03/25/2007 にアップした文章です。
向井亜紀・高田延彦両氏のお子さんたちについて、最高裁まで審議が進みました。こうなることだろうな、とは予測していたものの、先駆者はこうした受難を甘受せねばならないのか、と、なかなか変わらないニッポンの部分たちに、やはり少し落胆しています。変わっては悲しいこともあるけれど、変わらなければ人々を不幸せにすることはたくさんあります。はい。私は、代理母は賛成です。私個人は、他の女性のおなかを借りてまでも、子どもを持つことは決心しませんでしたが、そうしたい人がいるのだから、オプションを広げておくことは、当然のことだと認めています。赤ちゃんポストのときもそうですが、「生命尊厳」が第一に来る問題で、どうも本末転倒になるきらいがあるような・・・。
ニュースは多数ありますが、これら。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20070324k0000m070168000c.html
http://www.asahi.com/national/update/0323/TKY200703230261.html
出生届を受理しないということは、彼らの子どもたちは、パスポートも作れず、住民票もなく、免許も取れず、学校にも行けないということになるのだよね?存在しないと、公的には認めているわけで・・・。基本的な人権を与えられず、幸福を追求する土台を取り上げておいて、憲法違反じゃないのだろうか?と、私は単純に考えますが、これも、「親が勝手に望んでやったこと」と済ませていいわけがない・・・。
まぁ、これは最高裁のコメントをしっかり読むと、彼らも「人情として我々もこの判決は苦しい。けれども、法制を整備してくれなければどうしようもない」ということは見て取れます。なので、法制を変えるほうの人々の仕事が急務なのですよね・・・。
世界でイチバン最初の体外受精が成功したのは、1978年。今から30年ほど前です。この日が日本にも来ることは、確実にわかっていたことなのです。「大の大人が雁首揃えて何ぉやっていやがったんだ」と、粋な江戸っ子なら言うところです・・・。産婦人科協会なども、着手していたようですし、それについての懸念を聞き入れる準備が、法制に足りなかったことは、現在の状況を見て明らかです。人々に最も影響力のある、文化人・教養人・芸能人で興味を持っていた人は、30年近く力が及ばなかったことにもなりますし、その人口の中でも、この問題に着手しなかった人々が多すぎるのも、問題です。
私の母などは、こういった状態のことを、『泥棒を捕えてから縄を綯(な)う』と言います。もー、しょっちゅう言われるのよ(爆)。(日頃何の準備もせず、事件が起きてからあわてて用意をすることのたとえ。どろなわ)が、私は、30年前のことはさすがに言われないですよ・・・(爆)←自己正当をここでしても何にもならないか・・・(汗)。
私が使う言葉に、Sanctityという言葉があります。人間の領域ではない、聖域という含蓄を含んだ尊厳のことを指します。場所については、sanctuaryで、教会関連のことを指すことが多く、野生保護地域などは、sanctionという名詞を使います。
代理母を自分がやらないのは、この聖域を侵すことのように思えるからかもしれません。が、しかし、たいていの医学の進歩はここを打ち破ることから始まっています。工業や工学、物理や化学なども同じことで、これについて、くどくど言う人たちは、日ごろの便利な生活に感謝をしていないか、世の中の仕組みである大きな図柄がまったくわかっていないことになります。これは重要ポイント。
なぜならば、歴史上、今まで「正常・普通」とみなされていた生殖行為の倫理や、日本人が信じているであろう家族関係(親子関係)の基本的秩序を、「守りたい」「守らねばならない」と頑なに思う心は、美しい行為ではあっても、「絶対的価値」は、ないのです。揺るぎない、古今東西に通用する社会科学的概念などはほぼありえず、普遍性を持つ、絶対的価値は、自然科学の中でも設定や条件をつけなければわずかになります。
ここがわからないで、新しいものを拒否するのか、肯定するのか、肯定するならば度合いはどうするのか、スピードはどうするのか?などをしっかり考えていける人間が、賢い♪ということになるわけです。
もちろん、代理母を認めることで、日本の家族関係を緩やかに変化させていくことになるでしょう。どんなものであっても、ツールは使い手の問題であり、開発した人間にすべての責任を押し付けることはできないのは、車や電話を発明した人を誰も非難できないのと同じです。車は殺人武器となりますが、世界のほとんどのところで使われるようになっています。電話により人間関係が希薄になったとする意見もあります。それでも進歩はしていく・・・。これが進化なのか進歩なのか、は、使い手にかかっているのですよ。携帯電話の出現により、家族関係がぶち壊されるのであれば、その家族は「自然淘汰」される対象にあるのかもしれません。もちろん、どんな人であれ集団であれ、私個人としては、生き延びるために奮闘していただきたい気持ちに変わりはないですが、「自分以外の誰かや何かのせいにする」という習癖は、ここらで捨てなければね・・・。
私は自分の血肉にこだわりがないので、「どうしても自分の血を分けた子どもが欲しい」という気持ちが、ぼんやりとしかわかりません。が、そういう気持ちを強く持っている人たちがいるのは理解できるし、その望みは、医学的進歩により叶えられる状況になったのだから、どんどんやればよい、と思っています。私にとっての聖域は、他人にとっての聖域であるわけもなく、それはもうすぐ咲く桜の樹の下で体感することになるでしょう。先駆者として、彼らが支払った代償はとてつもなく大きい。顔と名を曝し、心や世界観を曝し、莫大な時間とお金を掛けてでも、どうしても血肉を分けた子どもが欲しかったわけです。親になるために歩んできた道のりは、アクシデントで「できちゃった→誰の子?→堕ろさなくちゃ」というありがちなメンタリティより、ずっと評価されていいことだとは思いませんか?何かを懸命にした人々を、「寄って集ってこき下ろすような」ことをするのを、到底見ていられない気分です。その目的や動機が、自分と違うから?それは、なんという傲慢な態度なのでしょうか?「何かをひたむきにしてきた」という一事には、どうして注目できないのでしょうか?どうして、他人を自分と比較し、他人の考えを自分の考えと比較し、「自分が安心するため」「攻撃するため」「優位をつけるため」に使わねばならぬのか、どうも解せぬところです。
「愛する人の子どもが欲しい」と願う気持ちに水を差し、「そこまでしてでも欲しいかねぇ」などと、日和見の第三者的意見を言うのも、きっとその人の仕事や子育てや愛情生活やその他に影響していると思うのです。あなたの「そこまで」と私の「そこまで」は違う。ここに気づかねば、きっといろいろなことで、自分で自分にストッパーをかけていることになります。代理母問題にしても同様。
しかも、医学の進歩で、死にゆくパートナーの卵子や精子が残しておけることになったのですよ・・・。お金にゆとりがあり、それに伴う苦労を厭わない人たちが出てもおかしくはないです。使ってほしくないのであれば、料金をもっと高く設定したり、学会発表を避けてスパイ活動風にしたり、法制が「使ってはいけない禁止令」をそもそも先手を打って出せばいいではないですか・・・。
有名人では、Celine Dion。だんながガンだったので、体外受精にトライしました。ラッキーなことに、凍結した精子は見事に受精したし、彼女のほうは健康だったので、代理母を頼むことも必要がありませんでした。だんなのガンも完全治癒ではないにしろ、再発はまだ見られないそうです(ニュースなので、本人たちの日々の怯えはわかるわけもないですが・・・)。死にゆくような病だけではなく、他にも、心臓病や子宮そのものの疾患などで、赤ちゃんを9ヶ月おなかで育てられない女性は、確実にいます。彼女たちもやはり「サバイバルできない人々」だとしたら、私は、後天的な家族不和よりも、先天的な不幸なくじについて、考えてしまうわけです。なぜなら、彼らが「身から出た錆」に苦しんでいるのではないからで、宝くじではない貧乏くじに抗うために真摯に努力するのに、誰かがどうこう言う問題ではないと考えるからです。
あー、もっと書きたいことがあったのですが、ページが大幅に増えてしまいました。やっぱり、1回では無理だったのかもしれない。ご意見お願いします。
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