03/19/2007 にアップした文章です。
ここのところ、仕分ければ大企業あるいは、中堅企業とされている会社の杜撰な経営状態がどんどん露見しています。これは、ほぼすべてが内部告発。ここで、会社を経営している側に立つ人間は、「うむむ・・・」と考えねばならぬことでしょう。使われている労働者側に、呆れられ内部告発を受けている企業ばかりです。小さいことで言えば、食品の賞味期限のシールの張替えをさせられている従業員のビデオ撮影や、社内用の文書のコピーなどが、外部に流出しているわけです。不二家なども、従業員からの内部告発のいい例です。どうでしょ。管理者側が、もうちょっと真剣に労働者の側にしっかり立つことを考えてみては?
はい。私は長いこと、ひとつの会社にお勤めをしたことがありません。派遣でNHKに10ヶ月ほど通ったのが最長です。よかったのは、出勤時間が10時だったことで、帰りもそれに合わせてずれており、午後7時だったために、それほど電車の混みを感じずに済みました。それに具体的なモノを作るのではなく、番組を作る補助である、翻訳や通訳をしていたので、特につらいこともありませんでした。当時の私は父が死んでしまったがゆえに、毎日飽きもせずに意識や記憶がなくなるまで飲み続けていたわけです。翌日も、二日酔いが多く、編集室等逃げる部屋や仕事はいくらでもあり、隅々までのいろいろなことに目が利かなかったことは明白です。
どんな世界にも、愚痴や不満がゼロなどというユートピアのようなすばらしい世界はないでしょう。私もそれほどナイーブなわけではないです。が、しかし、賞味期限切れの食品を売るというのは、そういう材料を使ったもので製品を作り、平然と売るというのは、倫理観が大きく歪んでいるとしか言い様がありません。明らかに身体に悪いことが起きる可能性が高まることで、その会社から労働の代価としてのお金を受けることは、本当につらいことです。自分もやはり、黙っていることで、その「一味」になってしまうではありませんか・・・。それが時間を経て、しこりとなり、黙ってはいられなくなり、心が痛み、どうしようもなくなっていく。慣れていける人たちはいいのです。生き延びていけることでしょう。が、慣れていけない人たちもいます。自分の精神衛生や身体にまで顕れる症状が起き、健全とは言えぬ状態に陥っていきます。
倫理:人として守るべき道。道徳。モラル
モラル:道徳。倫理。人生・社会に対する精神的態度。
道徳:ある社会で、人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく、個々人の内面的原理として働くものをいい、また宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの。
私が横田基地で仕事をしていて感じていたのは、私には頭の中にはいろいろ詰まっているかもしれないが、実際にものづくりに対する敬意があろうとも、自分には到底、「極み」には到達できる粘りなどは持てないということ。これは、躁うつ病に生まれてしまったサガでもありますが、やはり人間としての性根がユルユルにできているのです。高さが出ている建物を建てていくときには、足場を掛けなければならないのですが、それは法律の問題ではなく、仕事にならないからです。アメリカのJimの現場では、Man-Liftと呼ばれるゴンドラのついたクレーン車のようなものを2・3台(現場の規模によって違う)使っているのですが、日本ではあのようなものを使うよりは、規模にもよりますが、足場を作ることが多い。足場を掛けるには、計算をしなければならず、そもそも材料がいくつ必要であるか?という問題から始まるわけです。私のようなテキトーな人間には、なかなか本気になれない仕事なのだろうと思えるわけです。縦横厚みが何センチだから何枚と何枚が東西南北と高さで計算しつくせる。もちろん、弱小現場では(1億くらいの工事費ではその現場はとても小さいのです)、足場の材料もリースです。多少余分に借りるのと、多めに借りるのと、無駄に借りるのとでは、足場を組む人々の能力が決まります。「うーん、私にはこりゃできねーな」←結論(爆)。
鉄骨を組む高いところを得意とするとび職の人々を、JimはMonkeys(おサルさんたち)と呼んでいました。英語では、Iron Workersというのですが、彼がおサルさんたちをいかに愛したかは、「もしもできることならば、養子にしたいくらいだ」「次の現場に連れていけないかな」などと連発しており、命綱をつけた彼らは、「サルのような高さを恐れぬ身軽さと、ネコのようなバランス能力」を身につけたすばらしい職人さんたちだったのです。彼らは、高卒で現場で鍛えられます。親方に言わせると、「材料や工具や留めや始末なんかの名称を覚えるだけでも相当だよ」とのことで、2・3年でモノになる子(20代前半くらいまでは、親方にとっては子どもなのでした・笑)は少ないとのこと。独り立ちできるようになるまでは、「そりゃぁ、10年かかるべな」ということらしい。が、彼らはみななかよしで、高さがあるところでお互いの命を預けながら仕事をしているわけです。すごい信頼だ・・・。こんな現場では、内部告発など起きることもなく、我慢して熟練して独り立ちできる場所としてすばらしい親方を見つけて、師として仰いでいくのだろう、という、まるっきり私が今読んでいる、池波正太郎の『剣客商売』のような、「好きでたまらないからやっているふう」というのが、見て取れたのです。
が、いくらモノを作る仕事でも、職人技ではなく、大半が機械に頼り、機械がしきれないところを人間がやるような工場では、「たぶん誰でもそれなりの訓練でできるだろう仕事」を、毎日やり続けるわけです。ちょっと出世しても、その現場の書類や管理などで、「誇り」が持てる仕事であることは、たいへん残念ながら少ない。私からしてみれば、ケーキ作りに携わっている人々は、「相当な技術」だとみなしているのですが、実際にお菓子作りも流行しているし、昔考えられていたほど、お菓子作りも難しいものではないのかもしれないです。それでも、妻子を養うために、パートさんやアルバイトさんは、子どもを育てたり、生活をラクにするために、学費を稼ぐために、憂さ晴らしのお酒や遊びのために、せっせと、単調かもしれない仕事を続けているわけです。どうして、彼らの仕事に管理者側のほうが「誇り」を持たせてあげられないのか?揚句の果てに、「社会から断罪されるようなこと」を半強制的にやらせようとするのか?
それが、お金のためであれば、本当に悲しすぎます。私の現在読んでいる『剣客商売』の剣術使いは、お金はないけれども、たいへんに倖せに暮らしている人々が多い。もちろん、悲しいことや、因縁めいたストーリーも混じっているのですが、凛とした人々が自分の道を信じて暮らしています。たとえば、私は今でもやるのですが、他人を見送るときに、玄関先ではなく、姿が見えなくなるまで送る。角を曲がったあたりで、手を振るのをやめて、名残を惜しむ感じ。今、これをやるのは、ラブラブな最中の恋人同士くらいなんだろな(笑)。いや、たぶん、いつまでも誰にでもやる人たちも、まだまだいっぱい居るのだと信じたいのですが。マンションに住むようになってからは、相手が面映い気持ちになるらしいので、ぱったりエレベーターに乗ってまでも送ることはやめました。なんだか構造として無理があるようです・・・。押し付けがましい感じになるので・・・。月などが出ていると、そりゃぁ、とってもいい感じで、それまでシェアしていた時間を胸にいつまでもほんわか残しておけるので、見送るという行為を、私は好きです。
人として「誇り」が持てないことを、企業としてやらせるから、内部告発を受けるんだよね・・・。そこには、暗黙のうちの強制が働き、見えない牢屋に入れられている気がしてきてしまう。人間が信頼しあえない関係ばかりの世の中にするのは、企業の影響力が大きいことは、政治家も企業家も考えて然りです。校長センセのおっしゃっていた、献血車を会社に招くなどの努力などもすべきだし、奨学金や寄付などもバンバンしてほしいものです。そうして、単調な仕事でも、愚痴が出そうな仕事でも、不満が多少ある仕事でも、働いている人たちは、「誇り」を保っていけると思うのです。私は今のところ、生徒さんに信頼され、学んでいることを「誇り」に思ってもらえるような時間を提供したいと考えています。がんばろ♪
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