1999年に書いた文章です
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自転車さえももう何年も乗っていないのですが、身体機能の大切さを忘れてしまうくらい忙しい年末に、ネットでお目にかかるみなさまがどのように暮らしているのか?と文字交信ではかなり想像し難い状況のなかで、身体がいかに大切か、ということを考えていました。そして2000年の目標のいちばん最初の項目が【健康を取り戻す】ということなので、じっくり考えてみたいと思っています。
36年ちょい生きてきたなかで、去年1年ほど身体を動かせなかった時間はありません。私は元々野生児として育まれたので、身体を動かさない自分がいかにダメになってきたか、西さんといっしょに暮らすようになって、毎日まいにち彼の健康を見せつけられて哀しくなることさえあります。ときどき、「市から健康優良児として表彰された」という過去さえ忘れてしまうくらい、ダメになっている身体に驚いてしまいます。一体私は子どもの頃からの日々をどう過ごして来たんだ?と。
五体満足に見えるように生まれてきて、母の手を煩わせずに都合よく育って、歩けるようになってからは身体を動かさないと怒ったり泣いたりするくらいに、アタマを大して使わないで遊ぶことは(もちろんどんな遊びにしろ大なり小なりアタマを使っているのですが)、私にとって空気を肺に入れることと同じくらいに自然なことでした。気づくといつのまにか、身体を使うことが少なくなり、私はとてもさみしい気持ちになっています。
このへんで、バックパックひとつだけ背負ってシルクロードの旅に出てみたほうがいいのか?パタゴニア目指してカリフォルニアから歩いてみるか?などと考えてしまいます。それを終えたときに私が得られるであろう達成感のでかさと言ったら、それは歌にも絵にも写真集にもエッセイにも到底表わせないたぐいのものであろうと、想像するだけで身震いがしてしまいます。
どうしてあんなにも大きくて大切な日常の一部だったことを、気づけば失ってしまっていたのか?私はそれほどまでに盲目だったのか?とちょっと泣けてしまいます←まじぃ、本当に泣けてきた。 (-_-;)
私が赤ちゃんの頃にはすでに大場政男というすごいボクサーがいて、日本のボクシングも棄てたもんじゃありませんでした。具志堅用高くらいまでは、必ずチャンピオンがいて、多いときには世界チャンピオンが日本に4人ほど居たはずです。白黒だったテレビで見た最初のボクシングに、幼かった私は「暴力っておかしい」だとか、「痛そうでひどい」などという感想を持たなかったことは確かです。それからボクシングは私が渡米するまでのなかで心を傾けることの大きな一部のひとつになります。
殴り合うことをいかに紳士的に作法に則ってやるか、ということから、ケンカの作法や鍛え方やモノの見方や考え方をたくさん学びました。何よりも、闘うまでに自分をいかに準備するか、という大切なプロセスが実際の闘いよりも何百倍も何万倍も大きい割合を占めることを、父から説明してもらうのです。その父が私に与えたものは、なわとびでした。幼稚園に入ったときにはもうひとり跳びができていたのですが、みんなそんなもんだよね?お風呂に入ってごはんを食べたあとでも、父といっしょに見るプロレスやマンガがなければ、電信柱の薄暗い灯かりの下で私は練習をしたものです。今でも、Rockyにしろ他のボクシング映画を見ると、そんなことを思い出してしまいます。
私の行っていた小学校には、なわとびの級というのがあって、ガリ版印刷した項目のある紙をダンボールに糊できれいに貼りつけて穴を開け、そこにひもを通して首からかけられるようにしてありました。10級が前跳び20回と後ろ跳び10回、などとなっていて、それにあや跳び(胸で交差させる)や二重跳びなどがどんどん上の級になると入ってきます。1級のあとには、「北の台特級」(北の台小学校というところだったのだ☆)というのがあって、ものすごくむずかしかったはずです。確か、前跳びが続けて500回と二重跳びが続けて100回とかかな。さらに、バリエーションがあって、前跳び+二重跳び+あや跳び+うしろ跳びなんかを先生と体育委員が見ている前できれいに続けてやらねばならなかったような気がします。
とにかく、私はそれをクラスでいちばん最初に獲ったというのがとてもうれしく、小学校5年生だったので6年のときにはなわとびはもう私の範疇になかった、というような感じでした。みんな「マイロープ」を持っていたのですが、私はそのなわとびを誰かに貸すことがものすごい誇りでした。小さい頃から験担ぎしてたんだな…。「貸してぇ」ってよく頼まれたものです。
水泳にもそういう級があり、マラソンにもそういうカードがあって、小学校のときには勉強などできなくても先生たちも「そんなものはもっと大きくなってからやればいいよ」と軽く言っていたものです。私はそれを信じてとにかく元気な子どもでいました。すくすく育ってよく寝て食べて、雨の日にはとても哀しくなり、傘をさしてでも外で遊んでいたものです。
鉄棒の蹴あがり(逆上がりではなくて、空中で勢いだけつけて逆上がりのように廻るやつ)が西さんが子どもの頃にめざしたもっとも大きなイベントなのですが、私もそれは小学校5年生ですでにできていました。私たちはそれになぜか「大車輪」という名前をつけて、何度も何度も繰り返してやれるかどうか、というのが流行っていました。
筋力が充分につく前の私の大挑戦は、雲梯(うんてい)だったのです。上半身の力がどうも足りていないな、と思っていました。その証拠に私は、低学年のときにはクロールよりも平泳ぎのほうが得意だったのです。かけっこがいくら速くても身体がいくら柔らかくても、その大車輪をやるには上半身の筋肉と腹筋がないとダメなのです。水泳ではバタフライの練習をしました。そこで父親に相談したところ、「やみくもにうんていで鍛えるといいよ」という返事でした。「どうしてなの?」と尋ねると、「それはさぁ、自分の体重を持てるってことになるからだよ」と今考えるとしごく当然の答えだったのですが、「うわぁ、自分の体重が持てるってすごいじゃん」と思ってしまった浅はかな小学校3年生(爆)。けれども確かに、鉄棒と同じで、手の脂でスリップしてしまったり、何段も手が届かずにいたり、勢いをつけすぎると落ちたり、腕が痺れてくるのでした。
おサルのように雲梯を操れるようになったその後、私は鉄棒の大技ができるようになり、オリンピックでも器械体操を見るのが好きになりました。何個もマメを作ってマメ評論家にまでなって、手を赤チンで真っ赤にして、治ったらすぐにまた雲梯に戻っていく日々でした。
大車輪ができた日の小学校の放課後の校庭は忘れません。ひとりでした。翌日、みんなに見せびらかしてやろう、とひとりで笑ったことも憶えています←すんごいいじわる(爆)。
なのに、私はどうして続けることをやめてしまったんでしょ?
アメリカに来て、西さんといっしょになわとびをしていた日々があったのに、学校が忙しくなってからやめてしまいました。お金にゆとりができてジムに行けるようになって「もっと効率がいいよねぇ」とウェイトリフティングを始めていい気になっていたと思います。足腰が悪いせいもあり、丸1年以上運動らしい運動をしていないせいもありますが、今、腕立て伏せをやれと言われたら何回もできないと思います←今、試しにやってみた。たったの6回…(汗)。
コーディネーションもついでに教えてくれたなわとびと雲梯だったのに、健康の黄金時代をもたらしてくれたなわとびと雲梯だったのに、私は彼らをなおざりにしちゃってきたな…。西さんが「きくみはもう健康の貯金を使い果たしちゃったんだよ」とよく言います。本当にそうだったんだ…。いくら小さい頃丈夫で健康だったからって、あぐらを掻いていた私がいけないんだ。自分の体重にさえ責任持てないくらいになって、やれ頭痛だの二日酔いだのと、まじめでなかったことを痛感します。
そして2000年の三ヶ日が終わり、私はこれから真剣に【健康を取り戻す】ことを実践していくことを、心に誓うのでした←たったひとつだった取り柄なんだから、死ぬまで大切にしないとね♪
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