11/03/2006 にアップした文章です。
いじめ問題について「何をいまさら」というエッセイを書いたのですが、報道はまだまだ続いています。この期に及んで、学校や教育委員会、それを束ねる文部科学省の「隠蔽体質」が問題視されているので、私の疑問の正解は、「虚偽の発表」「隠蔽工作」にあったのでしょう。それに対する憤りということなのでしょうね。が、しかし、やはりいじめ問題は去年や今年起きたことではなく、もう汲み汲みと30年前後は続いており、それについて何かを本格的に対処するまでに、どうしてこんな歳月がかかってしまうのか、何個の生命が失われるまで始動できないのか、という疑問はやはり残るわけです。
今日少し考えたことは、いじめた側のその後です。30年前後続いてきたわけですから、いじめた側も大人になっており、どういう暮らしをしているのか、がたいへん気になります。さとみちゃんがイチバン強烈に憶えているのは、体育で使うマットで簀巻きにされて殺されたいじめです。私は当時、アメリカに居たので詳細を知らず、調べてみました。http://pii-desu.hp.infoseek.co.jp/yamagatamattosi.htm その後2004年の報道のまとめがコレ。http://pii-desu.hp.infoseek.co.jp/yamagata.htm 詳細なし2005年分。http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%C3%A5%C8%BB%E0%BB%F6%B7%EF
こういう轍があったというのに、自殺と事件は別なのか・・・。どこで加害者の定義をするのか、ここが問題なのか・・・。そして、ひとつ、私も国外逃亡していた最中とは言え、これらのいじめ問題に対して何もアクションを起こさず、自分だけのことにかまけていたことを猛烈に反省。叔母となり、姪っ子たちを見ていたり、友だちの子どもたちを見ていたりして、「何事も他人事で済まさない」という信念が崩れていたことを知るわけです。確かに目がいくつもあるわけでもなく、物理的距離というのは大きな障害だけれども、言い訳はしちゃいかんな。
映画Billy Madison (Adam Sandler主演)で、高校時代にいじめた人に対して謝りの電話をするシーンがあります。いじめられた同級生役にはSteve Buscemiが演じていて、「復讐してやるやつらリスト」を持っており、ライフルを磨いているのです(笑)。危ない役をやらせたら天下一品なのですが、電話で謝られたあと、そのリストからBillyの名前を消し、ライフルを置き、口紅をつけて、ほーっと感慨に耽るのでした。私はいじめたこともないですし、特に理不尽に繰り返しいじめられたこともないので、このシーンには笑わせてもらったのですが、実際に経験したことのある人々、どちら側であっても、にとっては笑えないシーンなのでしょう。笑っては不謹慎なシーンなのかもしれません。
そもそも、他人の所有物であるノートやかばんや教科書などに罵詈雑言を書き込むことができる神経というのが、私には理解できません。想像してみますが、どうしてもぴったり理解できないわけです。しかも、生命に拘わる一言を発することできる・・・。死ね!生きている価値なし!など・・・。実は、2ちゃんを見たくないのは、そういった直接面と向かって言えないことの羅列もかなり多いからなのです。書いている人々が、TVなどの公共の場で、特定の個人に向かって同じことが言えない体質を嗅ぎ取ってしまうのです。そういう正々堂々とした態度が取れないやつは、私は日々避けて暮らしています。私個人は自分で自分の意志を弱いと思ってはいませんが、慢性化したり、馴化する傾向は誰しも持っており、私だけがそれを避けられる不死身の身体を持っている保証はないのです。朱に交われば赤くなる、という法則性に対する弱点を、モノによっては私も持っているかもしれず・・・。なので、日々暮らすのに決めている他人の悪口は本人に向かって言えること以外は言わない(いつか本人に向かって言うことを決意しているからこそ言うし、言ってから書いたり言ったりしているわけです)、嘘をつかない、ずるいことはしない、などなど、決めていることが崩れるような環境に、なるべくならば自分を置かないでいる保守的なやつなのかもしれません。
が、過信はみっともないし、自分の器量はわかっています。私には囮捜査で麻薬Gメンなんかできませんね。すぐに中毒になり、病院行きか免職か死んじゃうことでしょう。
他人を傷つけた想い出はどのようにして残るのか?私はいじめをしたことがないのですが、人に対して冷たいことやつらい想いをさせたことが数々あります。数々残っていて、寝る前などに思い出して自分がつらくなってしまうことがよくあります。ネコを死なせてしまったこと。拾った犬の面倒がしっかり見きれずまたもや逃がしてしまったこと。よせばいいのに大丈夫だよ、と言って乗れない自転車にお友だちを乗せてしまい怪我をさせたこと。二度と顔を見たくないと宣言してしまったこと。などなど、生命に関わりがなかったとはいえども、けっこうエゲツないことをたくさんしてしまいました。ここ数年は聖人のように自分が思い当たるひどいことはしていないのですが、もしかすると相手にとって針の筵(むしろ)に座しているような思いをさせたことはあるかもしれません。
複数でいじめをしていたリーダー格だったり、そのリーダー格に立ち向かうことができずに、ずっといじめを続けてきたりした人々は、今、どのくらい苦しんでいるのだろうか?と、被害者ではなく、加害者のことを今日は考えていました。チャットでよく「いじめ体験者」と話をすることがありました。全面的にいじめを受けた側のほうを支持するつもりはありません。100-0という構図は、何事にもありえないです。その配分がどうであれ、人間関係において、片方が完璧だということはありえない。むしろ、過去について清算しきれず、何年もあるいは10数年や20数年経っていてもまだこだわっている被害者は、哀れだと感じたものです。が、「いじめをしていた加害者だ」と打ち明けられたことは一度もないのです。むしろ、人に言えない秘密を持ち続けている彼らも、大人になってからひどく苦しんでいるのではないか?と想像しているところです。気軽には言えない。正当化などできない。誰にもできることなら知られたくはない。セラピストを生業にしている人々にも訊いてみましたが、加害者の相談を受けたことがある人はわずかにひとりでした。アメリカに居たときから訊いているので、のべ100人以上にはなっていると思うのですが、少ない数です。
加害者であっても被害者であっても、悲劇の当事者であることは事実です。確かに日本は被害者や遺族が泣き寝入りせねばならぬ場面がまだまだ多く、「犯人探し体質」も「隠蔽体質」同様、大繁盛です。犯人探しをして何が楽しいのか、どんなメリットがあるのか、私はいまだかつて、説得力のある訴えや主張を聞いたことがありません。同時に、隠蔽をして秘密にして責任所在を明らかにしないで、何が楽しいのか、どんなメリットがあるのか、本当に理解に苦しみます。私益やわずかな人口の選ばれた人々の利益のみを考え、たくさんの人々が悲しみ不幸になることを厭わないのは、どうしてなのか・・・。少し前、ジコチューという虫が流行ったそうですが、かなりの人々が自己中心的なのね・・・。だからゆえに、無関心さは進み、人の生命に関わる社会問題は、30年前後経ってからもまだ根本的な解決ができない。私も同罪ですが、こうしてエッセイにすることで少し、教育チャットに出ることで少し、寄付をすることで少し、そういった関連団体のHPに意見を書くことで少し、経験者の意見を広めることで少し、と、できることからやっていこうと思っています。私の少しの力が、それこそねずみ講のようになればいいのですが、期待はしない、希望は持つということです。
いじめる体質を糺すことはできるかもしれません。なぜならば、それは大人が子どもに見せているモデリングだからです。大人がしっかり責任ある行動を取る率を高くすること。コレ、本当に大切です。
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