受け止めきれない褒め言葉

11/01/2007 にアップした文章です。

褒められるのが苦手な人間というのは、やっぱり想像以上に多く居るのではないか?と、私は思っているのですが、どうなんでしょうか?高倉健がかなり昔に、『あなたに褒められたくて』という本を書いたことがありますが、この「あなた」というのは、健さんのお母様なのです。マザコン気味傾向がカケラもない男性は、まったく魅力がないです(きっぱり)。私は大昔、これを読んだ記憶はあるのですが、はっきりと思い出せません。いろいろな人との想い出を感謝を込めて書いていたという記憶があり、ゴーストライターがいるのかどうか?と疑問に思ったかもしれません。もう一度、チャンスがあったら読もうと思います。

褒める:(1)高く評価していると、口に出して言う。たたえる。(2)祝う。祝福する。〔(2)が原義〕
評価:(1)物の善悪・美醜などを考え、価値を定めること。(2)品物の値段を定めること。また、その値段。(3)物の値打ちを認めてほめること。
価値:(1)物がもっている、何らかの目的実現に役立つ性質や程度。値打ち。有用性。〔幕末までは「価直(かちよく)」が用いられた〕(2)〔哲〕 善きもの・望ましいものとして認め、その実現を期待するもの。内在的なもの・手段的なものなどにわかれるが、特に、真・善・美など、普遍妥当性をもった理想的・絶対的価値をいう。(3)〔経〕 商品の価格の背後にあって、それを規定しているもの。その本質・源泉のとらえ方によって客観価値説(労働価値説)と主観価値説(効用価値説)とが対立する。

ここでもやはり「人を見て、感じ考えたことを、口に出し表現する」というそもそもの行動があります。価値のない人間などいないし、褒めるところがないなどということは、ほぼありえない。けれども、どうも、人々は人をあまりじっくり見ていなかったり、見ていても感じるところが少なかったり、それについて考えていなかったり、特に口に出すことでもないとみなして通り過ぎたりします。あるいは、そのコンビネーションで、塩梅が曖昧で、無意味に褒めたり、褒めたほうがいいときに褒めずにいたりするらしい。今日のタイトルは、褒められた場合に照れくさかったり、素通りしてしまったり、どんな意図があるのか考えこんでしまったりすることを指していますが、そんな気持ちになってしまうのはなぜなのか?

私は、家人にまったく褒めてもらったという記憶がなく、いつも怒られてばかりだった記憶ばかり。なので、学校や友だちに褒められても、そのギャップに戸惑い、いつしかそれは褒めていないのだろう、とみなすようになってしまっていました。どうして家人が私を褒めなかったのか?ご機嫌のいいときの父にたまーに褒められたくらいで、あとは本当に怒涛に怒られていました。手のつけられない子どもだったんでしょうね・・・。母の口癖は、「赤ちゃんのときは家事が終わるまで寝ていてくれて、本当にいい子だったのに」です(爆)。

ところがその反対に、運動関係や遊び関係で、まず友だちによく褒められ、先生にもかなり頻繁に褒められ、その違いに本当に戸惑っていました。そこで家人が出してきた得意の言葉が、「外面がいい」というもの。

外面:(1)外部の人と接するときの態度・顔つき⇔内面(うちづら) (2)外に向いた面。がいめん。
まさかのまさかなんですよ。父は確かに仕事ではそれなりに振舞っていたとは思うのですが、私が見ていた父は、会社の人たちを家に呼び飲んだくれていて、外面も何もなかったし、母や叔母・叔父や祖母などは、内外関係なく、振舞う人々だったので、私がモデリングできる状態もそれほどない・・・。「うちの子に限って」のネガティブ版は、昔からずっと変わらず、母は今でも私が英語が話せたり、ヘリが操縦できることを心底信じていません(笑)。

それに慣れきっている私は、褒められても「えええええ!」と思うことばかりで、本気でそれについて考えたこともなければ、鵜呑みもせず、気にしてこなかった節があります。あくまでいつもマイペースだったわけで、躁鬱病の症状を小さい頃から呈していた私は、「そんなのできて当たり前」と、他人様に対して「ふふん・・・」と思うほど身勝手で高邁なところも持ち合わせており、本当に不遜でした。さらに、そもそも利己的な私は、誰かに認められるために何かをしようとせず、誰がどんな評価をしても、ほぼかまわないところがあって(社会動物なのでゼロとは宣言できず・・・)、どちらかと言えば「放っておいてほしい」の芽は渡米前からずっとあったわけです。そして、渡米し、ひとりになり、過干渉しない周囲に対してとてもほっとしたわけです。

日本に戻ってきて、いろいろな人がいろいろなことで褒めてくださいますが、今でもきちんと受け止めているか?と問われると、どうもまっすぐに受け止めていないところがある・・・。このひねり・歪み・ひずみはどこから来ているのだろう?と思ったりするわけです。

難しいのは、大人なので、社交辞令があるところだ(爆)。不思議と「とりあえず褒めておく」という礼儀作法を公的な場所で守る日本人は、「取ってつけたような褒め言葉」を言うのでわかるのですが、それに対して「人間関係を潤滑にするためにとりあえず褒めておく」というにしては、やりすぎだと思えるラインを超えると、怒りやイライラさえ持ってしまい、どうもいけません・・・。

私は、よく人に「褒め上手」だと言われます。留学生などには、アメリカで「今、レジの人にネイルを褒めてたでしょ。びっくり」などと指摘されたり、何かを褒めたおかげのいただきものが多いです(持ち物などでそれほど高価なものではないと、気前よくいただけるわけです)。今も生徒さんはよく泣きますし、授業中に手品をしてもらったり、お国自慢をしてもらったり、と、褒めた揚句にしていただいていることが多い。私を指名してくださる生徒さんは多く、留学をその気にさせてしまった例は、3ヶ月で4個に上ります。本来の英語学校経営の目的は、日本にいながらにして英語を学ぶことなのでしょうが、私は目的をしっかり聞いたあとは、留学をオススメしています。しかも、第一目標の留学がスベったときのオプションまで考えてプランしますので、褒め言葉は生きてきます。

「自分がしてもらいたいことを他人にもする心がけ」という意味で、平凡な褒め言葉は投げかけない。これはいつも私が決めていることです。おためごかしに聴こえたり、受け止めている本人にとっては「飽き飽きする」明白なことなどは、言っても詮無いでしょう。よく観察しなければわからなかったり、私だから気づくようなことを、褒める。しかも、目的は「褒める行為」ではなく、「私が感じ、考え、本人にどうしても伝えたいこと」なので、わざとらしさは激減しているはずです。

容姿についてや家柄についてなどなど、褒められてもうれしくないことはきっと多いに違いない。まぁ、人によりますが・・・。私は自分がユニークだということに気づいてもらえた結果としての褒め言葉ならば、本当に照れてしまい、時として泣いてしまうかもしれません(が、西さん以外の人の前で真剣に泣いたことはないですね・・・。映画以外・・・)。理解してもらえた、という歓びは、ナニモノにも換えがたいものです。

が、ネット上で知り合った人々については、なかなか適切な褒め言葉が見出せないこともあります。私が褒めているように見える校長センセの美徳は、海のように深く、空のように果てしないので、実際は、「表面的なおためごかし」に聞こえてしまうことも多いのでしょう。ごめんなさいねー、校長センセ。リアルでバンバンお会いできればいいのですが、物理的に距離が遠すぎますな。が、私に関しては褒めるということを意識していらっしゃらないようですので、いつも感謝しています。

英語を教えている限りは、1日数回以上は他人を褒めることができると思うので、とりあえずは「安全圏確保」。人に対して無関心でいないためには、本当にいい環境です。

向上心を持てないのはなぜなのか?その2

10/30/2007 にアップした文章です。

 

昨日は、ただ単に自分のケーススタディを書いて終わってしまった・・・。すまぬ・・・。が、昨日わかったことは、私は本当に、偶然ではあり、まったく両親の緻密な計画性はなかったにしろ、かなり結果はおいしいことになっていた、ということ。が、これでも心理学をやってきたので、私はもう少し、根本的なところから派生する、基本的要因について触れなければならぬ・・・。マスローの欲求などをこれまでやってきましたが、その他にももっと理由はあるんですね。

まずは繰り返しになりますが、すでに遺伝子に組み込まれてしまった、進化論の長い歴史における、サバイバルの法則。復習をすると、1.自分が生殖年齢に到達し、生殖すること。2.自分の子ども世代が生殖年齢になるまで成育すること。これが軸になっています。さらに、「よりよく」「効率」「有効性」などを加味していくのが、根本から派生していく基本的要因となります。これを、生物学的向上の動機と呼ぶことができます。生殖という言葉に濁されてはいますが、やはり「自立」なわけです。

ところが、元々先天的に持って生まれてきたものは、何かの刺激を与えなければ、向上しないものの方がずっと多い。たとえば、基盤になるDNAの考え方です。老いるということ=滅びること、と勘違いしている人は多いですが、老いの原因は、DNAが転写される段階でmRNAとなるときに、さらに翻訳のような段階を経てDNAへと戻るので、そこで起きる突然変異という自然のミスを含むので、だんだんと原型から離れていき、出来上がった細胞群の機能が落ちていくことにあります。ちなみに、ヒトの細胞は、60兆個ほどあり、常にどこかでこのmRNA→DNAが繰り返されており、突然変異(gene mutation/spontaneous mutation)だけではなく(この自然に発生するミスは回避できない)、有害物質や放射線などの露出により、複製は正確に行われなくなってきます。ただし、変形した異質すぎるものは細胞として生き延びることができないので、変形したもので生きる能力があるものが生き延びるわけです。ですので、滅びるというのは語弊で、この先天的に持っていた資質が変形していくことを「生きるプロセス」と受け止めていく必要があるわけです。ちなみに、それほど詳しく書かなくてもいいのでしょうが、遺伝子だけではなく、染色体にも突然変異は起きます。

こんな条件があるならば、さらに向上について考えていこうぜ!と思ってもらいたいくらいです。
(でも、ここで開き直ってさらに諦観してしまうヒトがいるかもしれないことは、ちょっと危惧・・・)

そもそも持って生まれたDNAに組み込まれた可能性というのは、宇宙よりもでかいと考えてもよしとできます。なぜならば、脳細胞一箇所を取っても、ヒトはそのすべてを使い切って死ぬことはないわけです。まだまだ可能性を脳細胞に残しつつ、たいていの場合、他の細胞の転写に負けて寿命が来ます。生まれた直後、同時に、mRNA転写のプロセスと、成長・発育という2つのプロセスが始まるわけです。後者のほうは、社会動物でいる限り、本能に大きく左右されるだけではなく、環境の中から与えられる要因に大いなる余地を持っています。

それらの中で、最も直接的に影響を与えるのが、衣食住に関するサバイバルチャンスの充実や安全保障。これらが脅かされると、当然、向上心などは消えます。それよりも現状維持すれすれでの生き延びることが最重要課題になるわけですから。どんな食生活をしているか?というのを、きちんと把握できていないヒトはかなり多いのでしょう。校長センセのように、栄養士さん指導の食事メニューを取り入れている人というのは、かなり少ないはずです。特に、子どもたちの育ち盛りの食育というのが社会の大きなテーマになってしまっているように、栄養価が落ちた野菜や果物や魚肉など、心配しなければならない環境に住んでいることを、まず向上心と繋げていくことができないことは多いのかもしれません。しつこいようですが、You are what you eat=You are consisted of what you have eatenですから。

ここに、空気や水、紫外線や放射線などを含めると、とんでもないことになってきますか・・・。環境ホルモン問題、製造年月日偽造問題、表示内容物とは違う食品の販売などなど、物騒な世の中です。闇市などがあったときには、まだ「どうせ闇市だから」と覚悟もできたのですが、この公的詐欺が横行している状態ってどうなのよ?

上記を含めたものが、社会の構築です。それが、昨日書いた「社会や国家や人類や地球全体という、私たちが生きている環境と、それを構成している人間の責任感に重く掛かる」という部分です。ありきたりに語られている「自由には責任が伴う」という表現は、本当にexecute(実行)されているのだろうか?と、私が個人的に自分でやっていないことに関しては、どうしても疑わねばならぬ世の中なのが、ちと社会動物としては切ない。Maslowの欲求階層説の下段から2番目にある「安全の保障」が脅かされてしまうわけで、その上に来る社会動物の醍醐味である「社会的欲求」「自我欲求」「自己実現欲求」などに、なかなか手をつけるゆとりがなくなってしまうわけです。

若い人々の向上心が希薄だというのは、陽さんのコメントのレスにも書いた通り、我が身かわいさのあまり、自己申請に脚色が入ることも大いに、夢がないように見せているのかもしれません。メカニズムとしては、「のちにどんな結果が来ようとも、Self-Esteem(自己尊敬心)が傷つかないように調整する」というもので、自分のベストを尽くした結果、成果が伴わないことがあると、心が萎えてしまう。なので、ベストを尽くしていないかのように喧伝すること。昔、落合博満がBig mouthと呼ばれていましたが、あの過大な有言実行をできる人間は少なくなってきている。が、過大な有言実行ではなくとも、「事実を事実として申請すること」をできないことが多いことで、社会の構成部分に大きな損失をかもし出しているのは、否めない状態なのではないかと思うわけです。駆け引きはゲーム感覚で楽しいのかもしれません。が、本音や正直コースで付き合える人々を選び、せめてその人たちだけにでも、本来の自分に最も近い部分を表現できないから、ストレスも溜まる。ストレスが溜まると、生命体としても免疫性が下がる。それを繰り返していくのが、会社員だとかメシの種を稼いでいくための手段であるとしたら、本当に人々の心身の健康は、崩れる社会となっているのでしょう。嘘や虚言や事実を事実として申請しないことは、自己がわかっていることで、それについての圧迫感は、個人を責めつけます。

嘘をついたことが成功してしまうと、辛さと似たように、エスカレートしていきます。自己申請に関しては、「Self-Esteemを守ってやるのは自分しかいないのだ」という言い訳も成り立ちます。自己否定もかわいがる気持ち同様に起き、コミュニケーション不足のために、根本解決をすることもできないまま、人生は続いていきます。向上心はそんな状態では持てないでしょう。

経済的栄達や、社会的地位などは、昨日のアメリカンドリームの定義で示したように大きすぎる目標です。物事は段階的に進歩するのが常道で、一気に飛ぶことは稀です。獲得や達成が積み重ねられない限り、さらなる向上を求める気持ちは起きない。それがメカニズムなのではないか?と思えるわけです。もちろん、他の要因もたくさんあることでしょう。が、私は、この失望感・不信感・諦観・無力感というのは、根本にかなり根ざした基本問題で、とてつもなくでかいと思います。

ここまで順調にアメリカンドリームを体現してきたはずの私ですら、失望感・不信感・諦観・無力感には苛まれることが多い。そりゃそうだよねぇ・・・。大の大人や公的機関が、堂々と詐欺まがいの行為を次々に行ってくれる・・・。それを構成している人間たちに対して懐疑心を持つことは、誰も責めることはできない。

けれども、社会的経済的な栄達ではなく、心の浄化や純粋さを求める気持ちが持てる余地があるからこそ、嘘や虚偽をしたり、自分を偽る行為についてストレスを感じるはず。だとしたらば、やはり向上心を持てる下地はしっかりあるわけです。子どもたちのために、大人がこの社会を何とかしなければ、と思える人が多くならねば、本当に地球は滅亡しちゃうんじゃないのかなぁ・・・。なんだか、ものすごい悪循環の中、人々はもう気力がなくなっているのか?と思う傍ら、けっこう元気な人々も見るので、やはり希望は持ちたいところです。

 

 

向上心を持てないのはなぜなのか?その1

10/30/2007 にアップした文章です。

 

ここのところ、コメント欄にかなりの字数を書いていただいており、そのフィードバックはたいへんに貴重です。そうか、アメリカンドリームの定義も、人によって違うんだな、などと思ってびっくりしたり、若者代表ちっくに、「これでよし」を書いてくれた陽さんにも感謝。私はそれに比べると、かなり強欲なのかもしれず、壮大すぎる夢を持っているのでしょう。が、夢ではなく、実際はプランにするために、しっかりと前向きにいろいろやっているのですが・・・。向上心を持てないのは、持てない人間だけに一方的に非難を差し向けることもできず、やはり何を提供しているのか?というオプションの数や質があるのです。それが社会や国家や人類や地球全体という、私たちが生きている環境と、それを構成している人間の責任感に重く掛かっているわけですね。

向上心:自分の能力・性質などをより優れたものにしようとする心。
アメリカンドリーム:民主主義・自由・平等といった、アメリカ建国以来の理想。また、その理想を体現するアメリカの文化・社会。
American dream: the idea that one’s prosperity depends upon one’s own abilities and hard work, not on a rigid class structure. 個人の繁栄は、社会的階級に左右されず、個々人の能力や努力によって決まる。

『末は博士か大臣か』というのも、よく言われていたことなのだけれども、特に「社会的最高位への栄達」を求める必要など、これだけ多様化した社会では、さほど意味が深いものでもなくなってきていることは確か。校長センセの場合は、「陸軍大将か海軍大将」だったらしいのですが、山本権兵衛のように両方になった人もいるし、すごいよなぁ、激動の時代は、などと、別のことを考えたりしている不届きモノであった、ごめんなさい・・・。

私の親は、「え?高校行くの?」とすぐに働いてくれなかった現状を諦め、「そうだよねぇ、時代が違うんだから、イマドキ高校くらいは行かないといけないのかもねぇ・・・」と理解を示したあと、また3年後くらいに、「えええええ!大学行くの?」と来たもんです。私はとにかく「大した期待はされていなかったから、たいへんにキラク」だったのですが、それは、私が今振り返って考えるに、自分が自分だけの動機と方向性で、excel, prosper, improve(秀でる・繁栄する・改良する)に集中できた気がします。そこには、たくさんの人間の雑念が入る余地がなく、流行にも大して左右されず、自分の能力をベースにして、ただひたすら模索したような絵柄になったので。しかも、影響力の大きいはずの両親は、「とにかく自分で食べていける人間になってくれ」以外のことは言わなかった←たいへんに直接的で明解な願いではある・・・。

でもね、これ、直接的で明解で簡素な願いおよび指示ではあったのだけれども、とても有効ではあったのです。16歳でバイトを始めてから、私は親にお金をせびることは一切考えなくなったし、むしろ、生活費や学費は自分で賄うことを考えて、ほぼ遣り通しました。池波正太郎のめずらしい現代小説の『原っぱ』の中で、60歳過ぎた主人公の劇作家の男性の、小学校のときの教師が、祖父の葬式に来てくれて、「おまえ、苦学をやれ」と言ったのだというエピソードがあり、なんだか私はとてもよくわかったのですよね。何がこの世で大切で、何が雑音なのか、何が自分に必要で、何が実際はそれほど必要でもないのか、何がまったく不必要なのか、などなど、労働しているあいだに得たものはかなり有効で貴重でした。その中で、勉強を進めたいと思ったり、さらに向上したいと思ったりする動機は、かなり純粋に近い。

私は、とにかくおいしいものをおなかいっぱい食べたかった(爆)。ニーズがとにかく原始的なところから始まっており、ゲームが欲しいわけでもなければ、車やバイクが欲しいわけでもないわけです。口紅やワンピースはかなりどうでもよくて、とにかく、バイトとバイトや学校などに移動するための手段と時間が短くなるためや、よりよく多く眠れるようにラクをしたかった。だから、高校時代は原付バイクでまったくかまわない。自転車で往復15分ずつ体力を消耗するくらいであれば、もう1時間余分にバイトに入れるわけです←すごい計算だよね・・・。帰りは速やかに帰りたい。眠らなければ、仕事中に使いモノにならないから。仕事中に使いモノにならないと、細やかに向上していてもなかなか評価されずらく、自分の励みにもならない。家の中では、父は死ぬまで家長をやりたがっていたし、家事ができない私が評価されるわけもなく、バイト先で先輩は多かったけれども、着実にお金になり、それなりに評価されることは楽しかった。

ね?気づくと私は、かなり王道を歩んでるでしょ?だから今、貧乏だったことに感謝できるんだよねぇ・・・。

そのあと、とんとん拍子に評価が進み、お金にゆとりができて、1本1200円の口紅(その頃なぜかMax Factorが流行しており、たぶんハリウッド女優が使っているとかいう理由だったのだろうと思う。サーファーファッショのせいで、ラメ系がもてはやされていたこともあるからだと・・・)も買えるようになり、ローンでバイクや車も買えて、保険も払えるようになった私は、たいへんに気をよくしてしまい、「じゃ、次は?」となるわけです。

ところが、生涯ウェイトレスをやっていけないことに気づけてしまうわけですよ。とても楽しかったのだけれども、これでは体力が続かなくなったらおしまいだということに気づく。若いからこそ、1日12~14時間も働かせてもらえるのであり、結婚したり子どもができたら、時給が高くなければ意味がないことに気づく。そこで、父親の手に職だった運転を、空に切り換えることを考えて、パイロットになることを決意。そこから死に物狂いの貯金が始まるので、私は生活レベルを上げないで行き続けるわけです。

英語を学んだことも、飛行機学校に通ったことも、アメリカの日常生活に慣れることも、それまでしていた苦労に比べれば、楽勝だったと言えます。身体を使って眠れないことがイチバンつらい。が、貯金が減るのを横目に、勉強だけしていればいいのは、とてもラクだったです。日本に戻って、その勉強の成果で、なぜか英語講師や通訳や翻訳などができることがわかり、さらに「オトク感」を得たあと、私は、このラクさに病み付きになるわけですね。生活レベルは大して上げない。せいぜい、ヤオハンで和食を買うときに清水から飛び降りるくらいで、お金を生むための家具揃えや不動産売買などにしか、お金は使わないで、生活レベルそのものを上げたことはないです。今でも、お惣菜を買うことはめったになく、お弁当持参は苦でもないし、贅沢なことはご褒美とする方式を採っています。

私は自然に、アメリカンドリームを追いかけてきており、これからもそれはやめないです。というか、これしか知らないわけで・・・。親の世代がそれなりのものを持っていると、この方式はやりづらいのか?それは甘えでしかなく、アメリカでは今でも18歳過ぎた子どもたちは、自然に家を出る率は高い。パラサイトシングル化せねば食べていけなくなっている貧民層も確かに実在しますが、友だち同士でルームメイトを募ったり、独立・自立を促す風潮は、未だに強く残っています。大学に行く計画がある人間は特にそうです。自立できる人間が、誰かと協力してやっていくのと、自立もできない人間が誰かの庇護下にいつまでも守られている、累計的数値を考えると、ちょっとぞっとしますね。

まずは、向上心どうこう、よりも、自立する心なわけです。自分の口は自分で養う。もしも地理的便宜や介護や感情的繋がりのために、家にずっと住むのであれば、家事分業をしているという建前をしっかり守り、目に見えないお金までもきちんと出す準備がなければ、自立しているとはみなせません。その入れたお金を、親が勝手に積み立てしているのは、「海より大きな親心」ですが、家事ができずに、光熱費がどのくらいなのか、水がいかに高いのか、掃除がどのくらいたいへんなのか、わからないままに、少額を入れて威張っているようではいけませんや。

今日は、私の例でほとんど終わってしまいましたが、明日は根本から派生する基本的な要因をもう少し追求。

 

責任を取らせない親たち

10/29/2007 にアップした文章です。

 

世代の問題なのかなぁ・・・。私の母も本音なのか、建前なのか、「自分にできなかったことはやらせたい」だとか、「自分がした苦労はさせたくない」などと言ってみたこともありますが、実際のところは、彼女は、自分と私はまったく別個のものだということをかなり強く認識しています。もうね、4歳くらいから洋服の好みが違うのよ(笑)。Pastime(余った時間の使い方)も違うのよ(笑)。今となってはその差はさらに大きくなり、女性としての共感というのは、そのへんにいるおばちゃんと母とどちらに私が共感するか?と問われると、わからなくなることがあります。全体論としてはきっと共感は薄いかもしれない。ただ、「貧乏なことを乗り越えた」という連帯感だけが根っこのところに残るのかもしれないです。

私の母がいかに私に責任を取らせてきたか?私のエナジーはとても余っていたようで、義憤とはまだ呼べない怒りも相当あったようで、子どもの頃2度ほど他人にケガをさせたことがあります。ひとりは、教育ママを持つ男の子で、みんなで決めていた植木屋さんの中にある「自分の木」(まぁ、これもおかしな話なのだけれども、他人の持ち物を自分の所有物化していたわけよ。でも、子どもだから許してほしいし、植木屋さんたちもそれほど迷惑がってはおらず、よくお菓子ももらったものです)条約を破って、私が居ないことを姑息に確かめてから、私の木に登っていた男の子を、突き落としたことがあります(爆)。見事に骨を折ってしまったのだけれども、そのとき、母は、私を玄関から締め出し、「うちは子どもがやったことはすべて子どもに任せていますので」と、無情に鍵を後ろ手に閉めてしまったのだ(爆)。そこから延々、私は2時間ばかりも、口角から泡を吹きながら怒鳴るおばさんに怒られたのだった。それでも私は「悪いことはしたけれども、先に悪いことをしたわけではない」とずっと言い張っており、「他の方法がなかったのか?」と問われても、「なかった」と言い張っていたことは、よく憶えているのです(苦笑)。本人が一度もその場に出てこなかったことにも、相当に腹を立てていたことがあり、私は口をへの字にしながらも、決して泣かなかった。「こんなおばさんに白旗を上げて泣くのはもったいない」と思っていたのだ。

そのあとも、植木屋さんに大きな植樹をするための穴を利用して、自転車ごと3台くらいが落ちる落とし穴を作ったことがあり、そのときも3人の男の子にケガをさせました。そのときは、誰も文句をつけには来なかったのだけれども、母に「自分から謝ってきなさい」と出されて、またもや家の鍵をかけられてしまい、「行ってこないとごはんはヌキだから」ときつく言われたので、渋々謝りに行ったのだけれども、ものすごい緊張したことは憶えています。が、2軒のお母さんたちはそれほど怒らずに、「お互い様」だとか「暴力を振るおうと思ったわけじゃないよね」「落とし穴に自転車で通ったことは運が悪かった」などと言ってもらえて、またもや私は完全なる敗北感に苛まれないで済んでしまったのだった。

それだけではなく、我が家は大皿料理しか出さなかったのだけれども、その大皿から自分のお茶碗や小皿に取った料理を食べきらないと、いつまでもそこで座らされており、ここのところは早期学習をして、すぐに飲み込んだので、自信がない食べ物は量を多く取らないようになったわけです。それでもかたや、いつもひもじい想いをしており、人生最初のでっかい矛盾を感じたのは、これですね。食べたいのに食べられない。どうして嫌いなものがあるのか。どうして量に限界があるのか。どうして先に弱肉強食方式で食べられてしまうのか。それでも学習した結果として、私はいまだに、好きなものはイチバン最後に残しておいて食べます←バカなの?(笑)

他にも、朝、2つの部屋の雨戸を開けて、お布団を畳み、玄関と庭の掃除をしなければ、朝ごはんも食べられず、学校にも行かせてもらえない、という仕事もありました。それは朝の部で、学校から戻ってからと夜にも仕事があり、それらが済まない限りは、メシヌキは日常茶飯事でした。朝の洗顔・歯磨きは朝ごはんのあとが合理的、という水道代をケチる傾向があったので、低血圧やら目がパッチリ開いていないなどという言い訳は、誰も聞いてくれず・・・(笑)。というか、朝からきっちり働けば「朝は苦手」というのは克服できるのだ、と父親は真剣に思っていたようです。私は今でも、朝起きてすぐ、かなり脳は働いている気がします。理想は、起床後3時間のテストがベストなようですが(朝食時間なども考慮に入れる必要があるので)。

特に厳しいわけでもなく、躾ですらなく、私はこうして責任を常に取らされてきており、小学校の頃の忘れ物を届けに来てくれたことは、給食用の割烹着だけでした。それは給食当番が終わったあと、次の班に廻すことになっていたので、「他人様に迷惑がかかるから」という理由。他の、うわばきや体操着などは持って来てはもらえず・・・。「スリッパで校内をパタパタ歩いていて恥ずかしい想いをすれば直るでしょ」と、夕飯時の食卓で言われるわけですよ。かなり誇らしげに言うんだよなぁ(爆)。体操着がなくても、私は体育の時間は休まなかったから・・・。宿題は、慢性的にしていかなかったので、届けてもらうも何もなかったのだけれども・・・←本当に勉強はしない子どもだった・・・。

仕事があっても時間は大いに余っており、学校があっても暇は暇だったし、自転車の乗り方ひとつだけでも、本当にあれほどいろいろなことを考えて遊んだことは、一重に生命力の賜物だったと思うわけです。何らかの学習は進んでいたのであろうし、責任もしっかり取れる人間になるように、親が意識していたのかどうかは不明でも、結果的にはラッキーな恩恵がありました。

どんな質の責任を、親は子どもに取らせないといけないのか?この場合、日本国民&地球の一員としてやらねばならぬことが優先なので、英語ではmustが当たります。法律すら守れない大人たちが、模倣学習を最も得意とする子どもたちに、口と行動の矛盾をものすごくたくさん見せているのは、危惧です。私が夜中や朝方の赤信号で停まるのも、「どこかできっと見ているかもしれない神様と、子どもたちのお手本として恥じない行動をする」というのがあります。贈収賄を見たり、言い訳記者会見を見たり、死刑執行や殺人事件・強盗事件などなどを見たり、世間の矛盾をたくさん見ているわけです。その中で、子どもたちは何を模倣し、何を反面教師にするのか?そこで、親や大人たち、さらに子どもたち同士の話し合いが持たれているのか?を考えたほうがいいのですが、そういった簡単なことが欠乏しているのでしょう。習い事がたいへんで、子どもたちの話題はそんなことまで網羅しておらず、大人たちも仕事をしたうえに、送り迎えなどもし、自分たちの余暇も有効に使いたいはず。

親や大人たちが、真剣に子どもを相手にしないことで、たくさんの未来の引きこもりや未来の諦観者が生まれていることは、大人が自覚したほうがいいことなんですよっ!

私には叔父や叔母や、河原の華僑おじさんや、図書館の司書のお姉さんたちもいて、かなり恵まれていたんだなぁと思います。

道徳や家庭や学校の責任の取り方にしろ同じです。shouldに当たる責任は、小社会での価値観をうまく伝えていないことが多く、見たままが事実だということで放置しっぱなしではないのだろうか?と、大人たちは疑うことが大切です。ごみの分別をしていない親たちを見たり、飲酒運転をする大人たちを見たり、売春・買春行為をどこかで目にしたり、いじめも見ていますよね。それについて、やはり話し合う時間がないのでしょう。コミュニケーションはいずこへ?だから、『貧困を感じるトキ』に書いたように、社会や国家や未来に夢が持てないことも、大いにあります。亀田親子問題でも、好きなことをTVの前で言っている大人を見て、子どもは自分をも否定されている気持ちになることを、考えたことがあるんでしょうかね・・・。真摯に「できる範囲で謝っていること」に対して、まったく評価しない親を見たら、子どもは隠れて何かをするようになったり、謝ることを放棄してしまったり、バレないための工夫をしたりというネガティブさを生む仕組みがあります。もっと面倒なのは、子どもたちもそういったゆとりのない大人になることなのですよ。他人の人生であり、他人が作った小社会であり、自分のコントロールがどのくらいまで反映するのかという計測ができないまま、とにかくいつも他人のあら捜しをしたり、自分以外の人間にばかり文句を言い続けるのって、ぞっとする状態じゃないんでしょうか?

それよりも、「自分だったら」という他人の問題を自分に組み込めて、自分なりのhave toを見出していける子ども→大人になるために、親は責任の取り方を模範として見せて、話し合いを怠らず、子どもの裡側にある力を信じることです。

2つのエッセイの中に盛り込まれていた内容を、ここでドサクサに紛れて融合させてしまいましたが、混乱しなかったでしょうか?わからなかったら、ぜひぜひコメントください。

 

紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その58

Q58.

好きなものは先に食べますか?それとも後に残しますか?

 

A58.

私は好きなものはいつも最後に食べます!即答です。なので子どもの頃は、いつも食べ損ねていましたが、それでも、意地でもどうしてもこれは変えられないのです(笑)。

 

子どもの頃は大皿料理で、弱肉強食を絵に描いたような争奪戦だったのですが、それでも私は好きなものは最後に食べたい!といつも損をしてきたんです(笑)。

 

https://soyokazesokuhou.com/syokuji/ 心理学的見地https://sirabee.com/2016/07/15/143322/  統計

http://denkon.net/tv-12-3130 ほんまでっかTVの解説

 

私は自分で思っているよりもかなり遠慮がちな人間なので(笑)、好きなものを食べられなくても、最終的には他のことで獲得しようとするような傾向があります。生物学的には不利ですけれども、脳神経学的には辻褄が合ってるようですね(笑)。

 

皆さんはどちらでしたでしょうか?

 

そして、今でも、大皿料理を提供することが半々ぐらいの割合であります。今も好きなものを逃していることは多いのですが、それでもやっぱりやめられません(笑)。自分にゆとりがあることを、常に証明し続けていきたいということなんだろうと自分では解釈しています。

 

http://news.livedoor.com/article/detail/13448024/ 恋愛傾向

 

色々な人が色々なことを言っていますが、本人が良ければいいんじゃないでしょうか❓?(笑)

責任の取り方 後編

10/28/2007 にアップした文章です。

 

いやー、全部見切れなかった(爆)。家に戻れたのは、8時25分頃だったのですが、そのとき把握したのが、すでに「家庭における責任感」というテストが終わっており、舛添厚生労働大臣がわずか10分ちょいで退席した、という感じ。そのあと、「社会における責任感」というテストを画面でやっていたので受けたのです。もちろん、正確に測る(順位が出るらしい)には、携帯からやるのがよかったのですが、どうも頭がデジタルになりきっておらず、アナログ部分も多いので、ごはんのしたくのほうが優先であった(爆)。そうそう、私は時計の表示もデジタルはダメですね。どうしても円形になっている時計表示のほうが実感と計画が立てられる。

時期がぴったりと合ってしまったために、亀田家問題を取上げており、今朝のニュースを見ても、いろいろなところで星の数ほど取上げていて、いいことを言っている人々がいるにも拘らず、やはりメディア全体での反省感、責任の取り方というものには、反映されていない模様であるのはわかった・・・。校長センセがコメントでおっしゃっていたように、責任の取り方というのは5時間の枠であっても、てんこ盛りに問題提示は可能であっても、解決への方向性を提示して一丸となって進むまでには至らず・・・。カリスマ性を持つ才能あるビートたけしを以っても(やはり疑問なんだけれども、どういうラインで、北野武とビートたけしを使い分けているんだろうか?)、人々にどの程度訴えかけられるか?というのには、限界があるんだろうな、と思えたのです。

しかも、私は見ながら満腹になってしまい、その日の授業が10-20だったこともあり、疲れていて寝てしまった(爆)。というのも、私がぐいぐい引き付けられる内容ではなかったってことなんでしょうね・・・。久米宏とテリー伊藤と小倉智昭も出てきたのだけれども、私はその論議の途中で力尽きてしまい、「そんなにすごいこと言ってくれないんだな」と思いつつ、ネコたちを撫でつつ、TVをつけっぱなしにして眠ってしまっていた・・・。タイマーもつけておらず、起きると2時だった(爆)。情けないことに、自分が22時までは起きていたのか、いつ寝たのか、まったくわからない状態になっていたのである・・・。

東国原知事も遠隔中継出演をしており、番組全体の構成や仕掛けは、それなりに「悪くない」とは思えたのだけれども、まぁ、寝てしまったくらいなんだから、大したことがなかったと言える・・・。あれだけの資金力とコネクションを以ってしても、やはりテーマが壮大すぎるというのは、そもそも思っていたことなのだけれども・・・。

日本での会社社長や役員などの引責辞任の話についても見たのだけれども、尻つぼみで終わってしまった感があり、そのあと久米宏たちが出てきたので、どうもやる気が持続できなかったように思える。辞職をすることで、どんな責任が取れるのか?という話をスタジオでしていたのだけれども、予測通りというか、斬新な答えをしてくれる人々がおらず、そこらへんからすでに興味が失せた模様。東国原知事が、「欧米諸国では、すぐに記者会見を開いて謝ると、賠償金・保険金などの問題が出るからでしょ」という発言があったときに、そこから話が発展するのか?と思いきや、発展しなかった・・・。

私のスタンスは、当然、留任して責任を取る、のほうで、辞職して次に任務に当たった人たちは迷惑千万すぎます。日本の伝統としてすぐに記者会見をして謝罪しなければいけないというのが主流であれば、謝る内容を工夫すればよい・・・。とにかくすぐに謝るのではなく、「事実を確認してから謝る」でいいんじゃないかと私は思っています。「疑いを招くようなことになり申し訳ございません」という謝罪をしたのち、事実把握や調査委員会などの担当責任者で、問題解決に最も近い人間の記者会見を数回に分けてしてもらったほうが、消費者の立場としては安心できるんだが・・・。

いや、実際は、私は記者会見は要らないと思うんですが、アナウンスメントをパブリックにしなければならぬ、という考えが日本ではまだ主流ならば、ですよ・・・。

インターネットのHPでするのも、TVのための映像を撮るために会見を開くのも、意義は大して変わりはなく、「国民・消費者が知りたいこと」を網羅していればかまわないわけですよ・・・。東国原知事は、「賠償金・保険金の関連性」を示唆したけれども、実際に、資本主義の中に位置していれば、これに対する懸念は、営利団体としては持っていなければつぶれるでしょう。つぶれたときに、社員の家族や地域社会に対するモラルと秤にかけろってことなのかしら?「騒動を引き起こしたこと」に対しては謝辞をしっかりして、迅速な根本的問題解決のために、すぐに調査委員会を発足させるとか、外部の調査諮問を使うなど、オープンに問題を解決する姿勢を見せてくれるのが、重役たちが辞めるよりよっぽど大切なんだけどねぇ・・・。辞めて何になるのよ?と・・・。私的財産を没収する権利が、会社という団体や日本社会にあるわけでもなく、横領や贈収賄の疑惑があれば、調査次第では、のちのち没収できるし、いつでもクビにできたり、辞意を表明することはできるのだから、あんな早期に辞めてもらっても、消費者である私には何の感慨もないのだけれども・・・。

潔いという言葉の意味が、実際のところ、あまりよくわかっていないのではないかと・・・。

潔い:(1)卑怯な点や未練がましいところがなく立派である。悪びれない。(2)汚れがない。清浄だ。(3)心やおこないにやましいところがない。潔白だ。(4)清らかで気持ちがよい。

社会的な地位を剥奪することが、この世の死以外の最も重い制裁であるという考え方が、どうも違うのだろうと思うのです。だから、いじめをつらく感じる子どもたちも増える。私などは、そもそも社会的役割そのものを軽視している部分が大いにあり、その社会的役割に対する誤差を充分にターゲットに入れて、個々人の別を考えていけるので、社会のスタンダードがどうであれ、地位剥奪は大した制裁ではないと考えています。地位にしがみついている人にとっては、確かに重い制裁なのだろうけれども、世間を見てみてよ。アメリカ式に、ステップアップ転職が流行になってきた現在、終身雇用を貫く人々はだんだん減ってきました。「しめた♪」とばかりに解雇される人だっているかもしれない。それよりも、針の筵(むしろ)にずっと留まらなければならないほうがつらいと思う人には、留任させたほうがいいでしょう。まぁ、最終的には本人の意志ではありますが・・・。

この引責辞任というのは、ゲームが害悪だと言っていた人々の「リセット」と同じ機能を果たしていませんかい?と思うのです。もちろん、念入りに取材や調査ができる人に遭遇してしまえば、辞任したあとの人生は難しいものになりますが、このご時勢、他人にそこまでの関心を寄せる人々が少ないだろうと高を括ることだってできます。経済的蓄積をすべて取上げられなければ、辞任した人々はそれなりにうまくやっていけてしまうことでしょう。

ああ、この話題ひとつでここまで書いてしまいました・・・。眠って失敗したなぁ、と思いつつ、眠ってしまえるくらいの意見しか出ていなかったとも思えて、それでも「私が眠ったあとにお歳暮やお中元でもらった桃の缶詰を内緒で食べていた両親たち」を思い出し、どうも「楽しいことは私が眠ったあとに起こった」という疑いからも抜け切れない(爆)。ブログを検索してみたのですが、大した意見はまだアップされていなかった。それでもやっぱり「逃がした魚が大きかったらどうしよう・・・」とは思っており、自分の豪胆さの欠落に嘆くのである(笑)。

ちなみに、私は誰かが見ていなくても赤信号は必ず止まりますし、空き缶も拾いますし、丸裸のお金でも交番に届けますし、余分なおつりは返します(たまに気づけないこともあるんだけれども)。そのときに、たけしが「こんな小さなことで運を使うのはイヤだ」と言っていましたが、なんだか共感。でも、そのあと「だからギャンブルはやらないの」という発言があり、ちょいと反省(爆)。私はギャンブルをし通しで、人生だけでは飽き足らず、カジノもパチンコもやっています。やっぱり全体の運っていうのに影響あるんだろうな・・・などと、オカルト的なことを考えてしまいました。

責任の取り方は、またどこかで論じているブログやHPを探して、もう一度真剣に書こうと思います。

人の能力が伸びるとき

ここではタイミングと条件を考えてみます。発達心理学的な考え方をまず前提としてご理解ください。ヒトは必ず「積み重ねの存在」なので、過去の経験から逃れることはできず、それを薄くしたり、奥のほうに閉じ込めたりすることは可能ですが、やはりそこに依然存在していくことは確かです。さらに、もうひとつの条件としては、DNA遺伝子でもらった器量・能力の器があります。これに関しては、多くの人々が諦めモードのほうが強いので、特にネガティブなことを羅列する必要すらないと考えるのですが、生まれながらにいいものを持っていたとしても、生まれたあと、育つ過程でそれが開花しないことも十二分に考えられます。ある刺激がない限り、その才能にはタッチすることすらないかもしれないわけです。逆に、みなさんが考えているDNAの重要度というのは、少し大げさモードになっている気がします。天才か秀才と呼ばれるほどのIQを持つ人々は、自然の摂理的発生頻度なので、全体の2.14%ほどしかいません。天才の中で群を抜いて明らかな人々は、実際には、0.13%しかおらず、ここが天文学的な頭脳を持って生まれた人々です。全人口が77億人だとしたら1000万人程度しかいません。日本の1.268億で考えると、16万5千人に減ります。しかも、ここには学歴を伴うケースなどに確実性はありません。なので、考えることすらしなくていいのでは??と思っちゃいますね(笑)。むしろ、着目点は、「持ち得ているものをまだ学ばないことにより、学び方を習得していないことにより、開花させていない」ことであって、生まれではないわけです。

 

ここまでご理解いただけたら読み進めてくださいませ♫

 

ヒトの成長にはささやかですが重要な時間のラグが生まれます。Slight, but significant differences と呼びますが、時間だけではなく、さまざまなユニークさ、特別さ、はここから生まれます。選択肢の数が2つ(コンピューターなどのような二進法)では、「頭がいいー悪い」の2つしかなく、とても窮屈な可能性を小殺ぎとるモノの見方です。ここを十進法・百進法・千進法・万進法などにして、測りの目盛りを増やすことが、ヒトがヒトゆえにできる複雑さを引き受けられる恩恵です。が、簡便や合理を追求する傾向もよいことがありますから、せめてヒトを見るときには、もう少し目盛りの数を増やしてもらえたら、と願うばかりです。

 

標準的なヒトの成長・発達段階の時期というのは、小さい頃は医師や保健師さんなどのアドバイスがあり、親御さんとしては一喜一憂することでしょう。が、そのズレは生涯、必ず辻褄が合うようにはできますので、生物学的・医学的なDisadvantages:不利・損失だけを念頭にまず置いてほしいです。

 

さて、フツーに暮らしている人々がイッタイ人口のどれくらいか?というと、大きなパワーがかけられない限り、おおよそ、68.2%です。フツーよりちょっと頭がいい・ちょっとお金持ち・ちょっときれい、など、人工的後天的パワーがかからない部分は、およそ16%。フツーよりちょっとおバカさん・ちょっと貧乏・ちょっとブス、なども同じく16%ほどです。そうなると全体の96.4%弱ほどになります。

 

ヒトの成長には確かに段階がありますが、そのひとつひとつの段階で「ある程度」は習得できても、やはり生涯それを使いまわしていかねば、忘れてしまうことや実力発揮できていないこともたくさんあります。段階的なことはおそらく生涯で考えると、Erik Eriksonのものがわかりやすいかと思います(ちなみにPrecious One English Schoolでは詳細に理解してもらっております)。https://hoiku-childcare.com/erik-homburger-erikson-hoikushi-shiken/

そして一般的な成長のための条件が環境内にいくらあっても、この段階を踏んだ発達をそれなりに遂げてきていない限り、伸びの大きさ・ジャンプは期待できません。なぜならば持っているポテンシャルは、やはり順番通りに開きやすいものだからです。

 

条件はいくつかあります。

 

1. 自分の考えが最も正しいという前提を捨てていること

2. 他者の話を広く深く聴く準備ができており、さまざまな方法・方向にオープンなこと

3. 変化を恐れないこと

4. 今回の伸びあるいは目標の先にも、キリがないほどの先があることを知っていること

5. 自分の感じ方・考え方を整理し、他者に評価をしてもらう勇気を持つこと

6. 成功するまでのプロセスを楽しめるように工夫を凝らせていること

7. 健康にそれなりに自信があること。特に睡眠時間

8. よい人々・理想像に近い人々に囲まれること

9. 楽観的である自分を常とできること

10. 何度もトライアルしなければならないことに耐えうる時間と心のゆとりがあること

 

と10個に絞ってみました。

 

Precious One English School では、英語レッスンにもこの発達段階を入れ込み、これらの条件を満たすようなレッスンを英語でも展開しています♫

貧困を感じるトキ

10/27/2007にアップした文章です。

 

商売を始めるということは、経済的ジェットコースターに乗ることなのだ。貧困を感じたときはありましたよ・・・。西さんは、エリートとまで分類されずとも、まぁ、平均よりはいいほうのビジネスマンだったので、私は子どもにかかる分を、すべて学費として使って来られましたから。商売で出て行くお金というのは、計画以上でした。それにしても、どうしてこうも日本は格差社会になったのかなぁ、と、アメリカに住んでその格差を見てきた私は、つくづく考えています。大まかな答えはわかっています。社会学的連鎖なわけです。家庭ごとでの進化と学習の連鎖。『菊次郎とさき』で、たけしの母親であるさきが言っていた通り;貧乏だから教育をまともに受けられない、教育を受けられないとまともな職業に就けない。まともな職業でないといいお給料がもらえない。という連鎖なわけです。教育は本当に平等になってきているのか?ここが問題だよね・・・。

そもそも、「平等」という考えは、幻想である、と、私は冷淡に考えています。なので、意識をして「公平」という言葉で置き換えることが多いです。

平等:(1)差別なく、みなひとしなみである・こと(さま)。⇔不平等 (2)近代民主主義の基本的政治理念の一。すべての個人が身分・性別などと無関係に等しい人格的価値を有すること。(3)〔仏〕 真理の立場から見れば、事物が独立しているのではなく、同一の在り方をしていること。⇔差別(しやべつ)
公平:かたよることなく、すべてを同等に扱う・こと(さま)。主観を交えない・こと(さま)。⇔不公平
同等:(1)等級・程度が同じである・こと(さま)。(2)資格・技量が同じである・こと(さま)。(3) ⇒同値(どうち)
主観:(1)対象について認識・行為・評価などを行う意識のはたらき、またそのはたらきをなす者。通例、個別的な心理学的自我と同一視されるが、カントの認識論では個別的内容を超えた超個人的な形式としての主観(超越論的主観)を考え、これが客観的認識を可能にするとする。→主体 (2)自分ひとりだけの考え。⇔客観
客観:(1)主観の認識・行為の対象となるもの。主観に現れるもの。世界。かっかん。(2)特定の認識作用や関心を超えた一般的ないし普遍的なもの。主観から独立して存在するもの。客体。かっかん。⇔主観

こんな難しい概念を、日々の生活で切り分けてチャカチャカスイッチを変えて考えていくことは、たいへんに難しいことです。しかも、ヒトはSelf(自己)を中心に生きており、物理的にも視点などの感覚を含め、それしかできない、という限界だらけです。そこを踏まえた上で、「自分が扱ってほしいように他人を扱う」という態度を持てるか持てないか?が分かれ目になるわけです。

貧困に喘いでいる人々は確実に増えています。
貧困率について>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E7%8E%87 2005年には、日本は世界で2番目にランクしています。
ただし、どんな統計でも平均化することでの無理や語弊は生まれますので、2位というのを鵜呑みにしてはいけないとは考えます。もう少し、他の軸を加えて考えていく必要はあるのです。

資本主義においては、やはりお金がモノを言う。民主主義においては、平等な財産の分割はありえない。その上、それなりの教育を身につけなければ、技術もつかないし、いわゆるいい職には就けず、「食べていくのが必至」状態から、なかなか抜け出せないものなのでしょう。だとしたならば、国家が公平なモノの見方をし、誰でも受けられる教育制度を考えていかなければならないわけですが、どうもうまく機能していないらしい。

私的な意見では、文部科学省は山積された問題を解決できるとは、自分たち自身でも考えてはいないようだし(そりゃ、公的にはがんばっていることを見せなければならないわけですが。いじめ問題を対処している姿を見ても、どうも希望は持てない・・・)、ハローワークなどでの補助金なども門戸が開けたかのように見える、実質的な補助金ダウンではあるような気がします(2年以上しなければ数字になって顕れないにしろ)。

そもそも、心の問題のほうが大きいのかもしれない。「出世したいと思わない」というのは、もう少し言及していかねばならぬことで、その代わりに「専門職として生きたい」「家族を大切にしたい」というのがあるのかもしれません。多様化は、進化論を考えればいいことです。ただし、「今の自分よりも一回りも二回りも上を行く志」に欠けるというのは、あまりいい心の状態ではなく、諦観・無力感・失望感などを持つことが日常化しているのだとしたら、国力や社会としては大問題です。アメリカでも、アメリカンドリームを持たぬアメリカ人を山ほど見ました。その代わり、アメリカンドリームを掴もうとする移民たちをたくさん見ました。そして、富裕層に属す200余年の歴史の中で伝統を持った家々は、守ることに懸命で、積極的に新たなアメリカンドリームを求めることは稀でした。

個々人が持つ態度、全体として、成功はしたけれども自分も通ってきた道を考えて、他人に差し伸べる余地を持っている人間が多いか否か?

これが、社会の連鎖を断ち切るキーになると思われるのです。大金持ちが寄付という話も、日本での規模はまだまだ小さく、「ちょっとしたいい話」もアメリカほど溢れておらず、私は、うれし涙はあまり流さない日々を送っています。アメリカに居るときよりもニュースが画一的なせいなのかなぁ・・・。Noblesse oblige意識はまだまだ低い気がします。「ボランティアはそもそも自分のためにやっている」と言い切れる率も低い。日本の宗教の在り方がここで大きく現れています。

持っている所持品・金を自分のためには使うが、他人のためにはなかなか使わない、というのが横行すると、やはり累計的に見ていくと、莫大なことになります。自分のためには大いなる消費生活をする、というのも、ゴミ問題と同様、累計的に見ていくと、ものすごい大きなものになります。通販でBilly Blanksが売れた値段、すごいですよね(笑)。50億円?その分、まるまる教育の機会を与えられない子どもたちに廻せたら、ものすごい花が咲くんですが・・・。その中にどれだけの大輪があるのか、想像しただけでワクワクしますが・・・(汗)。

私自身が、その連鎖の中に埋もれる予定だったので、英語が話せるようになったり、ヘリが飛ばせるようになったりするとは思わないで来たかどうか?私は、生命力の強いサバイバーだったので、いつもどこかで楽観的にひまわりの大輪を咲かせることができると思ってきました。信じる力は絶大なパワーを持ちます。なので、私は教えることが好きだということにも繋がります。未だに母には、英語が「それほど話せるわけない」と思われていますが(笑)。

私は、ひもじかった頃のことを憶えていますね。もう忘れたほうがいいんでしょうか?もうジャガイモとかカボチャとかおかゆなどは食べたくはなく、できたら避けたい食べ物です。高価でしょっちゅう買えなかったせいから来ているのか、お菓子も食べません。こうして染み付いていることが私を動かし、誰かがサバイバルできる足しになればいいな、と思っています。

躓く女たち

10/26/2007 にアップした文章です。

 

びっくりしてしまったのは、女性の平均年収の低さ。これじゃぁ、女性の倖せを掴む道は、まだまだ山アリ谷アリなんだろうなぁ、と、つくづく思ったわけなのですよ。もちろん統計学というのは、見方によって解釈はいくらでもできるし、プロセスに立ち会わないと正確かどうかだってあやしい。世間を眺めたときにも、外国人が「日本女性はいつもきれいにしている」などという褒め言葉は発するけれども、「仕事ができる女性の軍団」などとは評価された例はないよね・・・。私はアメリカに居るときに、Living as a Japanese woman is one of the most difficult things in the world(日本人女性として生きることは、世界で最も難しいことのうちのひとつだ)とつくづく言われたことが、数度ありました。それは、私が日本を出てしまったことを慰めるつもりだったのかもしれません。でも、戻ってきて1年。そう思うな・・・。

躓く(つまずく):(1)爪先がものにひっかかって体がよろける。けつまずく。(2)物事が中途で障害にあってうまくいかなくなる。中途で失敗する。

白馬に乗った王子様について書いたり、大黒摩季の『夏が来る』について書いたことがありますが、私が『躓く』という語彙を使ったのにも意味があり。おそらく、多くの女性のゴールはまだ、「生涯独身で、ひとりで稼いでしっかり生きて、子どもも産んで育てる」という覚悟にはなく、「途中でいい男の人と結婚し、半分以上の経済的負担を彼に担ってもらい、その代わり子育てや家事で貢献する」というフェアネスを求めたゴールなのではないかと思うのだ。そこで、「女性がひとりで生きるのはおかしい」「子どもは二親揃っていなければダメ」などという当たり前を切々と説く人々がいるんだろうけれども、私はそうは思っていない。なんせ、ヒトはひとりで生まれてきて、ひとりで死んでゆくのだ。

↑この前提の理解は重要。

だからこそ、結婚できなかったり、子どもを産んでいない状態の女性たちは、「躓いている」と感じざるを得ないのではないかと・・・。だって、ゴールまでにはクリアせねばならぬポイントがかなりたくさんある(笑)。そのせいで、結婚した時点をゴールだと思ってしまう人も多いわけだ。時間が足りなくなるならまだしも、実際には若い女性でも、最初からゴールをここだと思いながら(本人が強く意識しているにしろ、していないにしろ)言動を繰り広げている人たちはけっこう多いように思える。

何度も書きますが、私は生涯独身でまったくかまわないと思っていたし、自力で自分の食い扶持くらい稼げなくてどうする!?とも思っていたし、子どもも一時期(30代)では迷ったのだけれども、結局持たなくてよかったと思っています。なので、「女性がひとりで生きるのはおかしい」「子どもは二親揃っていなければダメ」などという当たり前を切々と説く人々には抵抗感があり、「あなたはナニサマ?」といつも感じています(笑)。親戚のおじさんやおばさんでもあるまいし・・・。たとえ、父親や母親であっても、自分の人格や人生と、子どもの人格や人生をごっちゃにしてもらっちゃー困るでしょ・・・。

もちろん、国家力維持や増大のために最も直接的なのは、人口増加です。が、産んで育てるための整備が足りないことを実感させるからこそ、子どもの出生率は減っているのだと認識はしているようですが、あの少子化対策委員会って機能しているんでしょうかね?私は日本国民として生き抜くことよりは、世界の人口増大のほうを心配しています。確かに、日本という国が成立していかねば、本当にこんなのんきなことは言っていられないのですが、女性の肩に責任をのし掛けるのではなく、社会全体で考えねばならぬことなのですから、たかだか私ひとりに対する説得力もないのであれば、なんとなく肩透かしではあります・・・。

それに、子どもは二親揃っていなくても、元気に健全に育ちますから。どんな発達心理学でも、生物学でも、生理学でも、ゲイの両親に育てられるとまともな大人に育たないとは証明できていませんし、二親揃っていても犯罪人を出す家庭はありますし、天才や秀才と呼ばれる人々の親たちの子育てがどのようだったか、ケーススタディにはなっても、絶対的バロメータというのは、「とにかく生き延びてチャンスを繋げること」以外には、存在していません。

私などは、放任や欠落よりは、過干渉により余分な癖・歪んだ知識・傲慢な世界観を身につけてしまった人が、よりよく生きるサバイバル率のほうを心配しています。Learningのほうが、Unlearningよりは容易です。個人だけではなく、小社会である企業や団体、国家などにもこれは当てはめて考えられます。発展途上国と呼ばれる国々のほうが、未来は明るい。なぜならば、身につけることはたくさんあるにしろ、呪縛や抑圧や除去せねばならない悪しき体質となってしまっている蓄積を、丹念に取り除く作業にエネルギーを使う必要がないからです。

躓くには、「理想の持ち方」がそもそも問題なんだということを、ここで強く言ってみているわけです。これまで常識・当たり前と言われていたことが、本当に今後も通用するのか?ヒトは所詮、社会動物の端くれに過ぎないであろうに、なぜか地球を制覇して、自然を蹂躙するようにまでなりました。産業革命以降、技術革新がどんどん進み、動物としては生きていることを意識しているヒトは、ごくごく少なくなってきました。そもそも、男女が共同作業をし、狩猟や農耕をしたり、部族や他部族間との協調を社会性として身につけてきたはずであるのに、ヒトを当てにしなくていいシステムを、技術革新のおかげで作りすぎました。ならば、女性も、生物学的非力さを問題とせず、庇護下をゴールにせずともいいではないですか・・・。

白馬に乗った王子様を見つけて、その人のすばらしい遺伝子を残すためにしっかり生殖年齢まで育てる。可能な限り、子どものサバイバルチャンスを増やしてあげるために、いい学校に行かせる。などという構図は、もう追いかけなくてもいいような気がしています。そもそも、ヒトは増えすぎた。無駄な空気も電気などのエネルギーも使いすぎる。ならば、よりよい、についての質を考えてみてもいい頃かと思うわけです。

ゴールも多様であっていいわけで、本人が違うゴールを持っていれば、たとえ社会から見て「躓いている女」とレベル貼りをされても、特に本人のSelf-Esteem(自己尊敬心)が下がるわけでもない・・・。子どもが欲しければ、経済力を身につけておけばいいでしょう。ただし、人間関係スキルは、大事なサバイバルスキルなので、持っていない人はそもそも子どもを産んで育てることは難しくなると、予測できたほうがいいです←自分のことらしい(爆)。

誰がどんなゴールを持ってもいいではないですか・・・。あなたの娘でもないし、孫娘でもないし、姪っこでもない。それよりも、あなたの息子や孫や甥っこたちが、女性を粗末に扱わないよう、ジェントルマン教育をしたほうがいいです。まぁ、男性を粗末に扱う女性を避けて通ることは、しっかり教えてください(笑)。

多様なゴールを持っていれば、女性は「躓き感」に苛まれて生きないで済むように思えるのです。私ですか?躓き感は体験したことがありますが、それはひとえに、ヒトという動物として、時間を無為に過ごしすぎてサバイバルチャンスを減らしたときに起きます←それくらいは分析しているらしい(笑)。病気で3年ほど無為に過ごしたように思えたとき、渦中に居るときにはそう思って焦っていましたねぇ・・・。今ではいいレッスンだった、生き延びることができてよかった、と、感謝の気持ちでいっぱいですが。

 

たけしの日本教育白書

10/24/2007にアップした文章です。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%91%E3%81%97%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%95%99%E8%82%B2%E7%99%BD%E6%9B%B8

どうして、先んじてやるのか?予習目的なのだった(笑)。私のクラスの生徒さんには、予習は一切課さないのです。なぜならば、数年や10数年前に一度学んだことに関して、「どのくらい記憶しているか?」という苦痛を、家で、しかもひとりでやってほしくはないのです。学んだ直後に練習問題を解くのに比べて、倍以上は時間が掛かるので、学校や仕事に支障が出て、やる気が半減します。私が教えたあとにも問題が解けないようであれば、私の落ち度なので、そうしてもらっています。ただし、放任ちっくな香りがするので、翌週などに質問が出ないことをそうそう歓んでもおられず(爆)。

ところが、今回の私はあえて予習をするわけです。なぜならば、数年前のことでもなく、日々格闘しているはずの事柄なので、有言実行を宣言し、さらにおもしろく番組を見るにはいいわけです。うん、土曜日の仕事が8時まであるので、たぶん全部は見られないのだけれども、まぁ、戻ってから見る予定。

責任:(1)自分が引き受けて行わなければならない任務。義務。(2)自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。(3)〔法〕 法律上の不利益または制裁を負わされること。狭義では、違法な行為をした者に対する法的な制裁。民事責任と刑事責任とがある。
任務:課せられた仕事。果たすべきつとめ。
義務:(1)人が人として、あるいは立場上、身分上当然しなければならないこと。責務。(2)〔哲・倫〕〔duty〕道徳的な必然性をもつ原理によって人が課せられる、ある行為をなすべし、またはなすべからずとする強制・拘束。(3)法律が人に課す拘束。あることをせよとする作為義務と、してはならないとする不作為義務がある。
償い:つぐなうこと。また、そのための金銭・財物など。
償う:(1)埋め合わせをする。特に、弁償する。(2)罪やあやまちの埋め合わせをする。

明確にしておかねばならぬ日本語って、思ったより多いよな、と、大人になってからも思うので、子どもたちはきっとさらに混乱なんだろね・・・。実際、英語を教えていて、日本語の意味が「共通の定義」になっていないものが、どれだけ多いかというのを実感している日々です。前々から私は辞書の意味をここで明記しておくことにしています。本来であれば、自分が調べるほうがずっと身につくのは当然なのですが、私のための私の考え方を披露するので、それに沿うんだよ、という宣言を態度として示していることになっているので、我慢してくださいませ。

『嘘は本当に方便なのか?』にも書きましたが、嘘は子ども時代に学びます。その学びが徹底されれば嘘はつきにくくなったり、つく対象や人々を選り分けたりすることになるのです。嘘がない環境などというものは、バブルや無菌室に住んでいるわけでもないので維持し続けることはできず、いつか目撃したり、トライしてみて通用したり、加減学習ができて、嘘をつくことは「当たり前」と受け止める人間ができあがるわけですね。

同様に責任も同じはずなのですが、実際は「子どもはできる限り子ども時代をエンジョイしたほうがいい」というのを、周囲にいる大人が強く支持する場合、子どもに義務を与える量や質にばらつきが出ます。ここに嘘がコンバインされていくと、「やったよ」と監視されていなければ嘘をつける・・・。けっこう怖い構図なのです。子どもに課せられる責任を伴う行動とは何か?ということすらわからない人はいるのかもしれない・・・。

共同で使用している歯磨き粉のチューブをしっかり閉めることなども責任の端緒だし、食卓の食器を洗い場まで下げることなども、実際は「割らない・効率よく下げる・人の邪魔をしない・食べている人に気を使う」などなど、いろいろなことを学ぶ責任が伴う課題(Task)です。家庭では、「お手伝い」という名目でいろいろなことをだんだんしていくように躾けたり、教育したりするのでしょう。

私の場合は、「子どもの仕事」として、「仕事が終わらない場合はメシ抜き」だとか「学校に通えない」という罰があったので、やらざるを得ず、責任は当時から重くのしかかってきていたようです。貧乏でよかったと思うのは、両親は教育をするつもりじゃーなかったのだけれども、結果的に教育になっていたということ(爆)。

ここで英語の助動詞がいい説明になるのですが、
・ have to
・ should
・ must
どれも義務ややらなくちゃを表現することなのです。ところが、日本の文法の教科書はこの違いについて、明確には教えておらず、ひどいところでは「同じ」としています。ところがぎっちょん・・・。

・ have to;自らが認知して自らがやらねばと決めた事柄がある場合に使う。責任の取り方は、個々人に掛かってくるものです。
・ should:モラル・道義・生物学的なことに関与する「せねば」「すべき」で、個体差が多いもの。では、なぜhave toと分けるかというと、家のルールや、クラスルール、学校ルールなど、法律で定められていないにしろ、明文化されないものに関してはこれを使うわけです。日本文化を保っている家元などはかなり多くの人に使えますよ、これ。責任の取り方は、追放だったり、罰だったりします。小社会が決めたものですね。
・ must;法的で定められていることや、不可逆性の強いものについて使う。人殺しをしてはいけないなど、法律や条例に盛り込まれていることが多い。責任の取り方は最も明確で重い。

この3つの差異がわかっていれば、教育白書の内容がどうであれ、『責任の取り方』というのは、おもしろく見られるかもしれません。日本では、「すべき」「しなくちゃいけない」という言い方を、十把ひとからげにしているところがあり、なかなか問題の本質が見えてこないかもしれないです。そのあと、どの程度の責任を取るか、どんな取り方がもっともフィットするのか?など、派生していく基本的な視点です。ある家やある小社会のshouldがmust, have toとは違うことは、この世には山ほどあります。それをわかっていないで論じることは、かなり無理がある・・・。それが視野が狭いということに繋がり、生かされているという謙虚さからほどと遠い日常的態度になるのやもしれません。

とりあえず、土曜日が楽しみである♪