貧しい人を本当に助けることとは?

2008-11-14 にアップした文章です。

 

寄付にも歴史がありますが、実際に本当に「寄付を必要としている人々」に届いているのか?という制度については、かなりグレーなままで続いてきています。21世紀になってから、NPOが次々と設立されるようになり、本当に必要な人に届けたい人々が、その意志をシステム利用して具現化しようとしています。貧しい人々を本当に助けることとは、一体どういうことなのでしょうか?

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%84%E4%BB%98 >寄付についての概念と、その粗めの歴史が書いてあります。

 

かく言う私も、24時間テレビに絡めてこの件についてはすでに書いたのですが、めったな団体には寄付はしないですし、寄付まがいのことは、日々の生活の中に取り入れたもので充分だと思っています。それは、私に莫大な備蓄や預金がないからですが、防衛本能とも言うべき、クリアでないものに関する疑い深い気持ちが大きいせいなのでしょう。

 

校長センセがコメント欄で書いてくださったように、本当に貧しい人々の役に立っていない感じ、というのは否めず・・・。

 

そもそも、NPOをやっていらっしゃったり、やろうとしていらっしゃる方々は、善意の人々が9割以上なのでしょうが、どこにでも腐ったみかんというのは実在するので、それが露見すると、一般人はどうしても疑ってしまうことになります。残念な現象なのですが、私も同じなのですよね・・・。とはいえ、懲りない私は、今、NPOを何とか実現しようとしているわけなのですが・・・。その動機が、親友のDouglasのご両親が経営している病院であれば、その使い道がかなりクリアだということや、自分が関わった限りは、日本の会計もしっかりクリアになるということ。とはいえ、NPOの濫立というのは、オススメできることではないのですが・・・。

 

私も本当に貧しい人間のひとりだったのです。この前も、ちょっといろいろと話しているときに、「高校生のときには、ブラジャーが2枚しかなく、1枚を洗い忘れたときには、濡れたままつけなければならず、それがひんやり冷たく冬は最悪だった・・・」という話をしたときに、なんだか胸のあたりが本当に寒くなってしまったのには、苦笑してしまいました。1000円ほどのブラジャーが買えなかったんですよねぇ・・・。

 

ひとつ思うのは、貧しい人間が貧しさの悪循環からなかなか抜けられないのは、お金の使い方が愚かしいままでいるからなのです。私の母は、当時は「月賦」と呼ばれていたのですが、ミシンや冷蔵庫やエアコンなど、月賦で買ってしまいましたし、その相談というものをだんなである父にまったくしなかったのです。父は多少の経済観念があったので、反対されることがわかっており、それでも生活をまともに廻していくためには、彼女としては必要だと思っていたせいです。

 

なぜ、貯まってから買うということができなかったのか?と、今考えると、アレが「割高」な買い物をさせられていると思えなかった、悪循環だったように思えます。今も、ちょっとした稼ぎがあれば、消費者金融などで気軽にお金が借りられるようになっているので、そうした悪循環に嵌まっている人はかなり居るのだろうな、と思います。たまにニュースで借金苦などについて、やっていますもんねぇ。

 

アフリカなどの発展途上国では、それが原因ではないのですが、先進国の貧しさ悪循環の中にはそれがあるんだろうな、と思うのです。

 

私がアメリカの大学の町、BerkeleyのHomeless Shelterの前に並んでいる人たちを見てびっくりしたのは、ほぼ8割の人がホームレスに見えなかったこと。私より高そうな、NikeのT-shirtsを着ていたり、Reebokのスニーカーを履いていたり・・・。安価で買えるところを知っているのであれば、ぜひ教えてほしかったほど(笑)。モデルチェンジをしたり、新製品が出たあとの値崩れモノだとは思うのですが、それでも身なりはそれほど衛生的に汚くもなく、ホームレスに見えるような着こなしでもなく、印象としてはさほど貧乏とは思えなかったので、びっくりした記憶が強いのです。

 

日本の炊き出しなどで見るような、アメリカのSoup Kitchenなどで見るような、貧しくてひもじい感じというのは、今は先進国ではレアものなのかもしれません。小説などにも出てきますし、映画などでもそういったシーンがありますが、ホームレスになってもホームレスなりの仁義やルールや賢さがあれば、生き延びていくことはできるわけです。賞味期限がついているお弁当を出している場所を知ることや(廃棄処分になるので)、暖が取れたり、ひんやりしている場所を見つける知恵があれば、悪循環から逃れずとも、生き延びていければ、というところで立ち止まってしまうのでしょう。

 

そうした意味では、ナニが貧しい人々を悪循環から助けるのか?と考えると、かなり難しくて煩雑な問題になってくるわけです。

 

私が貧しさを超えたのは、なぜか依怙地に「学校を続けよう」と思ったから以外に、ちょっと考え付くことがありません。手に職をつける、というのは、父にすでに呪いのように言われていたことだったのですが、手ではなく、頭に職をつけるというほうがいいのだろう、と思ったんでしょうね。手に職のヘリコプターのパイロットは、頭もちょっと必要だったし、私の視力では英語が必要だった(笑)。

 

でも、長い意味で安定した貧しさからの脱出を図るには、やはり教育だと思えるわけです。健康の次に、教育。それが実現できなければ、NPOであっても、政府が関与しても、たいした成果は上がらない。情熱やお金があっても、時間や手段があまりないゆとりがある人々は、そこを見て、寄付するのがよいと思えます。長い目で見た救済をしない団体には、寄付しないほうがいいです。まだまだこの「健康」だけで終わっているところがたくさんありますが、実際は、教育までを視野に入れた長いプログラムが必要ではないか?と思うのです。とはいえ、私が教える仕事をしている正当化のように聴こえたら恐縮です。

 

昨日は、東大生のレッスンをしたのですが、素地がある場合にはレッスンの時間がとても短いので、準備していたものの倍の内容がこなせました。まず、ノートを取るのが速い!さらに質問が的確である!私は、中学レベルを把握していない人をかなりたくさん教えているのですが(むしろ日本の英語教育の弊害で、そういう方々のほうが人口として圧倒的に多い)、そういう方々というのは、やはり勉強法を開拓していないように思えるわけです。

 

だとしたら、やはり貧しい人々を本当に助けるには、教育で、その教育の中の中心や基礎になるものを提供していくのが、人類の同胞を助けるための真意であると思っています。確かに、とっかかりとしては、飢えを凌いだり、健康を維持することのほうが急務なのでしょうが、それが叶ったときに、次はナニを?では、ちょっと遅いし、視野が狭いでしょう。自力でできる人は少ないですから、そうした支えを提供するのが、人類のこれまでの英知をフルに活用していくことと考えています。

人生の起伏グラフ

2008-11-08 

 

私が躁鬱病をアメリカで認定してもらったのは、設問をたくさん(もちろん英語で)応えたあと、人生の起伏グラフを書いたあとでした。それでも、「100%決定」はなく、MRIに必要があれば将来入りましょうということになったのです。とはいえ、その後、入ることになったのですが・・・。いわゆるバイオリズムの人生バージョンなのですが、実際のところ、それを頭の中にグラフとして持っている人というのは、かなり少ないのだなぁ、と、私はここのところ、自宅レッスンをしてきて思います。人生そのものを聞いているわけではないのですが、英語の勉強の歴史を聞いているときに、たまにボソッと人生のイベントが語られるのですね。そこで気づいてほしいのは、人生がLower Pointsにあるときには、勉強だって捗ってはいないはず・・・、ということなのですが。

 

フツーの折れ線グラフでいいんですね。そこに分野をくっつけてもいいです。勉強・仕事・健康・恋愛・経済状態などに分けてもいいのです。パターンが見えてきたらめっけものなのです。横軸には、年齢を入れて、縦軸にはその指数を入れる(100にするのがたぶんイチバン簡単で、100以上になることもあるとは思う。それくらい夢見心地な時期はあったほうがいいですもんね。あとは、ゼロ以下になることもあると思うので、マイナス値の幅も作っておくといいです)。でも、こうして書いてもイメージが湧かないだろう(笑)。

 

私の場合は、躁鬱病の症状が出る時期というのは、見事に人生のイベントやその調子に左右されており、納得がかなり行ったことを憶えています。そのときに、こんな指数表のようなものを、どうして中学か高校のときに教わらなかったのだろう?と、失った時間について、ものすごく腹立たしかったのですね。たぶん、強運の持ち主や鈍感すぎる人ではない限り、この人生起伏グラフは、たいていの人に役立つはずです。

 

http://www.healthyplace.com//communities/Bipolar/mood_chart_blank.pdf *現在リンクが切れています

これには、体重もあるんですよねぇ。躁鬱病の人は幾人かの例外を除いて、みなぽっちゃりしているのです。しかも寝る時間がとても大切なのですね。寝ていないとやっていけないのが、躁鬱病の躁寄りの人。私がソレです。

http://www.healthyplace.com//communities/Bipolar/mood_chart_example.pdf *現在リンクが切れています

これが出来上がりのチャートで、×をなぞっていくと折れ線グラフのような形になる、というわけ。

 

これは英語でのBipolar(躁鬱病)の本格的な表なのですが、Daily(日毎)になっています。これほど細かくやる必要は、疾病ではない人には必要ありません。が、アイディアは取り入れると、自分のムードが全体的に見えてきます。このDailyをYearlyに変えてやってみるか、ゆとりがある人は、Monthlyくらいまでやってみるのがいいかもしれません。数値化してみます。理想は、順番としては「人生全体のムードの起伏」→「この頃のMonthlyのムードの起伏」。健常者はここまでで大丈夫です。

 

なんとなく見えてきた方は、作ってみませんか?簡易なものから始めて、それがうまく作用するようであれば、細かくしていけばいいだけ。そこにイベントもちゃんと入れてください。渡米やら、異動やら、結婚やら出産やらその他。そうすると、バイオリズムという、天候や時間のような自然界に左右されているものの他、環境要因の中でも、自分にコントロールがある分野が見えてきます。

 

表を書き終わったところで、第二検討を始めます。

ムードの高いときと低いときに、

・         自分にコントロールがあったかなかったか。

・         決断のチョイスの数が多かったか少なかったか。

・         好き嫌いや志向性と合致していたか。

など、昨日も書いた

・         性格とのバランス

・         適性とのバランス

・         人間関係とのバランス

を振り返ってみるのです。私の場合は、性格や適性が破綻してしまうまで、人に合わせようとすることで、ほとんど、躁鬱の症状が出てしまうことが露見し、渡米してからは凪いでいたことも鑑みると、その表を作ったことは、本当によかったです。その後、自分でコントロールができることが増えましたし、決断のチョイスの数を増やして、深く検討したあとに選び取る癖ができました。そして、日々おつきあいする人たちと、どのように、どの深さで、どんな頻度でおつきあいするか?を選び取っていくことができるようになりました。

 

それまで、無意識のうちに強制されていた環境要因が、実際のところは、自分で「他人のせいにしてはいても」選び取っていたことに気づかされた次第です。

 

私は投薬療法は制限つきでしか容認しないようにしており、このような行動療法やら、分析をしてきて、今も、投薬せずともフツーには生きています。セラピーや認知の改造に必要なだけの脳のバランスだけを保てるようするために、たまには投薬もあってもいい、程度。習慣化するような投薬は、依存症を作りかねなく、医師でも化学者でもない素人に至っては、自分の身体を他人に任せていいとは思えず、その人の思想や利益や不利益などを考えて判断することが大切です。

 

私の叔母の人工透析まで至った理由は、やはり若い頃の腎臓病の投薬の副作用から、というのがあるし、私自身もアル中や喫煙は止められないこともあり、投薬で身体で最も大切な脳をやられるのは、イヤだよな・・・といつも思っています。

 

そのせいで、この人生の起伏グラフはかなり大切で、毎日コレに固執しているわけではないのですが、今でも誕生日あたりにはやっていますし、ちょっとまずいな、と思うと細かいのをつけてみます。日本に戻ってきたばかりのときには、かなり活用できた(笑)。

 

幸せすぎてもストレスになったり、ムードスウィングが起きたりするような、自分のリズムに気づけたら、もうそれほどチャート化する必要はありません。ただただ意識して日々に取り入れていけばいいだけです。ただ、慢心しないためにも、自分で自分をモニターするために、この程度のスキルは持っていても損ではないです。

 

ちょっとシリアスになりすぎただろうか?(笑)いやいや、仕事が忙しすぎて、自分のムードがわからない人がたくさん出てきている昨今、それほどシリアスすぎる問題でもないのかなぁと思うのです。気づいたら隣人がゾンビになっている・・・というのは、心当たりはあるのかもしれないですもの。私の生徒さんでも、「しばらく来ないなぁ・・・」と思っていると、「残業100時間ありました」と笑って復活する場合はいいのですが、さっぱり姿を表さないまま、未だに再会できない人も複数います。そんなとき、「連絡先だけでももらっておけばよかったなぁ・・・」と大反省するのでした。

 

せめて、自分のムードくらいはいつも把握していていただきたいなぁというのが、切実な願いです。

 

成果主義を否定するか?

2008-11-07にアップした文章です。

昨今、心の時代ではなくなり、成果主義がどんどん進んだために、ビジネスマンの環境が悪くなり、心の病気にかかる人が劇的に増えたと言われています。私は優秀な人間ではなかったし、アメリカに行ってから自分にも優秀なところがあるということがわかったので、きっと日本に居残り続けていたら、西友のレジ打ち(このたとえをしょっちゅう使うのは、家の近くに西友があるからなんですけどもね・・・)をやりながらも、そこそこ生活はしていたに違いありません。けれども、もっと忙しかっただろうし、もっとやりがいはなかっただろうし、とも思うと、やはり職業というのは、1に糧となりえる。2に適性。3にやりがい、なんだろうという順番に、今のところは落ち着いています。実は、産業カウンセラー講座でいっしょだったクラスメイトと裏メールで相談をしており、次はキャリアカウンセラーの資格を取ろうとしているようなところで←懲りない(爆)。

 

私の性格は、実際のところとてもクールで、とても合理的なので、成果主義はまったく嫌いではないのです。成果が上がらなければお前は人間ではないっ!などと叫ばないにしろ、成果がないモノごとについて、かなり冷静に寛大でいられるのか?と問われると、2度くらいまでは大丈夫かもしれないが、あまりに続くとうんざりするかもしれない・・・と応えるしかないような・・・。

 

それを考えると、私は鬼のような上司へと化していくに違いないとも思い、会社勤めをしなくてよかった理由は、どんどん増えていくのね・・・(笑)。

 

成果:なしとげた結果。できあがったよい結果。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E6%9E%9C%E4%B8%BB%E7%BE%A9>考え方がごっちゃになっていると思うので、これを読んでおいたほうがいいと思える内容。能力主義とは違うし、結果主義とも違うことなど、ちゃんと言えるだろうか?をチェック。

 

成果主義における利点と欠点についても挙げられています。数の差がすごいですよ(笑)。

<利点>

  1.     評価の公平性
  2.     労働意欲の向上
  3.     経営合理化の推進

<欠点>

  1.     人件費のパイの固定
  2.     過程の軽視
  3.     成果測定の問題

-本人以外の要因

-指標設定

-目標の短期化

-目標の矮小化

  1.     個人主義の蔓延
  2.     若年層の保守・安定志向
  3.     運用上の問題
  4.     文化上の摩擦
  5.     社内風土の荒廃
  6.     リスク要因の増加

 

どうやら、マイナス面のほうが多いらしいのだけれども、どれをどのように問題ではなくしていくか?という方向性は、いろいろな業界や会社でも検討されてはいるようだけれども、それこそ成果は上がっていないのか?(笑)私は、そもそも自分の性格・適性・やりがいにマッチしているのは、成果を追い求めて、その間のプロセスもいっしょに楽しもう!ということなので、特に、このマイナス部分のところで超えられないものはないと思っています。小さい規模でやればいいのだし、コミュニケーションスキルを重視すればよいのだし、文化的には英語を学ぶ場所なので、まぁ、なんとか乗り越えられる態度はしっかり維持できると思います。が、もちろん他人事だとは思っていませんよ。

 

私が、産業カウンセラーは大きく伸びる分野だろうと思ったのは、以下の問題点がクロースアップできるから・・・。

成果主義では個人に掛かる負担と責任が大きくなる。そのため、従業員の残業や自宅作業が増加するなど、従業員の労働管理が難しくなる。一方で実績や評価が得られていない場合や不当に低いと感じた場合、これに絶望する者が出る場合もある。そのため、企業にとっても従業員の過労死・自殺・鬱病・職場放棄・成人病増加などの潜在的なリスク要因が増加する事がある。

 

ネットワークや逃げ場所や相談場所さえあれば、死ななくてもよかった人というのは、確実に存在しますし、過労になった時点での「労災」を使うことを職場で奨励すれば、しっかり治るまでの措置を取れる場合も存在します。

 

が、私の生徒さんにも「データ入力の負荷がかかりすぎて腱鞘炎」になった人がいるのですが、「辞めると決めてからでないと、労災申請はできない」と躊躇している文化ってどうなのでしょう?当然の権利だと私などには思われるのですが、職場に楯突いてしまったあと、のうのうとおめおめと給料をもらい続けてい続けられない、という雰囲気に追い込まれるのだそうな・・・。信じがたい・・・(汗)。その話を複数の人に話したのですが、「労災請求しちゃえ!」とバンバン奨めるのは私だけなようで、「フツー、居づらいよね・・・」というのが大半でした。

 

そんなこともあり・・・・。環境からの脱出を図りたい人もたくさん増えるであろうから、その次に来る私の取りたい資格は、キャリアカウンセラーなのです。こう書いていると、まるで私は自己満足やら自己利益追求の権化のようですが、実際そうではないことは、校長センセであればご理解いただけているのではないかと甘えてしまいます(笑)。何も、ひとりの人が、ここだと決めた場所に、「自分としては最大限の努力」をしたあと、病気になったり、死にそうになるまで縛られる必要などないと思います。人生設計が大いに妨げられることについて我慢せねばならぬ義理なども、そこにはないと思うのです。だから、キャリアを変える・職場を変える、というのは大いにありでしょう。

 

私は、やっぱり成果主義は否定しないなぁ・・・。それができる人かできない人なのか、会社を選ぶ時点で、リサーチ不足という気がしないでもないです。でも、日本文化をずっと残していき、それでも経済成長(あるいは維持)ができれば、私にとっては特にどんな主義でもいいですが、死人や不幸な人は出さないでもらいたいというのが、最低限の望みです。

上手くなくても気持ちが伝わる話し方って?

第一は、必ず目を見て話すこと、です。吸い寄せられるような気持ちで、ぐーんと見つめてしまってください。気があるナシに関係なく、目を見て話すことは、誠意・注意が向いているなど、いいことをたくさん表します。

 

他にも日本人があまり気にしていないことがいくつかあります。

 

自信がないことから、なぜか声のボリュームが下がります(笑)。そういう方の傾向としては、日本語でも自分に自信がない内容や苦手な相手・うんと尊敬している相手などと話すときには、自然とボリュームが一段か二段下がっているので、ご自分のことも観察してみて気づいてください。英語になると、というときだけの方もいらっしゃいますが、その自信はどうやって培っていけばいいのか?というのは、英会話スクールに行くよりは、英語の力を全体的に伸ばすことのほうがずっと有効です。

 

もしも、TOEICで900点以上持っていても、上手じゃないので話せない、という方であっても、Precious One English Schoolで英語基礎コースを学んでみると、いろいろ抜け落ちていたことがわかります。統合的に、本当の意味での The second laguageになるまで学んでみると、生涯使えるようになっていきます。

 

これらに伴い、姿勢や身体の向きも大切なことに気づいてみてください。上手ではなくてもしっかり聴いてもらうためには、誠意を見せることが大切ですし、伝えたい!という気持ちを受け止めてもらうことが重要です。

 

前かがみになっていないか、うなだれていないか、180°の位置で顔と身体を相手に向けて入るかなど、気を付けてみてください。

 

さらに距離感です。Proximityと呼ぶのですが、日本人の距離感は、満員電車であんなにもStrangers:見知らぬ他人とくっつくことに抵抗感がさほどないのに、今後ビジネスをしようとする人にも一定の距離を置きます。

 

Break the ice:話の口火を切る、場を和やかにする

 

ためには、最初に握手をしてしまって物理的な距離を一気に縮めるという方法があります。私はHug魔なので、知り合いに逢ったり、メールで充分に知り合った方には、初対面であってもHugをしてしまいます(笑)。

 

挨拶後すぐに相手の今日の身だしなみや健康状態を褒めることによって、効果を発揮します。顔色がいいね、日本が性に合っているみたいで生き生きしている、天気のせいか気持ちが軽いよね、いいネクタイだ、誰の趣味?など、いろいろと話せることはあります。

 

とはいえ、お知り合いや友人、ましてや奥様やだんなさまの髪型が変わってもわからない、という方には、けっこうハードルが高いかもしれませんね。(・・;)

 

伝わっていないかも、と不安であれば、Gestureはしてください。全身を使って伝えたいことがあるんだな、というのが伝わります。その際、相手がどの程度日本の慣習やジェスチャーを知っているか不安ですよね。なので、少し学んでおきましょう。

 

手のジェスチャー

Gestures around the world

5 common American Gestures

English language genstures

 

こんなのを見ておけば、だいたい違いがわかります。

 

褒めることがたくさんあるのが英語です。なんでこんなに褒めてくれるの??と話ができるようになるとわかってくると思います。真似してください。日本語でも1日1回は、誰かを褒めて練習してください。<(_ _)>



黒人新大統領誕生

2008-11-06にアップした文章です。

特に書きたいトピックではないのですが、時節柄、このブログには記録の役割もあるので、手をつけておかねばならぬ、と自分を叱咤しています。政治的なことにまったく興味はないのですが、すべては繋がっており、いくばくかの影響を受けつつ、相対的にされたくはないがされてしまうことなども含めて、やはり多少は考えておきたいところ・・・。アメリカにもしも私がまだ住んでいたら、どういったシニカルさを呈していたのか。あるいは、もしかすると熱狂側に少しだけ寄っていたかもしれません。穿った見方をすれば、8年のRepublicの政権後、やはりDemocratに移るのが自然だったために、この黒人 vs. 女性大統領選出レースは、過渡期として、かなり盛り上がったのだろう、というショービズ的な見方も、まだまだ捨てきれず・・・(汗)。うーん、私ってやっぱりイヤなやつだなぁ(笑)。

 

正直なところ、私は黒人大統領にまだ喜べていません。みんなといっしょになって歓べばいいのでしょうが、以前のブログで書いた通り、「育ちから来るメンタリティ」の面で、Obama氏が純然たる黒人ではないことが、この「過渡期」にあまりにマッチしていて、政治的作為が感じられてならぬからです。

 

ここのところ、Mitch Rappシリーズも読み終わり、その前のTom ClancyのDr. Ryanシリーズも読んでいるせいなのか、政治的な動きに関しては、どうしても穿った見方ばかりしてしまう傾向にあります。だからおもしろい、という一面がある中、やはりなべての人々が幸せになるような方向に、世の中が向っていくのか?を問うてみると、パワーゲームの延長戦に過ぎない、というのが私の中途結論です。それによって振り回されるSmall Peopleの一員である私は、どうしても手放しで喜べないというのが正気なところ。

 

私はもう少し、Republicの勢いや、国防に対する考え方や保守性というのは、まだまだアメリカに残っており、この年期をまた4年待って、その次に黒人か女性か、という大統領レースが繰り広げられる可能性のほうが高いのか?と考えていました。ところが、Republicが選出した人選ミスにより、こんなことになってしまっているので、ベストな選出と言えないところが、どうも引っ掛っているところなのでしょう。

 

アメリカがアメリカたる存在意義とその役割を担うには、混血であるObama氏がよかったのだ、という考え方は当然あって然りですが、私の中では、Native Americans(いわゆるインディアンという名称で呼ばれていた人々)やBlack Americans(黒人)に対しての、「これからもアメリカを強く強く信じていける」という明るい気持ちになるためには、純然たる黒人が大統領になってほしかった、というのが、私のYellow Monkeyとしての気持ちです。今の時代を生き抜いているBlack Americansの方々の楯としては、「混血の大統領が出ることそのものが、アメリカがアメリカたる拠り所」という、かなり立派な言い分が立つのでしょうが、私はコレは妥協案であり、政治的な作為が感じられて潔さが欠損しているものだと思えます。ふたりめの黒人大統領がハーフだったり、クォーターだったりすることで、そのシナリオがより完璧な形で完成したように思えるわけです。

 

まぁ、歴史のことをとやかく言っても、「たら・れば」の世界なので(英語でいうところのIfという仮定形)しょーもないのですが・・・(汗)。

 

そして、私は女性なので、やはり女性大統領誕生に、精神的に肩入れしてきたところがあり、「どちらでもいいよね。まだどちらも生まれなくてもいいよね。あと4年か8年待つのもありかも」などと言ってきたとはいえ、いざ、黒人大統領というラベルが刷り上ってしまった今、たいへんに残念ではあります。女性だったら、政策はどのように変わったのか?と、またもや妄想してしまうわけですよ(笑)。

 

特に、愛国心がある日本人でもなく、どちらかと言えば、誰かには「非国民!」とののしられてしまいそうな私ではあるのですが、日本にとっても、Obama氏はかなりたいへんな頭首です。外交面の彼のポリシーは、やはり「世界平和への一歩一歩の実現とその建前」に則っており、最近の私は国防に関しては、とことん右翼でやってもらいたいところがあるので、どうも違う気がします。アメリカの国防の傘の中でもがいている日本にとっては、やはりその煽りは大きく、吹きっ晒しに投げ捨てられてしまう現状(建前は別にしても)が、多々生まれてくると思われます。しかも、世界を眺めると、経済恐慌のために、その動きというのは、ささやかな動きが大いなる結果をもたらしてしまうことが懸念されるので、ボタンの掛け違えの余波というのは、想像できかねるようなところにまで行ったら・・・とも思うのです。

 

戦争は一切しない、という建前の下、ナニが実現できるのか?と、この21世紀の過渡期には、甘い理想論がたくさんあって、どうしたものなのかなぁ・・・と。

 

とはいえ、私は政治家でもなければ、今後政治家を志すはずもなく、経済によりそれを支援するつもりもなく、一市民としてできることだけをコツコツやっていき、システムには頼りたくもないと思っているので、コレに関して、ぐちゅくちゅと繰言を言っていても仕方がないので、コレで止めておきます。

 

全般的には盛り上がった明るい気持ちではなく、このあとの4年をどうやってやり過ごしていき、その政権が渡されるときには、どんな状態になっていても、サバイバルできるかどうか?を考えていかねばなぁ、と、かなり厳しい気持ちでいるのは確かです。が、私はRepublicには基本的に賛同しておらず、どちらかといえば、全般的にLiberalなので、Obama氏が選出されて、喜んだほうがいいのですが・・・←ヒトってこうした矛盾の中でずっと生きていくのよね・・・(苦笑)。でも、Susan Sarandonやら、Tim Robins,先日亡くなったPaul Newmanも似たような気持ちでいてくれればいいよなぁ・・・などと、未練にも思っているわけです(笑)。

 

ヒトの夢はこうした段階を経て、取り巻かれている環境の中にあるたくさんの要因によって、その実現性が左右されていくので、理想があくまで理想だとは知りつつも、私はやっぱりLiberalな考え方は捨てませんが、現実的なことを合理的に考えると、やっぱりちょっと暗い気持ちではあります。が、正直なところ、Republicが放ったあのペアにナニができたのか?と問われると、まぁ、大したことが羅列できるわけでもないのですが・・・。

 

日本の政治家も、これはチャンスなのかもしれません。チャンスと捉えられる人たちだけがサバイバルしていくことでしょう。見ていくしかできない小市民としては、楽しめるかどうか?が、今後の課題です。楽しめなくなったら、相当に切羽詰っているってことですものねぇ・・・(汗)。

ひとりで過ごせる人、過ごせない人の違いは?

自治感の違いから来ていると言われ始めました。以前は、内向的 vs. 外向的として捉えられていたのですが、昨今研究が進み、外向的なのにひとりで過ごすのが好き!という傾向が増えてきたことに目を付けたんですね。社会がどんどん複雑化し、ひとりになりたいニーズが増えてきて、家族で過ごすだけがすべてではない!結婚して家庭を持ち子どもを育てるだけが生き方ではない!というのに呼応した研究です。

 

Autonomy:personality trait characterized by a focus on personal achievement, independence, and a preference for solitude, often labeled as an opposite of sociotropy.

個人的な達成感・自立や自律に重きを置き、孤独を好む性格。ソシオトロピーの対として捉えられる。

Sociotropy: a personality trait characterized by excessive investment in interpersonal relationships.

人間関係に過度な重きを置く性格。

 

自治:自律。自己の行動を外部より拘束されず,みずから課した原理によって決定すること。主として人間個人の心理,神経についていわれる。心理学上は善悪が判断でき,善を選べる場合が自律であり,成人期に入ることを意味する。他方,他律は自分で判断できないことであり,幼児期にあることを意味する。 J.ピアジェは,他律から自律にいたる人間の成長段階を設定している。なお,国会の「自律権」にみられるように団体の自治を自律と呼ぶ場合もある。

 

Piaje:ピアジェが出てきてしまったので解説すると、発達心理学を大まかに理解すると、Erikson:エリクソンも3-6歳くらいで「自治感 vs. 罪悪感」のハザマで目的意識を学ぶとしています。

 

問いに答えると、ひとりで過ごせる人は、このAutonomyの高い・強い人。過ごせない人は低い・弱い人、と言い換えることができます。

 

Autonomyの高い人の傾向は;

  • 深く考えることが好き→ 自分に関することと繋げることができる
  • 成功をイメージすることが好き→ 自分が成功するための計画・イメージ・段取り・具体例など、さまざまなことを考えることが好き
  • 孤独をネガティブなこととは捉えていない→ むしろ必要で楽しいことだと受け止めている
  • 実際にひとりで過ごすことが好き→ 何かしら自分でいろいろなことをしている。考えることも含まれる

 

Autonomyの低い人の傾向は;

  • 考えを深くすることが怖い・不安・面倒くさい→ 世の中のことを自分に繋げて考えることが苦手
  • 成功よりも失敗を先にイメージしてしまう→ 成功するためのリスク・努力・エネルギーなどを考えると不安になるので、他者といっしょにやりたいと考える
  • 孤独でいることはさみしいことと捉えている→ 人気がない・好かれていない・どう思われているのか不安、など誘ってもらえないことにあれこれ思い悩んだりする
  • ひとりで過ごす時間が嫌い→ どうしてもひとりでしかできないことだけは別として、さまざまなことを他者とするのが好き。



以前にも書きましたが、私は子どもの頃、一度も迷子になったことがないのだそうです。なぜならば、ひとりでいること・放置されていることがとても好きだった模様(笑)。仕事で外向的に見えますが、私はとても内向的な傾向がありますが、このAutonomyは高すぎるだろっ!というくらい高いと思います(笑)。

 

たいていの人は真ん中くらいだと思うのですが、さて、どちらにより傾いているでしょうか?あなたはどっち側?

他人のペースと自分のペース

2008-11-04 にアップした文章です。

一昨日はレッスン後に打ち合わせを開始し、泊り込みしてもらったあと、昨日は午後7時すぎまで打ち合わせ続行でした。気が合うからこそ、英語学校設立に向けてがんばっているところなのですが、ペースが違うのは、いかんせん個人がそれぞれユニークで特別だから、という由縁です。そこで、生徒さんそれぞれや、講師に来ていただく先生の話なども出たのですが、やっぱりその人のペースを読むことができる心配りやさらにそれについて気にしないようにするのはたいへんだろうなぁ・・・と思ったところです。私は速いので、いつも待っているような気持ちにさせられるのです。その被害者意識は捨てなければならぬのですが、常勤講師を1年半弱日本でやっても、まだまだなのだなぁ・・・と。

 

昨日は、とりあえず試算表を作りあげたところまで進みました。どのくらいの収支で、どのくらいの経費で、どのくらいの集客で、というようなあらましが青写真として見えてきたところです。それには、もっと練らなければならないことがあるのですが、やってみると、考慮しなければならぬことがたくさんありました。

 

私ひとりでこうしてHPを立ち上げて、ブログやMixiでやるだけであれば、生徒さんとの了解は取り易いのですが、組織になると、その裏にあることをお客様になる生徒さんに理解していただいたり、いっしょに働く人々に理解していただいたりするのは、本当にたいへんなのだ、と、詰めた話をしていて感じたところです。たいへんだとは思ったのだけれども、実際に感じてはいなかったのだろうなぁ・・・。その理解までへの到達時間やら、プロセス段階やら、を考えるために、ひとつ英語を教えているところではあるのですが、英語のセンスのTotalityと、商売という形にしてそれにお金を実際に払っていただくようにするための常識的布石や方法論というものが、けっこうなギャップがあり、私にはかなり欠落しているのかもしれません。

 

今日は、小室哲哉氏が脱税なのか詐欺なのかで逮捕されたり、昨日は八王子自動車学校が破産して生徒さんに怒られていたり、その前にはゲートウェイ21や、その前にはNOVAなどもあり、私も他人からお金を取ることに対して、たいへんに気を引き締めているところではあります。が、共通項はナニか?と考えてみると、前金制度の崩壊が来ているのでしょうね。先に人にお金を出させておいて、実際はそれに見合ったサービスをしっかり還元できない、という穴。自転車操業になりやすくなってしまうのが、やっぱりまずい経営システムなのでしょう。

 

私は、英語学校をやるに当って、入会費用も要らず、前金は「辞めない・投げ出さない」という預金(Deposit)しかいただかず、それも満了時にはすべてお返しし、テキスト代はその人の能力により違いが出るはずなので、いただかないことにしています。が、テキスト代については、校長センセのご指摘の通り、調べてみるといろいろな問題が生じるので、やはり統一テキストというのを、学校で1冊持ったほうがいいことがわかっています。他にドリル用に使うものなどは、実際に問題を解いてみせるときに共用するためのコピーはいいらしいのですが、冊子などにして教科書風に作ってはいけないなど、いろいろな制限があります。その点も考えると、日本の英語教育で教えている間違ったものを訂正した英文法のテキストは作ったほうがいいのだろうという結論に至りました。勉強法についてのテキストと併せて、また考えてみたいと思っているところです。

 

あ、話が脱線したままで戻っていかない(笑)。

 

英語学校に2年以上通う必要がないというのは、その人それぞれにそれまで積み上げてきたものが違うからですが、同じように中学・高校・大学の教養課程2年の3年から8年でこれほど違いが出てしまうことを、実際のところ、生徒さんはあまり意識していません。自分のペースと他人のペースが違うことをあまり意識していないし、それらの「ささやかだけれども重要な違い」については、注目してきておらず、英語学校を選ぶにしても、「グループのほうが格安なので」だとか、「平均的な日本人の英語力」ということで片付けてしまいがちです。でもそこでの見極めというのは、「ささやかだけれども重要な違い」なので、あとあと広がりを見せて大きくなっていくんですねぇ。

 

校長センセにご指摘されている通り、私は法人全般に所属するという行為がすべて苦手なのですが、ペース問題というのが大きいです。文化的雰囲気や、規律や規範などももちろんあるのですが、最終的に最も苦しいのは、他人と自分のペース=スピードが違うことなのです。

 

常勤講師をしていて苦しいのが、グループレッスンで、その中でも誰にスピードを合わせていけばいいのか?というのが、レベルの問題よりも大きいのは確かです。真ん中では、遅い人が苦しすぎて、遅い人に合わせれば不満が大きくなり、真ん中に合わせても不満はまだマシな程度。TOEICなどで、時間を刻んでストップウォッチを使って「この時間内に解く」というようなレッスンのつくりがあるものに対して、それができなければ「切捨て」というのでは、あまり効果が顕れてこないのです。さらに、時間の括りがないものに関してはもっと出てきてしまい、咀嚼スピードがあまりに違いすぎるのが、グループの弱点なのだろうと思います。

 

速い私は遅い人に合わせられるか?と問われると、かなり自信がないです。私が横でページを音を立てずにめくっていくのができても、きっと視野に入っていればそれが脅威になっているに違いないし、マウスやキーボードの音を鎮めるわけにもいきませんし。自分のスピードを遅くするので、最大限に時間と情熱をかけたのが、食べる時間なのです。ウェイトレスをやっていたせいなのか、24歳半まで、私は食べるのがものすごく速かった。けれども、肉体労働をしていたのでそれほど太ることもなく、アメリカに行ってものすごく太った(笑)。まぁ、バターとマーガリンの値段が劇的に違わないことや、豚肉のほうが牛肉より割高・価値基準の違いがあったりすることが原因でもあるのですが・・・(汗)。遅く食べるようになるまでに、1年くらいは軽くかかりましたからねぇ・・・。

 

西さんがいい例で、ウォーキングやハイキングやバックパッキングなどで、私を待つことができません(笑)。彼としては最初は気をつけているのですが、視野に入らなければまったく気にしてくれない(笑)。

 

こうした日々の例を考えると、「何もしないでただそこに居る」という状態ができることが、私にはとても苦痛なので、法人に向かないし、学校で講義状態で学ぶことにはどうも慣れることができないようです。タスクがあって、毎秒何かをやらされるのであれば、学校でも大丈夫だし、会社でも大丈夫なんでしょうけれども・・・。

 

そういったことを考慮して考えても、教えている私は他人のスピードにプロですから合わせることができます。が、どの進度でやっていけばいいのか?という見極めは、個人レッスンでないとなかなか難しい・・・。こうした悲劇を招いて、言えない人は脱落していくのが、英語学習の落とし穴ではあるんだろうな、という気がします。

 

が、いつも他人のペースに注目していこうという心がけはあるので、きっと改善されて救われていくでしょう・・・←相変わらず楽天的ではある(笑)。

脱被雇用者

2008-11-03 にアップした文章です。

日本でもベンチャー意識が高まってきてから、かなりの時間が経っています。私も辞表を出してしまってから、無事、最終日の設定がなされました。11月15日には土曜日のレッスンがすべて終了し、そのあと先生が見つからないので、18・25日の火曜日のレッスンだけは責任を以って行うというもの。これでおしまい、と私はかなりすっきりした気持ちなのですが、残された生徒さんにとっては、理不尽さが消えないのでしょう・・・。その償いが、自分の英語学校の宣伝をすることかもしれず、とはいえ、おおっぴらにはできず、さりげなくURLなどを教えたり、Mixiのコミュニティの招待状のためのメールアドレスをゲットしたり、というささやかで、グレーゾーンをさまよっています(笑)。

 

あまりに忙しくなってしまったので、産業カウンセラー講座の15章あるうちのまとめをいくつか、例としてクラスメイトに配るはずだったのですが、それも延期になって後手後手になっており、たいへんな反省なのです。が、いかんせん時間が足りない・・・。が、私の頭が機能するためには、睡眠時間はそんなに削れない・・・。知らないあいだに、かなりの生徒数が集まり、最初の1レッスンは無料なので、ただいま無料奉仕の真っ最中なのですが、それはそれでとても楽しいプロセスの幕開けなので、とても楽しくやっているのでした。常勤の英語学校に通うだけでも、前後で2時間ほどのロスがあるので、自宅レッスンを1個こなせてしまうのです。それに実入りが相当に違うので、脱力感というのも大きくなります。

 

そして、私は無事に契約から解放されるための書類にサインをし、返却用のテキストなどをまとめているのですが、実際に関係あるのは、あと1回だけの振込みしかないのだ、と思った現実(笑)。11月20日が〆で、末日に振込みなので、25日分がどうなるのか定かではないのですが、1日分などはかなりどうでもいいハンパな金額なので、まぁ、今度の末日が最後です。

 

これが被雇用者ということなのね・・・と、少しワクワクしているところなのです。まぁ、西さんが設立した会社の社員ではあるので、完全なる被雇用者ではなく、その会社名義で、今度は自宅レッスンの集金をしているのではありますが・・・。しかも西さんは海外にいるので、私が運営しているという自覚が必要になってきました。雇用者も被雇用者もない状態に突入です(笑)。ただ、脱 被雇用者というのはなかなかいい(笑)。気持ちがうーんとラクなんですよねぇ・・・。

 

誰しもがベンチャーをしたり、独立をしてうまくいくわけはないのですが、私の場合は、何度も書いてきた通り、オフィス勤めができる性格でもなく、脳の具合でもなく、やはりコレが最良の選択だと、つくづく思うようになりました。昨日土曜日の生徒さんにも、「雇う側にしたらこんなやつ要らない、という要素ばかりを身につけているよね」と、思いっきり言われてしまいましたし・・・。そこで腹を立てるわけでもなく、事実なのでしょーもないと思うところは、反省の色が足りないのでしょうか?

 

近頃、いろいろな人の将来設計や人生のヨロコビや倖せについてを語っているところを聞く機会が多いのです。それもこれも、英語を使えるようになる、というのが、その一部だったりもするので。大きな一部であることもあれば、小さい場合もありますが、やはり世の中は狭くなっており、英語ができたほうが、その後発展性を持たせた将来設計や、ヨロコビや倖せというのはありそうです。少なくとも、そう考える人は増えているようです。

 

その中でも、社内での仕事分野の拡張や外資に転職するというのを皮切りに、独立するというターゲットを持つ人もかなり多いです。特に女性は、私がニュースなどで見たものを咀嚼したあと考えたように、日本社会の女性雇用のあり方というのを、あまり信用してはおらず、結婚後・子育て中・子育て後などを考えたときに、女性に対しての社会の雇用の制度など、まったくアテにはできないとすら考えているようで・・・。もしも、産休制度が整備されていたらラッキー程度で、オプションがひとつ増えるだけの話なようです。スキルを身につけなければ、高齢化して寿命が延びたあと、自分がしっかり生きていき、子どもの将来も楽しく見ていけないというビジョンがあるようで、そのスキルというものの入り口に英語があるようです。

 

日本社会が女性を被雇用者として扱ってくれる年齢制限は、かなり厳しい。男性では40代の転職もアリですし、分野によっては老後にお誘いをしてくれるところもあります。が、女性でそれは稀なことで、やはり氷山の一角に留まっています。なのに、子育てにしろ、家事にしろ、女性のほうが負担が多いのは事実。しかも、昨今、このように食の安全が不備では、ますます負担は大きいし、少子化のプレッシャーもあって、さらに世知辛いことになっています。

 

履歴書に年齢を書かなくてもいいような時代はいったい来るのだろうか?と、私などは不思議に思うのですが、来るんだろうか?(笑)

 

いいニュースとしては、最近、男親も子育てに参加する人が増えてきたようで、パパが大好きな子どもが増えています。それは本当にいいことで、できたらその延長で、家事もバンバンやってくれればいいのに(笑)。産休を取るくらいの覚悟ができている父親というのは、やはりパーセンテージにすると、ものすごく少ないのでしょう。そんな資料はあるだろうか?http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20060911 これによると、2006年の男性の育児休暇を取る率は、1%ほどしかなかったようです。もっと公な資料はこちら>http://www.mhlw.go.jp/houdou/2006/08/h0809-1/03-09.html うーむ、少ない・・・。やっぱりまだまだなんだなぁ・・・。

 

奥様のほうが収入が多い家などは、もっと使うといいのですが、きっとそれも顕れなのだろうな。奥様の収入のほうが少ないからこそ、女性の育児休暇取得率が高くなるし、身体的負担も鑑みるとこういう結果になってしまうわけで・・・。

 

脱被雇用者になったとしても、次の仕事がないとやっぱり大人はたいへんです・・・。ましてや、子どもを作って20年育てるとなると、本当に計画的でなければ困ります。先が見えないと不安で、子育てにも影響がありますしね。社会の整備がもっと必要なのでしょう。

 

とはいえ、私はそれほど庇護されずともここまでやってこれてしまったので、脱被雇用者のステータスに、ものすごく満足しています♪エクセルでコマ数管理をしているのですが、埋まって色が変わると、うれしくて跳ねたくなりますね(笑)。うひ♪が、停年での脱被雇用者や、女性の脱被雇用者の場合は、不安が大きくてつらいことでしょう。やはりもっとシステムをしっかり定着させない限り、何も変わらないような気がします>でもシステムを変えるには、ものすごい手間と時間とお金がかかるところが難関・・・(汗)。

 

隣人に愛を

2008-11-02にアップした文章です。

やはり知らない人と話をしてはヘンですよねぇ・・・。東京に戻って来てからは、知らない人と話すと、こちらが危ない人に思われるので、極力避けてはいるのですが、どうしても物足りない・・・。それは、私も昨日書いたように、習慣に支配されているからなのでしょう。在米生活に慣れたあと、私はずっと知らない人とも話してきたわけで・・・。安全な環境を確保できている場所では、誰かと会話を交わすというのは、なかなかいい考えだと思うのだけれども、どうも日本ではなかなか浸透しないようで・・・。私ひとりで運動をしていいのは、不買運動(ボイコット)や、ネコを犬化する推進委員会くらいで、全面的にどうこうしても意義はあるのかどうか、ちとわからない・・・。英語は学校化することで少しは浸透すると思うのですが、コレについてはどうなのだろうか?(笑)

 

が、私は駅のホームでも、街中でも、けっこう話しかけられるやつではあります。子どもたちは自由なので、けっこう私に話しかけてくれるのです。あとは、道に迷っている方も私はけっこうターゲットになるようです。まぁ、服装などもあるんでしょうけれども・・・←ほら、かっちりしたスーツを着ているわけでもなく、化粧をカキッとしているわけでもなく、ハイヒールでもないので、ゆるめの人間で時間に焦っているようには見えないという利点(笑)。

 

アメリカに居るときには、はじめ、「私って隙だらけなのか?」とよく思っており、それが全体的な文化なのだと気づくまでに、少し掛かりました(笑)。スーパーに行っても、ガソリンスタンドでも、図書館でも、寮でも、どこでも話しかけられて、それに応える技量(英語の会話力と背景をしっかり掴んだ応答のための知識)がなかったので、けっこうドギマギな日々でした(笑)。が、一旦身についてしまうと、こちらから “Good Morning!” “How’re you doing?” を言わないわけにはいかず、レジの女性の爪がきれいであれば、それを褒め、髪型や色についても尋ね、安いお得なセール品についても答えたり訊いたり、まぁ、世の中はまったく捨てたもんじゃなかったのです。公園でウォーキングをしていても、チワワやロットワイラーやべグやその他、いろいろな子たちの名前を訊けて、そのユニークさに感服したり、次に出会ったときにその子たちの名前を憶えているかどうか?の自分の興味度にも繋がり、まぁ、日々はとても楽しくなったのです。学校でも同じことで、わかったかわからないかのチェックも、隣に偶然座った人に訊くこともできましたし、道を尋ねるなどはフツーに行われており、スーパーでも背の低い人には割りと高かった私は所望の品を取ってさしあげることができたし、卵のいろいろやら、昨今の風潮などを会話できたのです。まったく知らない人に対しても、安全な場所だとみなされている場所では、話しかけることができたんですが、東京はダメらしい・・・。

 

これ、けっこうなストレスなんですよね。隣人に愛を、というのは、隣人から愛をもらえる、という裏返しで、どうしてこんな世の中なのか、ちと不思議になりつつあり・・・。

 

私の住んでいるマンションも、隣は大家さんの息子さん夫婦で、その向こう側が1階で中華料理やを開いている自治会の副理事長さんなので、よく話すのではありますが、いかんせん、顔を合わせる回数は少ない。エレベーターで住人に出会う時間帯に、私はあまり利用していないらしく、それほど遭遇しない・・・。しかも水曜日の朝の企業研修に出る朝はちょうど7時頃にここを出るので、調布だと首都圏までそれほどかからないので、ちょっと出社時間には早いようなのです。ほぼ無人で、商店街の通りを歩いている人たちもかなりまばら。電車もそれほど混んでいない・・・。ちょっと洋服が触れる程度が保たれるって感じ。私が行っているのは内幸町なので、神保町まで1本でそのあと3駅なのですが、都営三田線でもやっぱり触れる程度。朝の8時10分までに出社している人たちは、激減なのでしょう。フレックス採用している会社も多いし・・・。

 

そんなわけで、私は知らない人そのものに出遭うことも少ないのですが、歩いている人々に話しかけられるようなこともあまりなく、停まっているときに道を尋ねられる回数はけっこう多い。今、常勤の英語学校には週に3回しか行っていないのですが、プラス朝の企業研修で4往復しか電車には乗らないのですが、それでも週に1回くらいは知らない人に声をかけられます。けっこう多いんじゃないかと思っています。

 

隣人に愛をもらえる瞬間ではあるので、楽しんでいるのですが、もっと話しかけられないかなぁ(笑)。

 

子どもたちはなぜか私の顔が好きです。電車に乗る時間がかなり曖昧で、混雑する時間というのは、その朝だけなのですが、平日の昼や夕方などはけっこう子どもたちも利用しています。ベビーカーごと乗っている赤ちゃんや、その周辺にいるお兄ちゃんやお姉ちゃんたちには、必ずといっていいほど、じーっと見つめられたあと、ちらちら見られることになり、お母様たちがおおらかな感じだと、持っているおもちゃや本を見せてくれます(笑)。そうなると話ができるのですが、そうならない場合のほうがずっと多い・・・。アメリカでは、しょっちゅう話していたんだがなぁ・・・。街中でも同じことで、スーパーなどでお母さんから少し離れてしまって、好き勝手に商品を見ている子どもたちは、なぜか私に質問をしてくるところがかわいい(笑)。「これ、欲しい・・・」と言われると、「おかあさんに置いてかれちゃうよぉ!」とごまかすのですが(笑)。

 

なぜ子どもに話しかけられるのか?は、すぐに目線を下げるところにあるのだろうと思うのですが・・・。そして、目線があったら、上から見るのではなく、同じ目線まで体勢を下げるのですね。なぜそんなことをしちゃうのかって?わからん・・・(爆)。たぶん、私自身、触れ合いたいからなのでしょうねぇ・・・。

 

飲み屋やレストランでも同じことで、まず従業員さんには必ずといっていいほど話しかける(笑)。でないと、「ただの通りすがり」(まるで30年くらい前に流行った『異邦人』という歌の歌詞なのですが・・・)だけで済まされて、エクストラサービスがもらえない。この場合、お通しが欲しいとかそういうことではなく、情報ですね。お鮨やさんであれば、「ナニが活きがいいよ」だとか、レストランであれば「セットでこれが」などということ。気づいているようでも気づいていないことを教えていただけるのであれば、挨拶してちょっとした疑問を聞いてみるのは、とってもいいコミュニケーションだと思うのです。隣人から愛をもらうためだけにやっているのではなく、働いている人たちも働き甲斐があるというもの。私は、英語講師をする前には、ウェイトレスが天職だと思っていたのですが、ウェイトレスだった頃のドキドキ感は、どんなに忙しくても一人ひとりのお客様のニーズに応えられたとき。それには会話は不可欠でしたからねぇ・・・。超能力者ではないので、話していただいたほうがラクだったのです。

 

間違えてアンケート調査のために町に立っていたり、ティッシュを配っている人に話しかけるようなことはないので、ご安心を(笑)。それじゃ、あまりにあやしすぎる・・・(汗)。が、知らない人との会話があると、エクストラの愛で交歓できた気がして、どうもいいのですけれどもねぇ・・・。ゆとりを生むのは、こうした日々の行為から、だと思えてならぬのです。

 

昨日も学界論文の英語部位を添削する生徒さんのレッスンをしたのですが、その大学の年齢の行った先生たちは、自分のArgumentに付け加えて、「家族団欒をして過ごすと、二酸化炭素の排気量が減るばかりでなく、家族のコミュニケーションが増える」などと書いており、後半はまったく論文に関係ないことを書いてしまっていたのでした。が、気持ちは痛いほどわかる・・・。が、論文なので、それに関した資料をくっつけない限り、ダメだから・・・(苦笑)。

 

というわけで、やっぱり私はヘンなのかもしれないと意識しつつも、知らない人との会話を求めて止まない日々が続きます・・・。

ばらつきに慣れる

2008/11/01にアップした文章です。

 

どうも大人というのは、ところどころいけませんや。ヒトは習慣の動物だと言われる由縁もそのへんにあるのではないかと思われます。安定した日常を持ち、その日常からの逸脱をたまに持つ。そこで少しずつの進歩を狙っていく。が、そうなると、もう一歩への脱出がなかなか叶いません。確かに、安定した規則正しい暮らしをするのは、ナニにつけてもよいことではあります。まず健康にいい。ヒトは太陽に支配されて暮らしており、重力を受けて、太陽光線での光合成をした植物の酸素に恩恵を受け、リズムを年季・季節・月季・日季で持っています。なので、安定した日常を持つのは、確かに身体にも心にもいいことなのです。が、少しの逸脱を持たない限り、実際は成長が足りなくなるのでした。

 

私は現在、朝5時半に起きて、企業研修をしていますが、遅くても7時17分の電車を調布駅から乗れば間に合うのです。そこでふと考えるのは、通勤・通学時間が同じ時間というヒトは、おそらく毎日同じ電車に乗るのだろうな・・・と。私はたったの10週で、来週、人事部の方の聴講があり、そこでまた来期もやるかどうか決定するらしいのです。私は、1月からまた10週であれば受けてもよいなぁと思っているのです。朝早い授業は、フツーのレッスンがあまりないので(たまに、朝スカイプの申込みはあります。が、それほど多くはないのです)、けっこううれしいオファーです。しかも、コレ、週に1回だからいいけれども、週に5回だったらうんざりだろうな、と思いつつ、電車に乗っています。朝の7時台というのは、まだ空いているらしいのですね。うん、確かに押し合いへし合いというのはありません。でも、気のせいなのか、10月、少し厚着になったら混んできたような気がする・・・。これ、荷物のせいなのかしら・・・??

 

私はこれがばらついた習慣だからこそ受け容れているのですが、毎日コレでいいという人はけっこういるのかもなぁと・・・。

 

ランチなども同じで、きっと行き着けのお店が何件かあり、そこを順繰りに廻っていたり、お弁当もコンビニを替えたりしているだけなのだろうか・・・などとも思ったのです。そして、アフター5に遊ぶところも、結局、守備範囲からあまり逸脱することはないのだろう、とも。

 

最近、生徒さんを教えていて思うのが、この「習慣から抜け出すたいへんさ」です。ばらつきに慣れてもらえない。脳を活性化するためには、日常と少しズレたものを取り入れてもらい、さらにそのばらつきにバラエティ(多様・種類)を持ってもらうようにしています。頭の中でやるだけではたいへんなので、行動をちょこっとずつ替えて、そこからそれに追随する考え方を変えてもらおうと思っているのですが、身体が動くのがけっこうたいへんそうで(笑)。

 

固着してしまった習慣というのは、人生のある地点で学んだものなのですが、それをUnlearningするというのは難しいらしい・・・。ふぅ・・・。私はここを教えてさしあげることができず、私の目の前以外のところで、かなりなドラマを展開できて、それを体感したヒトこそが、英語の成績にも直に反映する、というすばらしい結果がもたらされており、「頑固」というのは、対象物によっては損なことだよなぁ・・・と思わされています。

 

まず、行動をばらつかせることそのものが、どうしても「気持ち悪い」ということ。普段やっていることは、「考えないでも行動できる」のだけれども、私が要求した「変化させる行動」は、「一旦立ち止まって考えてみないとできない」というわけです(笑)。そのために、生活の中のヴィジュアルに訴えてくる、ポストイット作戦や、カレンダー作戦などを伝授しているのですが、それを作るにも鉄が熱いうちにやったのとそうでないのとは、違いが出てくるようで・・・。

 

私は上記のように、通勤を長期的に習慣としてしたことがないのですが(常勤の学校ですら、ばらつきがあり、いつも電車案内をネットで確認してから出かける日々)、それこそが時間の使い道の宝庫のような気がしていてならず・・・。私の場合、10時にレッスンが終わり、帰り道の都営新宿線に乗り換えた段階で、かなり座れる確率が高くなっています(神保町から)。不覚にも前日が5時間睡眠なことが多いので、安眠してしまい、調布で飛び降りる、ということが、ここ3回ほど続いています(笑)。ああ、普段だったら寝ない私がなぜに?と思ってみられる、答えのあるばらつき行動です(笑)。私は高校生の頃から、同じ電車にはあまり乗らないようにしていたことを思い出す(笑)。

 

刑事は、同じ行動をしていてはいかんのだそうです。恨みつらみを買いやすいので、家に帰るときにもいくつかの道を確保しておいたほうがよいようです。まぁ、フツーの警察官ならば、ましてや素人ならまだしも、スパイの香りがする公安などに所属していれば、それはアリなのかもしれません。彼らの脳はかなり細かく動いているのだろうな、と思います。

 

行動修正をすることにより、考え方・認知を変えていくというのを、私はかなり強く信じており、すべての場合に有効だとは言わずとも、かなりに応用できるので、自分でも採用して、生徒さんにもできる形で紹介しています。私はいかんせん、ズボラで面倒くさがりなので、安全な場所においての行動には、ふざけたばらつきを自分で持ちこむようにしており、安全ではない場所においての行動は、誰にも読み取られないようにしているようなところもあります←誰かに追われたりしているわけじゃないんだけども、なんだか知らない人と口を利く間柄でもないのに、いつも会うというのは、あんまり得意ではないですね。最近は携帯があるので、すぐに捕まってしまいますが(笑)。今にGPSをつけられてしまうのではないかと心配ではあります・・・(汗)。

 

頭の中で、南の島に行ったり、北極を犬ぞりで走ったりすることができるようになればシメタもので、行動を伴わなくてもいい段階になるのですが、そこまで行くには、ある程度のばらつき行動を「気持ち悪い感」がなくできるようになるのは、けっこう大切です。もちろん、コレは「よい習慣があってすばらしいこと」を前提にしており、その習慣のよしあしのチェックにもなるので、やってみる価値ありなんですね。

 

私の生徒さんの中には、左脳ばかりを使っていた意識があり、利き手ではない左手で歯磨きをするようにした人がいます。そうしたら、自然と(もちろんPlacebo Effect:プラシボ効果が効いていることも大いにあり)、チャート化や映像化が進んだ、という例もあります。そこまでせずとも、習慣を崩すために、調味料や化粧品の場所を換えてみた、という方もいて、その新鮮なオドロキを報告してくれて、脳の可能性を実感したという方もいます。なぜに、英語を教わりにきてこのようなことを学んでいるのか?という苦情は、未だ一度も出たことがなく、これができて、「知らない単語を抜かしても気にならなくなった」といういい結果をもたらしています。知らない単語があると、英語はできない、と思い込んでいることをUnlearningしてもらうだけでも、このくらいたいへんなのでした。その思い込みはたいへんに危険で、英語を短い時間でマスターしていくのに邪魔です。日本語で知らない単語にぶち当たっても、すべてを調べているわけでもなかろうに・・・と言うと納得してくれるのですが、なかなか行動には移せないし、ましてや認知をがらっと変えることもできないのでした。

 

このばらつき行動に慣れることは、自分を新たに知る旅に出ることになるので、お手軽でお金がさしてかからないよい旅です。母には、花まるマーケットとみのもんたの番組を半減して見ることを最初にやってもらい、今は、ほぼナシでも生きていけるようになっています←誰でも人体実験かよと怒られそうですが・・・(爆)。ちょっとした行動を変えることで、世界はちょっと違うセットに見えてくる。コレ、かなり楽しいですよ。