TVから離れろやっ!と自分でも自分に呆れ気味なのですが、TVだけではなく、ネットでも同様の記事は読むことができてしまう・・・。ただし、映像が強調しているかどうかで、まだネットのほうが「刻み込み」を避けられるので、五感のうちの視覚に訴えていない部分はマシだと考えているのです。いろいろな人にいろいろな意見があるのはかまいません。でなければ、言論の自由の名の下に人々の考えは練れてこないでしょうから。それが大前提であるにしろ、この国の知的水準を疑ってしまうのは、どうも私には慣れて諦めることはできそうにない・・・。
いや、だったら、やはりTVを丸ごと放棄して、生活から抜かしてしまえばいいわけなのでしょう。仕事が忙しくなるとTVなどほとんど見ず、「ええええ、そんなニュースも知らないのぉ?」となじられることもしばしばなのだし、そんなことでへこたれる私ではないので・・・。そもそも、そのニュースを知らないから、ということで、何か支障があることばかりなのか?と冷静に考えると、「何かを深く考えるための小さい刺激要因」とはなるものの、そもそも考えるツールや方法論や情熱や気構えがなければ、ニュースはただのゴミなんだな、と思えてきています。
だってぇ、誰が殺されようと、誰が悲劇に遭おうと、誰が倖せであろうと、そもそもの「共感能力」が低い人ばかりであれば、あくまで何事も『傍観』に徹しており、逆の『明日は我が身』などとは考えないわけで・・・。
ワイドショーの枠もニュースをたくさん盛り込みますし、特集をやりますので、それも時間としてカウントすると、ひとつの局で、ニュース関連を放映する時間は、1日24時間放映している局で、半分を少し超える12時間25分ほど(これはある平日のTBSを参考にしてみた)。ドラマが多いといわれるフジテレビであっても、11時間10分。まぁ、厳密な意味でのニュースというほどの充実度が、ワイドショーにはないにしろ、特集やコメンテーター、映像のバラエティなどを考えると、正統派のニュースを超えるほどのセンセーショナリズムは醸し出しています。
ここで不思議なのは、まず「ねぇ、人ってそんなに他人事を知ることが重要事項なわけ?」ということ。だから1億総批評家みたいなことになっちゃうんじゃないの?と、素朴に私などは、多少の負け惜しみ的な気持ちもあり、考え込んでしまうのです。そして自分のことを振り返る・・・。
子どもの頃は、朝日新聞をくまなく読むだけで終わりだった。父がニュースやNHKを見ているときには、トイレに行ったり、洗濯物をしたり、なにやら取り出して遊んだものです。特に、自分から遠いことに興味はなかった。新聞での基礎知識くらいでいいと父親も言っていたのですが、自分の興味のある問題になると、「そんなことも知らないのか、おまえっ!」と怒鳴るので、仕方なくいっしょにTVを見ていてあげた感じです(爆)。
中学になっても高校になっても大学に入ってからも、渡米する以前は、ずっと新聞中心で、TVでニュースがあっても、それらを信頼するほどのナイーブさは私にはそもそもなかった。父親が朝日新聞社の記者を乗せて走るハイヤーを運転していたせいでしょう。誰かの視点や手が入ることで、事実は事実ではなくなり、贅肉がついてくることを、父は中卒ながらもたいへんにシニカルに語るのが癖でした。
渡米してからは、まず英語がわからない。しかも、英語のニュース番組は、日本ほど字幕やタイトルやフリップなどに時間や手間ひまをかけていないのだ。すべて喋りで、賢い人のために作ってあるような印象だった。その代わり、映像にはきちんと著作権がイチイチ記されてあったり、その表記の法則性もおもしろかった(英語ができないから、やたらと最初はそういうところに目が行くんだな・・・)。やはり、センセーショナリズムという点では、映像のパワーはすごいので、私はニュースはまとめてしか見なくなり、ラジオで運転中に聞くことにしていくのです。
そして、駅前に住んでしまったために、車の運転をしない日本での暮らしもそろそろ8ヶ月になろうとしていますが、ひどいよな、日本の報道。
たとえば、立て篭もり事件のその後。反省をしていないだの、謝意がないだの、というのは、事実としての報道はありでしょう。が、「命乞いをしていた!」などというのはニュースなのか・・・。どんな時代小説を見ても、どんなドラマを見ても、命乞いをする時間と余裕がある人の9割ほどはしてるぜ・・・。人間なんてそんなにかっこいいもんじゃなく、生命の終わりの先に何があるのかわからないのだから、生きられるかもしれない可能性がまだ残っているのに、自ら望んで死にたいわけはないだろう。あんなことにたくさんのスポンサーが莫大なお金を払っているからこそ、TV局や新聞などはニュースとして活字や媒体にできて、センセーショナリズムを醸し出せるわけです。そんな見逃すはずもない、当たり前なことを知らせてもらいたくはない・・・。むしろ、「命乞いなど一切しなかった。潔い」などというのであれば、ニュースとしての価値ありじゃん・・・。命乞いな気持ちが万民にあるからこそ、医学も発達したのだし、警備や警察機関なども発達してきたのだろうに、なんておもしろいことをニュースにしてんのか・・・。
しかも、「他人の命を奪い取ったやつからはすべての当たり前の本能や権利は奪い取ってもかまわないのだ」とも取れるようなニュースを、こうも繰り返される報道番組や紙面で強調されたら、「習慣化という学習」ができるヒトはたまったもんじゃーないですよ・・・。しかも、日本は文化的に、全体主義ときている。みんなと違うことが言いづらい。少しずつ変わってきているにしろ、まだまだなところがある・・・。英語では、Innocent Until Proven Guiltyと言います。罪状がしっかりと証明されるまでは、まだ無実状態、ということを表します。もちろん、あの立て篭もり事件の場合には、映像での証拠がしっかりあり、人命や健康が阻害された時点で、強気な捕縛をしておいたほうがよかった、というのは、結果論としては誰でも言えます。亀田選手の世界戦では、たくさんの苦情電話やファックスやメールを流した人々の数とは裏腹に、あの丸1日を越えた立て篭もり中に、警察への苦情を出した人間は圧倒的に少ない。でも、結果論としてくだくだ言うんだなぁ・・・。そういう人たちのほうが、むしろ、命乞いしやすいんじゃないか?と、私は論文を書いてもいいように思えるのだ・・・。でも、風潮として、ニュースが容疑者の段階で、罪状を証明したかのような報道を続けていると、冤罪が減ることはなく、事件を個別に取り扱っていくことの妨げになります。心配です。
ニュースのトレンドをもう一度見直してみることはとても大切なのではないかと、私は思います。いや、急務だよね。悪いことにただ悪いと言い放つだけの、いとも簡単なことをしている人間たちが、額に汗をして働いている市井の人々の何倍・何十倍・何百倍のお金を報酬として得ているというのは、どうも大きすぎる矛盾であるもの。
しかも、これらのニュースはあまりに数が多いので、センセーショナリズムで経済効果を狙ったあと、すぐに忘れ去られる。被害者の遺族たちがいたたまれない気持ちになるのも当然だ。建前と本音は別のところにあるように見えることを、彼らは経験してしまうわけです、当事者として・・・。もちろん、報道側の人間が悪いと言っているわけじゃないんですよ。みんな、社会のことを一度は考えていたのだろうし、今だって真剣に闘志を燃やしている人たちもたくさんいるに違いありません。ただ、システムが悪いんだ。なぜ、あんなにも繰り返し繰り返し、有名人を引き出して、視聴者という善良な人々を「高見から教える」ような態度を取るのだか・・・。
はぁ、これ以上ぼやいてもしょうもないか・・・。私が億万長者になれば、カウンタープロポーザルも実現できるのですが、今のところ数億なんてお金は到底ない(笑)。だから日々がんばっているのだけれども、ふぅ、むずかしいわねぇ♪