1999年に書いた文章です
待っていました♪宮崎駿生のファンだと大きな声で言えるほどのデータがないのですが、私はこれをなぜか待っていました。今週末は忙しくてネコの手を貸してもらいたかったので、行けなかったのですが、ウィークデーに行く予定にしています。
日本語版のモノは既に日本に帰国したときに、LDで見せてもらいました(その節はありがとう♪)。アニメに慣れ親しんで育ったのか?それともふれあいが少なかったのか?オタクと言われる人ほどでもないし、劇画・マンガ拒否するほどでもないし、これに関しては中間からどちらに寄るのかまったくわかりません。
アメリカの新聞の日曜版は日本の普通の新聞の5倍くらいの厚みがあり、そのなかにPink(ピンク)と呼ばれるエンターティメント紹介の厚いセクションがあります。その表紙が今週はPrincess Mononokeでした。日本映画史上、タイタニックに次ぐ第二位の売り上げを誇ることは驚きのデータではなかったのですが、Robin Williamsの逸話はおもしろかったです。Mrs.Doubtfire(邦題:不明)、The World According To Garp(邦題:ガープの世界)、Good Will Hunting(邦題:不明)などで、コメディもシリアスもとっても深くこなす彼は、私が行っていた英語学校付近の出身です。彼は日本語がわかるわけでもないのに、どうしてか宮崎駿生の作品を手に入れてはビデオで見ていたそうです。
米良さんの音楽が使われるかどうか、それについては触れてありませんでした。
Guess What!?(なーんだ!?)のアメリカ人が注目している大きな点は2点でした。
・ 子どもへの暴力の影響
・ Disneyと宮崎駿生の関連性
こまかいことは他にも多々ありましたが、このへんの世相というのはどういうもんなのか?とたいへん興味がありました。興行収入は明日あたりにならないとわからないと思われますが、どうなるんざんしょ?けれども声の出演はそれなりに大物と呼ばれる人がやっています(ちなみにPrincess Mononokeは“Romeo & Juliet”のClaire Danesです)。
闘いの場面が多いこと、登場人物である人間と動物の血のりや怪我が多いことなどが論じてありました。腕がきれいに切れてしまうシーンや血を大量に吐く場面などの憂慮は、USの親にも大きな関心があります。特に昨日はHalloweenでした。去年より子どもの数が減ったことが私の印象です。日本からのアニメは他にもたくさん上陸していますが、ゴレンジャー改造版などはクリスマスに売り切れが出るほどの人気だし、マッハゴーゴーゴーなども未だにTシャツを着ている子たちがいて受け入れはいいのです。ただ必ずその動画やストーリー性についての非難は湧きます。言ってみたい人が大勢いるんでしょうねぇ…。
宮崎駿生本人もインタビューで応えていました。「破壊性をないものだとし、そこにあるものをないふりをして隠すことが子どもにとっていいことであるとは私は思わない」「破壊性や怒りは人間の自然な感情であり、それを文明がどのように管理コントロールするかを披露することは自分のミッション(使命)だという感覚でこの映画を作った」とあります。
子どもを叱るについても賛否両論さまざまだし、大人のケンカさえ見せてはいけないとする大人もたくさんいます。私は過度でないならばどちらもOKであると思っています。その適当な具合を決めるのは親ではなく、子どもの反応とのコミュニケーションであるとも思っていて、一般論には広げ難いことであるとも思っています。だからネコも杓子もOOである、ということは危険な風潮であるとも感じます。それによって大人の倫理観やモノの考え方のよしあしを測ることはできないことであるのに、ものさしを取り出してきて当てはめていくのは、文明の一部の側面ではあるけれども、すべてや結論ではないでしょう。そして子どもまでが大人のミニチュア版になっていきます。破壊性も怒りも知らない、抑え込む感性。
コントロールを失ったことのない親を見て育つ子どもは、こうあらねばならないと思って却ってつらい想いをするかもしれません。そこにある人間の破壊性や怒りを、ない、少ししかない、だから隠すべきだ、とする態度がもっとも人間らしいと解釈するかもしれません。そうすると自分がそれらにネガティブなラベルを貼り、それらを持つことに罪悪感を持つ可能性が高くなります。ちゃんばらごっこがいけないと私たちの世代が言われなかったのは、この学習をするためだったのではないか?と端的な例ではありますが、思ったりします。怪我に対しても鷹揚で伸び伸びできていたことに深く感謝しています。
あるものをないと教わる子どもたちの窮屈はいつしか、人間性の崩壊へと導かれてしまわないのか?と私はその親や大人たちのコントロールのほうに強い抵抗を感じます。人間が人間をコントロールすること、人間が自然をコントロールすること、それらが「あたりまえの姿」なんでしょうか?私はどうしても、自分が自分をコントロールしたほうがいいと思うし、それに賛成できない人が何人か現れることも必然であると思うし、自然をコントロールするのも人間であっていいはずがないと思っています。自然がその法則に従って起きることを変更することでいいことがたくさんあったでしょうか?
同様に、子ども自身の破壊性も怒りも、その子どものものであると思います。育つ過程において披露することはできても、教え諭すこと、コントロールすることが親であっても他人が持つ権利であるとは思いません。人殺し場面に過度に魅せられる子どもに対してのコントロールは?と言われれば、その子どもが「なぜ・どの程度の回数・どのくらいの時間・どんな反応を持って見て・それを他の場面で応用して」いるのか、個別に見ていくことしかできないでしょう。他の大人や媒体や子どもが、その子どもを影響していくことは自然です。そこにあるものを隠すという行為を先にするよりも、与えてから棄てたいかどうか子ども自身が選択し(たとえ言葉でなくても)、じっくりとチャンスを与えあうのがいいような気がしています。とりかえしのつかないSerial Killer(連続殺人鬼)になるような可能性はあるかもしれません。けれども、Risk(リスク)は何にでもあります。私はそう考えています。
子どもと暴力に対しては違う、というご意見がありましたらコメント欄にどうぞ書き込んでみてね♪
Disneyと宮崎駿生の酷似性に対しては、評論家ならばせねばならぬことなのでしょうが、これも「卵が先か鶏が先か」のようなお話でした。子どもと暴力の話にも繋がっていきます。細かいことに注目すれば、Disneyのほうがお金があるだの、先にできただの、アニメーター他スタッフの数が多いだのと、いろいろ比較分類ができることでしょうが、「完全なオリジナルなどは存在するのか?みな誰かを影響し、誰かに影響されているものだろう」というのが宮崎駿生の意見でした。
今、昔のHanna―Barbaraなどのアメリカンアニメを見ていて思うのですが、やはり日本人スタッフも多かったです。いつしか具がたくさん入ったTossed Salad(混ぜられたサラダ)がMelting Pot(溶けたものの入っている鍋)になっていっても、不思議などあるわけないなぁと思います。ひとつひとつの具が「私は日本人」「私はアフリカのオリジン」「私はアイルランド」などなどと主張していたものが、いつしかどれが正しいも悪いもなく、いいところも悪いところも自分の判断でピックアップしていって、どんどん取り入れていったらフォンデューみたいに溶けていく、っていう現象、に戻っていく。それは無秩序すぎるんでしょうか?
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