確率的に多い事故というのはありますから、それを予防するためには、確率が多い事故から低い事故までが羅列できる、ゆとりできる心と頭が大切です。

3. これまでの自分の行動を正確に反芻してみる:どんな失敗が多かったのかということすら、わかっていない人というのは実在します。

4. 「なぜ起きた」をじっくり考える:3.に起きたことは「なぜだったのか」を考えないことがよくあります。避けたいんでしょうが、避けているからこそ、また同じ失敗を「自らが起こす」ことを繰り返します。

5. 他人の第三者的意見を、3.4.のデータについて聞いてみる:自分ひとりで結論を出すと、悪循環や自分の視点から抜け出せないので、バンバン他人の意見を求めてみる。

6. まとめたところで対策を出す:ひとつだけが対策でもないので、いくつかを出してみる。

 

と、まぁ、こんなプロセスが出ます。もしも、根本的に疲れているようであれば、休息を取るということから開始して、どんなミスが多いのか、やっぱり自分で把握しないといけません。私の場合、英語講師なので、TOEICやTOEFLや英検の試験でのケアレスミスを見ていくのですが、この6つのステップを、生徒さんといっしょにやることで、TOEICなら軽く30点や50点はアップしますね。

 

どんな分野でのケアレスミスか、個人によって違うと思いますが、ぜひぜひ、検討してみてくださいませ♪

 

春の素朴な愉しみ

03/28/2008 にアップした文章です。

 

いよいよ桜が咲きますねぇ♪この土曜日がお花見日和らしいのですが、私は1日中学校のクラスルームで教えている最中になります。高いビルから、新宿御苑が見えるのですが、桜のピンクは見えるんだろうか?桜の樹木の下でのドンちゃん騒ぎが「素朴」に当てはまるのか?と問われれば、私にとってはダウト。しかも、私はこの年齢にして、あのような宴会には生涯出席したことがないので、いまさら始めるようなつもりもなし・・・。では、何が素朴な愉しみなのか?うーん、切ないのは、いくら考えても、私は5月3日くらいまで、完全休日がないかもしれないということなんだよなぁ・・・。ふぅ・・・。

 

素朴:(1)飾り気がなく、ありのままな・こと(さま)。(2)考え方などが単純で、綿密な検討を経ていない・こと(さま)。

愉しみ:(1)たのしいと思うこと。また、たのしいと感ずる物事。趣味・娯楽など。(2)たのしいであろうと心待ちにすること。また、そう感じさせるさま。

 

私は貧乏育ちすぎて、かなり質素なんだろうなぁ・・・。特に何かやるでもなく、素朴なことで楽しめる。先ほども、商店街を抜けてきて、パピヨンという種類のわんちゃんが、連れていた50代女性に甘えて、「もう歩きたくない」とでもシグナルを送ったんでしょうねぇ。女性は、「しょうがないわねぇ・・・」と言いつつ、抱っこしてあげて歩き始めました。きっと、春だからいつものお散歩コースよりも歩いてしまったのかもしれませんなぁ、などと考えられる自分は、倖せなやつだと思いますねぇ。そこで、私はふふっと笑わせていただけましたから。

 

女の子の洋服は、確かに軽く、明るくなってきています。私自身はまともな衣替えをしないのですが、街中では読書をせずに、前を向いていれば気づく・・・(笑)。でも、眠い方々もまだまだけっこういらして、決算期が終わっていないことも気づく・・・(笑)。

 

さらに、春の何が知らないあいだに楽しいかって、花粉症の方々は苦しいと思うのですが、身体が軽くなること。新陳代謝が1年で最も活発になるので、意識すればするほどデトックスもできて、汗もかけて、痩せることにも繋がる季節なのだ。この点では、いくら技術進歩をしても、便利な世の中になっても、ヒトは生物学的な影響から逃れておらず、昨日のエッセイの続きのヒントにもなるのです。私が最近感じているのは、頭皮での代謝の活発。冬の乾燥した頭皮とパサパサになりがちな髪とは、明らかに違いが出ています。疲れるほどに仕事をすると、やはり頭皮が汚なくなっている感じがするので、乾燥というだけではなく、身体の内側から出ている脂分のようなものがわかる感じ・・・。そんなの微妙な差だろうと言われればそれまでなんですけどね(笑)。夏になったら、二度も三度もシャワーを浴びたかった去年の夏を思い出します。今年は、去年感じたよりはきっと暑さにも順応しているんだろうなぁと思うと、「かかってこいっ!」と思えるところ←そんなに構えなくても・・・(汗)。

 

朝かなり明るさが増したことや、夕方も以前よりずっと長く明るいことは、なんとなく気づいていませんか?いや、花粉症の方々はマイナスな意味で如実に身体が感じていらっしゃるのかもしれませんが・・・。タンポポの種が舞っているところをすでに見かけたりしていませんか?が、それらを口にして、誰かと話題にしていますか?

 

なんだか昔は、「あったかくなったねぇ」「春だからお弁当持って川原に行こうか?」などと、素朴だった気もするんですが、駅前に住んでいるせいなのか、職業柄なのか、至ってそんな場面を見かけないのはさみしい限りです。もしかすると、書店に行けば、「春の行楽弁当」などという奥様雑誌が溢れているのだろうか?でも女性雑誌は、単に「春のメイク」「春の装い」なんだろうな・・・。

 

私が感じるのは、生徒さんの4月度の入れ替えです。土曜日は1日中、英語学校に詰めているのですが、文法の簡単なグループのクラスを2個終了し、ひとつは、資格のボキャブラリーというクラスで、英検やTOEICに頻出する単語のクラス。もうひとつは、Writingのクラスで、初歩的なものを。TOEICを中心に勉強すると、Input(文法のために読んだり聴いたり)は鍛えられるのですが、Output(書いたり話したり)がおろそかになります。なので、Writingは少し段階が下がるので、いろいろなレベルの人が集まるんだろうなぁと、チャレンジングな仕事が愉しみです。

 

さらに、プライベートレッスンでも、生徒さんの入れ替えがあって、お引越ししたり、留学したり、終了したりする方々の中、最も若い生徒さんを見ることになりました。14歳(爆)。1993年生まれだそうで・・・。英検準1級を確保しておいて、AO入試に役立てるという風潮は、ここのところニーズが増えているようです。もうひとりも、高校2年生の英検準1級を目指している生徒さんです。Pre-TOEICというクラスも、昨日で3ヶ月コースが終了し、4月から新しい生徒さんといっしょにまた開始です。

 

こうして気づいてみると、引越しもやっぱりこの時期が多いんだろうなということ。不動産関連のCMや広告や看板がどうも目につく・・・。どうやら、離婚も3月がもっとも多いらしいです。子どもたちがアジャストできるよう、新たな年度に新たな気持ちでの新たな生活を、という心理が働く人が多いのです。実務的にも受け手の慣れがあり、便利なことが多いのですが、実際は窓口などが混まないのかな?と、合理的な私は考えてしまうのでした。引越しはやっぱり料金はお安いのだろうけれども・・・。でも閑古鳥の儲からないときのお客様のほうが、いろいろ便宜を図ってもらえるのかな?などとも思う・・・。

 

卒業式や入学式の区切り目は、私にとってはもう遥か彼方の出来事になりました。最後に卒業式に出席したのは、いつだったか?高校の卒業式は出なかった記憶が(爆)。大学の卒業式も出ていないんですよ。どうもイベントは避けたがるやつのようで・・・。市の成人式にも出ていないし、自分の結婚式もしていないし、他人の結婚式も、日本国内では親戚のものに出た最後がおそらく11歳とかそんなものかもしれない・・・。ええ、弟の結婚式にも出ていないんですね、私・・・(汗)。けれども、知り合いや友だちや友だちの息子さにんや娘さんが、卒業式のことを話してくれると、とてもドキドキして楽しいので、やはり自分の経験を記憶していはいるんでしょう。あそこで、ナマの心が出てアップダウンするのがイヤなので、そういったイベントには出ない模様です(笑)。でも、話を聴くだけで楽しいので、これからもその路線で・・・♪

 

食べ物も春らしくなってきており、野菜がたくさん並んでいます。でも日本の野菜高いなぁ。国産になると、またもやものすごく高くなる・・・。春たまねぎのオニオンスライスを心待ちにする私は、やっぱり安上がりなやつなんでしょう・・・。ニンジンも筍も待ち遠しいよなぁ(笑)。カツオが出てきたら、ネコたちが狂喜します。うどちゃんたちは賢いので、スーパーの袋やエコバッグを持っていると、その中から自分たちの食べられるものが出てくるのを待って、ちょこんと座るんだよなぁ(笑)。

 

しかも、私は4月6日から産業カウンセラーの講座が始まるので、なんだか新生徒として、ワクワクしているところなのだった。春はいいですねぇ♪ワクワクドキドキ愉しんでくださいね♪

 

弱肉強食の論理

03/27/2008 06:00:00

またもやすごい事件が・・・。日本でも無差別殺人がどんどん起きているようですが、私もぼーっと駅では読書しつつ歩いていたりするので、気をつけねばならぬとつくづく思いました。しかも、荒川沖という駅は、西さんが勤めていた会社の工場がある近く。うーん、本当に他人事などではないのだ。シリアルキリング(Serial Killing)の場合、殺人者はどうしてもその愉楽を長引かせて、もっと殺す瞬間を楽しみたいがために、弱者を狙い、なるべく捕まらないようにする傾向があるようです。そうでなければ、殺人行為そのものが成功しないということもありますが、相手が強者であれば、殺人という目的が叶わないからです。あなたは弱者ですか?強者ですか?

 

私は簡単に弱者であるとお手上げ万歳ポーズを取ってしまいますね。電車の中で、強気で「足を踏まないでください」とも言えないし(だって、雪崩現象だから、そもそもの元がどこにあるのか、あんなもの判別がつけられないので、真横やまん前にいる人を責めてもどうしようもない・・・)、実際によく本を手にして、しかも読んで歩いていますし、職業柄、かばんの中はテキストやらいろいろが詰まっておりけっこうな重量があり、腰痛持ちですから、それほどダッシュできるとも思えず・・・。無差別殺人であれば、私は格好の弱者で、刺せるし、撃てるし、殴れるだろうなぁと、冷静に考えますねぇ・・・。

 

私は電車で眠ることはほぼなく、母のように電車で眠るのがシュミでもないので、いつも新宿往復は特急か準特急(どちらも停車駅は同じで、新宿から出て明大前に停まり、次が調布)に乗ります。読書をしたり、添削をしているあいだで、15・6分はすぐにさくっと過ぎます。各駅だと、母の話によるととても気持ちのよい35分が過ごせるのだそうです(笑)。が、あれも、バッグを抱えて眠っていないと危ないのではないか?などと思うのは、私がアメリカに住んでいたせいなのでしょうか?スリの妙技というのを私は目撃したことはないのですが、池波正太郎の『鬼平犯科帳』にもたくさん出てきたし、パリやイタリアと同じくらい、東京には妙技を持つスリがいるような気がしています。眠っている人の横に座って、なんて技は子どもだましなんじゃないかと・・・。うーん、でも、数千円くらいしか持っていない人のほうが多いのかなぁ・・・。

 

さらに、弱者狙いと言えば、夜のガソリンスタンドというのは、アメリカでは「殺されるかもしれない危険が高い」職業になっています。夜シフトは引き受けない人が多いです。コンビニもそうです。タクシーの運転手さんや売春をする人々は、最初からそのリスクをそれなりには理解していると思うのですが、アメリカの常識から行けば、それらも危ない職業のうちに入ります。弱者だと自分をみなした人はおそらく就かない職業です。昼間でも、ガラス越しにしか話ができないような作りになっているガソリンスタンドはたくさんあって、手すら入れられない。今となっては、キャッシュよりもカード取引のほうが多いですが、小銭でわずかずつしかガソリンを入れない人も未だにいるので、小銭(チリも積もれば山となる方式)を扱う職業で、人員が少ない場所は危ないです。弱者だと思える方はそういう職業は、日本でもやめておきましょう。

 

が、もうちょっと考えてみるに、人を襲うような、危害を加えるようなことをする犯罪者というのは、強者なのかどうか?ということ。もう一度、よく考えてみたほうがいいのかもしれません・・・。

 

弱者:弱い者。力のない者。社会的に弱い立場にある者。⇔強者

強者:力や権力の強い者。⇔弱者

弱肉強食:〔韓愈「送浮屠文暢師序」〕弱者が強者のえじきとなること。強者が弱者を思うままに滅して栄えること。優勝劣敗。

 

Wikiではこんなふうに出ています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%9A%84%E5%BC%B1%E8%80%85 >社会的弱者

所得格差による差別 – 低所得者を貶して見下し、酷く扱う社会的風潮。

ジェンダー(性差)による差別 – 男性差別、女性差別など。ジェンダーによる勤務時間や給与差、世間体からの評価・扱いなど。

アクセシビリティ – 身体的能力、学歴、社会的スキルなどによる差別。交通弱者など。極端だがしばしばみられる例として疫学的理由のない隔離など。

法律的・文化的な差別 – 国籍、人種、エスニシティー(民族性)による差別。

マイノリティ:社会的に数の少ない集団、あるいは発言力の弱い集団。

私は、やはり生物学的な弱肉強食の意味を基本にしたほうがいいとは思うのです。ですから、実際には、『弱肉強食論理』などというものはありえない、というのが私の結論です。社会的に照らし合わせて、どうも好き勝手な解釈をしている人が多いのですが、その基が、「社会ダーウィニズム」を唱えた、Herbert Spencerです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AB%96

 

社会的意義がなかったとは言えませんが、混同は混同ですね。正しい正しくない・強い弱いという自然界の摂理だけではなく、社会はもっと違うたくさんの複雑な要因で物事の方向性が決まります。自然界の摂理のすべてが通用しないのは(大きく影響していますが)、この複雑多岐に渡る要因のすべてを網羅したもので、法則性を見出せないことにあります。だから、心理学や社会学などは、エセ科学などと呼ばれてしまうわけです(汗)。

 

ひょっとしたら、犯罪者の側、強者の仮面を一時的に被る人々も、どこかでやはり社会的弱者なのかもしれません。

 

もうひとつのアングルとして、この一連の報道で思うのは、何をやっても言っても、親はいろいろなことを言われるのであろうということ。すでに、父親がまともに「定職につけ」と言ったことだけで、「父との確執」と書いている見出しもあるし、会話が少なかったことなどにも言及されており、人の親というのは、本当にたいへんなものなのだと思わされます。24歳にもなった息子が何をやろうと、個人として責任を取れ、取らせろと、私などは思うんですが、どうなんでしょう?私のほうが厳しいのでしょうか?

 

なんだか、広げるだけ広げておいて、解明したり、自分の意見をしっかり言っていない気がしますが、ちと忙しいので、次へのお題として残しておきますね。これ、夕方の空いている時間に書いているのですが、ニュースで新たな情報が次々と出ているようです。まだ、何も確固たることは言えそうにないですし・・・。私が自分に出す宿題になってしまいました・・・(汗)。

 

GW Boot Camp 記 X

5月6日(月)

英語の習慣と時間管理

健康と学習

Determiners:名詞につける冠詞・不定代名詞など数に関するもの

さまざまな疑問文

 

さらに時制を深く堀りこむ

さらに助動詞を深く掘りこむ

さらに前置詞を深く掘りこむ

 

到頭最終日が来てしまいました (・・;) 毎日さほど疲れることもなく、ビールもおいしく、翌日もしっかりと明るいおはようで開始できる日々でした。

 

しつこく、さらいしつこく、継続のコツは、勉強をしている風にしないで、スキマや移動の空いている時間に「習慣」として、ちょちょっと当たり前のこととしてやってしまう体質にする、というのを、Precious One English Schoolでは激励しています。

 

そのために時間管理の「理想形」をご紹介して、達成のための流れやポイントを自分なりに組み立てられるかどうか?を検討してもらう時間を取りました。

 

さらに、健康に関しては「死ぬまで自分で動けるように健康でいることをイメージする」というのを、みなさんの総意のもと、展開していきました。

 

determiners: 【文法】 限定詞常に名詞の前に置かれる機能語で,冠詞形容詞的用法指示および不定代名詞代名詞および名詞の所有格などをいう》.

 

文法の世界で、これをまとめてやっているスクールは少ないです。名詞には距離感がある、とPrecious One English School では説明しています。

 

さらに、さまざまな疑問文を網羅しました。5W1H+2H(Whose/which)を含み、どんなふうに疑問文が効果的に使えるのか?など、英語らしい表現も学びました。

 

結局、日本人の弱い文法は、

1.Determiners を含む、名詞の単複と冠詞

2.前置詞

3.時制

4.助動詞

だという結論が出たGW Boot Camp 10日間でした。

 

が!本当によかったことは、やろうと思えば、10日間くらい、朝から夕方まで授業は受けられるということ。大人になって、「そんなの無理だー!」と思った人でも、やり遂げられたことにより、何か裡側にあるものが、確実に変わったことを実感できることです。

 

自習に来る確率も増えていますし、チャットワークもおしゃべりが軽くなってきました。

 

やればやっただけ結果が出るようにすることは可能です。次回は、お盆のお休み時を予定していますが、うーん、私も少しは休みたい気持ちもあります(笑)。

 

年末年始も予定したいですが、まだ見えておりません。幾日かはやろうとしています。

 

アンケートを別ページに載せておきましたので、ご興味がある方はこちらから。

 

自律的規範

03/26/2008 にアップした文章です。

なんだか漢字を並べた堅苦しいタイトルではありますが、ここのところ、読書がハードボイルド寄りになっており、しかも英語で読んだものをベースにしているので、チャンドラーがらみな考え方になっているのだ(爆)。元々、面倒くさがりでズボラな私なのですが、私なりの自律的規範というのがあり、昨日のように、ただただ意味なく数学をやってみるわけでもないということは、汲んでいただけたらうれしい(笑)←ここで自分をアピールしても一文の得にもならぬのだけれども・・・(汗)。

 

自律:(1)他からの支配や助力を受けず、自分の行動を自分の立てた規律に従って正しく規制すること。(2)〔哲〕〔(ドイツ) Autonomie〕カント倫理学の中心概念。自己の欲望や他者の命令に依存せず、自らの意志で客観的な道徳法則を立ててこれに従うこと。⇔他律

規範:(1)行動や判断の基準・手本。(2)〔哲〕〔norm〕単なる事実ではなく、判断・評価などの基準としてのっとるべきもの。準拠。標準。規格。

 

ハードボイルドの基本というのがこれ。

 

ハードボイルド:〔(卵の)固ゆでの意から転じて、冷酷な、非情なの意〕(1)第一次大戦後アメリカ文学に現れた創作態度。現実の冷酷・非情な事柄を、情緒表現をおさえた簡潔な文体で描写していこうとする。ヘミングウェーの初期の短編がその代表的なもの。(2)感情をおさえた行動的な主人公の登場する探偵小説の一ジャンル。D =ハメット・ R =チャンドラーなどがその代表的な作家。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89

 

『カサブランカ』で泣いた方は、ぜひぜひその原作にも触れていただきたいものです。どうしてラストで彼らは別れたのか?あれが、ハードボイルドの自律的規範なんですよっ!あそこで、ボギーは彼女(Ingrid Bergman)と結ばれることは充分すぎるほど可能だったのですが、別れる。それは、ボギーも彼女も、自分なりの規範というものを持っていたからなのです。誘惑がたとえ多くとも、ハードルが低くとも、自分が決めた規範だけは裏切ってはいけない。

 

私も、面倒くさがりでズボラを自称していますから、ともすればすぐに流されて、ラクなほう、ラクなほうへと堕落していくチャンスだらけです。が、ちゃんと留学も叶いましたし、英語も話せるようになりましたし、パイロットにもなり、大学にも最初からトライしなおして卒業しましたし、日本に戻ることになってもアジャストしました。周囲には「できないだろう」とよく陰口を叩かれたものです。が、私には他人の評価も、他人の決めた法則性も、他人の思惑も、まったく中心にはなかったです。もちろん、まったく聴く耳を持たないだとか見ないでいることはできませんでしたが、惑わされるようなことはなかったです。

 

これ以外の何に、人は支えられて生きていくのか?と、今の私は思います。が、ヒトでしかなかった頃からずいぶん長い時間をかけて、人として生きていける学習を積み重ねてきたのだなぁと、体感します。今も時折顔を出す私のヒトの部分は、面倒くさがりでズボラな私を前面に出します。が、規範は私から消えてくれることはなく、誰に命令されずとも、誰に注意されることも必要とせず、私を軌道に戻してくれます。ヒトはいつそのようなものを身につけるのか?

 

子どもの頃は、「躾」という名目で親があれやこれやと世話を焼いてくれます。私は、素直な部分は素直だったようですが(西さんは死ぬほど素直だったので、対面した母親が箸の使い方を教えてくれたときに、「まねしてみなさい」と言われ、そのまま鏡に向かったように左手で箸を使っていて、うまくいかなかったそうで・・・。母親もしばらく気づかなかったそうで・・・爆)、私は何を言われても、ほぼすべての物事をソコソコにはうまくこなせてしまっていたので、しつけられたという記憶はありません。ただし、「迷惑をかけるな」的な躾というのはされましたね。泥んこになって戻ってきたときには、玄関にて洗面器で足を洗ってから上がる、だとか、その後、それができないなら靴下を脱いで遊びに行けだとか、それもできないなら靴を履かせないなどという極端なことまで出る始末で(爆)。そこで、意地っ張りの私は、数日、裸足で遊びましたとさ(爆)。まだアスファルトが少なく、それほど苦に思わなかったんでしょうね・・・。でも、近所の親御さんが注意をして(ガラスの破片で足を切ってはいけないよ、等)母が折れた感じです。

 

私の場合は、あまりにもきれいにすることをうるさく言われたがゆえに、それに関しては徹底して身についたというよりは、スタンダードが高い基準を下げて、衛生的であれば・・・と妥協していますねぇ(笑)。しかも、勉強のときなどは、教科書や資料が山積になっていないとむしろ落ち着かない・・・。それでも救われない程度ではなく、やはりモノを最初からたくさん持たないことや、デコレーションをしないことで、なんとか辻褄が合っています(笑)。シャワーは毎日入るし、お風呂も今は隔日か2日おきくらいには、足湯か半身浴をやっていますしね。

 

母が今もお洗濯をしてくれているのですが、なんだかいつも出すだけで悪いような気になっており、小さい頃からやっていたことは今も励行しています>下着と靴下は自分で手洗いしてから洗濯機に放り込む。これも躾の一貫なんでしょうか?だとしたら、うまくパブロフのわんちゃんになってしまったものだわ・・・(汗)。それにつけても、自発的というのがいかにキーワードになっているか?を考えると、読んでいるみなさまも思い当たる節があるに違いない。私は、他人に無理やり押し付けられたことは暴力を振るわれても絶対にしないのです。散々父に殴られましたが、イヤだと思ったら断固としてしない。そのイヤだと思う基準も、気分だけの問題ではないことは、周知の事実になってきました。子どもの頃は、親たちもさぞ理解しがたかったことでしょう。

 

スピードを出してもいいが、他人には決して迷惑を掛けてはいけないと思ったら、私はサーキットランをするようになりました。そこでちゃっかりアルバイトもできたし、反社会的な道徳観も、捻れば何とか+になるものです。他人の恋人と恋愛していいかどうか?というのも、ヒトによってはOKなのでしょうが、私はダメですね。とにかく面倒だ・・・(爆)。宣言してから了解を取れればいいようなものの、それでもそんなことを過渡しないといけないことが面倒である。自分よりも大切なBeing(存在)というのが、そもそも私にはとても少ないので、しかも自分で自分の面倒を見ることができないBeingなどにあまり興味を持てないので、反社会的道徳観をいくばくか持っていたにしろ、他人に迷惑を掛けたことはこれまでにとても少ないです。うーん、割合的な問題ではあり、何回か引っ掛ってるか・・・(爆)。でも、何も実験しない人生よりは有意義でしたよ。

 

メリハリが利いた日々を送るためには、健康を大切にするには、人生を満喫するには、人類の英知に感謝しつつ生きるには、私にはたくさん規範があり、わずか2・3分でも本を開いて読んだり、たとえ1問でも問題を解いたり、意味がないとしても信号機で停まったり、借りたものに利子をつけて返したり、ビールを飲んだらそれを相殺するエクササイズをしたり食べ物を摂取したり、母を使ったら見合うように労ったり、文句を垂れたら抱きしめたり、と、まぁ忙しい日々を送っているのです(笑)。

 

スペンサーが物語の中で、お金によって殺人を引き受けるホークについて、「彼は怖くて悪い人間かもしれないが、立派な人間だ。その違いがわかるか?」と問うところがあります。私は、自分の規範を持ってそれに即して生きている人を、たいへんに立派な人間だと思うので、ヤクザやマフィアの中にも、立派だ・・・と思う人もいるし、スパイや政治家でも立派だ・・・と思う人がいるのでしょう。それに反して、烏合の衆の人気取りや全体の基準で行動している人間を、屑だ・・・と思えてしまうのです。

 

やっぱり私は自分の規範で今後も行動していこうと思います←だから商売は儲からないんだけどさ・・・(爆)。



久々に数学でも・・・

  1. 03/25/2008 にアップした文章です。

 

ここのところ、頭が硬化しているのではないか?という疑いを持って、なぜか中1からの数学をやり直してみようかと思い始めています。なぜならば、英語学校という名目で、年齢の下のほうの下限を定めておらず、英語をやりたい人なら誰でも基本はOKなので、「そこで数学の質問でも出た日には・・・」と少し考えたのです。「なんでそんな暇なことを・・・」と言われそうですが、実際は、問題は1題につき、2分もかかるわけもなく、連立方程式や一次関数ですから、やっぱり1問で2分くらいだよねぇ・・・。私は、中学の頃にはすでに「女の子は別に数学なんてできなくてもいいよ」と言われて、それに洗脳されぎみだったところもあり、それほど真剣に数学をやった記憶がなく、そのあと、アメリカで教養からやり直したときには、日本語の問題ではなく、全問英語だったので、日本語の問題でもやってみようかな、と。

 

中学校2年くらいの数学からでもいいか、と目次を見てみたところ、

1. 式の計算

2. 連立方程式

3. 一次関数

4. 平行と合同

5. 三角形と四角形、円

6. 確率

となっている。もう少し詳しく見てみると、単項式の情報や累乗、除法などもあって、なんだかとてもなつかしい気もするのだけれども、やっぱり英語でやったGeometryのクラスのほうが簡単だったろうな・・・と思ふ・・・。でも、英語で授業を受けつつも、私は九九だけは日本語だった・・・。

 

私の生徒さんで韓国人の女の子はもっと不思議で、中学校から在日の韓国学校に通い始めているのだけれども、やっぱり数学の問題の九九の部分は日本語でやっているらしい・・・。英語は、私が教え始めてからは、訳すことをしなくなったし、訳している暇があるほどの量や時間のゆとりもTOEFLの問題ではないのだけれども、国語能力について知りたかったので、いろいろインタビューしたところ、韓国語の小説は生涯で、教科書に載っている断片的なもの以外は、1冊しか読んだことがないのだそうだ。が、小説は、日本語でなぜか原作が英語のものを翻訳してあるものが大好きだそうで・・・。なんと複雑な頭になっていることよ・・・と不憫に思えたのです。彼女は早くアメリカに行けたほうがいいのですが、親御さんに従うしかないところがあり、早く自立できる道をどうしても見つけてほしいですね。

 

彼女は数学もよくできるので、今度は高校の教科書を彼女からもらおうかと思ったのですが、いかんせん、韓国語であった・・・。誰かきっと持っているだろうから、どんなものなのか、参考書や受験用以外のものを見たいので、「欲しいっ!」と呼びかけておこう・・・。ちなみにこの問題集は生徒さんからもらったもの。なので、「欲しいっ!」と言えばけっこうモノは集まるのかもしれないと思ったりする・・・。今までも、地方のおみやげをもらったり、日本の流行物をもらったりしています。うーん、あまり積極的に「欲しいっ!」と言わないほうがいいのかもしれない・・・(汗)。

 

そして中断して、連立方程式をやってみた。できた♪うーん、できるんだなぁ(笑)。英語でも日本語でもそう変わらないということがわかりつつあり、GREの勉強以来だから、およそ6年ぶりに真剣に数学の問題を解いてしまった。楽しいじゃん・・・♪とオドロキとヨロコビの入り混じり(笑)。

 

先週末の金曜日と土曜日は、総計4人の生徒さんに、「日本語での読書スピードを調べる」という課題を出したのですが、私はそれについて、「いつもと違う面倒なことを宿題として出した」という罪悪感がいくばくかあったようで、「自分にも何か課題を出さねば・・・」と、この土日に考えていたのです。それがなぜか数学だったとは(笑)。

 

やっぱり1問につき、2分くらいはかかりましたね。加減法と代入法があったのですが、両方憶えていました。なんだかパズルのようでとても楽しかった。もし、これをずっと続けていて、誰かがごはんを食べさせてくれると申し出てくれたならば、今の私であれば歓んでやるところなのになぁ・・・。けれども、ホンモノのこの年頃の人々は、きっとこれはやりたくないことのほうに寄っているんでしょう・・・。

 

ついでに、証明のページを見てみたら、角度を出す問題などがありました。合同ってやつです。「うーん、どういう理屈だったかなぁ」と思いつつ見てみると、けっこう楽しい(笑)。やっぱり私は、数学は嫌いではないらしい。

 

そんなこんなを寝そべりながらやっていて(たいへんに悪い態度です。本当は机に向ったほうがいいのに、簡単な問題だと高を括って、寝そべりながら(いつ寝てもよかったので)やっていたら、ベッドの上が消しゴムのかすだらけになった(笑)。なんだか私は誰に提出するわけでもなくとも、きれいに書きたいやつらしい。

 

そしてふと思ったのが、裏紙にやっていたのですが、「確か学生の頃は、罫線が引いてある紙を使っていたなぁ・・・」ということ。確かにあれがあるかないかで、数学のノート取りや計算というのは、格段に違いが出るかもしれない・・・。そのせいで、Neat(きちんと)に書くために消しゴムをたくさん濫用して書き直したんだろう、と、この律儀なところも意外とあることに気づいたわけです。Conditionedされていたということなのね・・・>条件下で訓練されたということ。

 

いやー、久々にやってみるもんですよ。いい発見があります。これくらいのレベルから開始すれば、数IIBくらいまでやってもいいかななどと思える(笑)。だってぇ、計算ミスを未だにするってことにも気づいたら、「うがぁ、電卓の使いすぎなのかしら・・・」などと反省もするし、初歩的な分数や小数などが出てきたときには、「あれ?どうやるんだったっけ?」と日ごろにない計算にワクワクした(笑)。

 

「もしも、数IIBくらいまで続けるくらいの気持ちがあるなら、インド式をやってみたらどうなの?」と、電卓なしでは計算もできない母に言われてしまった(爆)。うーん、インド式は相当いいらしいな・・・。数独も校長センセがおもしろいとおっしゃっていた。そうなると、読書の時間が減るのか?やっぱりもう少し、数学をやってみようかなぁ・・・。

 

実は、私の生徒さんのうちのひとりが、数学科を出て、イギリス留学で大学院に行こう!と目指しているので、少しそれに触発されたのもあるのです。どのくらいの証明問題ができるのか?言葉ではできても、数式ではできないのか?いや、今ならばきっとできるだろう、と・・・。こうして、いくつになっても、学生でいたい血のようなものは、またフツフツと滾(たぎ)ってしまったのである・・・(爆)。

字を書くヨロコビ

2008年3月くらいにアップした文章です。

なぜかヨロコビシリーズになっているのか?と思いつつも、我が家にホワイトボードが届いてからこっち、どうしても字を書くのが楽しくてならぬ・・・。まだそれほど使っていないのだけれども、しかも掃除は母任せなのだけれども、字を書くのっていいですねぇ♪幼稚園の頃、初めて字を書けるようになったのですが、近所ののんちゃんがいわゆる早期教育を受けていて、私の家では焦りまくり、無理やりという流れではあったのですが、あれが正解でしたね。字だけ読めて書ければ、あとは図書館任せ、本任せでOKという放置状態に、今は感謝しています。そののち、習字も習わせてもらっていたのですが、それは母の洋裁の先生が紹介してくれたので仕方なく・・・。その証拠に弟は行かせてもらえず、格安であった(いくら30年前だからって、1ヶ月4回1000円スタートはすごいよねぇ・・・)。

漢字検定もいつか受けてみたいなぁと思っているのですが、それには他人に判別していただけるような字を書かねばならないではないですか。英語講師が板についてきてから、ホワイトボードに毎日何かしら書いているのですが、その書き方というのもなんだかとても要領がよくなってきており、まとめ方も見せてあげられるというのがうれしくて仕方ない。

 

しかし、私は字がそれほどきれいでもなく、「別に・・・。うん、読みやすいんじゃない」程度なのです。さらに、英語は小文字のn とuの判別がつきにくいらしく、さらにrがやはり読みづらいらしい。申し訳ない・・・。筆記体よりはいいよねぇ、と思いつつも、字を書くスピードをもう少し遅くすれば読みやすいだろうに、とは思う。が、遅く書けなくなってしまっているところがいかんです。しかも話しながら書くことが多いですから。生徒さんたちには、わずかでも多く、発音を実際に聴いてもらう機会を増やしたいがために、生徒さんに発音してもらう時と自分が発音するときのメリハリを意識してつけています。字を書いているときに、必ず発音するようにしており、それを聴いて違いをわかってくれる機会の数を増やすことは、日本人講師といえども大切です。

 

私が常任している英語学校では、黒のほかに、青・赤が常備なのです。私はそれに緑を加えるべきかどうか、今思案中です。色があったほうが楽しいことは楽しい・・・。強度や重要度やアクセントや判別の容易さを色で分けるというのは、なかなか贅沢でもあります。私が小さい頃の黒板というのは、白を貴重にしてあり、あまり赤(正確にはピンクだった・・・)や黄色や青は使われておらず・・・。なんだか贅沢品だったような。おそらく、高かったんでしょうねぇ。今、ホワイトボード用のマーカーをネットで売っているところを見てみても、値段はまったく変わりません。不思議だ・・・。技術の進歩なのか?

 

しかも、教えていて思うのですが、英語に自信がない生徒さんたちの場合、「ホワイトボードに書く」というのであれば、それほど抵抗もなく、むしろ楽しい模様。3分で3文考えてもらい、それをホワイトボードに行き書いてもらい、みんなに確認してもらうのは、発言して発音するよりはずっと気楽な作業らしい。さらに、先週のReviewを、生徒さんにまとめて5分から10分ほどしてもらうこともあるのですが、ホワイトボードをどうしても使いたいのです。なぜなのか?は次の段落で。前に立ってもらってテレも隠せるようで、これはいい♪

 

こうして考えると、日本人がWritten Language(書かれた言語)に頼る率というのは、かなり大きなものなのだなぁと思えてならぬのです。私はこれを、初めてアメリカに行ったときに痛感して、歯軋りをしたものです。生徒さんたちが、先週の授業のReviewをどうして書いて説明したいか?というと、発話だけではなかなかしきれなく、例文を書いたり、私がまとめたものをそのままコピーしたりすることが多いです。その後、自分としては納得して複写したはずなのに、どうしてか行間が残っていない・・・。ということは、私はもっと細かく説明を書かねばならぬことになってくる。授業時間が減っていく。とジレンマがあるわけです。

 

そもそも、なぜ、日本人はWritten Languageに頼るようになっているのか?言語的に派生した文化や意識の問題なのですが、あるひとつの言葉がもたらず常識がかなり広範囲で共通していることによります。個人的意識は総意に沿うものが望ましいとされてきているので、語彙にはそれほどのブレが生まれないと、どうしても思い込んで暮しています。なので、写している最中にはそれほど気にならない理解のズレやブレが、自分が説明する段になると、どうも埋まらない。

 

それに拍車をかけるように、TVも字が濫用されています。タイトルやキャスト表示などは仕方ないとしても、字幕やニュースの要約など、知らず知らずのうちにWritten Languageに頼っていることを、日本で暮している日本人は気づかない。報道に携わったり、文章を書くことを生業としていたりする人々が、すでに一般人のために要約してくれたものをただひたすら読むだけの日々になっているわけです。そして、知った気になり、わかった気になる。弊害は途轍もなく大きいと思われます。

 

私はアメリカで、TVを見ていきなり気づきました。ニュースなのに、映像以外の文字がほとんど登場しない。しりもちをつくほどびっくりしましたね。スッテンコロリン状態でした。タイトルくらいです。あとは、中継をしている先のロケーションくらい。記者の名前すら出ないことが多い。有名記者やコメンテーターやキャスターであれば、ますます出ない・・・(汗)。私がPeter JenningsやDan Latherを正確に知ることができたのは、TVを見ながらアメリカ人に質問をしたからで、ひとりだったら、おそらく長いあいだたどり着けなかったことでしょう・・・。この常識を押し付けない態度は、ほとんど建前だけではなく、本音としてアメリカには全般的に存在しています。情熱を持って調べなければ、なかなか情報というのは確保できないのだ。厳しいサバイバルが求められている世界だな、などとハードボイルド風に思ったわけです。

 

そこでWritten Languageに長く冒されてきた私は、クイズ番組でパネルのあるものを選ぶわけです。そうすれば、スペルもわかるし、発音しているのも聴けるし(問題を読むときや、正解を繰り返すときなど)、少しだけ移行していける気がしたわけです。

 

その後、アメリカ人の「要約」が全般的にあまりに下手なことに気づくわけです。頭がいい人はチャートや図式化することがたいへん上手なのですが、そうでもない人は、だらだらと文章で書く。ひょっとすると、日本人としてWritten Languageに冒されてきたメリットというのもあったかもしれない、などと思った瞬間です。

 

ただし、昨今の日本人は、長い文章そのものから遠ざかっているので、「ああ、そういうふうに要約するのか!」(英語でいうと、Aha!)というようなことが、どんどん無くなっている気がします。

 

しかも、アメリカでもインターネットが普及してこっちは、Written Languageに頼る傾向の割合は増えている気がします。学力がさらに落ちるのか、あるいは「中庸」に行き着き、そこで落ち着き、学力アップに繋がるのかは不明です。未来が語ってくれることでしょう。

 

そんなこんなを考えているうちに、いつしか私は、Audienceが小さいとしても、私も「伝える側」に立ってしまっていることに気づきます。ならば、それを要約するノウハウまでに広げて書こう、と。そんな決意は、決められた範囲での時間やコース内容などに阻まれるのではありますが、今のところ好評をいただいており、毎日が楽しいです。しかし、字を書けるってすごい。Written Languageを持てる民族に生まれて本当によかったよ♪

 

性を売る仕事

03/23/2008 にアップした文章です。

 

予告通り、Hundred-Dollar Babyを読み始めて、仕事が忙しかったことを予測し、温存しつつ、楽しみつつ、ゆっくり読もうと思っていたのに、1日で終わってしまった・・・(汗)。うがぁ。金曜日の夜、電車の中で読もうと思っていたのですが、添削があったのでそちらをやりつつ、「えへへ、読めなくなってよかった」とにやにやしつつ、その後、コピーをしつつ、Anticipationを高めつつ、とても緊張していたのです。Speed Readingというグループの時間に、そのChapter 1がどのくらい難しいのか?という質問だったので、コピーをして見せてみたところ、「読めるかもしれない♪」と生徒さんたちに言われて気をよくし、その帰り道から読み始めたのでした。

 

金曜日の夜は、翌日の仕事がたいへんなこともあり、母がなぜかケンタッキーフライドチキンの金黒ごまなんとか揚げというのをつまみに、ビールを2本買ってきてくれてあり、堪能してしまい、そのまま爆睡。翌日の電車の中から読み始めたのですが、朝の10時から夜の8時までのうち、当日キャンセルが2コマあり、その時間におにぎりを食べながら読んだだけで、100ページを超えてしまった!この本はわずか300ページ弱なので、いささかヤバイと思いつつ、帰り道にすでに160ページを超えてしまったので、もったいないと思いつつも、夜道で二宮金次郎をしながら帰宅。ごはんをひとりで食べながらも読み続け、そのまま読み終わってしまったのでした。惜しい。クタクタに疲れていたら、今日まで楽しめたものを・・・。

 

今日の仕事も、午後1時から夜の8時過ぎまでなので、なんだかエッセイのことを気にかけつつ、一気に読み上げてしまったのでした。ネタバレがあるので、ご自分で、日本上陸を待ちたい方は、この先は読まないでくださいね。

 

スペンサーシリーズの第2作で、スペンサーはスーザンとも出会うのですが、その事件は悲惨なもので、15歳の少女が大人の思惑に翻弄され、いつしか売春をして独り立ちし、親からも学校からも離れて生きていくというものでした。事件が解決した最後に、スペンサーはApril(エイプリール)の成長しきれていない主張を飲むしかないことになります。この決断を、私は最初、「すごすぎる」と思ったのですが、いつになったら「ツケ」が追いかけてくるのだろう?と思ったのです。Robert B. Parkerが生きていて書いているあいだに何かが起きるであろう、と。スペンサーは、エイプリールの「あんな親とは縁を切るし、学校なんか信用できない。私は売春をして生きていく」という決心を受け容れ、「どうせ売春をして生きていくのであれば、最もリスクの少ない高級コールガールの道へ」と、New Yorkのマダムのところに彼女を連れていくのでした。

 

売春のまとめ日本語版 

http://en.wikipedia.org/wiki/Prostitution 英語版

 

そして、シリーズ35作中半分くらいのところで、エイプリールが再登場します。今度は、高級コールガールになり、間違った男と恋愛をし、マダムのところから脚抜けをして、その男がPimp(上前をはねて統括する)になり、利用されまくっていたところで、またもやスペンサーが助け出すという設定。無事に、高級コールガールに戻ってしまうわけです。そこでもチョイスがあることを示されるのですが、15歳から続けている仕事から、彼女は離れることができませんでした。

 

そして、35歳になった彼女が登場するHundred-Dollar Babyですが、悲しい結末でした。もちろん、これはRobert B. Parkerの世界観が作ったものですが、マダムのほうは、ボディガードだった恋人に死なれ、娘同様に育ててきたエイプリールのために、ボストンに支店を、損を覚悟で出してやります。話が進むにつれ、物語の全容は明白になるわけですが、私はどうも第10章くらいからわかってしまっていました(今回は、64チャプターまであった)。

 

女として性を売るには、男に頼らねばならず、それでも男たちには裏切られ続け(エイプリールの場合は父や本気で好きになった何人かのクライアント)、肉体的衰えがあり、幸せとは言い切れない毎日が続き、マネージメント(女でも女性からPimpingするということになっていく。が、女の子たちに好条件で助け合いながらやろうとする)に立っても、クライアントからは「ボスとやらせてくれ」という高額な頼みはある。マネージメントは、地元のマフィアや警察との密な繋がりが必要で、神経を尖らせておかねばならないことがたくさんあり、それらはほとんどが男たち。

 

エイプリールのPsyche(サイキ)は壊れていることが、読み進めるにつれ分かってきます。筋肉が必要とされる仕事もあり(暴力で身を守る)、上前をはねようと狙うイタチのような人々がたくさん出現し、彼女が疲れ果て、マダムにはなりきれないこともわかっていき、本当の愛を見つけようとしても、彼女をまるごと受け容れてくれる人はどうも見つからない。

 

スペンサーは彼女を助け続けることを使命としているのですが、今度も助けることだけに固執し続けます。が、殺人が2つ起こり、その犯人が彼女であることを疑えてしまったときに、彼は彼女を警察に渡すことを拒否します。対峙して話し合いがもたれたときに、彼女の銃口に曝されるのですが、彼女は矛盾を裡側に抱えながら、彼に救い続けてもらうことを選ばずに、自滅することを選び続けた自分の人生を清算してしまいます。結末は、読みながらわかっていたはずでしたが、悲しかったですね。

 

私は個人的に、風俗や売春に対して偏見は持っていません。以前も書きましたが、「その事実、体験をずっと抱えながら生きていくのは至難の業」だということは、今もやはりこの小説を読み終えて揺らいでいません。がゆえに、私はPTSDにもなったのだろうし、売春を生業にしたこともないのでしょう。マダムは、経営をしながらも、自分はとても早い時期に売春そのものを止めていました。それがコツだと語る場面があります。私はそのようには割り切れない性格なので、やらなかった自分に対しては及第点を上げています。

 

人がどのようにどんな職業を見て査定するかなどは、実際は根底事項ではなく、自分が人々の思惑に翻弄されやすい人間なのかどうかを見極めているかどうか?が、そもそもの問題なのかもしれません。もっと根底にあるのは、自分がしてきたこと、積み重ねである自分の過去の行動に対して、どれだけの正当化が自分の中でできるのか?です。嘘や無理な正当化は、孕んだ矛盾をどんどん大きくさせていくだけで、何も鎮めていかず、心が壊れたまま、幽霊のように生きていくことになってしまうのかもしれません。自分の存在や考え方を否定されたあと、再出発やセカンドチャンスを信じることができないまま、路線変更ができなければ、売春は生業にしないほうがよさそうです。夢をかなえるために、売春をして元金を掴んだとしても、その事実はいつまでも自分を追いかけてくる。それに耐えられない人は、時間がかかったとしても地道にお金を貯めたほうがいいです。

 

私は未だに売春が悪いことだと思っておらず、子どもでもなく、強要ではない場合、大人同士が報酬を挟んで性行為をすることは、その個人たちの意思決定だと考えています。ただし、危険要因がたくさんあるので、それに向き不向きもたくさんあることは確かです。性病や暴力やその他、実際にイメージだけではない実在する危険要因を回避するか、解決できる能力がなければ、サバイバルはできません。サバイバルしたあと、辞めたいと思っても辞められるかどうかは、個人に掛かってきます。過去は必ずくっついてきて、葛藤をもたらします。

 

そしてスペンサーは、大きな心の傷をまた引き受けて、探偵仕事を続けていくのでした。とはいえ、私はRobert B. Parker氏の健康が心配です。ずっと書いてくれぇぇぇ。

 

GW Boot Camp 記 Ⅸ

5月5日(日)

日本人マインドと英語 ①

日本人マインドと英語 ②

価値観と世界観

人生におけるゴール:美意識の形成と英知の獲得

 

TOEIC スコア100点アップ①

TOEIC スコア100点アップ②

TOEIC スコア100点アップ③

 

午前中はしつこく心理レッスンを促進しました。いい塩梅で理解してもらえた異国文化・国際化の本質をそのままもっと伸ばしたい!という観点から、なぜAssertiveness というのは、単なる自己主張ではないのか?という見解から、本当に言うべきことは言わねばならぬ、というタイミングや場、相手なども含め、英語の本質をさらにつかめるようにと事例や例文なども含め、バンバン進めていきました。

 

多くの生徒さんに理解に到達したヨロコビがあったのは、「一体感」という単純な言葉だったかと思います。

 

一体感:一つにまとまったと感じること。グループやその場にいる人々の気持ちや考えが一つにまとまること。

 

どのようなバックグラウンド・認知・メンバー・対象物により、この一体感に違いが出るのか?ということを、劇的な差異として感じてもらえたかと思います。映画などではよくあるんですけど、自分たちが暮らしていくと、これはなかなか実感しづらいものです。

 

英語を話せるようになることは、文化ごとその特質や長所・短所を引き受けていくこと。長所になるような相手・場・機会・相手を選び取り、しっかりと話すことなど、胸に刻まれたと思いますが、やはりたびたびやらないといけないかもしれないです。

 

染みついていくためなら、Precious One English School はあの手この手を使っていろいろやる!と、さらに決意を深めた午前中でした。

 

物事を長い目で見られる人=賢い人

 

というのが単純に分けられる賢い人の見分け方です。短絡的であっていい部分は山ほどありますが、よく考えられた物事に時間軸が長くついていると、さらにすごい!そしてそれが蓄積されていくと、英知へとなる、という論理で午前を〆ていきました。

 

午後は、もう100点アップするためのTOEICという検定試験の法則性のポイントをReviewしたあと、実際の過去問題を一通り2時間少し分こなしていただきました。その後、解答の解説をして、あっという間に3時間が過ぎた感じでした。

 

Listeningが劇的に上がった生徒さんは、4月28日日曜日からの1週間で、さらに上がっており、毎日英語漬けだったものの、たった7日間でさらに60点も上がるものなのだなぁと、つくづく本人の意志の強さや、環境づくりというのはすごい効果なのだ!と、飛び上がりたいほどうれしくなりました。

 

GW Boot Campが終わって2週間後にこの記事を書いていますが、まだ彼女の英語に対する習慣化への努力は続いており、毎週3回はスクールで顔を見させてもらっています。ゆえに、また違う角度で、また違う言葉で、いろいろなものを新たに発見してもらい、それを脳内に入れ込んでもらい、早く体感に落として、自分でもアウトプットしてもらうために、いろいろとおもしろいカリキュラムにしていこう!と、決意新たです。

 

あなたにはできる?

03/22/2008 にアップした文章です。

 

この世の中にはお金持ちがかなりの数いますが、巨額の富の中から、恵まれない人々にそれらを分けたいという気持ちを持てる人の割合というのは、かなり少ないのではないか?と悲しく考えています。私は、持てるものはいろいろな人とシェアしたいという気持ちがむしろ止められず、西さんには「よくばら撒くねぇ・・・」と苦笑されているのですが、持っていたらもっとしたいです。なので、ドラマの『星の金貨』の原作でもある、グリム童話も胸打たれるんだろうな、と。ただし、いかんせん、ナマミの人間である私は、自分の持てるものすべてをあげてしまうことなどはできず・・・。

 

グリム童話の『星の金貨』をドイツ語から日本語訳しているサイトを見つけました。

http://www.h5.dion.ne.jp/~catari/grimm.html

 

今日のお題を触発してくれたニュースはこちら>

http://www.people.com/people/article/0,,20185795,00.html

Angelina JolieとBrad Pittのカップルが、去年度寄付した金額の総計は、8ミリオン以上だったという記事(約8億5千万以上。ただし、外貨為替の推移がものすごいのでこの金額だとすごいブレが出ます)です。この記事の中で、Morgan Freeman(Shawshank Redemptionがおそらく日本ではイチバン有名?)に、「あのすばらしいすべての美は横に置いておいても、彼女は本当の人間らしい人間だ」と言わしめています。

 

私がうれしいのは、彼女がまだまだ売れる前、アメリカでやっとGiaという映画の主役に抜擢されたときから注目していたので、「うへぇ、私には見る目があったんだなぁ」というヨロコビ。1998年くらいでしたか。うん、1999年のGolden Globeをもらっているので、確か1998年くらいに彼女の存在に気づいたんだなぁ・・・。偉大な父親を持つハンディなども見たし(父は『真夜中のカウボーイ』のJon Voight:Tomb Raiderでは共演)、2003年のBisexual RelationshipをモデルのJenny Shimizuが勝手にカミングアウトして、潔く認めたり、アカデミー賞助演女優賞ももらったし・・・、といろいろと楽しく見せていただいてきました。私も大好きだったBilly Bob Thorntonとはあっという間に結婚して刺青まで入れて、彼に見限られて離婚しましたが、その後、Brad Pittに出会い、今に至ります。今度は、きっと安定しているのだろうと思えるのは、ものすごい決断だと思えることを、どんどんしていること。

 

アフリカ・カンボジアからの養子が3人、実子がひとり。妊娠中の子どもが双子と決まっており、家族は、8人になる予定。この雑誌(People)では、子どもとOuting(外出)している様子も載せているのですが、その母親らしい表情やしぐさというのは、以前にはなかったものです。日本に伝わっているかどうかわかりませんが、インタビューでは、国連大使の使命についてや、彼女の世界観などをたまに語っています。ものすごく共感しますね。

 

そして、実際に、Bradが4ミリオン、Angelinaが4ミリオンを「はいっ♪」てな調子で寄付してしまう。持てる人々は違う、と一言では言えないことなんじゃないかと思うんですね。

 

持てる人々のほうがケチだという統計もあるくらいで、なぜか貯め込みたい人々のほうが多いのかもしれない。日本でも、平塚だったかの高齢の女性が、2度に渡る億単位の寄付をしていましたが、そのときにはびっくりして画面を凝視してしまったものです。でも寄付先が市だったんですよね・・・。他にも、他界したあとの寄付で、赤十字に3億というカップルなども見ましたが、やっぱりニュースになるくらいのことなのだ、と。

 

もしも1億持っていたとしたらあなたはどうしますか?という仮想現実の問いを私はよくやるんですが、イマドキは1億という金額では、家を1軒買ってしまったらおしまい(あるいは夢のお家は買えない)ので、10億にしています。10億の中で、「身内にあげる」という答えはものすごく多いのですが、「寄付する」という発想は、日本人にはあまりないらしい。私の基金計画をそこで話してみると、ものすごく驚いたりするので、お金に対するオプションが少ないのかもしれないと思えるので、中学や高校で、クレジットカードや金融商品や不動産、お金の貸し借りに関しての授業をやればいいのに、といつも感じるわけです。

 

自分の英語学校を始めようと、モデル実験をしているところなのですが(これは11月か12月まで続く)、その料金体制も、掟破りな制度になっています。英語学校の半額ほどをメドにしており、それ以下なことも発生しますから。それでも搾取分(聞こえが悪いなぁ・・・苦笑)がないだけ、私の腹は痛くも痒くもないわけです。私は普段から、サービスをモットーにしており、英語だけではなく、関連することであれば、徹底的に調べて手渡しますし、添削もしますし、授業中に問題を解くような時間が減るように鋭意努力しており、好評なので、口コミでの生徒さん紹介を少しだけ期待しています←そんなにうまく行くのか?(笑)うーん、地理的なことがあって、いろいろ難しくはある・・・。

 

基本的には、たいへんにGivingな私であるのですが、その私が、「すごぉーい!」と思える暮らしぶりなのは、やはり収入が多すぎる彼らの稼ぎ高なのでしょうね。映画1本で10ミリオン以上を稼ぐのであれば、その中から4ミリオンはそれほど痛手でもなく・・・。ただし、自分の収入の4割を「ぽーん!」とあげられる人というのは、それほどいないのではないか?とは思うのです。

 

あなたは、10ミリオン持っていたとして、4ミリオン、自分の信じる団体に寄付できますか?

 

条件付だと思うのですね。

-次の仕事のアテがある

-不動産収入が当て込める

-生きていく年数の計画が立っており、利回りなどが計算できる

などなど。

 

以前話したように、宝くじの高額所得者ですら、身内にあげることはあっても、なかなか大きな金額の寄付はできず、した人のほうが破産宣告はしていない、という統計が出ています。たとえば、宗教団体に寄付して教会の建物を作ってしまったり、自分の商売を気前よく従業員に上げてしまったため、従業員がお礼のつもりで、毎年株主として収入を確保してくれたり、など、のちのちに繋がるお金の使い方というものがあり、その機微、人との繋がりを考えながらお金を使える人々は少なく、しかも私利私欲が中心や動機になっていては、それも見透かされてしまう、と・・・。

 

『金は天下の廻りモノ』という考え方ができるかどうか、というのはとても大切なことだと思えるんですね。倹約をして、しっかりと暮している若者の特集を見たことがありますが、せっせと倹約しているだけで、楽しんでいるのか?と疑問を持ってしまうほどのすごい人というのはたまにいます。その貯めたお金をどう使っていくのか、その時に、本当の人としての真価が問われるような気がしています。