紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その57

Q57.

いわゆるDQN(ドキュンネーム)についてはどう思いますか?

 

A57.

時代が変わっていく中、名前にも物や事、現象などと同じように、流行というものがあって当たり前かとは思います。

ただ、その先駆者となって名前を付けられる方の子どもたちは、少し気の毒に思うこともあります。

親としては先見の明があり、大人になってからも生涯ずっと、いい名前だと温めてくれる♬と願って付けた名前ではあるのでしょうが、少し早すぎていわゆるDQNネームになってしまっているケースが、かなり多く見られるのではないでしょうか?

例えば、Naomiナオミ、という名前は、 https://en.wikipedia.org/wiki/Naomi_(given_name)
そもそもヘブライ語から来ています。辞書にも載っている名前ですし、これが世界中に流布してきたということについては、多くの方が知らないのかもしれません。なぜならば日本ではナオミという名前はとても popular だからです。たくさんの漢字に当てはめることができますし、日本語の音としても、かなり自然な感じがします。

女の子の名前「子」がつく時代も長かったですし、今でも続いています。「美」がつく名前が流行ったこともあります。私の名前も「美」がついています。

国際化に伴い、様々なアイディアでお母さんお父さんたちが色々な名前を考え着くのは悪いことだとは思いません。が、それを生涯使う子どものことも考えて、あまり先走った名前ではない方がいいようには思います。

それほど件数が多いわけではないでしょうが、実際に法律に触れるようなものも過去にはありました。「今でしょ!」の林修先生は、親の学力とDQNネームについて関連性があるのではないかと述べております。

本人が愛着を持てない言葉であれば、この先も裁判などで改名の手続きが行われることはあるかもしれません。ただ、親が生きている間は言えないまま、悩み続ける子たちも相当数いるのかもしれませんね。インターネットのハンドルネームや、アーティスト活動での別名など、自分のアイデンティティを他に昇華させる方法もあるかもしれませんが、やはりあまりにも特異な名前を付けられたら、子どもとしてはつらい人生になるかもしれません。

元々の考え方によるとは思います。子どもの人生は誰のものか?本人のものである、と考えられるかどうかの線引きがあります。願いを込める、希望を込める、愛を込める、という名づけができればいいですが、やはりこれも行き過ぎではなく「中庸」がいいんでしょうね。

宇宙旅行

10/25/2007 にアップした文章です。

 

プリンセス天功でもあるまいし、莫大なお金がない限りは、宇宙旅行などできるわけがないとまだ考えている私は、夢がないんだろうか?そのくせ、宇宙モノ映画は相当に好きなのである。SF一辺倒ではなく、宇宙へ科学的技術を駆使して、という筋立て(まぁ、もちろん落ち度はあって、そんなわけないだろうっていう突っ込みはできるんだけれども・・・)があれば、かなり楽しめています。夢を持っている人間が好きなのに、私としては壮大な夢が持てないというのは、どうしてなんだろうか?と、凡人たるいろいろな欠点をまたもや考え込んでしまうのだけれども、論理的を目指すとその代償はやっぱりあるんだろね・・・。ところで、宇宙旅行、行きたいですか?

いやぁ、私は可能であれば、やっぱり行きたいですよ。家でTV見ているほうがいいじゃん、という意見もわからなくもないですが、一度行けば気が済むと思うので、リスクが低くて、価格が安ければ、ぜひ行きたいです。そこで、ガガーリンが言ったことを確かめてみたいですねぇ。

「地球は青かった」というのは、意訳で、実際には「地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった」と、ロマンチックに表現しています。自著の中では、「地球はみずみずしい色調にあふれて美しく、薄青色の円光にかこまれていた」と言っているのですが、やっぱり想像はできても、見てみなければ実感として伴わないのではないかと思えるので、どうも見てみたい。これはただの好奇心に他ならず、「だから何なの?」と言われても、そのあとどのようにこの体験を応用するかはやってみなければわからず・・・。他にも、「神はいなかった」という著名な言葉も残していますが、出典ははっきりしていないらしいです。本人の自著の中にもないらしい。が、親友が書いた本の中に逸話が載せられており、それが一人歩きしているらしい。

宇宙から帰還したガガーリンの歓迎パーティにロシア正教のモスクワ総主教アレクシー1世が列席しており、ガガーリンに尋ねた。
総主教「宇宙を飛んでいたとき、神の姿を見ただろうか。」
ガガーリン「見えませんでした。」
総主教「わが息子よ、神の姿が見えなかったことは自分の胸だけに収めておくように。」
しばらくしてフルシチョフがガガーリンに同じことを尋ねた。総主教との約束を思い出したガガーリンはさきほどとは違うことを答えた。
ガガーリン「見えました。」
フルシチョフ「同志よ、神の姿が見えたことは誰にもいわないように。」(レーニン主義は宗教を否定している)

笑えてしまうのは、相手によってはっきりしているはずのYes-No Questionの答えを変えていること。これは、シニカルな政治体制・宗教や思想への反発なのだろうけれども、なんだか宇宙に行ったがゆえに、こんな高等ジョークが言えることが、やたらとうらやましい。「道を歩んで到達したものだけが与えられる特典」なのである。もちろん、これも親友の著書の中にあるだけで、本人が言ったとは確実性がないのだけれども・・・。

宇宙旅行は実際にビジネスになっているらしい。うーん、私はまだそこまで楽観視はしていないのだけれども、大真面目でいつか本当に人類が地球を出て、宇宙を行き来するとしているサイトを紹介してみておくね。
http://uk2.jp/main/content/view/13/29/ 宇宙旅行の会社
JTBも真剣なのだ。HPによると2008年から開始らしい。一体いくらかかるのか、どこを見ても書いていない。敷居が高すぎて、暖簾もくぐれないではないか・・・。
ただし、無重力体験旅行はすでに実施されている。団体で申し込んでも105万かかって、さらに現地でのいろいろな出費や国内移動やお土産代などかけると、130万くらいか?無重力体験をするのにこんなにかかるとは・・・。個人向けだと、団体パッケージよりもずっとアクティビティが少なくなる。でも45万くらい。どうだろう?
外から地球を見ることであれば、パッケージでできる。でも1225万くらい。高い(爆)。

英語の授業でも、スペースに関する教材はけっこうあり、みんなに「行きたいか?」は聞いているのですが、8割が現実的で、「宇宙に行くより日々の暮らし」という意見が圧倒的。やはりまだまだ価格的に高すぎる・・・。「いくらだったら行ってみたいか?」との問いには、「300万くらいまで下がったら考えてみてもいい」ということらしい。人によっては「稼げるようになっていたら年収くらい」という答えだった。私だったらいくらになったら考えるかなぁ・・・。もちろん、自分の収入との兼ね合いもあるんだろうけれどもね・・・。

アメリカでは、NASAでのキャンプが毎年ものすごい数行われており、体験キャンプは激安。宇宙への夢はこんなことで養われるんでしょうな。
http://www.kennedyspacecenter.com/educatorsParents/camp.asp

日本も種子島にロケットセンターがあるんだから、やればいいのにね・・・。http://edu.jaxa.jp/ こんな程度にはやっているらしい。ところで、西さんは、子どもの頃、ここに連れて行かれて「でっかい人間になってもらえるように」という親の希望を肩に感じたらしい。彼は宇宙開発には一家言持っている(爆)。

前にエッセイで書いたDan Brown Deception Pointには、NASAの苦しさや目標などが詳しく書かれており、Dan Brownがリサーチしたことを責任を持って書いているのだから、ほぼすべて活字になっている部分には、信憑性はあるんじゃないかと思われます。もちろん、フィクションですから色ツケもありますが・・・。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%BB%E3%83%97%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%88

私は、JFK時代に生まれているので、宇宙への夢が前世代よりもう少し希薄ですが、現代人よりはあるのかもしれない。現代の人々は、エアロスペース業をしている人々に振り回されている感がしないでもないのです。いや、もちろん私も宇宙旅行をしたいと思えばそうなんですけどね・・・。実際、私と同年代かそれ以上の人々が、アニメ化や映画化をしたおかげで、宇宙への夢は繋がっていると言えるのですが、その受け手となった若い世代の人々が、どのように宇宙旅行にタックルしていくのか、見ものではあります。

考古学や天文学などを基礎にした人々のロマンが大きく左右される学問は、なかなか発展しずらいものなので、こうして商業価値とカップリングされていくのですが(考古学ではその価値を値段にする。宇宙旅行の値段は莫大であるなどなど)、たまねぎの皮をどんどん剥いていき、その中心のところに、どんなロマンがあるのか?を考えてみるのはおもしろいんじゃないかと思うのです。

でもなぁ、私は宇宙飛行士になりたいとも思えなかったしなぁ・・・。私の時代は一般人が宇宙飛行士になるにはたいへんだったのだ。しかも日本人が選ばれる日が来るなどとは思わなかったし(爆)。で、パイロットになったのだけれども、そこがいいところ止まりだったんだろねぇ・・・。私より上の世代のアメリカ人たちは、「21世紀になったらみんなで月旅行に行ける」と、学校の授業で教わっていたそうです。日本もその熱を充分もらっていたのでしょう。

ああ、行けるもんなら行きたいよなぁ・・・。

 

責任の取り方 前編

10/24/2007 にアップした文章です。

 

どうやら、フジTVで長く続いている、教育関係の番組を今度の土曜日にやるらしい。その中で、ビートたけし(北野武で出演するのではない模様)と爆笑問題が、『責任の取り方』についてを取上げているらしいのである。母のほうがTVをよく見ているので、「どんなCMやっていた?」と聞いても、彼女は興味のないことはスルーなので、大した情報は得られなかった・・・。そこで我慢して、ちょっと真剣にCMも見ていたらやっていたのです。確か、去年だかに石原慎太郎を招いてやっていたやつではないかと思うのだ。そこで私はまたもや、石原慎太郎の器を再確認したんだった。はい、都内ロケーションなどの促進や、経済効果に対する政策には一定の評価ができますが、私は彼の根本的な考え方には同調できません。

 

どうして、先んじてやるのか?予習目的なのだった(笑)。私のクラスの生徒さんには、予習は一切課さないのです。なぜならば、数年や10数年前に一度学んだことに関して、「どのくらい記憶しているか?」という苦痛を、家で、しかもひとりでやってほしくはないのです。学んだ直後に練習問題を解くのに比べて、倍以上は時間が掛かるので、学校や仕事に支障が出て、やる気が半減します。私が教えたあとにも問題が解けないようであれば、私の落ち度なので、そうしてもらっています。ただし、放任ちっくな香りがするので、翌週などに質問が出ないことをそうそう歓んでもおられず(爆)。

 

ところが、今回の私はあえて予習をするわけです。なぜならば、数年前のことでもなく、日々格闘しているはずの事柄なので、有言実行を宣言し、さらにおもしろく番組を見るにはいいわけです。うん、土曜日の仕事が8時まであるので、たぶん全部は見られないのだけれども、まぁ、戻ってから見る予定。

 

責任:(1)自分が引き受けて行わなければならない任務。義務。(2)自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。(3)〔法〕 法律上の不利益または制裁を負わされること。狭義では、違法な行為をした者に対する法的な制裁。民事責任と刑事責任とがある。

任務:課せられた仕事。果たすべきつとめ。

義務:(1)人が人として、あるいは立場上、身分上当然しなければならないこと。責務。(2)〔哲・倫〕〔duty〕道徳的な必然性をもつ原理によって人が課せられる、ある行為をなすべし、またはなすべからずとする強制・拘束。(3)法律が人に課す拘束。あることをせよとする作為義務と、してはならないとする不作為義務がある。

償い:つぐなうこと。また、そのための金銭・財物など。

償う:(1)埋め合わせをする。特に、弁償する。(2)罪やあやまちの埋め合わせをする。

 

明確にしておかねばならぬ日本語って、思ったより多いよな、と、大人になってからも思うので、子どもたちはきっとさらに混乱なんだろね・・・。実際、英語を教えていて、日本語の意味が「共通の定義」になっていないものが、どれだけ多いかというのを実感している日々です。前々から私は辞書の意味をここで明記しておくことにしています。本来であれば、自分が調べるほうがずっと身につくのは当然なのですが、私のための私の考え方を披露するので、それに沿うんだよ、という宣言を態度として示していることになっているので、我慢してくださいませ。

 

『嘘は本当に方便なのか?』にも書きましたが、嘘は子ども時代に学びます。その学びが徹底されれば嘘はつきにくくなったり、つく対象や人々を選り分けたりすることになるのです。嘘がない環境などというものは、バブルや無菌室に住んでいるわけでもないので維持し続けることはできず、いつか目撃したり、トライしてみて通用したり、加減学習ができて、嘘をつくことは「当たり前」と受け止める人間ができあがるわけですね。

 

同様に責任も同じはずなのですが、実際は「子どもはできる限り子ども時代をエンジョイしたほうがいい」というのを、周囲にいる大人が強く支持する場合、子どもに義務を与える量や質にばらつきが出ます。ここに嘘がコンバインされていくと、「やったよ」と監視されていなければ嘘をつける・・・。けっこう怖い構図なのです。子どもに課せられる責任を伴う行動とは何か?ということすらわからない人はいるのかもしれない・・・。

 

共同で使用している歯磨き粉のチューブをしっかり閉めることなども責任の端緒だし、食卓の食器を洗い場まで下げることなども、実際は「割らない・効率よく下げる・人の邪魔をしない・食べている人に気を使う」などなど、いろいろなことを学ぶ責任が伴う課題(Task)です。家庭では、「お手伝い」という名目でいろいろなことをだんだんしていくように躾けたり、教育したりするのでしょう。

 

私の場合は、「子どもの仕事」として、「仕事が終わらない場合はメシ抜き」だとか「学校に通えない」という罰があったので、やらざるを得ず、責任は当時から重くのしかかってきていたようです。貧乏でよかったと思うのは、両親は教育をするつもりじゃーなかったのだけれども、結果的に教育になっていたということ(爆)。

 

ここで英語の助動詞がいい説明になるのですが、

・ have to

・ should

・ must

どれも義務ややらなくちゃを表現することなのです。ところが、日本の文法の教科書はこの違いについて、明確には教えておらず、ひどいところでは「同じ」としています。ところがぎっちょん・・・。

 

・ have to;自らが認知して自らがやらねばと決めた事柄がある場合に使う。責任の取り方は、個々人に掛かってくるものです。

・ should:モラル・道義・生物学的なことに関与する「せねば」「すべき」で、個体差が多いもの。では、なぜhave toと分けるかというと、家のルールや、クラスルール、学校ルールなど、法律で定められていないにしろ、明文化されないものに関してはこれを使うわけです。日本文化を保っている家元などはかなり多くの人に使えますよ、これ。責任の取り方は、追放だったり、罰だったりします。小社会が決めたものですね。

・ must;法的で定められていることや、不可逆性の強いものについて使う。人殺しをしてはいけないなど、法律や条例に盛り込まれていることが多い。責任の取り方は最も明確で重い。

 

この3つの差異がわかっていれば、教育白書の内容がどうであれ、『責任の取り方』というのは、おもしろく見られるかもしれません。日本では、「すべき」「しなくちゃいけない」という言い方を、十把ひとからげにしているところがあり、なかなか問題の本質が見えてこないかもしれないです。そのあと、どの程度の責任を取るか、どんな取り方がもっともフィットするのか?など、派生していく基本的な視点です。ある家やある小社会のshouldがmust, have toとは違うことは、この世には山ほどあります。それをわかっていないで論じることは、かなり無理がある・・・。それが視野が狭いということに繋がり、生かされているという謙虚さからほどと遠い日常的態度になるのやもしれません。

 

とりあえず、土曜日が楽しみである♪

 

 

自分を変えるには?

どう変わりたいか?はきちんと見えているでしょうか?ここが大切ですから!何をどう変えたいのか?がはっきりアテがついていない状態では何も始まりません。

 

改めて、本当に変わりたいかどうか?をまず考えてみたほうがいいかと思います。漠然としたChangeというのは、自主的なものではなく、おそらく強制的だったり受動的だったりすることが多いのです。

 

たとえば、繰り返し小さいミスをしてしまう、忘れ物をしてしまう、などの軽く見えて災害級ではないことを変えたいというのであれば、けっこう簡単なのです。認知症になっていない限りは。脳を活性化させるためにできることは、行動修正をするか、自分の認知を変えるか、の2種類に関係ある対策を書き出し、実際に運用できるように組み立てていけばいいわけです。少しハードルが高くなるのは、OO恐怖症と言われる類のものがありますが、それらもプロは割と簡単に導けますし、強さによっては時間がかかるかもしれませんが、変えられないものではありません。

 

まず、大切なのは、本当に変えたいかどうか?でしかないのです。本当に変えたいのであれば、もう50%は成功しています。ここで心と頭に変えたいモードを刻み込むことが大切です。しかも、このときに、本当に変わりたいとならない場合、変わったあとのメリットとデメリットを、実際に書き出してみると効果が上がります。数ももちろんですが、質に対しても評価します。これには、Benjamin Franklinが発案した Pros &Consのシートが役立ちます♬ >https://www.youtube.com/watch?v=IMPxxNDv42M 英語なのですが、youtube には翻訳機能があるので、それで見てください!非常に客観的に見ることができるので、決意が鈍ることなく、踏み出すことが可能になります!

 

子どもの頃から頭の中でこのようなことをしているとは思うのですが、複雑になればなるほど、書き出さないと混乱してきますよね。しかも、これをもう少し項目分けができれば、もっとどうやればいいか?も見えてきます。そして、もしかすると自分が「どのように変わりたい」がもっと洗練されてくるかもしれないわけです。稀に、「やはり変わりたくない」というのもあるかもしれないのでご注意(笑)。

 

さらに、イチバン効くのは、その変わりたい目標をすでに到達している人を探します。その方々とおつきあいすればいいわけです。ヒトは他者を模倣学習するようになっているので、知らない間に学んでいることが多いのです。しかも1対1のときなどは、相手が鏡のようになってくれるので、模倣しやすく、とても自然な形になります。あまりに大勢だと最初のうちは圧迫感があるかもしれません。ひとりだけダメダメだー!と落ち込むことになると困るので、まずは少人数に当たりをつけて♬

 

もしも相談やフランクな話ができる友人がいれば、積極的にそんな話もしてみるといいと思います。ただし、場所とタイミングはしっかり見極めて!

 

プロのカウンセラーを思い切って訪ねてみる手もありますよ♪

 

私個人も、英語スクールをやりつつも、日々、生徒さんからさまざまな相談事を聴いています。割と簡単に応えてコンパクトにまとめてしまう傾向はあります。なぜならばカウンセリングセッションではないので(笑)。とはいえ、けっこうきっかけとしてはいいみたいですので、英語に興味があれば、心理レッスンもしっかり行っているPrecious One English Schoolの無料体験にお申込みください <(_ _)>

二度とない瞬間を求めて

10/23/2007 にアップした文章です。

 

大いなる矛盾ではあるのですが、二度とない瞬間を求める気持ちは誰しもあると思うのです。その対象が何なのか?が人によって違うということ。子どもの頃から、私の軸は、「達成感」「獲得」でしたが、同じ軸を持つ人は多く、それがどんな分野で発揮されるか?が人によって多様なのもおもしろいところ。二度とない瞬間を求めすぎて、「さっきのに似ている近い瞬間たち」がたくさん貯まりすぎて、ここのところ、あまりおもしろくない感じ。何贅沢こいているんだ!と父親が生きていたら怒鳴られて、ポカンと一発殴られそうですが、わずか数ミリだとかミクロン単位での違いではあれ、「達成した瞬間の気持ちよさ」と「達成に近い瞬間の気持ちよさ」は、もー、驚くほど違う。運動や技術系のことでは、たいへんにありがちなのですが、子どもの頃と違い、職人の道を選ばなかった私は、この繰り返し作業をあまりしないにも拘らず、他にも反復作業というのはけっこうあるんだなぁ、と、不完全燃焼な気持ちなのよ・・・。

たとえば、私にとっては読書。速読は一時期考えたことはあるのですが、カメラ読法をすると味わいもないし、映像化するよりは文字を写真に撮っているようなもので、瞬間的に差異が付き難い。私のようにページ数をこなす人間にとっては、映像化のほうがずっと速いことになります。そうなると、同じ作家を総なめしていくやり方だと、風景も似たようなものになり、混乱が混乱を呼び、頭の中のファイルが整理しきれなくなる(爆)。そこで、このファイルが整理されると、やたらと気持ちがいいのですよ。NHK大河ドラマを見たことは無駄ではなく、高校時代の日本史の先生に「時代劇のあんなことは本当であればありえない」などというトリビアをもらったことなど、けっこう役立っているわけです。池波正太郎をはじめ、時代小説は続いており、時折他のジャンルも入れるのですが、かなり頭の中は時代劇化していて、ありえないことに対してはちゃんと疑問視しなければと思っています。が、映像化は楽しい。ファイルにきちんと入れ込むのも楽しい。が、どうしてなのだろうか?実生活でのモノを整理整頓するのが大嫌いというのは・・・(汗)。

アインシュタインは、E = mc2 を考え出したときに、このエクスタシーに似た「二度とない瞬間」の達成感を得たと語っています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3 アインシュタインについて

私にもそんな瞬間を持ったことがあり、それはあまりに凡人なので、数学でした。航空学校に行っていた頃、マッハという想像世界の、ノットからマッハ計算をしていたときの話です。私はそれまで数学は苦手だと思い込んでいたので、解けるわけないし、つまらないと思ってやり続けていたのですが、実際はその問題が解けたあと、不思議とスラスラ、他の物理的公式を使った問題をやるのがやたらと好きになった・・・。想像できなかった音速が、私に想像できたがゆえに、どうも解けるようになったのだ、とわかるまでには、まだ時間がかかるのですが・・・(ここが天才でもないゆえんなわけよね・・・)。おかげで、大学に戻ってからも、数学はとても成績がよかったのです。アインシュタインほどの天才レベルではないにしろ、あのときの快感というのは、とても表現しきれないです。

そうなると、ダヴィンチなどは何度このような体験をしているのか?と不思議に思えてくるわけです。すごいですなぁ・・・←想像しているだけなのに、やたらとすごいことだと思っている。もしかすると、そんな達成感での快楽はなかったかもしれないのに(爆)。彼には日常的すぎて・・・。

これまで試験と名のつくものを山ほど受けてきた私ですが、おそらくその総計は1000を超えているのではないかと思うのです。自分でも自分に問題を見繕ったりするところがおかしい(笑)。エッセイを書いている最中、何かの調べ物をしていて、クイズや問題サイトに行くと、エッセイを書いている最中だということを忘れて、問題を解いている始末です。ただ、記憶力がいいので、同じサイトを何度も使えないところがみじめです。答えを暗記しちゃってるんだよね・・・。ただ、100点というのは、小学校の頃を除いて、わずか2・3回しか取れたことがなく、たいてい90点以上であれば満足するというのが悲しかったですか・・・。大人になってからの話で、中学・高校・日本での大学では、テストすら休むほどにまともな生徒ではなかったのですが・・・(汗)。その100点を取れた問題にぶち当たったときも、アレに似た達成感みたいなものがあるわけです。いわゆる、本当の頭のよさが試されているわけではなく、勉強法や山かけの論理が当たったという気持ちよさなんです(爆)。

買い物にしても、同じ商品をものすごい破格で買えたときには、同じくらいの快感があるのかもしれません。私の場合は、不動産の値が上がったときに売る決意をして計算をしてもらったときですか・・・。1軒を2年3ヵ月後に査定してもらったところ、13万ドル(1500万)も上がっていたことがあり、本当にジャンプして歓んだほどだったのです(爆)。

こうして、振り返ってみると、私はどうも時間がかかる努力な達成に歓ぶ傾向があるらしい・・・。リサーチをしっかりして、いろいろな角度から検討した揚句、獲得して表現して、結果を待つという醍醐味なのか?

母に意見を聞いてみると、「凡人は、朝、目が醒めたときに快感を実感することが多いんじゃないのかな。最近、歳をとってきたから爽快な気分でよく寝たってのがないもん」と、とても個人的なことを語るのであった・・・。そういえば、私は日本に戻ってくるまでは、PTSDに悩まされた3年間を抜かして、たいていの場合は睡眠が直接的快感であったのだけれども、在って当たり前と思ってきた感がある・・・。今でも眠ることがイチバン好きだから、コレが失われたら、本当にきついかもしれない。けれども、この歳になっても7時間半も毎日眠らないとうまく生きていけないので(たまに6時間しか眠れないと、相当活動力が落ちる)、悩まされる年齢になるまでにはまだまだ時間がありそうです。確かにそうかもしれない・・・。この場合、母は「二度とない瞬間を求めて」をしているようだ・・・。すぐに眠るんだけれども、深くもなさそうだし、すぐに起きてしまうし、時間も短いからなぁ・・・。

さらに凡人はきっと、セックスで「二度とない瞬間を求めて」をしているのかもしれません。私はないですが、もしも丸まる健全であれば、せっせとしていたかもしれず・・・。

とはいえ、私は、子どもの頃のブランコやドッヂボールやかけっこからして、「二度とない瞬間を求めて」をやりすぎてきたような帰来があり、今、このエッセイを毎日書いていても、自分で何度も惚れ直して読み直してしまうような一本が書けないものかなぁ・・・と日々足掻いているわけです。いや、ないんだよねぇ・・・。トホホ。成長したからもっと理想が高くなったのか、もう書きすぎてネタがないからなのか、原因はいくつかあると思うのですが、どうもいいのが書けない。でも、チャレンジは続く・・・。

英語の授業にしても「二度とない瞬間にごく近い似ている瞬間たち」ばかりです。まったく悪くないのだけれども、生徒さんも私もいっしょに高揚感を得られるほどでもなく、マジカルなモーメントはない感じ。そんなにしょっちゅうあったら、私は何かの新興宗教の教祖になっているかもしれないのだが・・・(爆)。こうして死ぬまで、「二度とない瞬間を求めて」を続けていくんでしょうねぇ。果てしない旅路ではあるんですが、ため息をつくほど疲れてしまっているわけではなく、なんだか歓んでやっているようですね・・・。すごいひらめきがあるといいのだけれども、どうも凡夫にはそれなりのひらめきしかなく、コツコツとやるしかないようで・・・。

ただ、私にはサンフランシスコの坂道を登りきったあとに見た、エメラルドグリーンの海の風景があるので、これを二度とない瞬間だという基準にしています。アメリカに初めて行ったときに、ケーブルカーを使わず、苦労をして登ったあとに見えた風景。「私はこの先もがんばれる」と確信した瞬間でしたから。あれくらい、すっきりきっぱり「私はこの先もがんばれる」と思えるようになるには、やっぱり日ごろの充電が大切なのかもしれないなぁ・・・・。

年末年始のお休みのお知らせ

Precious One English Schoolは、調布駅東口徒歩1分の場所にオープンをして以来、4年半、年末年始も通常と変わらずオープンしてきており、今年もオープンしております。

結果論ではありますが、元旦のみ、既存の生徒さんも予約を入れることがないので、ここまで4回お休みはさせていただけております。お申込み・ご予約が幸いずっとあったので、年末は12月31日、年始は1月2日からずっと通常のレッスンをしております。ご予約をいただければ元旦もレッスンさせていただきます。体力的に無理でなければ、今後もこのスタイルでがんばりたいと考えています。

2019年調布にはラグビー世界選手権の開催地として、たくさんの外国人が訪れることになり、2020年には東京オリンピックの開催で『武蔵野の森」にて競技の一部が観覧できます。今後、インバウンド需要の波は、業界別だった感覚から、一般的に「英語があふれる日本」へと変わっていくことでしょう。

文化的なバックグラウンド、考え方や意識の違いから学んでいくため、英語のマスターをお約束できる学習法を、ぜひともご体験ください。無料体験レッスンは、こちらから。特に、心理学を学ぶことで、脳の老化を遅延させ、ラクで楽しく生きていくことを目指します。英語でこの脳の使い方の効率性を学び、成果を出していきますが、仕事や他の学び、人間関係など、すべてのことに応用できる知識を実現していくことで、人生の質がぐんと上がります。

新しいコラム記事は毎週更新できるようになり、そろそろ1か月です(笑)。こちらも楽しんでくださいね。コラム

ファストフード考

10/22/2007 にアップした文章です。

 

日本に戻ってきて、つい先日初めて、ケンタッキーフライドチキンを食しました。草彅剛くんがCMをやっている日本風の揚げ物になっているチキンだったので、母も食べたいと思っていた、という同調が、お店の前を通ったときに得られたため。いや、思ったよりずっとおいしかった♪母は、くっついてきたゆず風味の唐辛子をわんさかかけており、「それじゃ味が損なわれるだろう・・・」と思うほどだったのですが、エンジョイしていました。ところが、私はファストフードというものを食べないやつです。まったくゼロというわけではないのですが、アメリカに19年弱住んでいたのに、「それだけなの?」というほどしか食べないわけです。理由は至って簡単。それほどおいしいと思わないのと、量が多いのと、身体に悪そうだから(笑)。

日本に戻ってきてちょっと見直してしまったのは、時間つぶしのために訪れたマクドナルド。日本のマクドナルドって、元祖アメリカと味が違うんだ・・・。やっぱり日本人のためにアレンジしてるんだ、と感心したのです。アメリカでの私のマックの印象は、「子どもだましのだしのきいていない、量が極端に少ないハンバーガーブランド」だったのです。日本のマックは、エビだとかいろいろ日本用にアレンジしてあり、なんだか違うようだ・・・。ただし、食べ続けたら身体には悪いだろうな、という印象はファストフード全般については、まったく意見変更なし。

さらに、サブウェイも日本に進出していたので、中を覗いてみて、BLT(Bacon, lettuce, tomatoes)を食べてみたこともあり。ただし、これはあっさりしすぎており、感動はまったくなかった・・・。

西さんといっしょに住んでいたときには、ピザの宅配は使っていたものの、ファストフードはほぼ一切食べたことがなく、しっかりごはんを作っていたのです。西さんは、早朝イチバンのジムでのプールのため、お弁当まで自分で作っており(笑)、時間がなく食事が不規則になりそうな予感だと、やはりおにぎりやサンドウィッチを作って持っていくような、食については几帳面でもあったところがあります。が、台湾では外食は平然としているので、食の中身の問題なのでしょう。アジア人典型の食生活が性に合っているのだろうと思うのです。

私も和食が中心ですが、和食が続くと、やはり洋食も中華も食べたくなりますから、ファストフードを毛嫌いする理由はないはず・・・。ただ、やはり自分が食べているものがどこから来ているのか、安心できないことがあり、身体に悪いという発想になりますか・・・。さらに、栄養価でも問題ありありで、「たまに食べるからおいしく感じる」というGuilty pleasure(罪の意識を感じるがゆえの快楽)な面があります。高カロリーで高脂肪で栄養価の偏りは否めないのである。が、西さんいわく、「おいしいものは身体に悪い」ということもあり、たまに食べるとおいしくは感じる・・・。

ひとり暮らしをするようになってからは、たまにファストフードを使ってしまっていましたが、それでも1ヶ月に1回以下でした。特に、夜ご飯をファストフードにするのは、どうも自分が惨めな気分になるので、どうしても避けていたという、なんだか古風な考え方も混在(笑)。

ちょっと気になったので調べてみました。ちょっとおもしろいアンケートにぶち当たったのです。お昼ごはんをファストフードで済ませる人々がかなり多いという事実。お弁当というのは、やっぱり勤め人には持ち運びが面倒なのだろうね・・・。http://www.myvoice.co.jp/biz/surveys/11002/index.html 20代よりも30代のほうが利用が多く、20代よりも40代のほうが多い、というのはびっくり。私は通訳のバイトが入っても、お弁当を持ち歩きたいやつなのだ。時間が読めるし、仕事をしながら食べられるし、小銭を心配しなくていいし、好きなものが食べられるし、母の手作りだし、イマドキのお弁当箱は食べ終わると半分の大きさになるのだった。もちろんこのアンケートは、勤め人だけに限られたものでもないし、場所もマチマチだし、適当なデータではないのだけれども・・・。

そして、真面目な論文ちっくな論評; ファーストフード症候群とかいう名前があったか・・・。

精子減少や味覚障害まで起きるというこの症候群提示について、反論している文章です。やはり全体的な食生活が大切なわけで、確かに1ヶ月で90食、ファストフードを食べ続けられたら、それはそれですごいことだとは思う。が、日本にはお惣菜やさんもあれば、お弁当やさんもあるし、他の外食産業もあり、実際にキッチンを使わない人は実在するんでしょう。

アメリカのファストフードのカロリーや脂肪などを見られるサイトなんですが、ちょっとこれ怖いです(爆)。やり方は、お店を選んで、Searchをクリックするのです。1食で1700キロカロリーって一体どういうことなんだ?(爆)しかも、脂から1000キロカロリーなどのひどいメニューもある(爆)。http://www.fatcalories.com/

どんな人なのかわからないのだけれども、英語で日本のファストフードを紹介している人がいる。マメな人である・・・。立ち食いそばなどの情報まであり、ハイパーリンクまでつけてあった。すごい・・・。

あ、ちなみに私は立ち食いそばと吉野家などの牛丼やバージンです。どうも入る気がしない。高校生くらいまでで入るチャンスがなかったので、その後、さらにチャンスは減り、こんなことになってしまっています。アメリカの吉野家には一度だけ行ったのですが、砂糖甘くて残した(爆)。あれは、吉野家であって吉野家ではないそうです。

あ、忘れていた!日本語での定義だ。やっぱりファーストと書くのに抵抗があった私の表記は正しいらしい。よかった♪ファーストと表記したら、Firstだもんな・・・。ブツブツ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%89

今後、ファストフードに行くような機会は来るのか?時間つぶしに使うことはあるかもしれないけれども、そのときにおなかが空いていなければ、きっとドリンクだけでトライはしないと思われる。ファストフードに行くよりは、コンビニでおにぎりを買って食べたほうが、私はおいしく感じるやつなのだ。だって、アメリカでは決死気分にならないとおにぎりは作れなかった・・・。具も揃わないし、ごはんもしっかり炊かねばならず、海苔もあぶって、天塩を使って、おいしい緑茶を淹れていただいていたくらいなのだ。今のように、サンダルをつっかけて、お財布と鍵だけ持って、コンビニに行って1個だけ買うなんてことはできなかったのだから・・・。しかも、鮭ってだけじゃなくて、ハラミとかあってすごいよねぇ・・・。倖せだと思える瞬間である(爆)。

西さんのおかげなのか、私はスキーやハイキングに行くときにもお弁当を作るのだけれども、母もそうだったし、やっぱり社会的遺伝なのかなぁ・・・。外食も続くと飽き飽きしてくるしねぇ・・・。あ、それに私はパンよりもごはんが好きだということがあるんだ(爆)。それに、ジャガイモが好きではないから、ファストフード敬遠をしてしまうせいもあった(爆)←かなり重要。

バーガーキングが再上陸したようだけれども、あんなところにまでわざわざ行かない(爆)。ドーナツは食べないし、やっぱり用はないなぁ・・・。ファストフード好きですか?

 

紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その56

Q56.

先生は怒りたくなった時、どうやって怒りを収めていますか?

 

A56.

あまり怒らないんですよね・・・(笑)。犯人探しもしないので、社会問題なのでは「どこが問題発生点なのか?」などを考えていると、誰かのせいにできるようなことなどあまりないのです。ゆえに心理学がますます面白くなるとも言えます。

それは日常的なことでも同じで、生徒さんに関しても人それぞれの伸びが違います。それがどこから来るのか?と考えるのは楽しいことですが、全く怒りの対象ではありません。

怒りが湧いて当然なのは、「身の危険」をバロメーターにしたことです。誰かが誰かを殴るとか、罵倒して委縮させるとか、権利を侵すとか、というような類のことなので、私はそれ以下のことでは、たいして怒らないんでしょうね(笑)。

形あるものは壊れますし、誰かがどんな行動をとってもどんな考え方を持って行っても、そのヒトなりの理由があるはずですし、私と違うからといっていちいち怒っていたらきりがないですし・・・。

怒ったほうが負けじゃないですか? ここでエネルギーが時間を使うわけですから (・・;)

母が認知症ぎみになって、つくづく思うのは、彼女が見ているものと私が見ているものは全く違うものなんだということです。だって脳がそのようにしか作動しないわけですから。それに対して自分の思い通りにならない、させよう、などと思うことがナンセンスだと、最初から受け止めていれば怒る必要などはないわけです。いつも笑い話にできている自分のゆとりに感謝です♬

怒るという気持ちよりは、寂しくなる悲しくなる、という気持ちの方が先に出てしまいますね。「あー、そこまでしか考えられないのか」「あー、感じたことを優先するのか」「あー、自分の損得勘定で動くのか」「あー、また言い訳をしているのか」という意味で、怒ることよりは、その人が自分で自分の成長を妨げていることに対して、「もったいないなーぁ」と寂しくなったり悲しくなったりします。

本当に怒りには行き場がないんでしょうか? 私はわざわざ怒る必要ないと思っているのです。そうなんですよ、「わざわざ」という感じなんです。認知の仕方により、ネガティブな感情にしたまま、自分を置き去りにする必要はないと思います。そのどす黒い感じがずっと自分の中に残ってしまうと、浄化するのにものすごい時間と情熱がかかるじゃないですか。そんなところで足踏みをして停滞してるなんて、自分で自分の首を絞めてるのと同じようなもんだと思います。

自分が正しいことのほうがたぶん、世の中には少ないと思います。少なくても未熟な私はそう考えています。

 

生まれてきた証に

10/21/2007 にアップした文章です。

 

私はたいへんに刹那的な観点を持ったやつだと思われていますが、実際のところは、ミックスでしょう。熱いときもあれば、冷たいときもあり、混ざり具合でどうとでもなるというのが、オトクなのか、損なのか・・・。どうせ人間は死ねば灰に戻ると言い切れるときもあるのですが(こう言い切ったまま考えが固定されているときのほうが多い)、やはり生まれてきたからには、生まれてきた理由がきっとどこかにあり、何か足跡を残して死んでいくのだ、とセンチメンタルにロマンに考えることもあり、そうありたいと強く願う自分がいるのも確かです。たいていの場合、死ぬことも考えたくはないので、やはり残している足掻きのようなことをしているのですが、いい歳をこいてきて、100%ではないにしろ、初めての死である母方の祖母の死を見て以来(満6歳)、ずいぶん歳月が流れたので、それほど死に対する恐怖もなくなってきました。生まれてきた証に、一体何ができるんだろうか?

これは、私だけではなく、あらゆる「考える生命体」の命題で、誰も正解を持っておらず、「なぜひとりで生まれてきてひとりで死んでゆくのか?」という命題とカップリングされています。脳が大きくない生命体では、これについて考えるキャパがなく、Ignorance is bliss! となるのですが、ヒトでは、生死に初めてぶち当たってから、コレについて考えるようになります。その頻度は、個人差があり、経験や環境や性格や気質によっても変わります。

私はそれほど脳も大きくないようで、キャパも天才レベルでもなく、ごくごく平凡な回数考えているようです。英語で表現すると、Every now and thenくらいですか。ただし、環境で、殺人事件があったり、関心のある人物の生死や病気などが情報として入ると、その回数はぐんと増えることになります。ということは、長く生きていて、情報量が増えると、こうしたこともよく考えるようになってしまうということですか・・・。

結論から言うと、私はこれらを長く、かなりの回数考えてきましたが、お墓は要らないと考えています。たくさんの人々が昨今、墓所ではなく、散骨を望むようになりましたが、私は10代から考えていました。それもこれも、おそらく、父方の神道と母方の祖母が苦労して買った墓所への想いがあり、そこから逃げたかったことが大きいのです。奥津城という文字がどーんと入った神道の父方の墓所は、父が生まれ育った実家からわずか3分の山道を登ったところにあります。彼らの生活様式や考え方の中心になっている世界観は、神道に則したものが驚くほど多く(今になって振り返るから、ですよ・・・笑)、父と母の考え方の違いもここから出発しているのだろうということがわかります。母の父の存命期間が長ければ、私ももう少し大きな影響を受けていたはずですが、野良犬のように扱われた祖母の悔しい想いから手に入れた、由緒正しい墓所への想いは、母にも「祖母への郷愁・愛・存在意義」などでしか受け継がれておらず、特に宗教観や信念には大きく影響がありません。

こういう混沌(大した混沌でもないのだけれども、私から見れば二者択一をせねばならないような、そんな気分に追い込まれたような・・・)の中、逃げるというのがどうも卑怯だと思えるので、さらなる理屈をこじつけていきます(笑)。

私は女で、結局、そのどちらにも入る必要がないにしろ、どうもサイドを取るということができないという話をし、西さんが長男であることを考えて(彼を選んでしまったのだから、こうした話もするわけです・・・。セットでくっついてきたわけで、無視するわけにはいかず・・・)、彼自身も鹿児島に縛られる計画はなく、財産も放棄した結果、墓所埋葬は新規にふたりでできるということになり、ならば散骨が理想だという結果になったわけです。

そうなんですね。形に残る後に残した愛する人々のための場所を、あえて作らないワガママを通そうとしているわけです。

ここのところ、池波正太郎の影響で、いろいろな時代小説を派生的に読んでいますが、忍者モノ、忍びモノでは、「先祖を大切にする」気持ちが何倍もあるにも拘らず、どこで朽ちてもいい覚悟をしていることに共感しており、環境問題や科学的根拠はまったく別個にしても、土に還るという世界観を大切にしたいと私は思うのです。時代的にもチャンスなところがあり、管理されているにしろ、散骨が可能になった今、それを使いたいと。こんな考え方ができるのは、子どもがいないこともあり、守るべき家もないこともあり、何より、場所に固執していないところもあるからなのだろうと思います。けれども、日本を愛していないわけではまったくないし、子どもが欲しくなかったわけでもないし、家を粗末にしたいと思っているわけでもなく、形に残すということに対して、どこまで抵抗できるのか?というのを、身体を使って、人生を丸ごと使って、実践しているに過ぎないわけです。忍びの人々が土に還ったのとはまったく違い、私ごときが土に還るのは、何のドラマも何の意義もないのだろうけれども、『千の風に乗って』が実践できるならば、それはそれでいいんじゃないかと。

形に残すことにあくまで抵抗してきた私は、結婚という婚姻届は出してしまったものの(ところが、日本で出したわけでもなく、大使館を通した記憶しかなく、実際の婚姻届に判を押した記憶もないんだよね・・・・)、結婚式もしなければ、写真も撮らず、指輪も持たず、披露宴もしなかった。義務教育のときにはどうしようも抵抗しがたかったのですが、高校以降、私は入学式にも卒業式にも出ていません(すごいのよ、徹底してんの・・・爆)。結婚式にも、アメリカで3回出たきりで、日本では自分の意志が反映されなかった子どものときにしか出席しておらず、祝う気持ちはヒト数倍でも、その場にいないことをわざと選んでいるようなところがあります(結婚式はねぇ、別れるようなことがある場合に、倖せ絶頂な表情を憶えていたくないというのがあるのです。実際、離婚した友だちはけっこういる・・・)。というわけで、今後も、形を残さないことを、徹底してやっていこうかと・・・。

では、私が生まれてきた証はどのように残るのか?

誰かの胸の中にほんのしばらくの時間、生きていけるなら上等です。が、生まれてきた証拠・生きてきた証拠など、残らないほうがまったくうれしいのです。太宰治は、「恥の多い人生を生きてきました」と残しましたが、その文言通りに他人の妻と心中するという言動一致をしてくれました。私はあそこまで徹底した自分の恥をさらけ出すこともできないので、いいところばかりを残そうともまったくのところ思えないでいます。というか、私にいいところはどの程度あるんだか、と、この歳になってもまだまだ模索してるんですからねぇ(苦笑)。

お金は欲しいんですが、地位も名声も要らないし、社会的立場も役割もなるべく軽いものでお願いしたいというのは、私の美徳がさせているのではなく、面倒くさがりな性質が支配しているのでしょう。が、お金が欲しいのも物欲があるからではなく、ただひたすら学校にお金の心配をしないで通いたいからです。教えるのは確かに楽しいのですが、どうもおこがましい気分になりがちでいけません。やっぱり生徒でいるのが最も楽しいわけです。お金があるようになったとしても、大豪邸が欲しいわけでもなく、車が欲しいわけでもなく、あまり消耗率が低いものは買わないことでしょう。つい最近も、2Bのシャーペンが宝物だった、という私の言葉を、「かわいい」と言ってくれた人がいたのですが、いや、ほんとに・・・・。たくさん書くためにはやっぱり指(ペンだこ位置)に負担をかけない2Bでしょ(爆)。

生まれてきた証がなくとも、私の両親はそれほど悲しまないと思います。それだけが助かりますね。いつまでもやくざな放浪癖があり、西さん以外の人とはなかなかうまく行かなかっただろうと、ここでも大いなる感謝です。

 

World Peace

10/20/2007 にアップした文章です。

 

映画Miss CongenialityのIでは、ミスコンにFBI捜査官が潜入囮捜査を展開するものなのですが、そのときにミスコンの出場者は、モットーやキャッチコピーを連発します。そのトレンドが、コレ;World Peace。私が生まれたときには、すでに飛行機は実在し、お金持ちしか海外旅行には行かなかったのだけれども、昨今では小金程度で海外にも行けるし、むしろ、国内旅行よりも韓国や台湾やグアムやハワイであれば、安いくらいなパックがあります。世界が物理的に縮まったわけではないのだけれども、確実に距離感は狭まっている感じです。第二次世界大戦後の日本は、もう67年ほど戦争を体験していないのですが、World Peaceについてどう感じて考えているのか?巷では、「平和ボケ」という言葉が横行しています。長井さんも亡くなりました。どうなんでしょうか?

以前も書きましたが、私の至近距離・心的距離での最も短い体験は、911の当日、大学に通っていた頃のことです。テロリストのターゲットにされるくらいの歴史ある学校だったので、「今からならば来るな」という指示が出ており、私はその当日には学校には向いませんでした。ニュース映像は、まるで映画のようで、何が起きているのかまったくわからず、麻痺はどんどん進んでいき、軽いPTSD症状が戻った感じでした。私は、長いあいだ、その前にPTSDで学校からMedical Leaveをもらっていたので、「これくらいのPTSDであれば超えられる」とも、そのあと同時に思ったものでした。

中学の頃、合唱部で全国大会レベルだったので、かなり練習を重ねてNHKやTBSのコンクールに出ていたのですが、中学3年のときの自由曲は、『木琴』という歌だったのです。戦争中に、木琴が好きだった妹を亡くした兄が語り部になっている歌詞でした。同時に、音楽の教科書には、『戦争を知らない子どもたち』が載っており、校内の合唱コンクールなどで歌うクラスもあったので、あの頃は、朝鮮戦争やベトナム戦争の影響もあり、戦争と平和について考えることは当然だったのかもしれません。そして、今、また、平和についての個々人のスタンスが問われているのでしょう。

http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/mokkin.html 歌詞は歌われていないのですが、歌詞画面を見ながら音楽が聴けます。私はソプラノだったのですが、なんだか歌ってしまいました。

映画Miss CongenialityのIでは、イヤイヤながらSandra Bullockがミスコンに出て、男っぽい自分を参加者にバレぬようにフェミニンにしていくのですが、しまいには、心の底から、World Peaceを願うようになるわけです。FBIでの仕事のおもしろさはどこから来ているのか?自分の性格や適性はどこへと繋がっていき、どのように仕事に生かされるのか?もちろん映画なので恋も絡んでいるんですが、それについてもコミカルに描いてあり、暴力的だったり直接的だったりする彼女が、やはり心の底ではWorld Peaceを願っていることを、ラストシーンでも強調するようになっています。IIもあった映画なのですが、そちらでもまたWorld Peaceという言葉は繰り返し使われます。http://www.imdb.com/title/tt0212346/ (まぁ、この映画を見ながら私が最初に衝撃を受けたのが、Candice Bergenがコミカルに悪役をやっていたことなのですが・・・。Sitcomでコミカルではあっても、政治リポーターなどをやっていたのとは違い、本当におかしな存在であった・・・)。

実際に銃を突きつけられたり、爆音が轟かなければ、私たちは戦争や闘争を実感できないものなのでしょうか?私は、ここのところ、911以降、世界の国々がどのようなネゴシエーションで平和を(表面的には)キープし、私たちのようなSmall peopleには到底わからないような水面下でのやりとりが行われているのか、ちょっと丹念に調べて、身近に感じるために、スパイ小説やその他、読むようにもなりました。以前には、そんなジャンルは好きでもなかったのですが、「自分がよければいい」という気持ちには到底なれず、です。自分に災厄が降りかかっているときには、そんなゆとりがなかったのか?と問われると、やはりそんなときのほうがさらに身近に感じていたのですが、日本に戻ってきて、私にとっては緊張は高まっています。陽さんに一度、ご指摘を受けたのですが、私が日本を知らないからだ、ということだったのですが、やはり、アメリカに比べると、公立学区や、売家・賃貸値段が、明らかに明確ではないことなどから、犯罪が起き易い場所の限定はしづらい。昨日も銀座に行って感じたのですが、「それなりの服装」をしていれば、どんなに高級なホテルやレストランやカフェに入っても可能な情況は起こりえています。アメリカでは、スリ犯罪はごく少ない件数です。コレは、人々のProximity(個人空間)のおかげだと思えます。あ、でも、私はNYやシカゴなどの鉄道が非常に発達したところには住んだことがないので、日常的に感じられないだけで、あれらの地域では東京と変わらないほどにあるのかもしれません。日本のATMは人目がきちんとあるところばかりですが(東京に限っており、私が行ったこともない地方についてはわからないのですが)、アメリカでは、車社会なので、ドライブスルーに便利なロケーションにあり、夜間になると人気がまったくないところもままあります。そんな意味で、犯罪が起きる確率が高いところは、かなり容易にわかるようになっています。

ところが、このように平和に見える日本でも、実は相撲界では「かわいがり」は常識だったり、パワハラやセクハラはこれまで表面化していなかったり、検死システムがしっかり構築されていなかったり(どこかのサイトで見たのだけれども、年間予算が25000円とかいう地域があってあごが落ちそうだった・・・。そんなんじゃ、爪のあいだに挟まった繊維や微生物や皮膚などの分析で終わるか、それもできなくらいだろ・・・)、家賃滞納になってしまうような生活苦が増えていたり、密室で容易に行われるインターネット犯罪が進んでいたり、実際は、平和な状態と認知することは、そもそもの過ちなのかもしれないです。たとえば、せっせと長年払い込んでいた生命保険の補償金が下りなかったりするのも、「でっかい会社が詐欺をするわけがない」という平和を信じ込んでいる顕れなのかもしれないですし、老舗赤福にもすっかり騙されていたというのもあります(私は甘いものを食べないので、赤福と言われてもピンと来なかったのですが、なんだかすごい老舗らしい)。

でもねぇ、その反面、誰かに何かをやられたらやり返す、というプチ復讐は横行しており、やられたことがほんのちょっとのことであっても、当然の権利をむやみやたらに主張したりもする風潮は、一昨日のエッセイにも書いた通り、なんだか世知辛い。平和に慣れたから、守るものが増えたということなのか?だとしたらいいことなのだろうか?いやいや、みんなにとって、ではなく、あなたにとって、という個人レベルの話です。無関心でいて、「明日は我が身」を感じずに生きていくのも空虚なことだけれども、Me, Me, ME!も切ない。

私はそんなことを考えながら、ジェニにならないサービス残業をやったり、できることで笑顔が見られるならば、とプレゼントしたり、おもしろい話だと相手に思える話を引き出しから取り出してみたり、せめて私だけは他人をむやみに攻撃しないようにと心がけたり(自衛はしますけども。昨日も「川崎のオレだよ。歌舞伎町で会ったでしょ、一ヶ月前、みいちゃん」とかいう不思議な電話が11時半ごろあったのだ。酔っていたので、間違い電話は明らかだったのだけれども、間違いになかなか気づいてくれないところがつらかったので、冷たくしてしまった・爆)、何が自分にとっての幸せで、何が他人にとっても幸せなのか、考えてみることにしています。その全体値が増えれば、World Peaceはいつか実現するのか?いや、しないだろうけれども、しているように見えているほうがいいのかなぁ・・・。見えているだけではなく、せめて狭い地域だけでも楽園としてしばらくのあいだは、維持できるようにするのがいいのかもしれないなぁ。

このあいだも授業で、6億(ロトでそれくらいは日本でも当たるらしい)当たったらどうする?という話を生徒さんとしていたのですが、かなりみんな現実的で夢が足りなかった(爆)。誰もWorld Peaceに使うゆとりはなさそうだった・・・。