体力の限界~東京マラソンの日に

02/17/2008 にアップした文章です。

私は、去年もこの時期に日本に居たのですが、東京マラソンというのがいつ始まって、どんなものなのか、去年まったく気が行きませんでした(笑)。私自身がマラソンができないという明白な理由だけではなく、日本にアジャストするのに必死だった頃なのです。到着してしばらくは、違いを楽しんでいたのですが、4ヶ月ほど経ったあと、かなり焦りが出てきていた頃だったのです。ネコたちはまだおらず、精神的にもつらかったんだろうし、定着した仕事というのは、去年の今頃は持っていませんでした。方向性は見つかっていなかったしね・・・。

東京マラソンのオフィシャルサイト>http://www.tokyo42195.org/

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%82%BD%E3%83%B3 これで歴史や経緯を学ぼう(笑)。

ええええ!ひとつにまとめたやつだったのか・・・(汗)。しかも参加者が3万人もいて、5万を目指しているのか・・・(汗)。ちょっと尋常な数じゃないよなぁ・・・。え?去年から統合系が始まったのか・・・。ちきしょー、すっかり通り過ぎていた(汗)。

実は私は、今日もそんな場合ではなく、せいぜいTVで観戦するのがオチなのです。昨日は、朝の10時から夜の7時半まで、9時間半のあいだ、5分休みが3回あったきりで、グループの生徒さんたちの合間にトイレに行き、国際線に乗ったときくらいの喫煙間隔を埋めるべく、グループディスカッションをお願いして、ビルの中二階まで行き、喫煙をしたら、倒れるかと思った・・・←だったら吸うな(笑)。終わったあとは、スタッフに「まだまだ元気じゃないですか。毎週コレで行きますか?」くらいなことを言われるくらい元気だったのですが、新宿駅に向うときに、腰痛の兆しが・・・。さらに、なんとなく熱が出そうな予感までしてきてしまい、寒さを浴びたせいなのか、腰が重くて仕方がなかった。そして、新宿発の特急か準特急に乗ろうとしていたのですが、あと4分というところで、いつものように走ることができず、乗れないかと諦めようとした自分に、どうもどっと疲労感が出てしまったのです。走ったことは走ったのですが、なんだかよろけており(笑)、第三者から見たらきっと「早歩き」程度だったと思うのです。ところが、ラッキーなことに間に合ってしまい、乗った途端、いやーな汗が・・・。そこで、気づかぬふりをして、『平家物語』を読んでみたのです。古文の弱さに恥じ入り、ここのところ、柿本人麻呂以来、ちと古文を顧みているのです。ところが、頭に入らない(笑)。平敦盛の段だったので、わかりやすいはずなのに、どうも入ってこない(おそらく、このあたりであれば、中学レベルなんだろう・・・)。

そして、気づかぬうちに、『平家物語』と格闘しているあいだに、調布に到着してしまった、という不思議な疲労感にクビまで浸かりながら駅前を歩いたのですが、今振り返るとその記憶がないのである(苦笑)。まずいよなぁ・・・。

しかも、家に到着して、ネコたちにごはんをあげて、トイレの始末をしたあと、自分のごはんを食べようと思ったのですが、あまりおなか一杯になると変な時間に寝てしまうので、少し待ったのですが、やはり待ちきれずに食べても、なぜか眠くならず、午前3時まで起きているという、不思議なテンションを体験し、今朝は7時に起きてしまった・・・。

校長センセではないのだけれども、鼻と喉が少し気になったので、いっそ起きてしまったのです。そして、TVをつけたら東京マラソン一色でびっくり・・・。

コーヒーだけは淹れたのですが、母がボーイフレンドの家に泊まっているため、ネコたちにごはんを上げたり、抱いてみたり、いろいろしたのだけれども、どうも気分は晴れない。

体力の限界を感じつつも、今日も仕事が1本あるんだなぁ・・・。

そもそも10年に1回しか寝込むほどの風邪を引かない私が、あと6年か7年ほどの猶予があったにも拘らず、去年の年末1日寝込んでしまい、またもや、今回鼻や喉や熱っぽい体験をしており、寝込むほどではないにしろ、完全休日がないために、ぐずぐずしていて治らない。西さんはメールで、「今回の出張は最年長です。最も若い人と30歳近い差があります」などと書いて来るので、どうも気分が滅入る(爆)。私自身は年齢などこれまで感じたことなどなかったのだけれども、今回おそらく初めて、「蓄積された疲労の怖さ」を感じているところです。

今までは、寝れば治っていた、ということばかりだったのに、今回は、初めて「熱っぽい」と思ってからはや8日。ぐずぐずといつまでも鬱陶しいことです。TVを見つつ、「こんなことでは、いつかフルマラソンを」などという夢すら持てないではないか・・・と、なんだかネガティブな気分にさせられています。なので、ちょっとzappingしてみると、『ゲゲゲの鬼太郎』が・・・。でも、なんだか画調が違うみたい。ここでも年齢を感じさせるっつーのか(笑)。そして、さっそく、マルチビタミンを飲んでみる(笑)。朝ごはんは食べる気がしないんだよなぁ・・・。確実にこの疲労は明日によくなるという自信がいまひとつ持てないでいるところが、きっと校長センセや西さんの言うところの、「歳だから・・・」なのかなぁ・・・と思いつつ、今日は始まってしまった。いいことなのか?悪いことなのか?

そもそも、鼻の炎症があっても、鼻がかめるような状態にならないので、ただただティッシュで鼻を押さえているわけですが、朝起きると痰が出るわけです。なので、肺近辺では炎症は凝り固まっている感じがわかる。ちょっといつもより重症で、痰などというものは、もう30年ぶりかもしれない・・・・。

はぁ、こういうビジュアルなものがさらにネガティブ材料なんだなぁとわかっていても、眼を完全に瞑りながら暮せないしなぁ・・・。今日は、仕事が午後終わったら、エッセイを貯め書きしようと思っていたのですが、遅れつつでもいいので、安静に暮そうかと思います。弱気で書いても、いいものが書けるわけもなく・・・。まだおいしいものが食べたいという気持ちにもならないので、きっとけっこうな疲労感なのだろうな・・・。昨日は少しおでんが食べたいと思ったことが、遠い昔のようである・・・。でも、熱は出そうにないから、余計にイライラというところです。一気に終わってもらいたいんだけどなぁ・・・。

昨日は、6月留学の生徒さんの申請書の準備をしたり、英検準1級の方の面接用の練習相手になったりと、楽しい授業が多かったのですが、どうしてこうなってしまったのか・・・。やっぱり『歳なのか』なぁ(笑)。どう思います?いくつくらいで、初めての『歳だなぁ・・・』を感じるものなのでしょうか?まぁ、ヒトそれぞれだとは思うんだけど、だいたいが知りたいかも(爆)。

紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その90

「一人っ子はかわいそう」ですか?

いえいえ、自分がかわいそうだと思えばかわいそうでしょうけれども、周りや親がどうこう考え方を押し付けるものではないですよね。ヒトを考える分野の学問は「社会科学」ですから、尤もらしい正解があるのだと言い張ることは可能かもしれません。が、生まれも違えば、その時代も違い、近所の環境も違えば、周りにいる人々もそれぞれとてもユニークかもしれないです。そうした意味では、大雑把に大枠的に「一人っ子はかわいそう」などと言えるのは、ちょっと高飛車に過ぎるような気がします。

長子に生まれたか、何番目か、どのような環境でどのような性別で育ったか、などなど、いろいろな研究がありますが、最後に来るのは、やはり「その子の個性」です。そもそも、「環境に勝てるのか、負けるのか」というところを測ってみるのが納得がいくところで、さらに「どんなものには抗えて、どんなものには抗えないのか」を検証してからこそ、「一人っ子だからこういう典型的なものが出てしまう、受け止め方がこうなってしまう」とか、「一人っ子だからこういうお典型的にいいところもあるよ」というのが順序だと思うのです。

自分が一人っ子だったとして、+しか見ないというのもおかしいですから、こうした悩みが生まれるのかもしれないです。が、自分が一人っ子でない場合に、一人っ子の誰かを見たときに、このように見てしまうのは少し悲しいかもしれません。

たとえば、一人っ子の女性が「もうひとり子どもが欲しいかもしれない」というときに、後押しをしたいとき、「一人っ子はかわいそうよね」というのは、もしかするといい意味での励まし、決断の早道になるかもしれません。だとしたら、一人っ子のネガティブな面をシェアするのはいいかもしれないですよね。

https://woman.excite.co.jp/article/child/rid_E1520481745227/

https://www.msn.com/ja-jp/money/news/%E3%80%8C%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E9%A0%86%E3%80%8D%E3%81%A7%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B%EF%BC%81%E6%80%A7%E6%A0%BC%E5%88%86%E6%9E%90-%E4%BA%94%E7%99%BE%E7%94%B0%E9%81%94%E6%88%90%EF%BC%88%E5%BF%83%E7%90%86%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%A9%E3%83%BC%EF%BC%89/ar-AAABl4Y#page=2

https://matome.naver.jp/odai/2135806557975759901

このように学者でも少し違う点を挙げる差異もありますし、他の環境要因を冷静に判断することができない場合、うのみにし過ぎてもなぁと思えます。参考にするときに、自分が世界や世間をどのくらい冷静に判断しているのか?が決め手になります。

多くの方々が、自分をえこひいきするような判断をしているので(もちろん私も含めて!)、自己中心的にならないような判断力を身に着けることによって、この生まれ順は有効になります。

さらに、誰かが誰かをそもそも「かわいそう」と思うのは、根本的には違う気がします。どう思われますか?誰かが誰かを上に見たり下に見たりするのは、少し違うと思えるのでした。

フィンランド方式の学習法

02/16/2008 にアップした文章です。

なんだかすごい注目を浴びており、これ方式の学習How to 本なども、続々刊行の予定らしいです。うーん、なんだかものすごいなと思うのは、相変わらずの日本人のアンテナの高さ。商売としての輸入、というのが玉に瑕なのだけれども・・・(汗)。日本ほどジャズのCDやレコードの数が多い国はなく、むしろ、アメリカ人などは、日本にジャズ盤を買いに来るほどです。もちろん、そのコレクションの質もいいのでしょうね。私はかじっている程度なのでよくわかっていませんが・・・。という傾向を見ると、輸入に関しての学習欲というのは大きなものがある。そして、その対象物が、学習方法だったときに、どうなるんだろうか?と、不思議な気持ちではあります・・・。

http://www.projectfinland.jp/educator/index.html>挨拶その他

http://www.projectfinland.jp/educator/ProjectFinland.pdf>説明しています

ざらっと見ただけで、実際にログインをしてもいないのですが、これを取り入れて学校教育の現場で使う人は、きっと多くなっていくのだろうなと思います。フィンランド式といえども、実際は、もっと多様なのではないか?と疑っています。ちょっと真剣に調べてみよう。

基本のところから。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89

フィンランド語とスウェーデン語が公用語で、注目すべきは、何の積極的プログラムなしでも、男女同権意識が流布したということ。その反面、兵役では、男子にしか課せられたものがないということ。ふーむ、おもしろい。

http://www.aba.ne.jp/~sugita/160j.htm

http://www.kaigo-web.info/kouza/hokuou/no4/index.html

http://benesse.jp/blog/20050721/p1.html 進研ゼミのベネッセのブログでも取上げられています。企業理念として、しっかりその教えは生かされていくのだろうか?と疑問はあり。

http://www.news.janjan.jp/world/0701/0612290322/1.php 「平等と公平」という言葉をよく耳にします、とありますが、私個人は、平等はこの世にはごく少ししかないと思っており、公平にのみ邁進したほうがいいのだろうという結論に至っています。あまりに平等を意識するあまりに、自然の摂理に逆らいすぎることもあり、公平というのが最も適したゾーンなのだろうと。しかも、ここには「競争を止める」というのを賞賛しているのですが、競争のない社会というのは存在意義そのものからのひっくり返りでしょう。

地球の成り立ちや、進化の中、共存や共生はできても、弱肉強食のない世の中はありえない。「ライオンやチーターという種ならば絶滅してもいいよ」と言い放っているだけではなく、「ヒトだって要らないじゃん」と言ってしまうようなものなのですから・・・。どのような競争の仕方をすれば、共存共栄が叶うのか?を子どもたちには教えていかねばならず、大人たちは考えていかねばならぬはずです。あるものを無いと言ってしまえるような、愚かな前提から、物事を引き出すようなことをして、100年後や1万年後のことを考えない人類であってはいけないはずだし、この大脳皮質が縮んでいってもいいような暮らし方をしてはいけないはず。いや、いいと思うヒトはいるんだろうなぁ・・・←弱気(爆)。

私が非情にアグレッシブな人間なわけではなく、当然の法則というのは無視しちゃいかんよ、というのを、まず提示しているまでです。いや・・・。私はやはり非情ではあるし、攻撃的でもあるかもしれない・・・。とはいえ、意味なく他人を攻撃することはないのでご安心を♪

とはいえ、国という大きな単位で成果が出ていることはすばらしいです。このPDFのカリキュラムの組み立てを見てみても、「なんだかできそう・・・」ということが多いです。特にものすごく突飛なことをやっているわけではなく、当たり前のことをどのように教えるか?ということなのでしょう。「どのように」というのが曲者で、その主旨は、「自発的に学ぶ」ということなのではないか?と、強く感じているところで、平等やら比較や競争をしない、とは違うんじゃないかと思うのです。

http://www.asahi.com/edu/nie/kiji/kiji/TKY200502250173.html うーん、朝日の取上げ方も「比較・競争とは無縁」と書いてある・・・。これは、おそらく、他人と比較・競争する日本の受験制度や、物事への態度の在り方を批評してのことなのだろうけれども、「昨日の自分と戦うこと・自分の可能性と闘うことが肝心で、他人は関係ない」というのは、私は10代前半からやってきていることなので、新鮮なオドロキのように言われてもなぁ・・・と苦笑してしまうのである。そして、そろばん塾や学習塾に通うお友だちが増えてくると、どんどんその距離が遠くなることを感じつつ、私はやっぱり自発的には勉強はしてこなかったし・・・。自発的に学習してきたことはたくさんあったのだけれども、それが学校の通信簿にそのまま反映されてきたとはまったく思わないでいます。

大人になって、英語集中学校に通ってから、「なぜ?」「どのような過程を通って?」と疑問を持つ人間に育ってよかったなと思ったのは、語彙を身につけることひとつだけ取っても充分な価値があったと実感したこと。私はこうして、独り相撲ではあったのだけれども、ひとりだけで個人主義を徹底してきたので、アメリカにもすぐなじめたのだろうし、アメリカに行ってからの学習が、とにかくおもしろくて仕方なくなったのだろうと、後付理由として考えられるわけです。

今、教える立場にいて感じることは、やはり英語学校ですら、誰かのTOEFL,TOEIC,英検の点数と、自分を比較しているヒトは多いんだな、ということ。横並びの比較ではなく、自分が辿ってきた道のりの縦比較をしたほうがずっと建設的なので、初めて学んだ教科書の登場人物を憶えているかどうか?の質問をしたりしますし、教科書が三省堂だったかどうかとか、英語の先生の話を訊ねたりします。そこで、横にいる人々ではなく、あくまで自分の蓄積やプロセスを省みてほしいと思っているわけです。

昨日も最後の受験生を送り出したのですが、そのときに言った言葉は、「1週間に1冊、日本語の本を読んでね」と英語の講師なのに言ったわけです(笑)。さらに、「英語に関しては?」という質問には、「就職前にTOEICの点数を取りなら連絡ちょうだい」と(笑)。最後に、「それよりも先に、バイクの免許取って、事故らないような技術を身につけて、いろいろなところを暇な教養課程のうちに見て廻るんだよ。そのためにはバイトがんばってね」と言っておきました。

私はこういう緩やかな人間なので、どうして非情でアグレッシブに見られてしまうことがあるのか時としてわからないのですが(笑)、まぁ、塾が当たり前の時代ではなくなったほうがいいとは思っていますね。学校の勉強で充分だと思えるような教育現場が作れることが、本来の理想形ですから。そういう意味では、フィンランド方式万歳!です。

どんな応援が温まる?

02/15/2008 にアップした文章です。

私のお気に入りのフットボールチームは惨敗だった。スーパーボウルを深夜にチラ見をして、絶望的にどうでもいいや、と投げやりになったあと、ホッケーサイトを見て、(私の)Joe Sakicがヘルニア手術からまだ復帰していないことを知る。6週間の予定で復帰のはずなのですが、今日あたりそろそろ6週間。やっぱり年齢的なもので、復活が厳しいのかなぁ。チーム自体は今のところ2位なのですが、私も椎間板の手術を体験したので、まさか6週間じゃ、プロアスリートとしての仕事は無理だろうな、と思えるのです。いくら、Joeが強靭であっても・・・。応援したいのだけれども、どんな応援がいいのか、さっぱりわからず、ファンレターなど、生涯で一度も書いたことがないし、どうしたものだろう・・・。

私が担当した受験生は、みな合格はしたものの、そのうちのひとりはまだもうちょっと高いところの受験が残っており、私の忙しさもまだ収まっていないところです。ひとつは受かっているのだけれども、まだまだ狙う、というチャレンジ精神ですね。そんなときに、どうやって送り出すのか?というのも、温まり方が違うのかなぁと。いや、温まるというよりは、「燃える」くらいに送り出す人々もいるんだろうなぁ・・・。

実は私は、中学校以来、チーム競技というのはやっていないような気がするわけです。テニスでダブルスというのは、たまーにやりましたが、おおっぴらなチーム競技というのは、やっぱり野球やサッカーやバスケ以来、やっていないような気がする。英語学校に入ったときに、体育館でバレーボールをやったことはありますが、あんなのはただのお遊びだし・・・。

なので、みんなでテンションを上げるというやり方が、いまひとつ実感できていない気がします。

ところが、今日得た情報によると、アヴェレージで3以下だった生徒さんで、最後の最後に長文読解と会話文を頼まれた高校3年生の男子が、3つ受けて3つとも受かったと、最後の朗報が舞い込んだのです。びっくりした・・・。正直、ひとつは受かると思っていたのだけれども、浪人はしないと思っていたのだけれども、第一希望まで受かるとは思っていなかったので、ちとびっくりです。私はどんなふうに彼を送り出したのか?と振り返ってみました。

台湾の原住民であるパイワン族が作ったキーホルダーをあげて、「お守りなんて気休めだけどね」と笑い、会話文と長文読解は、「常識のきちんとかね備わっている君ならできるんだから、必ず落ちついて読むこと」と言ったり、「ここまでがんばったよね。これが終わったら、まったく違う明るい未来が待ってるんだから、それを楽しみにがんばってね」と。とにかく毎日充分眠ることだけは伝えまくっていたので、それは守っていてくれたようだし。

いやー、奇跡だなぁ。300ワードの短文(いわゆる長文でもないやつ)を、初めて逢ったときには、15分掛けて読んでいたし、その短さの中で分からない語彙が、なんと30もあったので、私も正直、どうやって手をつけたものか・・・とお手上げしたくなっていたのです。驚いたことに、その段階まで、英語を6年近くもやってきて、誰も「日本語訳などイチイチするな」とは言っていなかったようである。さらに、わからない単語を暗記させていたようだし、イディオムもただただ並べ立てて文章ではなく、パズルのピースとして渡していたようである。うーん、いくら私が教えるのは好きだと言っても、Unlearning(一度学んだ状態を白紙に戻すこと)はかなりたいへんだったのだ。さらに、問題を解いても、脅威の20点台(100点満点)だったので、「うが、確率の神様にも見放されている・・・」と思ったものなのでした。

どのくらいだろう・・・。たぶん、3・40時間くらいで、なんとかなってしまったことが、ちと驚異ではある・・・(汗)。

日本語訳が一切出ないことがわかったので、それは一切手をつけず、もう文法も最低限だけをカバーした。5文型と品詞のイロハだけ。とにかく、会話文と長文の中で、「誰が、いつ、どこで、何を、どのように、した」だけに注目してもらい、これだけ取れてしまったというのは驚異的です。

ただし、私は褒めることだけは忘れなかったと思うのです。ダメがあったら、同じだけの褒めを差し出す。テーブルに乗っているものは、バランスよくして、不安材料に気が行くくらいの冷静さを残しつつ、気分をよくして送り出す。

自分に対しても、このようなことをしているのでしょうね。だから、点数だけは取れてきたのだろうと思うのです。ただし、点数を取るというのは技術であって、実際の実力と比例するとは限らない。なので、まだまだ精進の日々なのです。いくつになっても勉強することは山ほどあるんだよなぁ・・・(汗)。

今日、朗報が届いてちと食べたいなと思ったのが、おでん。キャッシュな私である(笑)。でも、今日も遅くまで仕事なので、そんな暇はなく、明日も家で書類を完成させねばならない仕事があって、ギリギリまでかじりついてがんばらねばならぬ。ここのところ、エッセイのお題に困っていて(コレは定期的に起きることなので、それほど心配してくださらなくてもいいのだけれども。特に枯れていてオートマチックに動いているとよく起きることなのである・・・)、それについてもネタ仕入れに、ネットをいろいろ調べたり、TVもぼーっと見たりしようかと思っています。

産業カウンセラーの講座の受講確定の知らせが来ました。4月6日から、毎週1ヶ月3回は、日曜日はフルタイムで学生です。祝日やゴールデンウィークやお盆などがあり、なぜか毎月3回になっています。それでも、このままなだれ込むままに仕事を入れていたら、かなりたいへんだろうなぁとは思います。学生をするのが、私の本領発揮なので、やぶさかではないのですが、いっしょに仕事もやらねばならないというのは、私の生徒さんの気持ちにもなれるので、まぁ、とてもいいことなのではないかと思っているわけです。

この調子で、自分にも温まる応援ができるのか?行け行け!Go!Go!ではなく、結果に繋がる応援と、心が挫けても、すぐに復活できる応援を、自分にしてあげられるかどうかって、やっぱり大切ですよねぇ。とはいえ、今年の冬はうんと寒いそうで、39年ぶりだかなんだかの大寒気団が来たそうです。道理で、寒さに強い私も寒く感じるわけだわ・・・(と言いつつ、コンビニに行くのに、コートを引っ掛けて行くのを忘れてしまいました)。

温まる応援を、あなたはこのごろ、誰かに上げましたか?減るもんじゃないので、バンバンばら撒いてくださいね♪

Critical Thinking

02/14/2008 にアップした文章です。

『批判的に考える力』と訳してしまっては味気がないのです。メンタルプロセスの中で複雑な考えを身につけることで、あらゆる可能性を脳内から引き出し、足りない場合にはリサーチをして外部からさらに脳内に情報を入れて、さらに見分けて判断をしたのちに、それぞれに評価を下すというものなのです。その中から、自分をさらに考えたのち、ケースバイケース、他人の場合などを当てはめて、最も起こりえるであろう予測をしたのちに、選択するというもの。アメリカで大学に戻ったときに、まず最初にこの力を身につけようと言われたときには、びっくりしました。どのクラスでも徹底してこの言葉が出てくるわけです。すっかり活用させていただきましたが、英語のクラスでは、本当に苦労しました。

http://en.wikipedia.org/wiki/Critical_thinking 英語での説明です。

ただの感性や直感やこれまでの統計学だけに留まらず、すべての五感からの情報収集をし、書き物を読み、投影し、観察し、経験も交え、理論を応用していくというもので、明瞭さ・信頼性・正確性・精緻・関連性・深遠・幅や広さ・論理性・重要性・公平さなどの軸で展開していくものなのです。

これらをマスターしている人々ですら、いつもいつもできるわけでもなく、ある物事でできたとしても、ある物事では手落ちが生まれる。関係者についての情報でも大いなる違いが出ますし、どのような世界観を持っているかでも違いが大きく出ます。

だからこそ、自分がどんな世界観を持っているのか?と、自分のチェックをすることはオススメしています。

なぜ、人々はCritical Thinkingができたほうがいいのか?まず、そう聴かれることなのでしょう。動物の一部として生きるヒトが、何の問題や障害にもぶち当たらずに生きていくことはできません。その問題を解決するためには、これができることが要です。選択肢がこれほどまでに増えてきた世の中で、このスキルがない場合には、弱肉強食の弱者として生きていく羽目に陥ることが多くなっていきます。どんな質の暮らしをしていくか?=Critical Thinkingスキルと言えるようになってきています。

掲示板に活発に書いていた頃、「いいじゃん、雰囲気で」だとか、「どうして感情的に振舞ってはいけないの?」と何度か訊かれたことがあります。いや、自分の勝手ですからいいんです。でも、立ち止まって考えることができたほうが、自分の欲する質の暮らしを手に入れることができる可能性が高くなるということは確かです。

そこで、私が子どもの頃の学校での教諭法を思い出しているのですが、アメリカに行って、最初に驚いたのは、「なんだよ、ピンクや紫やグリーンのペン(鉛筆ではない)でノートを取っていいのか・・・」ということ。そんなことは、子どもの頃からしていたわけではないらしく、中学や高校で個性が生まれるらしい。最初は、親も鉛筆しか与えず、シャーペンも与えないのが実情です。しかし、この鉛筆の間違いを消す消しゴムが、アメリカ製のものはあまり優秀ではないのだなぁ・・・。そのせいか、みんなボールペンへと移行していくようです。そこで、カラーとなる。なぜなのだろうか?(笑)少なくとも、私が30歳過ぎてアメリカで大学に戻ったときには、大多数の人々が筆箱・ペンケースを持っているわけではなく、ノートにくっつけたり、ポケットに入れたり、かばんからおもむろに取り出していたことを憶えています。

そこで、「自由だな・・・」と驚きつつも、私は2Bのシャーペンを使い続けたのですが・・・。

けれども、考えたことを書き出すことが得意な人を幾人か見たし、それほど間違えないというのもおもしろかった・・・。

口数がものすごく多いことにもびっくりしたし、「そんなの言われなくたってわかるわよ・・・」ということをイチイチ言うことがものすごいなぁと思ったのでした。そんな中、私はまたも、英語学校のときと同様、「こんな中で生き延びていけるのかしら?」と不安を抱えたものです。が、蓋を開けてみると、かなり成績はよかった。よかったおかげで、編入までたどり着いて、こんにちまでに至るのです。私に足りなかったものは何か?と痛感したのは、Critical Thinkingというスキルでした。日本で生まれ育っていたにしろ、私は誰かとやりあう機会があまりなかったせいで、論理を通して話をして、相手に聞かせて納得するように討論するという技術を持っていませんでした。持っていないというのはあまりに厳しすぎるかもしれませんが、未熟ではあったわけです。

いや、発想として、「大勢の意見に向っての反対の仕方がうまく身についていなかった」という歴然とした事実があるようです。子どもの頃から、「どのように反対するか」と、家の中でいろいろとやってみたし、仲間同士でもルールやその他を巡っていろいろなことがあったのですが、所詮、内輪で感情論や習慣や判例を使ったような理屈でしかなかったわけです。

日々、証拠の探し方や、データの強弱の分析などを教わっていくことになるのですが、ハタと思い当たったことがある。日本の小学生のときも、辞書の引き方や図書室の使い方などは学んできたのだということに。それをフルに活用しなかったのはどうしてなのか?ただただ情熱がなかっただけ、とは言い切れないものがありました。

民主主義への理解だったような気がします。

民主主義:〔democracy〕人民が権力を所有し行使するという政治原理。権力が社会全体の構成員に合法的に与えられている政治形態。ギリシャ都市国家に発し、近代市民革命により一般化した。現代では、人間の自由や平等を尊重する立場をも示す。

民主主義=多数決ということまでしか考えなかったことに対して、私は恥じるような気持ちで、30歳過ぎて考えていました。多くの草の根運動に出遭い、デモ行進に出遭い、多数を動かすための説得力を持てる人間になりたいと願い、Critical Thinkingとの対峙はずっと果てしなく続いていくものだということがわかるわけです。メンバーが違えば説得の仕方も違ってくる。ただのScientific method(科学的方法)では動かない人々も、感情も持っていれば、当然の権利も自由もある。そこで心理学を選ぶことにするのですが、その時点で、「将来のお金には繋がらないぞ」という覚悟は決めるわけです(笑)。

けれども、ヒトとして充実はしましたね。誰かになびかなくなってからこっち、私は真の意味での倖せが見えるようになってきました。もちろん、その後も、試行錯誤はずっと続いてきているのですが、目指すものはわかっています。今、物事を教えるメシの種を選んで感じることは、調べる方法や引き出しの整理の仕方などはいくらでも教えられるのだけれども、その人たちが私に出会うまでにどのようにしてデータを収集してきたのか?というのがすべてわかっているわけではない、という難しさ。インタビューを重ね、出来うる限りの方法を見せて、彼らの心や意志に合致するものを選んでもらうこと。大切です。

今後考えたほうがいいのは、大人も子どももCritical Thinkingができるようになること。これで日本は少しよい方向を進んでいけると思うわけです。

食の注目度

02/13/2008 にアップした文章です。

母と二人きりで住んでいるので、お鍋をやる機会は極端に少ないです。ネコたちはお鍋は囲めませんしね・・・(汗)。西さんが戻ってきたときには、今回は、中華風味を一切なくし、和食を食べてもらっていました。彼はお酒をどうしても止められないので、小さい小鉢がたくさんあるのが好きなのです。が、その西さんも先週木曜日の朝の5時半のリムジンで一旦中国へ。それからまた台湾とタイへ、と忙しい日々なのであります。これが、コンサルティングの仕事が続く、夏終わりくらいまで続くのかなぁ・・・。きっついなぁと思いながらも、私たちはすでに過去5年の別居+行ったり来たりを1年で、その後、こんなばらつきなので、特に違和感もなく・・・←でも別れる予兆みたいなものは、今のところは微塵もないですなぁ・・・。食べ物というのは、こんなに大切なのだなぁと、よく思うのです。

西さんは、母の作った食べ物も、私の料理も、これまで一度も文句を言ったことがありません。西さんのお母さんの料理は、義父の持病のせいで、シンプルで低カロリー低脂肪で、さっぱりしたものばかりですが、西さんはそれに関しても文句を言ったことはなく、いつもおいしく食べています。うーん、こう書くと、西さんは仏様のような人だなぁ(爆)。

そして、母がおもしろそうに報告するのは、「ねぇ、午前中に行かないと、もう韮も餃子の皮もキャベツもないんだよ。みんな手作りで餃子を作ってるんだね・・・」というもの。今までこんな現象はなかったはずなのに、どうして売り切れ(笑)。我が家では、餃子はレトルトや冷凍を買うことがめったになかったのですが(ゼロではないのは、フカヒレという中身で左右される)、どうも、「食べにくい状態」に追い込まれると、人というのは食べたくなるらしい・・・。餃子というのは、やっぱり食卓に毎月くらいは上るものなのだろうか・・・。我が家ではそうだったのだけれども・・・。そして、みんながイソイソと手作り餃子を作っているのは、とてもいいことだと思うのだ。こういう危機感を、常日頃から持てると、健康基準が上がっていくのではないかと思う・・・。

調べてみると、餃子の皮に関してこんな質問がネットで飛ぶらしい…。ふむ。みんなの頭の中には「餃子」という言葉が刷り込まれてしまっているわけですね・・・。韮やキャベツや豚の挽肉も同じような現象が、各所のスーパーで起きているらしい。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1414725554

簡単に反応するのはかなり悔しいのだけれども、ヒトというのはそういうものなのである。

男性も自分でお料理を作ろう!と心がけ始めた方々も多いらしく、悲惨な事件の中から、ポジティブな行動も引き起こしているらしいのです。中国産の原材料を使って食べ物を作っている会社は、おそらくたいへんな影響を受けていることでしょうし、その荷物を運んでいる会社も落ち込みの煽りを受けているに違いなく、売っている流通に位置する商売の人々も、きっとネガティブな気持ちになっているのだろう、と思います。が、そもそもが、自分の食べるものを、他人任せにしてきたことの警鐘なのだし、それによりお金を儲けてきたというのがいつまでも続くわけもなく、次の手を考えてはほしいと思います。

賃金が安いからそれを存分に利用してやろうという腹積もりの商売をしている人々から、丁寧で安全な食品が本当に得られるのか?というのを考えれば、かなり確率は減ってくるでしょう・・・。

私は忙しいので、ここのところ、母が出してくれたものを黙って食べる暮らしが続いており、「○×が食べたい」と思うことがなくなってきており、食に注目しているゆとりがないくらいで、自分が少しだけかわいそうな気がします。もし、ゆとりがあったら「餃子にしようよ」と言っていたかどうか?うーん、たぶん、風邪っぽいので言っていないだろうなぁ・・・。

私は夏でも冬でも関係なく、スープが大好きで、スープレシピをたくさん持っています。日本でもやっと酸棘湯(Hot and Sour Soup)が流行っているらしいのを見て歓んでいます。卵掛けごはんにも協会ができていたことに驚いていたので、スープを調べてみたら、あったあった♪ http://www.soup-japan.org/

でも、協会と名乗っているわりには、それほど充実しているようには思えず・・・。中華のスープが2種しかないのは嘘だろう・・・。日本も味噌汁しかないのはダメだろう・・・。

http://www.soup-japan.org/sekai.html

東京ガスではこんなサイトが>http://home.tokyo-gas.co.jp/shoku110/jiten/162.html

スープになったら、ちと燃えてきた(笑)。http://www.soupedia.com/ さすがクノールだ!100個もレシピが載っている♪>http://www.knorr-soup.net/recipe/countries/index.html 私はガンボを載せているこのサイトを信用したいのだけれども、やっぱりちょっと違うかもしれない・・・。

冬はお鍋!なのだろうけれども、やはり普段は2人なので、囲むゆとりもないことがあり、お鍋はこの冬、ほうとう鍋1回しか囲んでいません。おみやげでもらったものなのです。

他にも、きっと見直しが必要とされている食品が、スーパーにぞろぞろ並べられているに違いないのですが、私はもう2ヵ月半くらい、スーパーに行っていないかもしれない・・・(汗)。行く必要がないのであれば、私は買い物は一切行きたいとは思わない性質なので、母がエンジョイしているうちは、黙ってニコニコして聞いていればいいのだ。

ここのところ、体調が悪いというわけでもないのだけれども、好調とは言い切れないので、どうものらりくらりしていてよくない。食にも自然と興味が湧かず、みんながイソイソと注目している餃子ですら、「別に食べたいとは思わない・・・」となってしまうのです。スープがいいのは、面倒くさくないところ。具をかなりたくさん入れれば、ごはんを食べなくてもいいし、小鉢のおかずをそろえなくてもいいし、スプーン1本で食べられるではないですか・・・←ヤバイ。やっぱりメンタリティがオヤジなんだなぁ・・・(汗)。

母は今日も、大きなカブを使って、お漬物を作っています。梅を入れたり、ゆずを入れたり、いろいろ工夫しているようです。気づいてしまっている私は、食卓で「おいしいね」等の労い言葉を掛けてあげたほうが、彼女も気持ちいいに違いなく、食卓を守ってくれている母に大いなる感謝の気持ちが湧いたほうがいいのですが、特に○×が食べたい!という気持ちがないゆえに、どうも面倒(笑)。こう言っていられるうちが華なのかなぁ・・・。

『さみしい女は太る』というのが真実な傾向だとしたら、私がますます、知らないあいだに痩せていきつつあるのは、私がさみしくない証拠なのだろうか?いや、春になったらきっと食べたいと思うものが出てくるに違いない。冬眠したい!と切実に願っている私が、食べたいものが今あるわけがないんだろうなぁ・・・。

苦手な場面の乗り切り方


まずは、何が苦手なのかをリスト化することです。人というのは自分のことを本当はそこまでわかっていないのです。これらの作業をBrainstormingと呼びます。ブレインストームをした後に、それらをカテゴリー分けします。色々なカテゴリーが思い浮かぶと思いますが、例えば苦手な動物、食べ物、人、タイミング、場所、などなど、なるべく詳しく詳細にカテゴリー分けをするといいと思います。

そしてこれらの苦手がたくさん重なった時が、「場面」となるはずなので、この状態に自分を追い込まないようにすることが、まず賢い選択かと思います。

がどうしてもその機会・状態を迎えてしまう場合は、どのように乗り越えたらいいのか?をシミュレーションします。

カテゴリー分けしたたくさんの人や状況や雰囲気やその他、重なっているものの苦手ランキングを作ってみます。さほど苦手ではないものから「克服」する訓練を始めていくと良いかと思います。

たとえば私は、大勢の人々の前で話すことは苦手なのですが、商売柄、少人数であれば話すことは全く問題ありません。その人々の中でも、相手がどのような人だと緊張してしまったり、楽しくなくなったりするのか?を煮詰めて考えていきます。これまでは、全く逃げおおせることができたのですが、今後も逃げるつもりです(笑)。

他に何が苦手かなと思った時に、満員電車が苦手です。なので、日中しか電車は乗らないことにしていますし、スクールが終わってから家に帰るのも22時過ぎの各駅停車なので、満員になることはないのです。もしもどうしても時間帯が譲れず、満員電車しかなかったとしたならば、私はおそらく自転車通勤をしたかと思います(笑)。

頼まれてしまう場面が嫌だ!という方もいるかと思います。”No”が言えるための練習を相手を選び、ケースを選び、少しずつ解消していくのがいいと思います。

これは行動療法で、 Desentisitiationと呼ばれるものなのですが、少しずつ、苦手を「鈍化」していくやりかたです。この段階を成功体験にして行くのはプロの手を借りる必要もなく、自分でできることも多くあります。そのためのリスト化やカテゴリー分けです。

しつこいものには、催眠療法・退行による心理解析・バーチャルリアリティを使ったトレーニングなど、新しいものもけっこう出ています。

が、自分でできることはたくさんあるので、まず冷静に客観的に「なぜ苦手なのか?」を深く追求してみて、自分なりに整理整頓してみたあと、生活の中でできる簡単な克服方法を見出してみるのが一番いいはずです。

そもそも克服した方がいいのか、逃げ続けることができるのか考えてみるのも手です(笑)。

紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その89

虐待などをしてしまう親は、自分も親にそうされてきたのでしょうか?負の連鎖は続くのでしょうか?

残念ながら多くの場合はそのケースが当てはまります。ヒトは自分の居場所である「家庭」の立ち位置や中で行われている行動を「基本・基準」とみなします。そこで行われていることが「不自然」だと気づくことは稀ですし、たとえ成長したあとでも「自分の大きな部分を否定すること」はとてもつらい、忍びないことなので、たとえ不自然だと感じても「是」「良し」としてしまう傾向があるのです。なぜつらいのか?やはりヒトは自分が最も好きで、そのためには何でもするようになっているわけです。生き延びるためであれば、というメカニズムは不思議なものです。

親に虐待された経験がなくとも虐待してしまう大人は、傾向としては、

  • 貧困状態である、経験したことがある
  • 人付き合いが上手ではない
  • 実子ではなく、連れ子を虐待する
  • 被害者意識が強い
  • 躾とは何たるかを理解しておらず、暴力も躾のうちだと考えている
  • 信じられる友人関係がない

などが挙げられます。

もちろん、虐待経験がある大人であっても、これらの要因が増えれば、なおさら虐待してしまう可能性は増えていきます。

負の連鎖を続けたくない場合には、この逆を行くことですよね。

  • 経済的に自立する
  • コミュニケーションスキルを上げる
  • 子育ての何たるかをしっかり学ぶ
  • 家族や友人に対する信頼度についてチェックを怠らない
  • 家族を持つという意味について考えを深める

というのが具体的なことになるでしょうか?

私も子どもの頃は殴られる・叩かれる・怒号を浴びせられるは、かなり日常茶飯事でした。が、私個人は100%暴力反対です。例外として認められるのは、子どもが危険な目に遭いそうな場合にその大なる危機を回避するためにならば、という条件をつけるくらいでしょうか?たとえば、ストーブや車や危険人物の前で、といった感じです。

なぜ私が真逆に行けたのか?というのは、さほど珍しい話でもないですが、むしろ、もっと危険なのは、大人になってからも「虐待・放置に近いこと」を我慢してしまって当たり前になっている、という現象です。

夫婦間のDVのみならず、罵声やケンカの最中などの無理強いや、論理的にはどう考えても整合性が取れないことを強要してくる人間関係にまみれていても、その柵(しがらみ)から脱け出す勇気が持てない、というのではなく、「当たり前」だと思っていることが怖いです。

過去の経験はいくらでも変えられます。変えようとするかしないか、の2択でしかないと思うのです。大きな川幅に見えるかもしれませんが、飛ぶことはまったく可能です!

悲恋を重ねて人は育つ

02/12/2008 にアップした文章です。

ここのところ、『星の金貨』の再放送を、時間が合うときだけ見ています。実は、これは北米のSan Francisco Bay Areaの8チャンネルで放映されたのです。しかも、英語の字幕がつくんだ♪私はドラマがどうも苦手で、毎週忘れないように見ることができず、思い切ってレンタルをして、1日で見てしまったシロモノです。いやー、泣いたねぇ・・・。まどろっこしいと言えばまどろっこしいのですが、私はこんな悲恋をしたことがないので、「在り得るかもしれないじゃん・・・」と自分を説得しながら見ていたわけです。こんな悲恋を重ねたら、人はたくましくなるんだろうなぁ・・・。いや、違う意味で、私はたくましいんですけどもね(汗)。

悲恋:実らず悲劇に終わる恋。

悲劇:(1)不幸や悲惨な出来事を題材とし、人間や人生を悲壮さ・崇高さの面からとらえ、受難とそれへの闘いの過程を厳粛に表現した劇。主人公の破滅で終わるのが普通。運命悲劇・性格悲劇・境遇悲劇などに分けられる。⇔喜劇 (2)悲惨な出来事。

進化心理学でいうところの、種の保存や種の存続ということに、私は積極的に、一次的には存続していないのですが、その理由としては、生存競争もパワーゲームのひとつであり、あまり参加したいとは思わなくなったというのが、後付けの事実です。30代の頃はしょっちゅう考えたものですが、なんだか希薄なのですね。負けん気が強く、どうしても勝負には勝ちたいという勝気なやつに誤解されがちなのですが、実際は、刹那的でもあり、生命体の生命などというものは、長い歴史や地球規模から見ると、たいへんにちっぽけなものだということがわかっており、「刹那だからゆえに遊ぼう」という気持ちも生まれずじまい。けれども、もがくことだけは忘れず、ここまで私しかできないようには生きてきたつもりです。が、なんだか何のために生命体として生かされているのだろうか?と、この淡白さ加減を不思議に思うこともしばしばな昨今です。

今日、金曜日に一旦1が終わり、来週の火曜日からは『続・星の金貨』が始まるそうで、私も仕事がなければ見られるのですが、録画してまで見たいわけでもなく・・・。このへんが淡白な由縁なのでしょうなぁ・・・。いや、でも見れば泣きますよ(笑)。ところが、仕事は相変わらず忙しく、見られる日はほぼないかもしれない。

世紀の大悲恋を映画や小説で見つつも、実際にものすごい悲恋をした人から、直接お話を聴いたことがないような気がします。私が現実的すぎて、きっとそういった引力がないせいなのでしょう・・・。私は、10代の頃、西さんにやっぱり似た人たちと恋愛をしました。タイプというのはあまり変わらないのでしょうね。が、一度だけ悲恋を体験したことがあります。

全日本選手権ロードレースの国際A級のオートバイのレーサーでした。その人は転倒するか、表彰台に乗るか、どちらかというタイプで、ケガが多く、こちらのほうがどうもやっていけない気分になってしまい、アメリカにさっさと逃げてしまいました。当然、その彼にとっても私は本命などではなく、消耗品というか、一過性のイベントだったのでしょう。のちにアメリカで再会するのですが、いい感じの大人の男になっていたので、別れてよかったなぁと思ったものです。私ではあんな影響を差し上げることはできなかったことに対して、完全に白旗を揚げました。

他人の悲恋にはこれほど泣けるのに、自分がやりたくないという徹底した態度は何なのだ?と、苦笑しつつ、自分を分析するわけです。他人が関与することについて、他人をコントロールせねばならぬ割合が多くなることについて、とても嫌気がさしているようです。

生物を学んでいたときの態度は、目からウロコが多く、「なんだよ、こんなにヒトは動物として自然の摂理に支配されているのか・・・」の連続でした。恋愛もそのひとつで、社会動物の頂点に立っている「つもり」でも、実際のところは、見えない縛りである自然の摂理が大きく働いています。特に、動物であることを否定しよう!とがんばっているわけではなく、そもそもの「弱肉強食」の無駄な回避をして、大脳皮質が大きくなった利点を、より多く使いたいと思うようになってきたわけです。その中には当然、恋愛も含まれる。

そして私はどんどん枯れてきた・・・(爆)。どのくらい枯れてきたか?と問われると、こと、恋愛に関しては、中国の桂林のたたずまいに「うげぇ、暇だ・・・」と思わないくらいに溶け込めるくらいに。水墨画の中で生きていけるくらいに枯れてきている部分というのは、確実にあるように自覚してしまっているのです。

が、自分が積極的に参加せずとも、どうしてか他人の悲恋には泣ける。ドラマやストーリーは、おそらく実在している事実を、さらに切なく悲しく演出しているものが多いのでしょうが、それでも騙されているような気がせず泣けるなぁ・・・。それは、10代の頃からの経験があったから、という賜物なのでしょう。まったくのところ、恋愛で泣いたり笑ったりした経験がなければ、特にドラマやストーリーでも心が揺さぶられることもないのだろうし。

が、ここで思いっきりの矛盾を。タイトルの『悲恋を重ねて人は育つ』は、私は学習の度合いだと思うのです。何度も何度も恋愛するたびに結婚する人がいますが、あのエネルギーはどこから来るのだ?と半ば呆れつつ畏怖すら感じますが、すべての人にあれを勧めることはできない。「いくつになっても恋はしていたいものよね」と、年齢が上がっても言っている人々がいますが、私はそうは思えないし、私にはできないです。恋をするエネルギーを使うくらいであれば、他人によって私の核がひっくり返されるような翻弄に戸惑うようなくらいであれば、私はそのエネルギーをもっと穏やかな中で、他の分野からのドキドキを得たいと思ってしまうのです。実際に自然の摂理の中で生かされているということを実感するために、氷河を見る旅行などはいいのかもしれないし、Machu Pichuまで登ってみるのもいいかもしれない。

もしかすると、ネットに毒されて、秋葉原系までは行っていないとしても、疑似体験で満足している進化していないやつなのか?と、検討してみるのですが、そうではないようです。若い頃には確実にヴァーチャルではなく、現実世界で体験してきており、やはり私には恋愛は大きな重きが置けないようである、というのがわかってきて、西さんにも純粋な恋愛感情だけではなく、他のたくさんのものを織り交ぜてもらっている現状に、大満足しているからなのでしょう。

西さんがこの世からいなくなり、あるいは私と離婚してどこか逢えないところに行ってしまって、私がこの先ひとりで生きていくのはつらいな、と思ったときに、縁があればどうなるか明言はできませんが、今のところは、たとえひとりぽっちになっても、「もう恋愛はいいや・・・」と考えています。その代わり、読書や映画で見られる悲恋には泣きつつ・・・。砂漠の熱風を横断するよりは、傍観者のほうが向いているのだということを、きっと私は、小学校では学べなかったのかもしれませんが、中学や高校の運動会や遠足や揉め事や、10代の恋愛のいくつかで、既に学んでしまったのかもしれません。

枯れていることは虚しいのか?うーん、そうでもないですねぇ・・・。

冬眠したい・・・

02/11/2008 にアップした文章です。

またもや風邪気味になってしまっています。ところが、元来健康なせいで、倒れることもなく、仕事には行き続けており、特にものすごい数の細菌をバラまいているつもりもなく、症状はただただかったるいだけ。鼻水はまたもやまったく水状態で、鼻を抑えていればいいだけです。雪が降る2日前くらいから、「ヤバイかも・・・」と思っていたのですが、以来、決定的に風邪を引くのでもなく、すっきりしない状態がもう4日ほど続いています。

校長センセも風邪気味だそうで、キーボードに触れるのに、わざわざ手を洗ってくださるほどに自重されているのとは、まったく正反対で、私がどのくらいの細菌を持ち運んでいるのか?を意識しながらも、ニーズに応えて働いています。日曜日もわずか3時間でしたが仕事があり、今日の祭日にも7.5時間も仕事があり、今度の日曜日までは休日なしです。ということは、この前の2月3日に休んで以来、17日までお休みなしということですか・・・。

始末に悪いなぁというのは、眠れないこと。昨日も午前2時までのらりくらりと、スポーツ番組しかやっていないのに、TVをつけて起きていました。市販の風邪薬を飲んだせいなのか、喉が渇いて仕方がなく、ぐったりと休めるわけでもなく、なぜだかずっと起きていた・・・。中途半端なんだよなぁ・・・。それならば、書ききれていないエッセイを起きて書けばいいのだけれども、どうせ遊んでいろいろ読んでしまうので、スイッチを入れることは留まった・・・。祭日だからと世の中が休んでいるときには働きたい。この天邪鬼は直りそうもなく、だらだらとお休みを取ることができずに、来る仕事は極力引き受けており、どんどんお休みがなくなっていきます。が、そのおかげで、怪物と呼ばれる中田選手の柵越えホームランも見たし、芝目を読む石川遼選手も見たし、いつもだったら見ないロナウド選手のゴール特集を見たあと、Manchester United vs. Manchester Cityのメモリアル試合も見てしまったし、コマーシャルのあいだにはプロレスまで見てしまった(笑)。

かと言って、やはりこのエッセイをアップしていないのは気になるので、朝は早めに起きてしまい、こうして書いています。お休み宣言すればいいだけなんですが、どうもできない・・・。やはり勤勉な日本人と言われる何かが、私のDNAにも入っているのかなぁ・・・(汗)←自分で言っていてちゃんちゃらおかしいのですが、勤勉ではなく、おそらくただの意地みたいなものなのだろうと。

私がクマだったら冬眠したいところです。私にとっての簡単な倖せは、「眠り」で、世の中いろいろと楽しいことはありますが、やはり堂々第一位はコレしかないですね。食べることは、歳を食ってからそれほど楽しくもなくなってきており、大差で2位かもしれないです。そもそも、今の日本の自給率を考えたりしていると、どんどん食べることが苦痛になってきてしまい、それでも生命体はYou are what you eatなので、食べなければ生き延びることができず・・・。我が家はインスタントはカレーのルーくらいしか使わず、ソース類の類も一から作るのですが、その材料費も高くなってきたようです。そうなると、どうもネガティブな印象操作をさせられてしまい、食がますます楽しくなくなってくるんだよなぁ・・・。

すでにかなり前の映画になりますが、12 MonkeysというBruce Willis, Brad Pittの映画がありました。http://imdb.com/title/tt0114746/>英語 

http://ja.wikipedia.org/wiki/12%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%82%BA>日本語

あのように、世の中が破綻してしまうようなことは、充分ありえるのではないか?と思っており、宮崎駿監督が警鐘する一連の映画にも、大きく共感しているので、風邪のような優れない体調のときに、ますます、ネガティブなことで頭や心が詰まっているのがわかってしまうわけですね。それで、「どうにでもなれ!」という気持ちになって、カラッと晴れそうなスポーツ番組を見続けてしまうわけですが、本当にカラッとしたかどうかは謎のままです。

もしも、世の中が『風の谷のナウシカ』や12 Monkeys状態になったら、私などは到底生き延びていけるわけもなく、きっとさっさと冬眠するように準備をして、凍死か餓死で死ぬことになるんでしょう・・・。

このところヒシヒシと感じているのは、「教えても教えても理解されないことは多いのだなぁ・・・」という当たり前の事実で、だからゆえに、心理学でも認知や生物学的事実に着目してきたはずなのですが、「いやぁ、キリがないよね・・・」ということ。

おかげさまで、私が必殺請負人のように引き受けた受験生は、全員志望校の範囲に受かりました。最初に出会ったときには、differentとdifficultの違いがわからず、本当にどうしようかと思ったのですが、会話文と長文読解だけに力を入れて、文法をイチイチ説明しても無駄なので、頻出場所だけの基本だけを丹念にやり、とにかく日本語に訳さないように時間短縮をして、見事に受かりましたよ・・・。そのせいで、私のこの風邪っぽいだるさは、少しは快方に向ったはずだったのですが、2月9日には、高校3年生の女の子のTOEFLのiBTテストがあり、その結果が6週間後くらいにしか出ないので、それまではちょっと気が抜けず・・・。

他にもTOEICやGMATなど、きちんとした目標を持っている生徒さんには、その目標をクリアしてもらうことが優先なので、請負人としては自信があっても、結果が出続けるためには、日々たいへんだなぁと思っているところ。アノ手コノ手を使っているのですが、いかんせん、24時間いっしょにくっついているわけではないので、どのくらいの成果が上がるか、どのくらいの動機アップができるかどうか、本人次第だよ、とは言っているのですが・・・。が、実際、目標を明確に持っている生徒さんのほうが、教え易いというのは事実。「国際人として英語が話せるようになりたい」という漠然とした目標では、手のつけようがないのです。もう少し細かな段階的目標が必要なのです。

ということで、本当には冬眠など、ヒトには不可能なのですが、もしも叶うことならば、冬眠したいくらいですね、今・・・。昨日、今日はわりと暖かい東京なので助かっていますが、去年の暖冬とは大違いで、やっぱり寒いじゃないですか・・・。とはいえ、私が薄着なのがいけないんだろうな・・・。とにかく、完全休日を待ち望み、続けて10時間くらいは眠りたいです。夢を6本くらい見ることができたら、脳も万全だろうし(笑)。

この前長く眠ったのは、2月2日の夜の9時間でした。一度も起きないで続けて眠ることができるってやっぱりステキだよなぁ・・・。