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ヨロコビの表現

09/26/2007 にアップした文章です。

 

私は小さいことに歓ぶ傾向があり、それほど大げさなヨロコビの表現というのが、あまり必要とされていません。3億円の宝くじが当たっただとか、あり得ないと思っている、夢のない現実派なのだろうなぁ・・・。うれしくてにやにやして笑いが止まらないような状況というのは、私には今すぐに思い出せないです。うーん、最後はいつだったんだろうか?あるいは、そんなことも日常茶飯事であるのだけれども、切り替えバシバシ型なので、ちゃっかり「そんなことはないぞ」と思い込んでいる可能性もあり・・・。泣くことには気づくのよね・・・。本を読んでいても感極まって泣けるストーリーはよくある・・・。が、笑えるものは瞬間で、それほど大げさなヨロコビの表現とは違うのだよねぇ・・・。

小さい頃は、お菓子をもらえただけで、ジャンプして大声を出したもんなんだけれども、カレーにお肉の塊が入っていたのを発見しただけで、2分ほどは得意になって狂気していたもんなんだけれども、どうしてそんなに歓ぶことがなくなってしまったのか?いや、同じくらいにささやかなことには歓んでいるのだから、「どうしてヨロコビを大げさに表現できなくなったのか?」というのが、正確な問いなんだろうなぁ・・・。

私が大上段に構えて考えるに、その答えは、「同じような感性をシェアしてくれる大人に囲まれなくなった」ということが正解なんじゃないかと・・・。

人々はもちろん、それぞれが特別でユニークでかけがえのない存在なわけです。これは、自明のこと。ささやかな違いであっても、同じような人間などあり得るわけもなく、そこに「ささやかではあるが重要な違い」がこめられているわけです。社会科学をやるようになってから、この差異について、本当に考え込むことになるわけですが、その「同じような感性」というのが曲者なんでしょうなぁ・・・。

分け合うのと違い、分かち合うというのは、不思議なトリックが存在していて、Aというものを分け合うのは、分担して取得したり負担したりするわけです。その絶対量というのは一定です。が、分かち合うというのは、目減りするわけではなく、絶対量が増える可能性もあって、なんだかステキなマジックなわけです。ブラックボックスとなる人の心は、たとえばヨロコビをシェアすると、ブラックボックスの法則性によっては倍にもなったりするわけなのね・・・。わかるだろうか、この話・・・。

3億円という物理的金額というのは、一定なのだけれども、3億円は使い方によっては何倍にもなるということで、これは、会計学のマジックを使う手ももちろんあるのだけれども(ほら、基金などにして、利子をなるべく増やすとかね・・・)、奨学金などにして、経済的効果を数倍にすることができて、分け合うわけでもなく、やっぱり分かち合うという言葉がぴったりくるわけです。ひとりで使ったとしても、なんとなく味気なく、豪邸に化けて虚栄心を満足させるだけに過ぎない使い方もあれば、株券を買って何倍にもする人もいれば(そのあとの使い道があるので、またそれも論議対象になるのだけれども)、消耗品を買ったり、自分が使うためのブツを買っておしまいになることもあれば、寄付金としてどこかの財団にあげてしまい、研究というお金の金額からブラックボックスの法則性を変えることもできるのね・・・。

ヨロコビというのもそんなところがあり、分けるだけではなく、分かち合うがぴったりする言葉なのかもしれません。そういう意味では、私はどうも、他人とヨロコビを分かち合ってはおらず、ひとりSMだとか、ひとり芝居だとか、ひとりパントマイムに徹しているのかもしれない、と、このお題は、なんだか反省材料になりつつあるわけです・・・。

が、しかし、私がヨロコビを感じることが、他人様にも通用するわけでもなく、「ね、おもしろいでしょ?」とするのは、たいへんにおこがましく、微笑みや笑いを強制することもできず、やはり個人の感性に頼ることになるわけなのよね・・・。

で、私が英語講師の仕事が楽しいのは、その人生のエッセンスの機微をいろいろ論じられる軸が、英語という媒体があるということなのかもしれず・・・。

ここのところ、オススメしているのは、動画活用やら、小説+Audio Bookを通勤・通学時間に活用することやら、映画やら、と、多岐に渡っているのです。誰であれ、感性がどのくらい違っていても、何かにどこかのジャンルは引っ掛る・・・。そこでシェアできる、ささやかなヨロコビというのはきっとあるはずなわけですよ。何しろ、「英語が操れるようになりたい」という共通目標から探せばいいわけで、すでに英語が操れる私には、提供できるものがたくさんあるわけですから。そのためには、質問をバンバンしてもらわねばならず、ヨロコビ前の表現を、ささやかながらも引き出しているところがあるのかもしれず。それが、無理強いではないことを祈るばかりです。

『洋書が読みたい』で書いたように、ユニークな体験をしてきた私には、英語の原書に対する思いいれやニーズや好きさ加減は、他の人とは違うものがあるのかもしれません。が、もしかすると、たいへんに凡庸なものなのかもしれず・・・。それをいつか、生徒さんたちとシェアできればな、と思うわけです。

人生を歩んでいるという点でも共通点はあるにしろ、あまりに漠然としすぎており、年齢も違えば、欲しいものも違い、考え方も違い、ヨロコビを表現していいのか悪いのか、遠慮がちになっているところもあるのかもしれないですなぁ・・・。

幸せで倖せでどうしようもなく、にやにやが止められないようなことって、本当にいつあったんだろうか?と、これを書いている最中、ずっと考えていたのですが、やっぱり思い起こせない。私は、きっぱりとメリハリがある、冷たく厳しい人間で、いつまでも陶酔できるタイプではないらしい・・・。たとえば、若い頃、夢だと思っていたようなすごいかっこいい男の子とアイテムになって、それが楽しくて笑いが止まらない、というような体験もしたことないしねぇ←私は、あまり容姿に重点を置いておらず、Compatibility(つりあい)というのをそもそも考えていた、夢のない10代を過ごしたので、そういうことがあり得ないわけなのよ・・・。たとえば、今、George Clooneyと付き合えるチャンスがあったとしても、けっこう「当然」と考えるような厚顔無恥さはあるかもしれない・・・。だって、私は結婚を望まないし、花火みたいな一晩だけでもいいと思うだろうし(爆)。そのあと、ニヤニヤして笑いが止まらないなどということはありえず・・・(ちなみに、Monkに出ているNatalie役のTreylor Howardは、少しのあいだ、George Clooneyと付き合っていたのだけれども・・・。うーん、コレは校長センセにしかわからない情報なのか?)

おいしいお肉やお魚にめぐり合っても、それにいつまでもClingしていることもなく、私はきっぱりさっぱりなやつなのかもしれないなぁ。怒りにしても同じで、ヨロコビだけではないのかもしれない・・・。ただ、時々、悲しいときにうれしかったことは思い出して、よく孵化させていることはあり・・・。もう一度、思い出をなぞることにより、うれしいことや楽しいことを体験し直すのね・・・。

笑いが止まらない、って体験ってどんなことなんだろうか?私は、Bill Gatesほどに儲けるつもりもなければ、今世紀最大の発明をする予定も才能もなく、身勝手なので明日妊娠したとしても、その子に人生のすべてを託すこともなく、マグニチュードがでっかいヨロコビというのを、表現することはないと思えるのです。ダイヤモンド鉱石や、徳川幕府埋蔵金のような夢にも賭けないだろうしなぁ・・・。どんなことなんだろうか?

やっぱり私は、表現の少ないやつなのかもしれない。うーん、もうちょい自分を観察してみませう・・・・。

 

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