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人は寄り添って生きるもの?

 09/07/2008にアップした文章です。

ここのところ、精神的に影響があるなぁと思う出来事がいくつかあって、よく考えてみるとその共通点は、やはり私のIndependent加減の強さです。私のその強さが前提となっており、他人様のDependentな部分を、どうも理解できないようです。そのために、額面通りに私の言を取る人々が、「現実はそうではない」ということになり、なんとなく私が責められている気持ちになる、と。元々、何かを頼るということがない私にとっては、他人に頼るのであればこの程度まで、と決めており、それ以上のことはお金で解決したほうがよさそう、となると、歓んでその代価を支払う傾向にあるので、そうでない「密着型メンタリティ」の人々に与える誤解は強そうです。



実際、私が楽観的に考えたことは、私だからありえることであり、他人では拒否されるケースというのは割合としてはかなり多く、その拒否をこれまでいくつも耐えてきましたが、いつしかそれが耐えるというほどのことでもなくなり、「あなたはそうなのよね」という認知でしかなくなったのですが、私の楽観的な考え方というのは、他人と寄り添って生きていくには、かなり邪魔なのでしょう。私の楽観の基礎にあるものは、「自分が動けば何とかなる」というもので、「これまでの人生で培ってきたものを今試さなくてどうするよ?」という裏打ちがあり、結局思い通りに行かないというクレームめいたものが入ってくるときには、その本人たちの努力というものを丸投げされている形になっている、という感じですか。

 

英語学校での英語の成果としては、宿題や独学部分などがあるので、それをやっていない場合、生徒さんたちもわかるので、私はこれまで生徒さんにクレームをもらったことはないのです。このやり方を「騙されたと思ってやってみて」と提案すると、やったことがないことは歓んでやってくれる。そして、それなりの成果が出るのでますますおもしろくなって続く。という連続になるわけです。

 

ただし、これがもうちょっと複雑な人生の難問やら事件やら出来事などになると、人々はもう少し手をつけるところを間違えたり、手落ちや段取りの理解の薄さから、私の言を「ただの楽観」「ただの大げさな言い様」と捉えることも、たまにあるのだろうな・・・と。

 

これまでおつきあいしてきた方々ののべ数は、ちょっと数えられない。おそらく20万人くらいは行っているんじゃないかと思うんですが、Give or take a fewでだいたいこんなもんじゃないかと。それでも、クレームをすることもなく、ただ去る人々もいれば、我慢してというか、塩梅を見ておつきあいを続けてくれる方々もいれば、私の役割に応じてさよならが来る人々や、移動や人生の転機にぶち当たり消滅する人々もいて、クレーム数というのは、それほど圧倒的に多いわけではなく、おそらくそのうちの200も行かないのではないかと思うのです。が、それでも0.1%なので、ちょっと考えるに至るのです←なんでも数値化するという癖は、この頭にとっては習慣で(笑)。が、統計学的にはそれほどのSignificance(重要性)を持つものでもないのですが、無視できないトレンドなのかとも・・・。

 

私は、そもそも「寄り添って生きる」という心理学的な、依存関係というのは、極力ミニマムに減らしたいと常日頃から考えているわけです。なので、何かをしてあげた、とも思えず、やったときには「これはこの場で消滅ね」というさらっとした加減です。何かをしていただいたときには、相手の心情やスタンスを考えた上で、一度のお礼はしますが、それ以上が必要な場合、かなりうんざりしてきます(笑)。

 

むしろ、私の解釈としては、「あなたはコレを、私はコレを、分業ね」というもので、自分に足りない、できないことがあれば、提供しあうのが寄り添う理想的な形で、誰かが最初から丸投げして、「じゃ、これは私のことだけれどもあなたがやってね」というような前提を持っていないのです。大前提は、「自分のことは自分で極力ぎりぎりまでやって、できないことは助けてもらう。それもできることなら少ないほうがよし」という感じでしょうか。

 

たとえば、我が家では、稼ぐのは私なので、その分、母が肩身の狭い思いをせぬよう、家事を全般的にやってもらっており、私も料理や洗濯や掃除はできますが、彼女がボーイフレンドの家にお泊りしたときだけにしています。アメリカでは、私はDisorganizedな人間なので、整理整頓ができないことを知っていたために、モノを増やすことをしないようにしてきました。日本に戻って来てから、買い物は消耗品しかしておらず、メガネやコンタクトも消耗品として扱っており、あれらは2年くらいの消耗品なのだろう、と(笑)。洋服なども、季節の変わり目に、6~10くらいをばばーっと買って、傷んだら捨てるを繰り返してきているので、アメリカから持って帰ってきた服の数は存外少ない。が、母と久しぶりにいっしょに住んでびっくりするのは、モノの多さ。こんなもん、私が整理整頓できるわけもなく(笑)。なので、彼女の分担とすれば話はわかりやすく・・・。

 

あ、話が分かり難くなってきたか?

 

留学をするのに、私はとりあえず、「誰でもその気になれば行けるし、成功する」と大前提を話しますが、そのための条件をいくつか提示します。その段階で、誰かが「俺も誰でもの誰だ・・・」と思われてしまうことが多いということで・・・。そのいくつかの条件のうち、「自分の道は誰かに頼って切り拓くものではなく、すべて自分の肩にのしかかっているのだ」と意識することなども入るのですが、「精神的に圧迫されない程度の潤沢な資金があること」などもひとつです。ただ、その精神的に圧迫されない金額というのは、個人によって違うわけです。私はわずか600万のお金で、1988年に渡米しましたが、それでもすぐ無くなりました。しかも、私は圧迫されるほど弱くもなく、初年度から、オンキャンパスで働いたし、日本人相手にタッパーに和食を詰めてお弁当を売り歩いたし、タクシーまがいにバスを乗り継ぐ子たちを送り迎えしたり、日本語も教えたし、と、お金を得るためにサバイバルはしましたから。が、ある人にとっては、そんなことはしたくないのかもしれず、だったら準備するお金の高は違うのです。

 

その他にも、「人生のうち、これまでにないほど勉強できるか?」という条件も提示します。私の場合簡単だったのは、それまで宿題も出さないほど勉強をしてこなかったので、最初から勉強とはなんぞや?から始めねばならず、その覚悟というのはできており、へんな楽観があったので、「日本語をこれだけ話せるようになるにも24年かかったんだから、外国語もそれくらいかかっても不思議じゃない」とすら思っていたのです。とはいえ、24年もかからず、1年で専門学校に行けて、飛べるようにはなりましたが・・・。

 

そうした条件提示を聞かないで、甘い言葉だけを額面通り受け取られてしまった場合、私が詐欺師になります。「寄り添って生きていくのは当たり前」だと強く思っている方々にとっては、私は本当に詐欺師なんでしょう。「言ったじゃない!」と思われてしまう。「自分のことは自分で極力ぎりぎりまでやって、できないことは助けてもらう。それもできることなら少ないほうがよし」と、最初から思っている私が、ナニを言っても他人に対しては大げさなことを言っているように感じるのは確かなのでしょう。

 

が、講師としてはこの方法はいいんだよねぇ・・・。が、個人的な人とのおつきあいでは、0.1%くらいの割合で、弊害がある・・・。これはどうかなと、思ったのでした。うーん、でもきっとこのやり方は変えないんだろうなぁ・・・(汗)