気づいたら誕生日

10/16/2007 にアップした文章です。

 

昨日、日本に戻ってきて初めて、自分の携帯電話を入手したときに、申込書で、誕生日だということが判明!あー、私はどうしてこうもゆとりがない暮らしをしているんだか・・・。母はちゃんとお赤飯の準備をしてくれており、「もう2週間くらい前から知ってたよ」とのこと。じゃ、どうして教えてくれないんだよ(笑)。忙しく暮らしていることは、仕事があるってことだし、健康だってことなので、感謝感激雨アラレなのですが、節目くらいちょっとしみじみ過ごしたかった・・・。が、プランニングができず、今日も忙しいままに流されるように暮らすことは決定しており、二進三進(にっちもさっち)も行かないのである・・・。

昨日は、よそからのお金が入る日だったので、支払いやその他に奔走したあと、携帯を母と別々に持つことに決定。書いたように、母の妹である人工透析をしている叔母の具合がよくないこともあり、母のボーイフレンドの家に取り付けてある電話機の調子があまりよくないのである。このあいだ、「鍵がない大事件」を起こしたときに判明したらしいのですが、ボーイフレンドは買い換える意志はない模様なので、母に持たせるほうが早い。私は、初歩の初歩の機種をもらい(そうなのよ、タダだったのだ。こんなことってあるのねぇ・・・)、母のほうもらくらくフォンとかいうシリーズの中で、カメラはもう要らない機種にしたら、コレもまたもやタダだった・・・。なんだよ、携帯ゲットってこんなに簡単なことだったんかい・・・。そして、毎月の支払いは、2人で使えるというのに、1600円増えるだけのよう。私が外から「カエルコール」をするので、母が受けるのはお金があまりかからないコースにしたりすると、なんだか思ったより安く、ふたりで6000円を切るようだ。そんなものなのね・・・。

いずれ、もうちょっと仕事が忙しくなったり、携帯に連絡がたくさん入るようになったら、いい機種にすることにして、とりあえずは、とても満足しているのです。

あ、そうそう。その申込み用紙を書いているときに、携帯会社の社員さんから、「お、明日お誕生日ですね」と言われて気づく始末なのは、目も当てられない(爆)。しかも、ぞろ目の44なんだよねぇ・・・。日本に居なければ私は自分の年齢をさっぱり把握していないのだけれども、ここ1年はひしと自分の年齢を感じ続けてきました。コレって、精神的に老けると思うんだけど、どうなんでしょう?しかも、日本では美やダイエットやしわやしみやエステなどの広告が多すぎる(爆)。あれって、少しずつ「あなたも老けて商品価値が減っているんだよ」という行間を、ひとりひとりの女性を脅しつつ、広告しているようなもんじゃないんでしょうか?←被害妄想だって?いやいや、心理学的に、広告効果ってのは洗練してシステマチックに研究されており、だからこそ電通や博報堂などはものすごい企業なのだと思うのだ。

ネコたちは順調に育っており、私が今朝、自分の誕生日のことを言ったら、かわいらしい顔で見上げてくれて、充実した時間をささやかながら持てたのである。なんかコレだけでいいか、と思える誕生日の幕開けだった。

西さんからは、普通メールは入っていたのだけれども、それも昨日の日付分で、今日届いてはおらず。毎年忘れる人じゃないんだけど、どうしたのだろうか?あ、ひょっとすると、今日あたりが台湾から中国への移動日なのかもしれず←把握しろよ、と思うんだけれども、命があって健康で仕事をがんばっていればいいか、と思うやつなのである・・・。でないと長年の別居は続けていられないというのもあり。

他に、数人からメールが届いていたのですが、それについて「ありがとう」は言えても、それほどおおっぴらに返事することもできず、しかも時間が押しており、そろそろ出かけねばならぬのだ・・・。エッセイが前倒しにできず、遅れ気味なのは、ちと忙しいため。地獄のスケジュールの3週間のように、物理的移動が激しいわけではないのですが、仕事が詰まっていたり、打ち合わせがあったり、待ち時間があったり、ということなのです。で、待ち時間にパチンコやさんに行って、短時間で3万ちょい勝ったりしており、誕生日を祝う資金は潤沢にあるものの、時間がないよ・・・(涙)。

八王子の叔母も「おいで」と招いてくれているのですが、時間がないですし(行けば、飲んだり食ったりして時間があっという間に経つことがわかっているので、お泊りコースでないとダメなのだ)、会いたい友だちも数人いるのですが、今、予定がつかないところ。今度の金曜日のランチだけは確保したのですが、あとはちょっと読めない・・・。

しかも、今日は誕生日で、クラスが4つもあるんだよなぁ・・・。勢いづいたら「今日が誕生日」を言うのだろうと思いますが、それが英語で出るのか、日本語で出るのか、勢いづかないのか、まったく読めない。

けれども、やっぱり誕生日っていいな。こんな歳になっても、やっぱり誕生日って、生命力が湧いてきて、忙しくてもやっぱりうれしい気分になる。いい歳になると誕生日はもう祝わなくてもいい、うれしくない、って人がいるけれども、私はいつまで経ってもうれしいやつなのだろうと思います。サプライズパーティーを請求するだとか、プレゼントが欲しいとか、他人からの認知が欲しいということではなく、生き延びてこられた、という事実を祝うという意味で、私ひとりだけのために、本当にいい日である♪

というわけで、今日はたいへん短いのですが、カンベンしてください。明日は、いいお題でしっかり書くことにします(って、今晩書くんだけれども・・・。汗)

 

時間と想い出

10/15/2007 にアップした文章です。

 

ここのところ、歳を食ってきたせいなのか、想い出ばかり書いていることに気づく。気づいたきっかけは、ジャーナリストの鳥越俊太郎氏が、生命保険会社AflacのCMに出ているせいなのかもしれない、と思うのだ。『がんばる女の涙』で登場した生徒さんと、キャリアおよびアメリカ留学のカウンセリング話をしていて、なぜか父のガン闘病について話したら、またもや彼女は泣いてくれて、あれは現場を体験した人の苦悩も含まれており、看護師さんたちは患者側に寄っている方々が多いのだろうと思えた瞬間でした。私には、父に関しての想い出がたくさんあり、かけがえのない宝物だと信じて疑っておらず、生き残っているたくさんの人々に関してもそれは同様で、この自分の記憶力についてよく考える・・・。

が、問題は、記憶というのは都合のいいようにAlteration(改造)ができてしまうという点にあり、私も今の自分に都合がいいように、将来の自分の支えになるように、かなり美化している部分はあるのだろうな、と、たいへんに冷静に考えているところです。嘘をつかないことを信条としている私としては、「それは間違いでしょ」「それは嘘でしょ」と言われてしまうような記憶のとどめ方をしていると、たいへんな窮地に追い込まれることになるわけで・・・。なかったことをあったかのように言うというような次元は、私には到底思いつくことではなく、「あった」という証拠は捏造しなければ作れないので、これは私にとってはありえない。が、あったことについてのHowに当たる量や質については、かなり自分に都合のいいように改造してしまっていることもあるのでしょう。

たとえば、私は大学中退を決意して、留学のためのバイトをしたのですが、2年半で600万貯めたのは事実です。その頃の貯金通帳は残っていないものの、たくさんの証言が取れる。が、母から言わせると、「家にお金を入れていた」という部分には、かなり大げさな表現があるように思えるかもしれない。私が家にお金を入れていても、まだまだ弟が学校に通っており、我が家は裕福でもなく、そこから貯金をしてすぐに必要なお金がたくさんあったのだから、母としてはもっと私に協力してもらいたかったと思えるのです。私がバイトをしていた当時、家に帰る時間はマチマチで、家事は一切やらず、好きな時間に冷蔵庫にあるものを食べてしまうというのは、月々3・4万のお金では安いと思っていたかもしれないので、確かにそれは「大げさな記憶改造」なのかもしれないです。いや、今だから言えるんだよね・・・。留学した当時や、会社を開始するまでは、そうは思っていなかった。むしろ、「よそから比べればましな子どもじゃん・・・」くらいの自負があったわけです。という反省の意味もこめて、最近は、パチンコで勝つと、母に必ず1/3をあげることにしています(笑)。飲み代に使われてもいいし、彼女のことだから、家の装飾や改造にかけたり、ネコにお刺身を買うのに使うのだから・・・。ちょっとした記憶改造の足りない分を補償しているところなのでしょう。

どこまでが許容範囲の「記憶改造」なのか?というのは、PTSDを体験してさらにわかってきました。今と未来を生きていくために必要な記憶改造は、確かに多少していかねば、私は健常に暮らしていけないわけです。レイプされたからと言って、脅迫されたからと言って、それらに関与するすべてに対して、過剰反応をしていたら、暮らしはままならぬ・・・。どこかで記憶を石灰化して、粉々に砕いて、風に流してしまいたいところなのですが、それもまだまだできず・・・。なぜならば、記憶を呼び戻すヒントになる事柄は、本当にたくさん転がっているからです。どう考えても、私は、ポルノ映像は気分が悪くて観ることができません。広告ですらイヤですね。世界の誰かが、女性を力で屈して性を楽しむことがシュミだとしても、私にだけはそれは起こってほしくないことですし、イヤだと思っている女性の誰もにそれは起こってほしくないことです。しかも、それについての脅迫が伴うようなストーリーが、映画や新聞で出てくると、私の頭は瞬間、真っ白になりました。が、マイルドなものであれば、たくさんの露出に慣れることにより、日常でパニックをしないようになってきて、それもこれも、私が自分の身に起きた記憶を、少しずつ改造しているからなのだと思うのです。そこで、自分を責めることばかりしたので、日常をしゃかりきに送るリズムを取り戻すために3年ほど掛かってしまったのですが、私のこの記憶改造は、誰にも迷惑をかけていることではないので、生きていくためには見逃していただきたいものです。

これから脳神経学がますます発展し、技術開発が進むと、もっと明確に記憶のメカニズムがわかってきて、この記憶改造の部分もわかってくると思われます。その日まで私は生き延びていられるのかなぁ・・・。Kennedy Assassination File公開までは生きている予定ですが(笑)。

たとえば、過去の恋愛の想い出の記憶改造は、詐欺や個人情報公開問題に発展しなければ、特に問題はないと思える事項です。人間関係が「とりあえず終了した」と確認できたもので、個人が特定できないほどの情報を公開することであれば、誰でもかなり頻繁にしていることです。むしろ、その記憶をどのように使うか?のほうが重要問題で、記憶を改造する目的は何なのか?が問われて然り。今後、同じような失敗をしないためになっているのであれば、改造はよかれと思えます。

が、私も大きな分野の大いに重要な問題ではないにしろ、掃除っていう弱点があり、それについては繰り返しが多いので、言い訳がましいことも披露しており、人々を目撃者にしていて、改造できないように予防線を張っているわけで・・・(汗)。家の中のことが多いので、特に誰も傷つけておらず、迷惑を一重にかけられているのは、母と西さんなのですが、彼らは許容してくれているので感謝です。が、まだまだがんばらないとなぁ・・・。

よりよく生きていくためには、私は亡くなった人に対して、美化した想い出を持ちがちです。それについては、母が盛大に不平不満を言う言う(爆)。父は聖人でもなかったし、欠点の多い人だったのですが、死んでしまった人の悪口を言わない私を、母は心狭く「じゃ、私が悪いって言うわけ?」とさも言いたげに不満げ・・・。露骨に「いいわよねぇ、死んじゃった人は悪口言われなくて・・・」とも言うし(爆)。

いやいや、特に父だけではなく、人類の英知たちや著名人や友人たちについても、すでに亡くなった人々に対して、それほどの「鋭い解析」を必要とされる場面はないように思えています。もちろん、その人々が生きている頃にした言動に関しては、鋭い解析が必要な場面はたまにありますが(特に学説や人心を導くような哲学などは)、そんなにしょっちゅうあるわけでもなく、ネガティブに言うことも大してなく・・・。なので、父に関しても、私にもたらした感謝ばかりが先行し、どうも「殴られたことやら暴言を吐かれたことなどを忘れている」と母は嫉妬しているようで(笑)。いやいや、そうじゃないんですけどね。しかも、母がしてきた言動についても、今繰り返していなければ、特に問題視もしていないんですが・・・(汗)。

同じ長さの時間を生きても、想い出の質や量は、人によって本当に違うのだ、ということは、誰でもわりとたやすく気づいていることではないかと思うのです。が、想い出の質や量が充実している人々にも日常はしっかりとあり、そんなドラマチックな人生を歩んでいるわけでもない、ということは、さほど実感して身体で感じてもらえることではないようです。

というわけで、私は今日のことも想い出になるんだな、と思いながら、平凡な日をまた送ることになります。今日は盛大にたくさん支払いをしたり、母につきあって買い物だ・・・。またパチンコに行くかもしれず←ほら、母に昔の記憶改造の補償をしなくちゃいけないしさ・・・←これは言い訳だなぁ(爆)。

 

Self-betterment

10/14/2007 にアップした文章です。

 

私は質がきちんと伴う熱血漢ではなく、とにかく小さい頃から、「自分がイチバン大事」という気持ちに、「どうにかして他人も大事と思わなくちゃ」と、修正を仕掛けてきた感があります。世の中には、性悪説と性善説をわりと簡単に考えていく人々がいますが、私はそんなに簡単なものではなく、ごちゃごちゃで混沌としていて割り切れないのが、生命体の摩訶不思議さ=すばらしさだと信じているので、そんな考えはきっと先天的に小さい頃からあったのだろうな、と思います。今、便宜上で言っているわけではなく、躾けようとしてきた両親や祖母や叔父や叔母など、本当に、私のことをかわいらしいと思ったこともあるが、憎たらしいと思ったことも多かっただろう反応も考えると、そう受け取るしかないだろう、ということかな。

それというのも、母はとても正直な大人で、「子どもだからたいへんなわけじゃないわよ。大人になったってたいへんだし、きっと一生たいへんなんだろうね」だとか、「いいだとか悪いだとかどっちとも言えないよね」など、日和見なところを前面に出しても、まったく恥ずかしくない人だったのです。助かりました。厳格な父は、それとは正反対で、なるべく弱みを見せない人間であったので、私はどちらかというと父に似ていると言われることもあったのですが、実際のところ、その割合などは、バイオリズムによっても変わるし、環境や相手によっても変わるし、対象の事物によっても変わるし、しかも、遺伝子などではなく、生命体としての要素であって、似ている・似ていない問題ですらないのだろう(笑)。

「足して2で割ったらいいのに」という表現がありますが、我が家はそんな正反対の人々の性質や、言動が飛び交うところで、「一貫していないシグナル」は子どもを混沌とさせていくわけです。私は、長年、弟と私がどうしてこうも違ってしまったのか?を考え続けているのですが、その「一貫していないシグナル」をどのように受け止めてプロセスしたのか?(昨日のお題に繋がるのである)が、人がユニークに変わっていく境目なのだと思うわけです。

Freudが人間のサイキについて「結果から元へとたどり着くことはできるが、始めからどのようになっていくかを予測することは困難極まりない」という学説を出しています。それについては、多くの学説が懐疑されている中、誰も異論を唱えません。ただし、だからこそ予測をしようと必死な学界ではあるのですが・・・。特に、子育てについては、「このようにしたからこのようになる」ということは、あまり予定通りに起きてくれず、管理されていない中で、子どもたちがどのような事柄にどのような感銘や衝撃を受けて変化するか?というのに、親だとてイチイチ気づけるわけもなく・・・。さらに、自分を基準に生きているので、大人は「見えている当たり前のこと」ですら気づけないわけで(笑)。

ただし、「一貫したシグナル」を発信し続けることも、バクチ的な要素が強すぎるという弱点もあり、世の中の正しいや適性や的確は、変わるものが多いのである・・・。たとえば、「男は泣くもんじゃない」などということ。一滴も泣けないような定温動物な男に、女性が魅かれるような時代ではない定期的バイオリズムもあり、そうなると、生命体の第一義使命である「DNAの繁栄」が危うくなるわけです。「怖い親」などというのも時代によって変わっていくもので、私の父が目指した「家長制度の長の理想像」などは、24/7(日本語でいう、365日。年がら年中の意味)続けていけるわけもなく、家では水虫の手入れもするし、鼻くそもほじるし、子どものようにおなかを出しっぱなしにして昼寝もしていたわけです(笑)。子どもが世間を知るにつれ、「なんだよ、大言壮語じゃねーか」と感じられてしまう瞬間も増えていく・・・。

「何について一貫したシグナルを出すのか?」に焦点を持ったほうがいいようです。逆に言うと、「柔軟な態度の範囲についてよくコミュニケーションする」ということにも、関心を持ったほうがいいわけです。

私は親にならなかったので、子どもの頃からずっとやり続けてきたSelf-bettermentを、何の気兼ねもなく、おおっぴらに、かなり自由気ままにやり続けているのですが、かなり小さい頃に、この最初の概念であるSelf-betterment:自分をよりよくしていく、という考え方が、美徳であるということを実感して、信念にしてもらえたら、かなり成功率は高くなるのかもしれません。うーん、これは語弊があるな。子育てや人を育てるのは、特に実験ではないので、成功率などと言うと畏れ多いのだろう・・・。が、結果論として、無生物化して考えてもいいとなると、やはり、まずはSelf-bettermentするといいことがたくさんあり、まず出発点なのだといことが共通認識だといい。そこにも、強弱というのがあって、私はかなりそれが強い子どもであった、というのが強みになったのだろうと思えるのです。

私はこの世にあるかなりの物事に必要な感情や資質を「そもそも多く持って」しまっていたので、その後してきたことは、Taming(馴らし)が多かったと思えるのです。読書を開始したら、あまりにおもしろいので、時間を調整したり、暗いところで読まないようにしたり・・・。が、隠れて暗いところで睡眠時間をしっかり確保して、他のアクティビティとの優先順位を考えて、さらに読書し続けるというのをきちんと身につけるのに、10年くらいかかるわけです(爆)(爆)。なんと、学習能力の低い子なんだか・・・(汗)。最近でも、おもしろくて、睡眠時間を削ったことがあるので、ちょっと緩むと止め処がないのだということもわかっている・・・。

情熱にしてもそうで、私はそもそものところは大いなる熱血漢だったのでしょう。ただし、子どもなので、正義という軸がブレており、悪について容赦なく制裁を加えてしまうようなところが多く、ええ、無断で木登りをした男の子を木から突き落としたり、何度交渉してもやめてくれないいたずらばかりをやる子たちを、大きな落とし穴に自転車ごと落としましたよ(笑)。そんなとき、どんな態度を親が取ったか?で、私の正義への価値度合いが決まってきていたものなのでしょう。

技術的に足りないところがあったことは、今でもさほどないと思えるのです。43年生きてきて、何かが徹底的に欠落しておりできない、ということはないので、あとはすべてやる気の問題だと解釈しています。量子学などもやろうと思えば理解できると思っていますが、やる気がさほど起きない。基礎的なことだけわかっていれば、特に専門にするほど追いかけたくはないのです。苦手だとしている掃除や整理整頓も、やる気があればできるんですよ←言い訳がましいのか?その証拠に、今も掃除機を母がいないので朝っぱらから掛けましたし、泣いてでもやっぱりやらねばならないときは掃除はするのです。自分の衛生観・感性とやりたくない感とのせめぎ合いで、衛生観が勝てばやっぱりやるんですよね・・・。いや、まただらしないことをここで言い訳しているに過ぎないんですが・・・(汗)。

そして、私は、簡単に性善説も性悪説も唱えず、人々はみな、こうして自分が手をつけなかったことばかりで、実際は「かなり何でもできる」と強く信じているのです。あるいは「手をつけても、やり方が悪くてできなかったことばかり」とも思っているのです。なので、英語講師をしていて楽しい。「目からウロコ」を見るのが楽しいし、やる気を起こしてくれるのが本当にうれしい。人生の最も基本的なキーワードは「サバイバル」で、そのためにはやはりSelf-bettermentの連続なのである。

なので、誰がどんなシグナルを出そうとも、まずはそのシグナルをしっかり情報解析し、自分なりの結論(中途であっても)を出し、やる気が起きたときに、自分に則した方法で、行動にしていくことが大切なのだ、と、Self-bettermentを追い求める気持ちを持っていただきたいな、と、心から願うのです。

だってね、みんながそこそこそれなりによい方向に進めば、世界全体もよくなるのよ・・・。たまに例外があって、どうあっても悪い方向に大きい値で足を引っ張る人がいても、みんなで小さいよい方向を目指せば、なんら怖いことはないと思うのね・・・←超楽観的かしらね?

 

世の中を眺め渡して

10/13/2007 にアップした文章です。

 

ここのところ、ニュースを斜めにしか読んでおらず、いろいろなことが起きすぎていて、あわわわわ・・・状態になっているところです。しかも、英語の生徒さんたちに、CNNの動画をオススメしているので、その世界ニュース入手も、私は遅れ気味である・・・。他人事にしない!という姿勢を崩さないためにも、最低限の情報は日々入れるようにしたいものなのだけれども、メディアそのものをどうも懐疑的に見ており、こう貯まり溜まってしまうと、そもそもの端緒を探すのに一苦労。壮大な歴史を探ろうとしているわけではないのだけれども、これだけスピードがついて、各社での競争があると、意見もそれぞれで、どうしてそのようになっているのか?を観るのがたいへんなのである・・・・。

Bushが大統領になった年の対立候補だったAl Goreがノーベル平和賞の受賞の運びとなりました。彼の映画では、何でも9つの科学的根拠に乏しい表現があるとかで、選考委員会のほうも「物議を醸しだすのは覚悟の上」だったということですが、世界中に地球温暖化の警告ができたという意味では、大いなる功績なので、いいんじゃないかと思える私は、やはり生粋の科学者ではないのでしょうか?少しは、政治家のメンタリティがあるのでしょうか?彼については、その経歴の一部は知っているつもりでいるので、けっこう評価が高いのですが、それを手助けしているのは、やはり大統領選に落ちたことがあるのかもしれません。Bushが大統領になっていなかったら、911もなかったかもしれない、とIf (たら・れば)談義をする人々がいるくらいなので。彼の娘(たしか次女)は、中国系アメリカ人と、つい先ごろ結婚したばかりで、由緒正しい守るべき血統の家に、外国人を入れたことで、彼の姿勢というのがわかるかなぁとも思うのです。

スピードが速すぎてよくわからないのは、建築家の黒川記章氏が亡くなったこともあります。つい先ごろまで、ピンピンしており、あと2・30年元気で世のため人のために生きる勢いだったのに・・・。マスコミは、どうして2週間前に具合が悪くなったことはキャッチできず、いきなり訃報となるのか・・・。それなのに、芸能人の記者会見での挙動や、くっついた離れたの情報ばかりを垂れ流すのか・・・。

というのも、私の叔母が、人工透析16年を過ぎて、とうとう血管に瘤ができてしまい、その除去手術もあまり思わしくなく、最終的には腎臓移植しなければ、もう先が見えてしまった、というのもあるのです。そのせいで、そのリサーチにいろいろ時間を使っており、ニュースに時間が割けていない事情もあり・・・。初歩的サイトから腎移植についてのディベートや、日本の現状や、徳島でのブラックジャックのようなどこの医局にも属していない医師のことやら、本当にいろいろ調べていたら、あっという間に時間は過ぎてしまうのであった・・・。そこで、最終的には「海外」というのが現状だということを知り、叔母は、姉にあたる母に対して、「私はもうすぐ死ぬわ」と言っているのと同義だということを、切なく受け止めています。私は、さっそく「腎臓あげるよー!」と挙手したのですが、そんな簡単なことではないということを、悲しい現実として受け止めています。まぁ、「腎臓あげるよー!」は、すでに16年前からずっと言っていることなのですが、彼女は頑として受け容れなかったし、今も「もう腎臓移植しかない」と言っているのは、欲しくて言っているわけではないのですが・・・。

立花隆なども読みましたが、臓器移植だけ取っても、脳死や日本人の宗教や倫理など、本当に根が深く、私のように「個人の見解」に重点を置く考え方を持っていても、現場で実際に行動に移す、医師や看護師、家族などの思惑などに左右され、個人の熱望が受け容れられないのが現状なんだな・・・。

こんなことをいろいろ考えて、黒川記章氏のような、おもしろくてエネルギッシュな人が、もしも病気であったとしたならば(まだ心不全としか書いてなく、半日経った今、とても不可思議な気持ちでいるのだ)、一体2週間のあいだ、どうしていたんだろう?と、若尾文子氏や関係者の気持ちを考えているところです。そして、死んでしまってから騒ぐってどうなのよ?と。

他にも、ニュースでは、時津風部屋の、陽さんが重大視していた「かわいがり」による致死事件が、刑事事件になったり、亀田兄弟次男と内藤選手の試合があったり、高校生が幼児にいたずらをしたり、田中真紀子議員が総理と論争をしたり、相変わらずお金を巡る詐欺事件が多かったり(なんでも元ボンドガールが結婚詐欺をしたとかいうのをちらっと母が言っていた・・・。誰なんだ?)と、ニュースは次々と生まれるわけだ・・・。

それでも、この私のように、自分のことで精一杯な人々は、日々を過ごしていく・・・。

だからゆえに、Al Goreが地球温暖化のことを訴えて、ノーベル平和賞を受けたのは、いいことなのではないかと、思えるのです。彼の人口増加論も私は概ね同調。だからって、子どもを自分で持たなかったわけではないのだけれども、人口がこのまま増加したらどうなるんだ?という危機感はあります。

そんな中、うれしいのは、生徒さんたちに授業中に投げかけると、「英語では言えないんだけれども・・・」とはいえ、「私たちにできること」をトピックによっては投げかけてくれること。たとえば、私が20年以上前から不思議に思っていた「レストランでオーダーしたあとの残り物」がすべてゴミになってしまうということで、ゴミを増やしている現状について、「ホームレスも食べ残しよりは、お弁当や時間が過ぎた廃棄をアテにすればいいから、個人が手をつけたものは、レストラン業界全体で、入れ物を数十円で提供して、持って帰れるようにしたほうがいい」ということを、真剣に語ってくれてうれしかったです。そうなのよ、私もどうして日本には、鮨折や中華用のパッケージくらいしかなかったのか不思議だったのだ・・・。アメリカでは、どんなレストランにもDoggy Bags(そもそも、我が家のわんちゃんに持ち帰るというのが大義名分)はあるのです。

相撲界もたいへんな過渡期を迎えており、日本のマスコミがすごいのは、もう朝青龍についてはすっかり忘れていることだな(笑)。あんだけ後ろ指を差して、あんだけすごい人数をモンゴルに詰めさせておいて、もういいらしい・・・。私は忘れていませんぜ(笑)。もちろん、人ひとりの生命が問題になっているこの事件のほうが、重大なのは当然です。が、だったらなぜ、そもそも朝青龍について、あれだけ騒いだのか、まったくワケがわからず・・・。しかも、問題視されているのは、「伝統的」と竜虎氏などが未だにTV画面で主張している練習や精神の問題の延長戦にあることで、そもそものそれらの目に見えない多様性のある・流動的である心の問題が、人の生命を奪っているってことなんだよ・・・。マスコミの報道を見て、他人の批判ばかりするのはいいことなのかどうか?と、少しマスコミから離れてみるのもたまにはいいことなのかもしれないです。

情報がたくさんあることは、情報処理能力がない人にはやはり邪魔なだけだし、情報処理能力があっても、たくさんある情報の中から、必要な情報を抜き取ることもたいへん面倒くさいのである・・・。

世の中を眺め渡してみて、人々が自分の今大切な暮らしに必死で一生懸命なことを観るとほっとするのではありますが、やはり100年後、1000年後、1万年後やそのもっとあとのことも考えられるゆとりがあると、なほよし、と思うのであった。

 

紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その54

Q54.

近い将来、民間人でも宇宙旅行が可能になりそうですが、宇宙へいってみたいと思われますか?

 

 

A54.

金額によりますかねぇ(笑)。後はそれにかかる前後の準備にもよります。これからどんどん歳をとって体力がなくなっていきますから、その準備もものすごく長くかかることが予測されます。大金を払って時間も取られて、そんなに楽しめるのか?と思った時に、なんだかものすごい情熱にはならないですね。

映画で観るだけでも、宇宙飛行士の訓練は相当に厳しいというのが見て取れます。そんなに簡単な事じゃないと思うんですよ。

もしも皆さんが、旅客機に乗るようなイメージでいたとしたならば、本当の意味で宇宙旅行などは楽しんでいることにはならないと思います。今でも、海外旅行に行って、美味しいものを食べて、歴史的な場所に行って写真を撮ったり、お土産を買ったり、体験しているような気がしていたりすることがあるかと思います。

けれども本当に、旅行というのは「一過性」のものなんだと思うんですね。日常から抜け出した「非日常」をお金に任せて、時間をやりくりして、体験しているだけだと思うんです。それを非難するわけではないです。ただ、本当に体験したかのような、本当にわかったかのような、そんな錯覚ももらえるので、きっとポジティブなよい部類のことなんでしょう。

貧乏に生まれて育った私は、旅行そのものはあまりしたことがないので、きっと負け惜しみなんだろうと思いますが(笑)、どうせなら住んでみた方がいいんじゃないかなと思っているクチです。

宇宙も同じことで、ただ単に非日常や、想像できなかったことを経験するためだけに行くのではあれば、ちょっとお金や時間がもったいない気がしますね。

だからこそ今、研究者が宇宙飛行士になって行っているわけじゃないですか。私も宇宙から何かをえられるのであれば行ってみたらいいと思えるんでしょうけど、お金と時間との バランスを考えれば、到底元が取れない感じです(笑)。

今は映像がものすごいものがあるので、想像力や推測力を高めて、それで満足していればいいのかなーとも思ったりしますね(笑)。ま、それまでには、確実にばあちゃんになりますしね(笑)。

 

誰かがどこかで

0/12/2007 にアップした文章です。

 

こんな当たり前のことを、私はよく考えるのですが、そのときに決まって出す結論は;私はゴビ砂漠の砂粒くらい小さいんだなぁ、ということ。でも、決して悲観ではなく、私の場合、自己中心的にSelfが大活躍をしてしまうのを防御しつつ、さらに、ぱっと見たときに他人よりもできてしまう事柄についての横柄な考えを打ち消すことが必要で、物事を大げさに考えてしまう躁鬱病の傾向対策なのです。自嘲的なくらいに、小さく何もできず貧乏で、将来の夢など見る立場でもなかった私が、よくもここまで来られたな、と、感慨深い日々なので、パイロットライセンスを取ったあとくらいからは、かなりオマケ要素が強く(笑)、いやなことがあっても、かなりサバサバしており、ダメージを受けないのですが、蓄積してしまうモヤモヤ気分は、自分が小さい人間だと、一旦認めてしまうことでかなり解決します。いわゆる、『初心に戻る』ってやつですか・・・。

誰かがどこかで何かをしてくれたから、私はここでこうしていられるんだなぁ、と、ゴビ砂漠の砂粒くらいの私は、感謝をよくします。父の影響なのか、感謝できない人間に成り下がったら、人のためになって死ね!と激怒されたことがあります。いや、1回2回どころではなく、父のお決まりな怒り方だったのですが・・・。そのときに、父が怖かったがために、私は無理やり自分をそのように仕向けたかどうか?という疑問が湧くのですが、実際のところはそんなものではなく、そこらじゅうに転がっているミラクルに感動し、それについて説明できない両親や叔父や叔母や祖母に落胆し、それについていくばくかのことを知っている人々に邂逅し、それについてたくさんのことをかなり知っている人たちが書いた本に遭遇し、その繰り返しで、私は大きくなったわけで、感謝せずにはいられない、ってところなのです。

トンボやセミの羽や遺骸を一生懸命に運ぶありんこたちを見たことがない子どもが増えていますが、私はそれごときからまず学びました。おしろい花(鳳仙花)の実から出る白い粉でお化粧ごっこをしたことや、植木屋さんに来るでっかいキリンのようなクレーン車を操作できる人や、その人たちが履いていた足袋やニッカーボッカーのようなズボンや、かっこいいねじり鉢巻や半纏などなどからも、自分の小ささをいつも感じて日々を暮らしてきたので、今でもその気持ちには変わりがなく、勉強を続けてきてよかったと思うのは、「自分はまだまだ知らないことがたくさんある不首尾も多い人間なのだ」と簡単に認められることです。

私の好きな人のタイプは、「頭がいい人」と、小さい頃から漠然としていたのも、これらの不思議・ミラクルに囲まれていて、それらに魅了されていたせいで、説明をしてくれる人は、とりあえず誰でも好きになった(爆)。相手が植木屋さんでも、自治会の会長さんでも、八百屋のおじさんでも、お花やのお姉さんでも、幼稚園の先生でも、図書館の司書のおねえさんでも、とりあえず、子どもを本気で相手にしてくれる人々は、なべて好きになった(爆)。

相手にしてくれない大人や子どもも、相当数いたのだけれども、私はまったくメゲなかったのである。そんなとき、父や母に相談してみると、「生活のために、大人は忙しいんだよ。子どもと違ってやることがたくさんあるから」と言われたときに、実感はなかったのだけれども、子どもなりにとても納得したので、それ以来、質問が丁寧になったのも事実。

そんな中、私がひどく大切にしていたおじさんは、華僑のおじさんで、野川の川原にひとりで行くとよく相手にしてくれたのだけれども(ひとりになりたいときに、本を持って自転車で行っていた。しかも、私は石投げの練習を誰かに必死になってやっているのを見られたくなく、平たい石を確保するのに、相当一生懸命だった・・・)、その中国という国や、おじさんの祖先や、文化大革命とかいう不思議なイベントや、アクセントが残る日本語や、日本と中国は国交がないという事実(田中角栄までなかった)などの話で、因果関係や時空がイマイチつかめなかったことは確かなのだけれども、かなりおもしろい話たちではあったのです。そのおじさんが話してくれた人生訓は、今でも私に反映されており、「好きなものをちまちま買わないで、でっかくて残る買い物をする」だとか、「お金があっても生活レベルを上げない」だとか、「盗まれるモノを買って歓ぶのではなく、頭の中にしまいこむ」だの、本当にいろいろあったのです。

が、おじさんはさようならも言わないで、ある日突然いなくなりました。どうしたんだろう?年齢からいうと、もう亡くなったと思うのですが、今でもとても感謝しています。そのおじさんが教えてくれたことは、「この瞬間も、世界中で、誰かがどこかで何かをしている」という当たり前の想像力。それが、自分のためだったり、同胞のためだったり、世界中のためだったり、と、目的も動機もやり方もアクティビティもいろいろではあるのだけれども、「砂粒より小さいんだよ、私たちは」と言っていたのが印象的すぎて、私は、今でもこの言葉をよく思い出すのです。

私もいつしか大人になり、あのときのおじさんのように、似たような時間に気に入った場所に行き、子どもと話せるようなチャンスがあればいいのですが、ハイパーだからなのか、どうもそんなゆとりが持てぬ・・・。できたら、将来性のある、孤立しちゃってる子どもに出会えれば、ドラマみたいなのですが、そんなことはあるわけもなく・・・。みんな塾やゲームで忙しいのだ・・・。子どもたちには親もついてるしね・・・。

おじさんがいなくなったあと、質問をするにも、のらりくらり時間は無限にあるんだぞ、という大人が周りにいなくなったため、私は質問を「手短に、でも正確に尋ねる」ということを覚えました。今でも、知らない人に道を尋ねるのはまったく苦ではなく、1年前日本に戻ってからは、迷子になってばかりいます(苦笑)。もー、東京駅だけでもどんだけ変わったんだか・・・。新宿なんて、ビルが増えてわからないよぉ。なので、尋ね方もしっかり地図を携えて、行きたいところに目印をつけておいてから、ちゃんと訊くのです。人によって方向感覚が違うので、「こっちを向いて何時の方向ですよね?」だとか「大人の足で5分くらい歩けばだいたい到着しますよね?」と念押しすることも忘れません・・・。こんなときの私は、8・9歳頃とどう違うのか、わからなくなってしまっており、必死に道を探して歩いているときに、「いつまでも変わらないなぁ」とひとりで苦笑しているのですが。

誰かがどこかで、私のためではなくとも、してくれたことに、大いに感謝していることが続くのが、勉強です。何かを学ぶことにより、人類の英知となった故人たちがどのように情熱を傾け、どのように体系的に物事を整理し、どのように彼らの私生活を支えてくれる人に囲まれたか、よくわかるようになり、自分の人生はひとつしかないのに、なにやら、「グリコの一粒で二度おいしい」が永遠に続くような気がしてしまうわけです。ブームになったダヴィンチですが(ダヴィンチコードのおかげも大いにあり)、細かいことをオタッキーにいろいろ知るよりは、私はエッセンスを知ろうとします。でなければ、名もない人々のことを知る時間がなくなってしまうような気がして・・・。

子どもの頃はあんなに時間が余っていたのに、どうして最近は、坂道を転がり落ちるように、時間がどんどん経ってしまうんだろうか?バイトのとき、時給で働いているときは、時間が経つのが妙に遅かったのに、どうしてここのところ、時間はすぐに過ぎてしまうのか?学んでいないのかなぁ・・・。安易な繰り返しばかりをしているんじゃないのだろうか?と不安になることも確か。

誰かがどこかで、何かをしているというのを知ると、私も何かしなくっちゃな、と思えるので、よく考えることにしています。走り続きすぎて、みんなに「お休みすれば?」と言われるんですが、まだまだガソリンがあるうちは走ろうと思えるわけです。ただし、最近、またアメリカに行きたい病になっており、今年中に一度行きたいと思っているところ。連続して英語が話したい(爆)。友だちに会いたい♪アメリカでしか買えないものや、価格差がある生活必需品(主に本)を買いたい。ついでに、ステーキをたくさん食べてきたいです♪

 

学校英語の落とし穴

落とし穴はぼこぼこ何個もあります(笑)。

1.4技能を前提にした英語を学んでいない→ その代わり、文法や語彙に妙に力を入れている

2.Active:動的学習が少なく、Static:静的学習が圧倒的に多い

3.文法だけではなく、学んでいることが全体のどこに位置しているのか、俯瞰的に理解できるような仕組みになっていない

4.さまざまな品詞・文法を学ぶが、統括的にReviewを実施していないため、取りこぼしがたくさんある

5.多聴・多読により目標が達成できることが前提

 

この5つがメインですが、細部に渡ればもっとたくさんあります。さらに、心理的なサポートになるさまざまな押さえがなく、やる気は減退し、待ち望む感はなかなか生まれませんよね。学校を卒業して独学するにせよ、この「すっかり刷り込まれてしまった学習スタイル」を「原型」としている方が多いので、おそらく伸びはなかなか感じられず、英語難民が続出したり、そもそも6年間で1250時間ほど学んだ成果が出ません。

 

びっくり!ですよね?

 

たとえ脳細胞がまだ発達中だったとしても、この膨大な時間をもう少し効率的に使ってほしかった、とあなたは思いませんか?よくある広告が、「成功した人の体験談」です。彼らが一生懸命、この上記の5つのプロセスを経て、英語講師や英語関連の仕事に就いていたり、仕事で英語を使えるレベルになっていたりする場合、英語ができない人たちは、それにやたらと納得せねばならない。

 

これは、フェアじゃないんです。

 

なぜならば、生まれた環境や育ったプロセスにより、ヒトのタイプは多様化してきます。その中で「コツコツ努力するのが得意でどんなに時間が掛かっても続けられる人」「そもそも頭の回転が速く短期的に物事を習得する人」以外には、かなり難しいやり方だからです。けれども、多くの学校・システム・教科・教える側は、この理想形を作り上げることを「是」としています。

 

ダイエットでもさまざまなやり方があるじゃないですか。基礎代謝が個体によって違いますし、分解酵素も平均的なアジア人・日本人の傾向があってもやはり差があります。運動でも得意不得意はありますしね。毎日食べているものやその好き嫌いも違います。

 

ヒトとしての生命体の持つ本質的な特徴を生かし、その上で学習に対してタックルしているという状態に日本の教育そのものがなっているかどうか?考えてみたことがあるでしょうか?社会問題としてしょっちゅう取り上げられ、ゆとり世代で円周率が3になったことすらありますが、まだ、概ね日本の教育システムを信じている方々は多いです。基本が不動とした前提で作り上げられており、もう後戻りはできないから、という発想から生まれています。

 

そうした基本のズレが、あらゆる場面でズレを引き起こします。Precious One English Schoolでは、心理レッスンでこのズレについてご自分でさまざま考えていただいております。自分にピッタリとマッチした学び方を、ひとりでも多くの方が習得してくださることを心から祈るばかりです。

日本語能力の問題

10/11/2007 にアップした文章です。

 

最近英語を教えていて思うことは、日本語が充分ではないことがままあり、それについては教えていると、クビになってしまうかもしれないという危惧。通りいっぺんの論理は言えるのだけれども、細かく追求し、日本語能力検定をするということはできかねる・・・。私は、教科書は、要点だけを使い、ほとんどフリーセッションで、自分方式を取り入れているのですが、John, Mary, Mr. Smith, Jimなどでは臨場感がないのは事実。さらに、例文がやはり通りいっぺんで、使えないものが多いのも事実。文法だけを習うのであれば、もちろん否定するものではないのですが、グリコのキャラメルのように、「一粒で何度もおいしい感」を出すには、自分が将来、頻繁に使う例文のほうが効果が上がるに決まっています。そこで、日本語を出してもらうんですが・・・。

どうもいかんのは、日本語が出てこないこと・・・。もちろん、最初に考えなければいけないのは、午後、学校やお仕事が終わってから通って来られる熱意のある生徒さんたちばかりだということ。疲れていたら、頭は働かない。日中、何か事件があれば、きっとそれに心や頭を奪われてしまい、集中力も落ちていますしね。これは考慮しています。が、それにしても、それを寛大に5割引いたとしても、やっぱり日本語能力がフルに生かせていないように思えるわけです。

もうひとつ考えねばならぬのは、私が奨励している、「英語は英語で学ぶこと」というもの。日本語を解する余地を少しずつ少なくしていき、効率よく英語は英語だけで情報処理をしていこうよ、という提案です。これがすんなり進めばいいのですが、実際は混濁したステージを通過せねばならず、生徒さんの中には、過渡期にいる方々もたくさんいて、このせいで日本語に混乱をきたしてしまうこともあり。あまり難しく考えると、余計に混乱はグルグルになるので、感覚的なものとして捉えるといいのですが、感性には個人差があるので、ここで引っ掛っている方々も多い模様。

私の長年の経験で言えることは、ニュアンスや細かい文法の温度差や誤差については、日本語が母国語の英語がしっかり話せる人に習ったほうがいいことは確か。おいしいところ取りができるからです。日本語の文法を、小学校のときにやったはずなのですが、ラ行変格活用など、ちゃんと憶えている人は憶えているのですが、むしろ感性によるものが圧倒的に多いのは確か。古文や漢文などが難しかったのは、論理性を整理整頓して教えてもらったはずなのに、教え方がまずかったり、理解していないのに進まれたりしたせいです。私も、古文と漢文は得意なほうではありませんが、時代小説に出てくるくらいのことは理解しています。

そもそも、この世にあるすべてのことは、難しいのか、簡単なのか、という視点からして違うんだよなぁ。日本語は簡単なのか?と問うと、英語ができない人ほど、日本語は難しい言語だと考えていることが多い。実際は、言語学的な体系を理解したのち、さらに、文化人類学的・心理学的なことを踏まえてみなければ、なかなか簡単には言えないことなのだ。が、ひとつだけ確かに言えるのは、個体がそもそも持っている基準とうのがあるということ。赤ちゃんでまっさらな場合は、ゼロかというとそうではなく、遺伝子情報があるので、受胎からおなかの中にいるあいだのことも考えると、日本人には日本語がイチバン習得しやすいはず。ハーフなどの場合は、環境を考えて、どのくらいの割合でいくつの言語が得られるかということや、その会話や情報の分析も必要です。

ここまで書いて、たいていの日本人は、日本語がイチバン得意だと思うのだ。どうだろうか?その日本語能力というのは、英語習得のためにも本当に肝心だというのは、けっこうな落とし穴なのです。

一度やってみるといいのですが、私は9歳だったか10歳だったかの頃、母親にやられたことがあるのですが、会話を録音されており、その口調や語彙、抑揚や語尾などをチェックされたのです。それは、語学力うんぬんを知りたくてやったわけではなく、彼女は、「愛される女の子になるため」に、きつい口調を直したかったという動機らしい。ところが、それも虚しく、私は充分きっつい言い方をますます邁進させて、大人になりました(笑)。

ただし、読書がバリバリ進んだため、私の語彙は平均値よりも多く、表現する言葉もそれほど少なくはなく、けっこういいセンだとは思いましたね、当時。今はどうなのか?19年以上、英語と掛け持ちになり、スペイン語も学び、中国語で遊んだために、日本語が乱れてしまったことがあり、ブログもそれが動機で続けています。

日本語で物事を論理的に考えられない人は、どんな言語でも第一言語以上にはできません。これははっきり言わせていただきます。昨日も、Cross Cultural Expressionsという読み物をみんなで読み進める授業があったのですが、窮した私は、日本語でみんなにディスカッションをしてもらいました。どんな国のどんな文化が好きで、その理由を最低でも2つ。嫌いな文化はどれでその理由を2つ、というもの。論理性が崩れている理由を述べる人は多く、「ただ好き嫌いだけではダメだよん」という警告にも拘らず、「いいじゃんね」「気持ち悪い、信じられない」などというのが多かったのが、残念でした。しかも、どれだけの元情報があるのか?ということはあまり考えておらず、自分の視野だけで物事を断定に近いところで考えていることが多かったのも、少し残念ではありました。若い生徒さんたちは、それでも少しずつ、世界を広げていければいいんですが、仕事に就いて国際的仕事をしている方々では、「それじゃ、仕事がうまくいかないでしょ」と、厳しい私は叱るしかる(爆)。

さらに、現在完了や過去完了を説明しても、日本語にはあまりない表現で、時制の違いを明確にしていないので、体感として刻まれることが少ないのが、文法の時間の量そのものの欠乏問題。なので、文例を自分に当てはめて考えてもらうために、カンバセーションまがいのエクササイズも実施していますが、クラスの人数が3人以上になると、生徒さんに「損感」が芽生えるので、書いてきてもらって、私が電車の中等で添削するというのもやっています。頻度の副詞や、前置詞などには有効なので、チェックする私のほうもかなり楽しいのです。

ともあれ、日本語そのものが落ちていると思えるのは、その「言いたいことが日本語でもすぐに浮かんでこない」ということ。表現することがないわけじゃないだろうに、どうして出てこないのか?みんなの前で緊張しているから?いやいや、それもディスカッションや共同解答などを使って連帯感や協調を醸しだすようにしているしなぁ・・・。だから、距離感が遠い人たちと会話したり、自分について説明するわけではないので、言えていいはずなのだけれども・・・。英語ではなくて、日本語でいいのだから。

と、他人のことはいろいろ偉そうに言っているワタクシではありますが、こうして、エッセイのお題に煮詰まると、枯れたような状態を実感するので、確かにそういうことも事故としてはあるに違いなく・・・。やはり疲れやメリハリのなさが為せる業なので、もう少し寛大にいろいろやってみようと思います。

でもね、ネットの新聞やAERAでいいから、少し時事問題や、自分の身の回りの世界を少しずつ広げてもらいたいのは確か。疑問点が湧いてこないような読み方しかできないのはなぜなのか?と、さらに日本語力だけではなく、心持ちやゆとりについても考えてみたいところです。

 

嘘は本当に方便なのか?

10/10/2007 にアップした文章です。

 

嘘をつかなくなってから、長らく経ちました。もう30年は軽く経ったのではないかと思うのですが、ひとつだけ「別」としているのが、アポを取っていたときに、予定変更をしたいときの理由を言わねばならぬことで、商売敵から仕事をすでにもらってしまったときなどは、「もう御社は必要ないから」などとは言わず、「予定が入ってしまい、本日(明日など)は行けません」と言うことはあります。が、これも実際は、「嘘」でもないのかなと思います。罪悪感がないのは、特にコミットメントがある関係ではない、という、まだ知り合ってすらいない段階だったりするときで、お付き合いが発生したのちに、誰かに嘘をついたことはありません。律儀な私は、街頭アンケートのおばちゃんたちにも、「仕事なので」だとか、「アメリカ帰りなので生活用品はよくわからない」と、ちゃんと断る言い訳もしてしまいます(笑)。

嘘:(1)事実を曲げてこしらえたこと。本当でないこと。偽り。(2)誤り。間違い。(3)望ましくないこと。すべきでないこと。
方便: (名)〔(2)が原義〕(1)ある目的を達するため便宜的に用いられる手段。てだて。(2)〔仏〕 (ア)仏が衆生(しゆじよう)を教化・救済するために用いるさまざまな方法。(イ)真実の教えに至る前段階として教化される側の、宗教的能力に応じて説かれた教え。
(形動) 都合のよいさま。

仕事の締め切りにしても、私は「やる気がない」「いいアイディアが浮かんでこない」ことについては、正直に言います。遅刻しそうなときでも、英語講師は掛け持ちな場合がとても多いので、それも正直に言います。ただし、「あちらのほうがペイがいいから」などという優先順位については言いません(笑)。沈黙しているだけで、尋ねられてもノーコメントで避ければいいだけのことで・・・。

嘘をつかねばならぬとき、とは、一体どんなときなのだろうか?と、再び考えています。ここでもまた、Selfを守るため、生き延びるための保護・保障がキーワードで、心的サバイバルが問題になるのでしょう。大きな詐欺めいた嘘を、デビューしたてで開始するというのはありえない。なぜならば、子どものときにそれほどな大掛かりな環境は、まだ設定されていないからです。例外としては、子どもながらに火遊びで人を傷つけたり、殺してしまうことが可能性として否定できないことや、刃物や薬物などが関与してくると、あり得ないことでもないということで、現在のところ、ざらっと見てみても、その可能性というのはとても低いです。そんな事故を防止するために、まだまだ成長しきれていない子どもたちは、大人たちに見守られて暮らしており、それはイコール、大人の怠慢でもあり得るので、コレはないとしたいところです。

そもそも、「人によって見ている現実=事実、は違う」というところを理解していないと、嘘の解釈はできなくなります。が、まっさらな子どもは、まだここまでの理解を経ていません。心無い揶揄や、ある人にとっての当たり前が、受けた側にはとてもつらく、心的サバイバルを大きく低下することがあると、嘘をついてしまうことがあるのでしょう。たとえば、子どもであっても、持ち物=所有物の自慢はあります。親がどんどんバカになっているので、親心を楯にして、子どもたちにもいいものを持たせようとしますが、コレが仲間同士では仇になることがあり、迷惑を醸し出し、社会格差を生み、心の成長を妨げることにもなります。ちょっとしたかわいいリボンや靴、ネックレスや携帯電話(まぁ、幼稚園ではあり得ないのかなぁ・・・)などなどで、昔は「かわいい」で済まされていたものでも、極端なもの・お金がかかりすぎているもの・場にそぐわないものを身につけている子たちは、実在しますね(ま、コレもメーカーや経済機構や大人がいけないのだけれども)。あるいは、幼年期であっても、能力の差は歴然と生まれる。それが生物学的なことに支配されているということは、もちろん、その歳では気づけない。

それが常識になり、持てないものを持っていることにちやほやを開始する子どもたちもいて、屈しない・興味がない・持てない子どもたちは、差の論理から、対極に位置する子どもたちに、積極的でなくとも攻撃をします。そこで、窮地に立たされた子どもたちは、まず、心配を掛けないように、親に嘘をつく。「大丈夫だよ」「なんでもないよ」と。その人を思いやるためのWhite Lies(これを嘘として決め付けていいかどうかが、このあとの論議なので、嘘と仮定させてください)が通ると、エスカレートして、悲しいことやつらいことに、どんどん蓋をしていき、口では反対のことを言うようになる。逆に、優位側にいる人たちは、おもしろおかしかったことを、大げさに表現するようになり、現実から少しずつ事実が離れてくることが発生します。

これがそもそもの嘘の種、最初の嘘原体験、というのが、多くの人々の社会にもまれたデビューなのではないかと思うのです。それが、兄弟間だったり、親戚の子どもたちと遊んでいたときに起きたり、という、変形バージョンはあったとしても、です。

自分や周りの人々の心的サバイバル(芽の頃にはサバイバルと名づけるほどの大げさなものではないのですが)のために、事実を曲げる表現をしていくと、それが成功するたびに、状況がどうであろうと嘘を重ねることができる。しかも、内容もエスカレートしていくことができる。さらに、逆でも、人を揶揄したり、おもしろおかしいことを大げさに表現して味を占めていくと、今度は「愉楽」のために嘘をつくことが平気になるという、エスカレーション式の構図が見えてくるわけです。

この段階的なものを経ていくと、かたやいじめで自殺したり、かたや詐欺師になったり、と、極端な例が生まれてくるわけですね。倫理観にも影響を及ぼしますし、行動規範などにも大きく影響が出ます。「事実を事実として受け取り、それについて反応する」というのは、恐ろしく大切なボタン(ステージ・レベル)なのだということがわかります。

ストレスについていろいろな商品が売り出され、サービスが商品化されている昨今ですが、なぜそもそもストレスの影響を受けるのか?を考えると、この「罪になるほど、大声で怒るほどの嘘ではないもの」に対して、事実を事実として統一して見られない、人はさまざまだ、ということがネックになっているようです。

方便を使えるようになることは、本当にいいことなのか?しかも、子どもの頃から発達させていいことなのか?と、嘘をつかないで来られた私は思うのです。ただ、嘘をつかないがために、沈黙したりノーコメント宣言をしたり、と、工夫が必要だったし、嘘をつかないがためにダメになった人間関係も山ほどあります。そのときに受けた心的サバイバルの低下はもちろんあったのですが、嘘に慣れてしまった後の心的サバイバル低下と比べたらどうなのだろう?と、最近、よく考えるわけなのです。

子どもたちに、積極的に嘘をついて方便だと諭すことは、私には到底できることではなく、例外としての「ついていい嘘」も並べられません。まだ成功に遠いたいへんに努力している人に対して、「まだまだ努力が足りないのだよ」という言い方を私が身につけたほうがいいと思えることばかりでした。そりゃ、最終的には自分がイチバンかわいいことはみんな同じなのですが、その中で、「いつも試されており、他人と自分を同義に扱えるかどうか?が問われている」と想定すると、嘘をつくよりは、自分がしてほしいような扱いをしたほうがやっぱり嘘よりはよかったと、今、強く思えるのです。

ただし、パチンコで大負けした日には、嘘をつきたい気分になることもあり(爆)。ここのところめったにないので、助かっているんですが♪しかも、失敗やつらさを表現できるって、強みなんだと、人前で泣かない私はつくづく思うのです。

 

音楽への愛着

10/09/2007 にアップした文章です。

 

西さんは、「クイズ クラシック・ドレミファ・ドン」か「クイズ ジャズ・ドレミファ・ドン」があれば、かなりそのタイトルや作曲家を言える人なのですが、私は中学時代に聴いたものをせいぜい50個くらい言えるだけだし、速さも大したことがないでしょう。ジャズにしても同様です。ポップスにしても演歌にしても、洋楽全般にしても、同じようなもので、私は音楽に対する執着はなく、愛着もそれほどない、ということは、はっきり判明しています。生涯で、通勤や通学のときに音楽を聴いた時間はわずか。なぜならば、私はバイクをかなり利用しており、音楽なしでも充分暇は潰せたのです。あ、みんな暇つぶしで聴いているわけじゃないよね・・・(汗)。

ドレミファ・ドンを知らない方のためにこちら
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%9F%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%89%E3%83%B3!

最近はiPodを利用している人をたくさん電車で見るのですが、私が高校生の頃は、ウォークマンでした。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%B3 デビューが1979年ということなので、やはり合致しているのですが、私はウォークマンを手に入れたのも遅く、最初のものは型落ち製品を誰かにもらっただけで、あとはアメリカに行ったあと、キャンパス内やシェア(家を複数で借りること)をしていて、音漏れがあったため、英語の勉強をするのに使った程度です。それももらったものだったか、プレゼントされたもので済んでしまった。のち、西さんといっしょに住み始めて、ハイキングのためのウォーキング練習をしたときに、初めて自分で買った記憶があるのですが、すでにCD用でした。

そして、今、iPodが欲しいか?と訊かれても、「いや、特に必要ないので欲しくない」と答えることになってしまいます。「音楽を聴いていたい」という欲が希薄なようなのです。

私が持つ、ハイパーさ加減を調整するための、1つのアクティビティとして、「耳を使う行動」はとても効率的なように、一見したら考えられるのでしょうが、実際はそうでもない。3つや4つやっている行動の中での配分が、ぐちゃぐちゃにされてしまう可能性がある、というのが、イヤホンやヘッドフォンをつける危うさなのです。しかも、音楽には、歌詞があるものがある場合には、私の場合、2つの行動になり、メロディを聴く部分と歌詞を解析している部分とで、大いに負荷がかかることになり、他の書いたり、読んだり、手を動かすアクティビティに影響があって、どうもうまくない・・・。


こういう問題じゃないだろう、って(爆)。確かに、こういう問題じゃーないのよ・・・。でもこんなふうに生活を限定していかねば、バランスがどんどん崩れて、狂人になってしまうかもしれない危惧があって、私も、10代後半からずっとかすかに苦労してきたってことなんだろうな、と思うの・・・。

例外ではなく、私も10代の頃は、いっぱしに音楽の話題にはついていけるくらいには、音楽を聴いていたはずなのですが、しかも、中学生の頃は全国レベルに達する合唱部に属していたのですが、その合唱部のせいなのか、自分の耳がいいことがわかってしまったので、自分の脳のパチパチ回転度がよく実感できるようになったせいも、一因としてあるのかもしれません。

本でもそうなのですが、どんな作詞家でも作曲家でも、自分のカラーというものがあり、その幅の広い人が表現したものには、しばらく夢中になれるのですが、どうもすぐに自分なりの「臨界=さかい。境界。特に原子炉で、核分裂が持続的に進行しはじめる境目」に達してしまうようで、「解析が終わってしまったら、もういいや」ということになるようです。その意味で、常に新しい音楽をプレゼンしてくれている人々が、あまりに少ない気がするわけです。クラシックは大作が多いので、歌詞がなくとも分類化できてしまうのが、歴史的な学者や研究家も多いのですぐに臨界に達してしまうし、演歌はほとんど、同じ傾向のリピートをアノ手コノ手で変えているように思える←傲慢な言い方ですが。ジャズも、コレ以上の発展はなく、クラシック同様、技巧や傾向をこれ以上進化していくようには、さほどに思えておらず。日本のポップスなどは、難しいほうに進んでいるわけでもなく、簡素化・素人でも歌えるように、どんどん安直になっており・・・(まぁ、作っている人々が素人の才能と素人の教育を出ていない傾向が強いので、当たり前って言えば当たり前なんですが・・・)、食指は動かない。

洋楽にしても、ダンスや服装やテーマをあれこれ変えて、個性を売っているものの、ラップミュージックがヒップホップジャンルとして統一されてから、他に出てくる音楽ジャンルは、きっと文化に根ざす「日常にあったもの」をジャンル化するだけなんだろう、と、かなり高飛車に考えている私は、こうして、音楽そのものに対する情熱や愛着を、それほど増やせないでいるわけです。

なぜに、このときに、右脳ではなく、左脳をフルに使って、涙を流し、胸を震わせ、昔の記憶を呼び戻さないのか?と問われても、「いや、音楽じゃなくても、他にそれらをしてくれる代用品は、世の中に山ほど溢れているから」という答えになっちゃうんだよなぁ・・・。映画はかなりいいのです。音楽も台詞も映像も混ぜ合わせ、才能を模索している野心もある俳優陣が表現していこうとして、配給会社の問題などもあり、テーマは本当に様々で、解析のし甲斐がてんこ盛り。しかも、1時間半から3時間ほどの長さがもたらす情報量はものすごい。それに比べると、私にとって音楽は、クラシックで30分ほどのピースもありますが、4分ドラマが何本も続くと、どうもニュース的流し方になってしまうのです。

今日の説明はわかりにくいだろうなぁ・・・。

アメリカに行ったばかりのときに、音楽でご飯を食べていきたいという人々には、「もったいない」と言われましたし、私自身もったいないと思いました(苦笑)。ただし、中学のときに基礎になる教養や知識は身につけたようで、特に、今、困るようなことはありません。紅白を見ても、「この人最近売れてないから、歌ってないんだな」などと歌唱力はわかるし、バンドによってのギターやドラムの上手さもわかります。変調を使う作曲家もわかりますし、売れている傾向というのも把握できています。

なので、冷静すぎて、夢中になりきれない、ということもあり、世の中に数多ある音楽の中で、「コレがいい!」と自分に合致したものを選びきれなかったというのもあります。同じですね。心理学の学派も、職業も、宗教も、私は選びきれないまま、ずっと無駄に教養や教育をつけてきた(爆)。気づくと味わいのない、無味乾燥な、頭でっかちなやつになってきているんでしょうねぇ・・・。

西さんのジャズやクラシックの聴き方は、ヘッドフォンをつけてもつけずとも、目を閉じて足を投げ出して、本当にリラックスタイムに見えます。脳はパチパチ反応しているだろうけれども、音楽に集中している感じ。ある意味、たいへんにうらやましいと思うのです。贅沢な時間なのでしょう。鍼を受けているときにも、音楽の効果などを考えてしまい、その選曲に対していろいろと考えながら、鍼の施術を受けているってどうなのよ?(爆)

かたや、英語の生徒さんにはiPodなどでCNNニュースやナレーションになっているAudio Booksをオススメしている日々です。この矛盾は何なのか?と考えたので、ちょっと長くなりましたが、考えてみました。「音楽がない生活なんて考えられない!」と胸を張って言える人って、倖せです。しかも、表現者の側(楽器でも作るほうでも)に居る人はとても倖せです。私も、そういう意味で、モノ作りに参加したいのですが、あまり才能がないようだ(爆)。