コラム

 英語だけではなく、どんな母国語であってもヒトは必ずListeningから学びますよね?第2言語であっても、必ずListeningから学んでいただくことがMUSTです。第2言語だからといって、文法や語彙から学ぶ必要性を強調するのは違うと思いませんか?

 

どんな国に生まれ育ったとしても、ヒトは必ず母国語をListeningから学びます。お母さんの胎内にいるときには、まだ脳細胞が発達していないため、聴覚神経もあまり綿密には繋がっていないのでまだHearingになるかならないか?と段階ですが、生まれる前にはきちんとListeningしていることは証明されています。

 

ゆえに、最初に発達した能力を生きていくために、言語でもしっかり使っていく方向性にしていくのがベストではないか?という推論は成り立ちませんか?その後、ヒトは片言で拾った語彙を次々と表現していくようになります。必要なことから耳で拾って、その後、それを再現しようと口にします。

 

それでは確かに効率は悪いのです。だからこそ、赤ちゃんではない脳の場合、Listeningを意識的にしていくことで、音も拾えて、語彙も拾えて、意味も推測できて、肝心要の理解まで到達するようなListeningの方法を先に学ぶことができれば、英語学習そのものがうんと短くなるはずなのです。

 

語彙を暗記し、文法をしっかり根付かせるよりは、耳から入り体感に落とせたものを、日本語に訳すことなく(いくばくか脳内でチェックしたり、対訳してしまったり、辞書をほんの少し使うことはいいとしても)、文法通りの論理性を頭で理解して繰り返し根性で学び練習問題を学ぶよりは、脳内に染み付いている「あれ?これじゃない」「あ!こうじゃんね」というほうが、信用に値します。

 

それが証拠に、私たち自身も、日本語の語彙は、小学校3年生まで辞書を引くことすら学びませんでした。同様に、日本語の文法もその前後に開始しましたが、日本語を自由に話せて聴けて、読み書きもさほど不自由のない場合、この文法がイッタイ何をしてくれるのだ?と不思議にすら感じることが多かったことかと思います。

 

なぜならば、小学校3年生の時点で、すでに日本語は話せているわけです。当然、聴けてもおり、読み書きを促進させられることにうんざりしているわけです。が、それがないと他の教科も学べませんし、将来的にもっと複雑なことを理解するために、と義務教育とその後の高等教育の準備をしていくわけです。

 

では、伺います。

 

聴き方

 

を正式に学んだ記憶はあるでしょうか?

 

多聴をしろ、ただひたすら聴け、というのが常になっているように感じており、いろいろ探したのですが、ナンセンスな Shadowing・Dictationが効果があるというもっともらしいことを述べる記事もオンライン上では多数見られ、とにかく多聴以外のことがないのです。

 

多聴する前に、「どのように」に触れていないことが、たいへんに効率が悪く、不思議です。子どもの頃の記憶はみなさんにはさほどないはずで、どのように日本語が聴けるようになったのか?を、できれば再現できることが望ましいのですが、なかなか難しいため、Precious One English School の生徒さんたちには、オリジナルカリキュラムで、それに近い、大人がやっても追いつくであろうことを必ず学んでいただいております。

 

今、日本語でご自分が何をどのように聴いているのか、しっかり検証したことがあるでしょうか?耳鼻科に行くのもありといえばアリです。が、それだけでは「認知」している部分はわからず、単なる耳の機能だけがクリアになるだけですね。

 

心理学的には、Self-Serving Biasと呼ぶのですが、ヒトは生きている場所で最大限、自分が生き延びることができるように進化してきました。今もそのプロセスは続いています。環境により、不必要なものは退化しますし、必要なものは進化していきます。それらがうまく行かない場合もままあり、環境が提示するさまざまな物事が混沌としているため、身体特に脳がその判断をミスすることもあるわけです。

 

Self-serving bias: people’s tendency to attribute positive outcomes to personal factors, but attribute negative outcomes to external factors. In other words, “If it’s a success, it’s because of me. If it’s a failure, it’s because of someone or something else.”成功を当人の内面的または個人的要因に帰属させ、失敗を制御不能な状況的要因に帰属させること。

 

ところが、これは当然事実とは異なっている場合が多いわけです。それゆえ、認知的には、「聴いていない」「見ていない」「知らない」とする現象が起きやすいわけですね。だから他者や環境のせいにできるわけです。ゆえに、この自然についてしまっているBiasを知ることで、自分が「聴いていないと主張したり、感じたりしていることも、実際は音として流れているのだ」ということだけでも、せめてわかってもらえれば、学習のその後の成果には、驚くべきほどの差が生まれます。

 

物事には順番があります。それは、赤ちゃんのトイレットトレーニングに喩えられるのですが、筋肉がついていない赤ちゃんは自分で自在に排泄行為を定められた場所ではできないわけです。そもそも筋肉が備わっていないかもしれませんし、あったとしてもその筋肉への力の入れ方がわからないし、場所を変えられる意味もわからなければ、達成感も学んでいなければ、意思もなく、不快でしかないわけです。多聴というのは、これらのような不明瞭さがたくさんつきまとい、どうしていいかわからない「真っ暗闇のトンネル」を歩かせているだけなのではないか?と、私などは思ってしまうわけです。

 

Listeningというのは段階的なものです。まず、日本語でできないことはできない!音の聞き分けを日本語でできていなければ、英語では数倍か数十倍に難しくなりますから、この「真っ暗闇のトンネル」はもっと長くなってしまうわけです。どの程度の音が日本語で聴けるのか?を検証し、どのように聴けばいいのかという徹底的な方法論を知識として身につけて、方向性を見定め、その後、「ある程度の量を聴かなくてはいけないのだろうな」と自分で受け入れ、その後それに対してコミットし、自分の英語耳の進化に対して、「どこに立っているのか」がわかったほうがいいですよね?

 

「真っ暗闇のトンネル」ではなく、あちら側が見えているロープウェイや、大橋や、自分の運転する車のほうが快適です。

 

それが今の日本人に緊急に必要なことだと、私個人は強く思っています。