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この世でイチバン怖いもの

09/09/2008にアップした文章です。

自分が渦中に入らなければ、その怖さというのはわからないかもしれません。肝試しなどはもう20年以上していないし・・・。が、私には「~恐怖症」とつくほどの怖いものはなく、強いて、あえて、どうしても言わなければならないのであれば、「閉所」なので、日本に戻ってきてからはずっとそんな気持ちでしたし(笑)。私ごとき小魚は、小さい社会の重なりのハザマを抜けて泳いで生きているようなところがあり、この世でイチバン怖いものは、明らかに弱肉強食食物連鎖のピラミッドの上にいる人々やそのおこぼれをもらうためのサバイバルスキルを身につけている人々なのです(これって、うまく表現できないのだけれども、お金を稼ぐために手段を選ばなかったり【→詐欺、詐欺まがいの理不尽な行為】、コネクションを使って身の安全を確保したり【→未だに縁戚作りのために結婚を使っていたり、権威として家名や職業などのタイトルを使ったり】。が、他に怖いもののランキングを考えてみる・・・。



疾病は、私は生きている限りつきあってきたことになっており、その存在に気づいたのは17歳のときですから、病名をつけてくれたことにむしろ希望の光を見出したので、まったく怖いとは思っておらず、むしろ、24歳過ぎてアメリカに行き、初めてカウンセリングを受けたときには、「躁鬱病でよかった」と思えることすらあったのです。今も、全般的には躁鬱病であることには感謝しており、弊害はありますが、性格の長所と短所がいっしょになっている要素のようなもので、使い方や場面や相手などを考えれば、むしろ長所のほうが多い(笑)。ひとりでいるときにはハイパーなほうが、ずっと物事が片付くし、充実度は高いのです。ただ、他人様を引きずったり、巻き込んだりしないようにするのに、長い時間がかかってしまっただけ、という・・・←いや、未だに迷惑はお掛けしてもいるんですが・・・。

 

身体的に弊害がでっかい疾病であっても、やはりそれと共に暮らしている人たちにとっては、それが現実なので、「恐怖の対象」ではなくなるような、日々の生活がよりよくなるための自律をきちんと学習してきていると信じているのです。

 

いつしか死ぬということが恐怖か?確かに怖いのだろうと思いますが、とりあえず日々を必死に生きている身にとっては、さしたる実感もないというのが事実で、ランキング1位なはずであっても、いつも考えているわけではない人のほうが多いはずです。不安神経症などの症状で、「死についてよく考える」というバロメータがありますが、恐怖症を持ちやすい状態・条件が揃ってしまうことはあります。親近感を持っておつきあいしていた方が亡くなるだとか、天災が他人事ではないところで起きるとか、その数があまりに多いとか。が、健常な場合、これも「強いて言えば」の範疇になっていき、70歳の母は「しょうがないでしょ。来るときが来るまでは楽しく生きないと」程度です。人工透析を16年続け、この春に腎臓移植をした叔母は、そのTransitionがとてもたいへんだったにも拘らず、「いつ死んでもいいんだけど、もらった腎臓だけはフルに生かして、腎臓をくれたお父さん(だんな)に添い遂げたいと思う」と言っています。

 

交通事故も怖いのか、最近20代では、車に興味を持つことそのものががくんと減っているんだそうです。記事を見て、うひー、と思ってしまいました。私は父がハイヤーの運転手だったので、渋いPresidentに乗っていることを見て「いいなぁ」と思ったし、バイクも乗るようになり、パイロットにもなったくらいですから、車は大好きでした。18歳から乗っていたのですが、都内ではバイク移動のほうが効率的だったので、車は自分のものではなく、家の人たちといっしょに所有していくことになります。が、アメリカでは「生活のため」というのがひしと身体にしみこみ、熱っぽかった想いはだんだん沈静化してきました。そもそも、環境に悪い(爆)。なんでガソリンを蒔いて、ドライブをしていたのか、今となってはよくわからない(爆)。興味を持たないということは、所有することもがくんと減っていくだろうという読みがあるわけです。メーカーや関連会社には大切な情報です。

おそらく、直截的な原因は、「これだけ公共交通機関が発達しているのだから、お金がもったいない」という経済的なことなのでしょうが、この記事をしっかり読むと、「父や友人の影響」「モータースポーツやその広告や映画の影響」となっており、人間関係や生活環境としての繋がりに注目できるので、それが減っているということなのでしょう。こじつけだとは思うんですが(笑)、私がイチバン怖い人間関係や怖い人間に近づかない傾向、逃避傾向というのが、ここにも顕れているのではないかと・・・←いやぁ、本当にこじつけに思えてきた。深読みしたかったんだが・・・(笑)。

 

家族でドライブをして遠出するだとか、父の姿がかっこいい、だとか、それについて男親と話すなどということは、おそらく減っているのかなぁ・・・と。娯楽は、お金がかからなくてひとりでやることのほうが増えたのかもしれないです。ネットとか(笑)。

 

でも、それって怖いことなんでしょうね。なぜならば、私が怖いと思っている種類の人間を増やしてしまうことになる遠因になるから。人と袖すり合わせないというのは、「他人の気持ちや状態について考える時間が圧倒的に減ること」になり、機会を逃すことになります。『人は寄り添って生きるもの?』に書いたのですが、私は「自分のことは自分で極力ぎりぎりまでやって、できないことは助けてもらう。それもできることなら少ないほうがよし」と考えていますが、さらに考えたほうがいいのは、「人は完璧ではないから分業をし、助け合うサダメにある」ということ。

 

白米を食べるときに、もう母はイチイチ感動していませんが、昔は私たちに教えるためだったのか、自分の苦労を思い出していたのか、たまに泣いていたことがあります。いや、貧乏だった現実を「まだマシだ」と思いたかったのかもしれません。が、田植えをしたわけでもなく、害虫駆除をしたわけでもなく、刈り取ったわけでもなく、精米をしたわけでもないのに、ちゃんと口にお米が入ることに対して感謝をする人というのは、きっとものすごく少ないことでしょう。ヒトがイチイチ自分だけのための収穫量を野菜もお米も魚もお肉も確保しようとしたらたいへんなので、太古の昔の人々が工夫してきたことが、このように進化してきたことを、本当に感謝しているのかどうか?というのは、疑問です。

 

この基礎に関しての感謝がなければ、やはり依存は深くなるばかりだし、自分がよければいいと、自分が他人にしてあげることではなく、搾取することばかりを考えるようになるわけです。それは本当に怖いことです。私は、そうしたヒトが増えていくことが、本当に怖いですし、そうした人々と袖すり合わせることが怖いですね。だから、小魚としてはスキマを泳いでいるようなところがあり(笑)。私は搾取したい!というオーラが出ていない人に、バンバンあげてしまうGivingな人間なのですが、その人を見る目というのがたまにまったく外れる(笑)。そして搾取されていくわけです・・・。物質的・物理的な喪失よりも精神的喪失感というのは、筆舌に表せないほどなので、やはりそうした人々がイチバン怖いなぁと思うのでした。

 

そして、この夏もオバケの話などを丑三つ時に見ても、やはり実感はなかった・・・。ヒトがイチバン怖いんだよね・・・。私は怖いヒトにならぬよう、心がけているつもりではいますが、たまには怖い!と震え上がる人もいるのかもしれません・・・(汗)。