最近つくづく考えているのは、ある特定の条件を備えた人以外は、少人数のグループで学んだほうが、安価だし、学びの速度も加速するし、心持ちにもいいのではないか?という(中途)結論が、間違っていないのではないか?という証拠をたくさん見せていただいているなーということです。
ヒトの目は、大脳皮質が大きく&多くなった功罪の罪として、「主観的」な部分も多くなりました。複雑になったがゆえに、幅の広い物事も見えるようになって、それゆえにその選別に関してはブレも生じるようになってしまいました。しかもここを研ぎ澄ますかどうかは、環境差や個体差になります。
P1は大人がメインで、30-60代の方がいらしてくださっているのですが、成果は年齢ではないですね。どのように人生を積み重ねてきたか?それをどのように捉えているか?に因るものが大きいです。何も考えてこなかった場合には、考えてみたほうがよい事項が多くなるので、自然と時間がかかります。逆に、考えてきた事項がたくさんある場合には、英語を学ぶことによって確信へと変化しますから、速い。
このへんの学べてきた事項の差異は個体差で、仕事の種類や目線、行動範囲や考え方で大きく変わりますが、なべて言えることは、主観的であるがゆえに、他者のモノの見方・考え方を入れることで、加速度は増す、ということです。わざわざ自分が時間を費やして体験する必要もなく、コミュニケーションが正しく行わる中で、体験や考えのエッセンスを汲み取る能力が高まれば、何人分もの人生の体験の「いいところ取り」が実現できるわけです。まぁ、もちろん不完全バージョンになり、まったくなぞることはできないですけども。
この狙いが実現できるようにするためには;
- レッスンが参加型であること
- 参加者が自主的に参加すること:講師の促しは有り
- 発言量や回数の凸凹がさしてないこと;少なくとも参加者が萎縮してしまったり、ひとりだけが話すなどという不公平な状態にならないこと
- 安全を感じていること;発言によってジャッジされていないという安心感が大切
- 自力で自分の現状を振り返り、反省点や課題点を見つけられる客観性を提供できること
が条件になります。
講師養成講座があるのですが、このへんを講師に教えられるようにするためには、やはり希望者さんたちにも心理を学んでもらい、学習継続者であることは意識してもらわねばならぬ、と、主宰の私は考えています。質のよいサービス・学びを実現するために、試行錯誤は日々続き、いつも進化していたいと望むのでした。
共同体であることをどのように表現するか?は、やはり死ぬまで苦闘していくのでしょうけれども、暫時完成版までお待ち下さい。節目だけはしっかりつけていきたいと念じております。
生徒さんがエンジョイしてくれている日々を実感できるレッスンは大好きなのですが、事務処理やらテキストづくりやら、運営のための雑務も多すぎて、たまに挫けています (・・;)
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