07/07/2006 にアップした文章です
中田英寿選手が、29歳でサッカー引退を表明しました。ワールドカップ後、わずかな時間での発表で、彼の熱狂的ファンの中では、読めていた人もかなりいたようですし、惜しむ声も大きくなっています。ニュースでわかることは、彼はひとつの現象になっていたのだということで、サッカーにまったく無知な私でも、この大きさやファンに与える動揺や希望についてはよくわかります。たとえば、サッカー少年の短い人生の中では、この日は歴史的な日となり、アイルトン・セナが死んでしまった日ほど大きな位置を、今後の彼の人生の中で占めていくかもしれません。
って、私はそれほどサッカーの深い話ができないんで、その少年とシェアできることが少ないかもしれないことがさみしい・・・。でも、ホッケーならできるんだけどな♪
そういえば、私がウェイトレスとして、吉祥寺と三鷹のあいだに位置する水道道路に面した Yesterdayというすかいらーく系のレストランに勤めているときに、サッカーが大好きなお客さんに好かれていましたっけ・・・。彼は、当時(えっと、24年前?)でもイタリアやドイツにサッカー観戦旅行していましたから、かなり早い時期の熱狂的ファンだったんだろうなぁ。にわかファンとは違い、やはり相当お金も使っており、知識も今のように簡単にアクセスできるわけではなく・・・(当時インターネットなかったからね・・・)。彼、どうしてるんだろうなぁ、とふと思ってしまいました。
私が個人的に今たいへん恐れているJoe Sakicの引退は、かなりの数のカナダ人と分かち合えます。Joeの前のLegend、伝説のSteve Ysermanが引退を今シーズン終了後、しばらくした7月3日、表明しました。41歳。23年前にNHL入りし、3年後からDetroit Red Wingsのキャプテンを20年もの長い間勤めた英雄です。http://www.nhl.com/players/8452578.html 彼は、カナダチームのときにも自分の背番号19をつけるのですが、Joeも奇しくも同じ背番号(別チームなので可能)なので、ナショナル戦のときには、ひっくり返した91をつけます。今後もそれは変わらず、カナダはYsermanのために19を欠番にします。
Bret Hullが引退したときもかなり泣けてしまったのですが、今回も私はかなり長いあいだ、静かに泣きました。Joeのときは、自分の一部が持っていかれてしまうのではないかと、たいへん心配です。なにしろ、私はまだアイスホッケーを5年しか見ておらず、そのうち1年はシーズンがまったく開かれませんでした。オリンピックが2回。Mario Lemiuexが二度目に引退したときには「あれだけぼろぼろになったのだから仕方が無い」という諦めがありました。彼は一度、ガンにかかって引退し、その同年に殿堂入りしています。その後、チームオーナーになりましたが、体調がよくなり復帰。その後も、腰や膝など苦しみながら、弱いままのチームをよくも引っ張りあげてきました。映画 Sudden DeathにもPenguinsは登場します。他にも、Colorado AvalancheのPatrick Roy(ウォーと発音する)の引退も見ましたが、ゴーリーのきつさはわかっていたので、それほどに悲しくもなかったのです。彼は引退から3年後、ごく普通のスピードで殿堂入りを果たしました。http://www.msu.edu/~crawf178/roy/home.htm
ファンとしては、自分の一部が切り取られてしまうかのように、誰かの人生に乗っかり、自分を投影していくわけです。相互通行はできず、相手は自分を知らず、ヒーローがしたこと・成し遂げたこと・言ったことなどを、自分も真似しているだけに過ぎないのですが、それをしているうちに自分の一部になってきてしまう・・・。
投影:ある状況や刺激に対してなされる解釈・判断・表現などに、心理状態やパーソナリティーが反映されること。
映画 Ready To Rumbleでは、プロモーターによって落ち目にさせられたプロレスラーを絶対的にヒーロー化するふたりのファンが、King(落ち目プロレスラーの愛称)をもう一度復活させるために、あの手この手を使います。彼らがファンとしてやっていることは、日常的にもKingの言葉を使い、Kingの哲学に沿い、Kingジョークを見つけ出しながら、自分も成長するのです。これB級なんで日本に入ってないのかなぁ・・・。と調べてみたら、プロレスファンのために、DVD発売はないものの、レンタルビデオやさんには実在するようです。見てほしいけどなぁ。とことんおバカなお話だけど、私は大好き♪コレくらい、仕事も辞めて、親にも背き、自分のヒーローを支援できるふたりがいたら、世の中いろいろ変わると思います。
アイスホッケーでは、注目している選手は他にも何人もいるのですが、プライベートなことはそっとしておいてあげたいと思う私は、メンタリティが若い頃からおばさんなのか、臨場感に我を忘れて乗っかれないのか・・・。Peter Forsbergが彼女と別れたという事実を知っても、そりゃ、多少は、「もしもPeterとつきあえるならすごい人生変わるだろうな」と、当然のようなことしか思わず、そこに「私が」という主語を入れることはありません。Joeにしても(私の)とは書いてありますが、実体のJoeと私の脳内のJoeのギャップもよくわかっています。私は、私の脳内のJoeにとても満足しているし、実体のJoeにも成績や品格という実体を次々見せてもらえているので、まったく切り離して考えています。ゴールの瞬間くらいかなぁ、我を忘れてしまうのは・・・。選手という人に対しての重きよりは、ゲーム性、その中でのヒトの可能性、能力など、アイスホッケーはやはりすごいエキサイトメントがあるわけです。
それをなぞるかのように、私もアイスホッケーはしないものの、動体視力を衰えさせないためにいろいろ工夫をしたりするトライアルをさせてもらっていることに、たいへん満足しています。ひとりの選手の人生に投影している物事は皆無だと言い切るのは大嘘になります。たくさんのいい人々の善行やステキな言葉は、私としても留めて記憶しておき、使える場面に遭遇したら自分なりの言葉として発するように形を変えて言ってみる、○×さんがこう言っていたと、そのすごさの伝承ゲームをするのです。能力をまだまだ上げていこうとするけなげな私としては、アイスホッケーの可能性と能力についての詳細は、本当に驚くべきものです。他のゲームとはやはり違う。サッカーというヒトの足のスピードの限界に、アイスホッケーで慣れてしまっている私は、遅く感じてしまうのです。ボールとパックのスピードも同じです。ゼロから天井のスピードが高ければ高いほど、失敗する確率も増えていく。なのに、コンスタントに成績を残せるすごい人々は、どのように日夜過ごして訓練しているのか?を考えただけでも、私には一晩以上かかってしまいます。
(意図としてはサッカーが原始的だとか揶揄しているわけではなく、出会いの順番だと思うのです。アイスホッケーなんか、という人で、F-1が好きな人が同じことを言っても否定しないし・・・。さらにF-1だとメカニカルな技術とそれに伴う政治的動きなどもあり、違った次元で話は楽しいでしょう。どんなゲームが好きなのか、で人を差別するってことはないですし、私は・・・。ただね、人がみんなすごいって言ってるから乗っかるのが嫌なのよ(爆)。ブームとか流行に抗うようにできちゃってるんですね、私・・・)
ちなみにアイスホッケーも野球・バスケット・フットボールに比べると地位はずいぶん下になります。が、だからこそ私は好きなのかもしれないです。
そして、渦中に居ることが適わなかった私は、選手の引退を恐れながら、それまでのつかの間、目を閉じた瞬間のような饗宴を、出来る限り楽しもうとまたもや決意しているわけでした。
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