12/15/2006 にアップした文章です。
人間には、どうも『非日常的』な物事を求める傾向が強いようで、そのいい例に挙げられるのがこのミステリの売り上げ。実際のところは、生命体はバランス(比較・サーモスタット・均衡など、いろいろな呼び方ができますが)を軸にして、環境からの要因を察知し、体内でもそれに則した働きをしているわけで、心も同じ。事実は、安定-乱れの両方を測っており、日常的ななーんの変哲もない安定感と、ドキドキする事件性の両方を欲するのでした。まぁ、ちゃっかりなのよ、どっちも欲しいのですもの。
私なども、なぜにこんなにひとりの作家を読みきることをしているのか?というと、ミステリであれば、1.「先を知りたい」「犯人を当てたい」という動機と、2.雑多に読んで読み漏らしなどがあるのがイヤだという自分の性格尊重、3.図書館だとちょっと難しいが、比較的年代順に読める、という当たり前の他に、4.自分じゃー人殺しや犯罪の計画はしないものの、非日常に案内される、というのがあります。どんな読書でもおそらくそういう要素が多いのでしょう。が、ミステリはかなりお手軽。作家が考えてくれた秘蔵のアイディアとストーリーを、考える脳みそを持っていないかもしれない読者が手に入れてしまえるんですものね。とりあえず、設計図を見せられても チンプンカンプン!?なのとは違いますし、銀河系の天文図を見せられても把握しきれないのとはまったく違います。日常に見えることの中にしっかり潜んでいる非日常。コレを体験できるツールとして、ミステリはお手軽です。
犯罪者や犯罪の被害者にはなりたくない。でも、「あるかもしれないよね・・・」と思いながら垣間見たい。この気持ちがよく表れているのが、Jack the Ripper(切り裂きジャック)に関する著書は、第11代アメリカ合衆国大統領リンカーンに関する書物よりも、ずっと売れているという事実です。この中には、非日常性を追い求める気持ちのほかにも、自分や身近な人の中に潜む残忍性などのネガティブなものを見たいという、不思議な引力があるのかもしれません。
私は不思議と、子どもの頃からお化け・幽霊・血生臭いこと、などに関してまったく平気です。恐ろしいとも思わなければ、非日常だともみなしていません。自分はお化けも妖怪も幽霊も見ないのですが、信じる人々ばかりに囲まれて育ったせいなのか、それともまだまだ日本も捨てたもんじゃなく、見えない力をしっかり信じて、いいことはいいと守って行っているのか・・・、私の生活の中には、超現象やネガティブな出来事をしっかり存在することを認める、というプログラムがされています。ニュースで事件を見ても、「ひどい」「かわいそう」「信じられない」「恐ろしい」という感想はありません。一見冷たいようなのですが、それらのネガティブなものが「ない」と思い込みつつ、エセユートピアに住んでいるほうがずっと「ひどい」「かわいそう」「信じられない」「恐ろしい」んじゃないかと思えてしまうのです。
私自身は、火の玉も見たことがないし、幽霊も見たことがない。でも感じる人を否定するだけの証拠もないし、あったらつじつまが合ったり、戒めになる心持になることがあり、なんだかしっかり使わせてもらっています。『夜中に爪を切ったら親の死に目に遭えない』などと使い古された言葉にも意味があり、「あー、昔は行灯で、爪きりではなくてはさみで切っていて、事故が多かったんだろうな。だからそう言って行動を律したんだろうな」と、いいほうに解釈するようにしています。しかも、親の死に目に遭えないようなリスクを、自ら賭けをして負うのはイヤですしね・・・。が、気づくとTVを見ていて、CMの途中で暇になり、耳かきのついでに、爪きりをしていることは、たまーにあります(笑)。いやぁねぇ、コレがモロに出ている日常性ね・・・。
私が法医学や犯罪モノのドキュメンタリーを見るのは、「資料」としてたいへんにおもしろいからなのです。物事の考え方として、生理学や統計学や最新医学などを駆使した法医学は、かなり他の考え方にも応用できることで、犯罪モノは、自分の小宇宙に囚われたまま、外に出れない考え方にこだわりまくらないための、非日常を持ち込むためのいい材料です。人殺しは私は到底できそうにないのですが、人殺しをそのへんのおじさんやおばちゃんや、お兄ちゃんやお姉ちゃんがやっても、特に驚かないです。小学生が同級生を殺したという事件に関しても、生命が失われたことに対してたいへんに遺憾ではありますが、「○×に限って」などというナイーブな考えはもっていませんので、驚かないですね。ミステリで鍛えているからではなく、すべての物事には、5%前後、あるいは条件が揃えばそれ以上の「事故確率」アクシデントがあるわけなのです。
精密機器を作っていて、しっかりとした型を使って出来上がる製品が、いくつもの双子のように見えても、実際には、寸分違わぬコピーというのは、ほぼありえない。ナノミクロンなのか、もっと細かいのか、違いはやっぱりあるのです。それがヒトがすることであれば、さらに誤差は増えます。条件さえ揃えばどんなヒトでも、たいていの場合は人殺しになれる可能性を持っています。たとえば遭難したときに、食べ物や水が限られていたとして、どんな善人に見えているヒトでも、ゼッタイに争いに加わらないという保証などありません。人を傷つけ競争をする、もしかしたら殺す可能性もある;その可能性を抑えつけて、自分の生命よりも他人の生命を尊ぶことで死んでいったサバイバル物語がいくつもあります。生存者が伝えてくれたところによると、彼らもまた地獄を見て、彼らを責めとがめるわけにはいきません。さらに、他人事について、「私だったらこうだ!」と決め付けることなど、誰にもできないですよね・・・。
私はコレを『仮説鍛作』とでも呼んでみているのですが、自分がこれまで実体験をしていない仮の状態で、自分はどういう言動を取るか?と、想像を馳せることで、ヒトは鍛えられるのではないか?という推論。けっこう楽しいので、よく想像しています。自分だったらどうするか・・・。そんなときですね、自分がいかに凡人なのかに気づくのは・・・。
簡単なのは、映画です。主人公と同じ立場に置かれたらどうする?ミステリも同じで、自分の中にえげつない殺意を持つほどの憎しみなどがない、と、この練習段階で断言しているようでは、ちと結果と予想のギャップがありすぎるかと思うのです。自己を知らない、に尽きるのではないかと・・・。
特に、江戸川乱歩のはすごいや・・・。今はPolitically incorrect差別用語なので、おおっぴらに片輪などとは言えず、辞書を引いても「車の片方の輪」などと記載されています。一寸法師やせむしやシャム双生児やいざりやその他、不具者のオンパレードで、今の時代にそぐわない内容だという注意書きがしっかり書かれています。自分がそうであれば?とここで考えることは、私の「外に見えない障害・不具合」について、またもや考える材料になっていますし、もしも明らかに世間に非難されまくる障害・不具合でなかったことに関しての感謝も深くなっていきます。
おそらく、ひとりひとりの中に、Jack the Ripperになれる可能性があるかもしれない、とは、みな気づいているのでしょう。だからこそ、犯罪モノやミステリは売れる。最近の日本の殺人事件は、相当にフツーの人々が登場人物になっている・・・。私は以前も書きましたが、ゼッタイに人殺しはしません、とは言い切れません。「したくない」ので、極力しないようにすると予想するとは言えますが、ゼッタイにしないとは言えません。ですから、どんな事件でも、どんな経緯があり、どんな動機で、どんな状況だったのか、ケースとして扱うゆとりがあるとき以外には、見ないようにしています。私もまた、その人の代わりにそこに登場することがあるかもしれない・・・。
日常に非日常が含まれていることは知っていつつも、なぜか非日常にドキドキしちゃうのは、やっぱり贅沢ですね・・・。満喫しましょ♪
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