可能性としては、2つの面から考えることができます。ポジティブな気持ちから出ているものと、ネガティブな気持ちから出ているもの。2つの可能性を模索していくと、
<ポジティブ>
- 便宜を図ってあげたい
- 苦労がないようにしてあげたい
- つらさを軽減してあげたい
- 私が手を出していいのか確認したい
- 心配している
など
<ネガティブ>
- 自分の思い通りに動いてほしい
- どうして社会の基準と違うことをするのかいらだっている
- 単純に妨害したい
- 八つ当たり
など
この2つに共通することは何でしょうか?
ある一定の基準点を見出していて、口出しする本人自身が「その基準」が正しいと思い込んでいるところです。口出しする人が、優秀であろうとエゴの塊であろうと、問題なのは、「他人の自由意志に積極的に影響したい」というパワーゲーム思考だということです。
たとえその口出しが、+であろうと-であろうと、他者に「干渉」していることは動かしようのない確かなことで、なぜそうなってしまうのか?
ひとりの人間が「生き延びるため」にすることは、ものすごく不思議に複雑です。できることなら、「ラクに楽しく生きたい」わけで、そのためにさまざまなことをしようとしますが、結局「苦労の多いつまらない生き方」になってしまうかもしれない可能性を秘めています。
苦労しないためには、「予測が当たり、先読みができ、自分が努力しないでいけたほうがいい」なので、他者も自分の思い通りに動いてくれたほうがいいわけです。たとえ、ポジティブな気持ちから来ていたとしても、他者に苦労がなければ自分がこれ以上面倒を見る必要がなかったり、想定外の出来事が起きないで済むようになります。
逆に、部下や家族や友だちが、失敗ばかりしているときには、ある一定の予測できる基準を「やってくれよ」という要求にすらなってしまったり、自分の基準超えをする優秀な人たちに「脅威」を覚えることになります。そうなると何が不都合か?自分が相手の基準に合わせていかねばならないのでものすごく努力をしなければならなくなる。これはコレで不都合なのです。充分忙しいんですから(笑)。
こうして社会の中で上手にやっていこうとすると、他者が自分が生きていくのに邪魔になるので、「自分が独自に考える一定の基準」を他者に要求する心持ちになり、それをパワーとしていくわけです。あるべき健全な他者との境界線をうやむやにしていき、本当の意味での「一体感」とは違うものに満足していくことになります。
要点としては、「確固たる自分を持ち、他者のスタイルを自由に放置しておける勇気を持つこと」が大切です。たとえ、その他者が学ぶことを放棄しているように見えても、その人の人生です。子どもは別としても、大人にあれこれ指示をしないで生きていける世の中のほうがきっと、楽しいしラクなはず。
最低ラインをいくつか設けて、それ以上のことは他人の自由にしてさしあげてください<(_ _)>
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