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ボランティア活動全般について

06/10/2006 にアップした文章です

 

ここのところ、掲示板に参加しており、ボランティア活動のことについて、またもや考えるチャンスがありました。私も障害を複数持っていますが、健常者と混ざって暮らせています。ま、時々健常者と同じことができなかったり、人様の前に姿を現すととんでもなくご迷惑を掛けてしまうことがあるので、そのモニターがけっこうたいへんですが、全般的に私は障害を持っている自分に引け目その他を感じていません。が、人様からの助けを障害のために明らかに受ける、という場面にはあまり遭遇しておらず、です。

セラピーにしろ投薬にしろ、自分で健常なときに稼いだお金を使って、代価としてのサービスを受けており、誰かの時間を理不尽に使ったことは、これまでありません。重いもの、特にネコの砂も自分では満足に持ち上げられないのですが、ペットストアの店員さんに車まで運んでいただき、チップを上げるほどの荷物のときにはきちんと払います。宅配のときも送料がありますので、含まれています。その後、駐車場からであれば、1個ずつ時間をかけて運べば不可能ではないので、時間はかかりますが、いいエクササイズです。が、空港のバッゲージクレイムなどは本当に困ります。タイミングにより係員が見つからなかったり、頼もしい紳士が回りにいないことなどもあるからです。

そんなわけで、私の筋力運動行脚は続くわけなのです。何でも自分でできることが理想ですが、やはり人々によって生かされているので、常に感謝の気持ちは忘れないようにしようと心がけています。当然、障害のせいで、他人が持たぬ余計な備品が必要だったりもします。いいマットレスを完備しないと翌日歩けないこともあります。便座に座れないことも発生しますので、健常だった頃のようにはいきません。杖も常備していますし、バッグに教科書をいっぱい入れたまま歩けないので、駐車場を何往復もしたり、わざわざ重要な箇所をコピーに取ることなども要求されてきました。特に、レジャーの運動などでは、心はどうであれ、できることとできないこと、が明らかになり、映画館の椅子にも座っていられない時期も長かったのです。健常な頃にやっていたテニスやスキーなどに代わり、水泳やウェイトトレーニング、ヨガなどを取り入れ、走り回るのも恐る恐るトレーナーが見ているところで、しかできませんね。

私のほかの障害は、精神病に分類されるもので、脳内ケミカルのインバランスです。外見はまったく正常に見えますし、時としてはものすごいアドバンテージもあります。が、一旦ドツボにはまると大変なことになり、自分のコントロールが効かないで、そのまま自殺してしまうようなこともあり、セラピーが必要です。さらに、ひどいときには投薬も必要です。心から投薬は避けたいのですが、どうしてもしょうがない場面や時期もあり、イヤイヤながら服用することもあります。17歳で診断されたものの、生まれながらにしてずっと持っていたもので、症状が出たのもかなり早い時期で、3歳前にはあったようです。が、両親は気にしておらず、私はつらい10代を送りました。17歳で原因がわかったがゆえに、ソレに対してどうすればいいか、が理解できて、何かものすごいことが起きない限りは、私は投薬なしで過ごしていけます。ケミカルインバランスも、それほどひどいものではなく、意志や行動パターンの強化、興味の対象の限定などで、いくらでも健常者と同じ生活ができる程度なのです。

特に、今まで隠そうと思って隠してきたわけではないのですが、私は同情されるのが大嫌いなので、避けてきました。遺伝子に組み込まれているにしろ、これは両親やその祖先たちのせいでもないし、環境によって発症したと両親たちを責めてもらいたくもないし、私が自分の人生にコントロールを持っていれば、ある程度しっかりコントロールが効くことなので、同情には値しません。しかも、私は自分にコントロールを持つことに強い重きを置いています。

私は障害手帳をもらう資格があるし、アメリカでも障害者用の届出書類を出せば、駐車場や各所入場料などが安くなる立場にあります。奨学金ももらえる対象にあります。が、一切申請をしていません。考えようによっては誰しも不完全なので、私が平均値よりも優れているところを、誰かに提供できる場面もあるくらいなので、私が社会全体・地球全体のお荷物になることは避けたいと思っていることもあります。与えられた人生を丹念に生きている、というのは、障害があろうとなかろうと同じことなので、特に障害を売りにすることもなかんべ、というのが私の結論です。が、老齢になったときにひとりぼっちで経済的に立ち行かなくなったらわかりませんが・・・。

他人に対して「してもらっている」と感謝することすらあれ、他人に対して「してやっている」という傲慢さは、どこから生まれてくるのでしょうか?一度、セラピストとこれについて2セッション(90分)とことん話したことがあります。ボランティアをやることで、「ボランティアをしている」と言ってしまった時点で、すでにその人は恩恵を受けています。イメージというお金にならない代価です。その人の人間性を高める含蓄があり、言いふらすことによって、違う形での代価を必ず他人からまたもらっているはずです。自分の中でも、「他人に施すほどゆとりがある」「尊敬に値する人間性である」などの自己満足も増えることでしょう。

素人で、自分のボランティアをやたらめったら口にする人には、私は懐疑心を持たざるを得ません。しかも、「してあげている」態度プンプンな人には、信頼など置けるわけもありません。

以前の『すべては自分のために』というエッセイで書きましたが、私が参加するボランティアは、自分が知らなかった世界に触れるための、あくまで自分に利益が大いにある行動です。誰かのためにやっているなどというおこがましい考えはありません。ただ、行動することで誰かのために「ついでに」なるのであれば、そりゃ願ったりかなったりです。たとえば、子ども病院のガン病棟でのボランティアは、英語の音読を強制的に繰り返しさせられる羽目になったので、子どもたちがクスクス笑うところを気をつけて発音するようになりましたし、アメリカで子ども時代を過ごさなかった私には、歌や童話や絵本など、ためになる話満載でした。自分がそんな立場だったら?と共感能力が磨かれたことも大きな収穫です。動物関係のボランティアも同じで、「犬よりネコが好き」だの「とかげは気持ち悪い」だのというものを超越する理由はなぜなのか?がよくわかりました>私は苦手な動物いませんね・・・。蛾がちょっと苦手なのですが、あの模様を見つめないようにすれば大丈夫です(笑)。

そんなわけで、全般的なボランティアの態度を、最近の日本のボランティアができるようになったいい傾向の中でも、問題点は山積みだと思った次第です。「好きでやってるんだから、施してあげてるような態度取るんじゃねーよ」と強く言いたいですね。「あんた、ナニサマ?」と、面と向かっていたら言ってしまうところです。

そういった人々の傾向は、やはり自己中心的です。他人の立場になんてちっとも立っていない。自分の能力の範囲では立っている「つもり」なんでしょう。だったら、放っておいてほしいくらい、というのが、ボランティアを受ける側にもいる私の要望です。お金ならどんどんボランティアしてほしいですけどね>集金できたら、その使い道をもうちょっと心ある団体の代表者はしっかり運用してくれるんじゃないか、と希望して。そのときには、「控除をアテにして寄付してる」と気楽な気持ちにもなれますし。

ちょっとシニカルなエッセイになりました(笑)。怒っているのか?うーん、怒るほどの強い気持ちではないですね。そんな人たちがまだまだいるんだな、と、人類の進化に対してさみしい気持ちです。畢竟、そういう人たちは、自分の人生の中でできる進化を止まらせている、ってことで、その人たちにもお子さんがいたら、それをお子さんたちに見せることで受け継がせてしまう、というのも社会の損失だなぁ、と。

もうちょっとアイディアがあったら、続編を書こうと思います。

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