目に見える何かを作れるっていうのは、満足度が高い成功体験です。ところが、目に見えにくいものを作り続ける仕事をしていると疲弊して、本当に疲れてしまうし、成功か失敗の判断もつきにくいため、自分に対してのプライドも揺れてしまう・・・。
何も作らずに仕事をしているというのが即座に例として出てこないので、あまりないんだろうと思います。でなければ雇う方も困っちゃいますしね・・・。 (・・;)
生産性がないことをしながら生きていくのは、心理的にものすごくつらいことです。
音楽にせよ、砂の山にせよ、ヒトは発達段階で、自分が何かを作り上げることを学び、欲求の最終段階である 「Self-actualization:自己実現」では、自分にしか作れないもの、自分だから作れるものを追求していく欲を満たしていこうとします。
そして、ネコ3匹と暮らしているワタクシは、ネコたちがわかりやすい見えるものを作っているわけではなく、かわいさ・学び・感情の多様性・いたずらと好奇心など、見えにくいものを作って暮らしている満喫度合を見て、本当に羨ましくなっちゃうんだよなぁ(笑)。わんちゃんたちのように、ヒトのためになるわけでもなく、新聞や電話を取ってきてくれるわけでもない。エクササイズにだらしない飼い主の散歩の口実・存在理由になってくれるわけでもない・・・。自由すぎてすごい!これだけ目に見えないものしか作っていない彼らはすごすぎる、とすら畏怖を感じてしまうほどなのです。 (・・;)
私は彼らのように開き直ってかわいい顔すらできず、けっこうふてくされてしまう、まだまだ修行が足りぬヤツだぜい、と、けっこう切なくなることも大いにあり。
子どもの頃はよかったなぁと思うのですね。砂場もあれば、チョウチョやクワガタやカブトムシもいたし、かわいそうな捨て犬や捨て猫もたくさんいたし、折り紙や段ボールやはさみや鉛筆もたくさんあった。作れるものは数限りなく目の前にあって、それが意味を為さずともいいという状態だったし・・・。次第に、もっと、もっと、きれいに、上手に、便利に、かっこよく、かわいく、楽しめる、などなど、付け加えていける知恵がついて、少しずつすべてにトライしなくなっていく・・・。
実際はこのように「言葉を組み合わせて作り上げる」という行為は、ずっと続いてきており、たとえ聾啞になったとしても、脳内では作り上げていくのだろうと思うのです。ただ、懸命さやひたむきさ、尽くしている感はどんどん減っているエリアが出てきてしまうのですね。
それが効率とか、時間の事情とか、さまざまに織り交ぜられた事情による選択肢なんですが、本当にベストを選べていて、そこに心も知恵も入れ込めているのかどうか?を問われると厳しい・・・。ヘタに高次機能を持ってしまったニンゲンはまたもや相対評価などに怯えて、自分がイッタイいくばくの価値があるのか?などと考えてしまうわけです。
悪循環なネガティブ思考の輪っかに入ってしまうともういけません。けっこうなグルグルが続きます。
私にとっては、もう7年も「集客」という悩みが解消されておらず、限りある資金の中でできることや、限りある時間の中でできることに、本当に振り回されてきた感ばかりに苛まれています。それでも、英語スクールが好きすぎてやめることなど考えられず・・・。
というわけで、今度は新規事業を考えてみたらいいか、と、何度目かに思い立ち、間違ったグルグルをしないよう、何かを確実に作り出せるように、と、手綱を締めなおしているところです。
さらに、母がいなくなってしまったグルグルに対抗するために、今晩は彼女の得意料理だった「水団」を作ってみることにいたします!
コメントを投稿するにはログインしてください。