11/13/2007 にアップした文章です。
日本に戻ってきて、何が人々の行動指針・基準になっているのか?と見渡すに、やはり「自己中心」Self-Esteem(自己尊敬心)の間違った維持や昇華、などが原因になるケースが多いことなんだろうな、と、数値は取っていないものの、体感をしています。ヒトがヒトとして生き延びるためには、確かに自分を好きでいながら、個体の中で「理屈が通る」ことが大切です。が、間違ってはいかんのが、他人もやはり同じように考えており、自分と他人の価値を同等として、出発点で考えていないことなのでしょう。ここは、大きな狂いを次々と醸しだす原因になっています。
保身:自分の身体や地位・身分などを守ること。
自己中心性:(1)物事を自分を中心にしてとらえ、他人を考慮しないこと。エゴイズムとは異なる。(2)〔心〕 ピアジェの用語。乳幼児期に特徴的な思考様式で、自我と他我、主観的事実と客観的事実が区別できず同一視してしまうこと。
自己言及性:〔self-reference〕自己自身を指示・言及すること。パラドックスを導くものとして数学・論理学の領域で注目され、社会システム理論でも問題とされる。
自尊:(1)自分で自分を偉いと思い込むこと。(2)自分の人格を尊重し、誇りをもち品位を保つこと。
自尊心:(1)自分を優秀な者だと思う気持ち。尊大に構える心。プライド。(2)自分の品位を保とうとする心。プライド。
うーむ、なんだか壮大なことに手をつけようとしているのですが、これまでまとめて扱ってこなかったので、その報いなのかと(笑)。諸処に散りばめては来たのですが、お茶を濁してきたように理解され難いことを書いてきたのかもしれず・・・。
ヒトは、大脳が発達してしまったために、論理性・記憶などの他の生命体にない特権を持つことになりました。そのおかげで、恩恵もたくさん受けたものの、諸刃の剣として引き受けねばならぬのが、この大脳が造りだす負の部分。
アメーバはBeing(存在)として意識をしているのか?よりよく生きるためにはどうしているのか?この問いそのものが、かなり陳腐ではあります。脳すら持たないアメーバは、種としての存続すら考えておらず、最低限の「生き延びること」に日々邁進しています。そのおかげで、よりよい環境に移動したり、進化するための食物として摂りいれる種類を増やしたりしてきていますが、ヒトはもっと広大な範囲で進化してしまった。ところが、それを進化となべて呼んでいいのかどうか?これが、そもそもの問題ではあります。ヒトは、他の生命体とどこを異としているのか?出発点はあくまで生命体としての基本なのではないか?生物学者や動物学者などに言わしめれば、ヒトはたいへんに尊大で傲慢なイキモノということになるのではないでしょうか?『弱肉強食』という言葉に対する解釈も、その視点や世界観により、大きく違ってきます。
遺伝子に組み込まれてしまった「本能」は、後天的な学習により120%の改編が可能なのかどうか?それは強さにも方法や時間にもより、「対象物によって違う」という結論しか、今のところは出ていません。そのおかげで進化は可能だったわけで、こうしてヒトは産業革命や技術革新を起こし、ここまでたどり着いてきています。長いながい歳月が必要なものと、環境整備が必要なものと、心的作用が強く必要なもの、など、その分類は、この1世紀でずいぶん進んだものの、脳神経学や社会学や経済学などと共に、まだまだ解明の道を歩んでいます。
そこでまず第一の大きな質問:
ヒトは、他のどんな生命体よりも「価値が高く、偉く、賢く、存在意義が大きいのか?」
これは、自分も含め、人間をそれぞれの個人について考える基礎的な考え方になります。大切な質問であり、大切な答えです。私は、30歳を過ぎてから、もう一度大学にゼロから通いだし、しかもそこがアメリカだったせいで、アップデートができたのですが、その中に生物があり、宗教学があり、倫理学があり、歴史があり、本当にいい時期にやり直しができたものだと思っています。しかも、論理的な英語という言語で学んだことで、さらに浸透度も深かったのではないかと。いや、当時は、火成岩の種類がいくつあろうとどうでもいいじゃん、などと思ってはいたのですが(爆)。ところが、そののち、御影石(深成岩に分類され、さらに流紋岩→花崗岩と分類される。墓石などによく使われる)を視る眼が変わってきた(爆)。不思議なものです。が、やはりそれは「共感」でしかなく、私は岩ではない。なので、生物や心理学を学ぶにあたり、よく作用したものの、フルに使ってはいないんですけどね・・・。石屋じゃないし・・・。
便宜上分類することと、そこに後々意義や定義や意味を加えることとは、ふたつの似た別のことです。どのような意味合いを持たせて分類するか?という含みがあるので、そもそも、便宜上だとは思わないのでしょうが、実際は、その分類の意義のみが純粋な意義であり、後付の意味や価値などは、分類したBeingがよしと思う、主観が混じっています。分類学者で有名なのが、スウェーデンのリンネですが、未だに基礎として使われており、偉大です。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%8D 彼が偉大だったのは、簡素な構造から、複雑な構造の生命体へとメカニカルに分類したことで、そこには、ヒトが最も偉い、という記述はありません。ただ、「複雑」という意義しか与えていないことに気づける人間は、少ないのかもしれない。なぜならば、ピラミッド型の食物連鎖モデルや、複雑な物事が与える印象で、学習してしまった価値観があるからでしょう。
私個人は、純粋に、『職業に貴賎なし』だと信じており、『生命体に優劣なし』とも信じています。が、ヒトに生まれてしまったので(私が前世が終わったときにこの生命を選んだという仮説は成り立ちますが、証明は誰もできないはず・・・)、その中で、パワーゲームという、力を誇示したり、利用したり、簡素で当たり前のことをごちゃごちゃにしてマヤカシを使う傾向を、自分の環境の中、できるだけ最低限にしているつもりでいます。
それを体現するのはちとたいへんで、偽善者とよく呼ばれたり、自己認識する場面には遭遇します。たとえば、害虫と呼ばれる虫たちを、平然と日常的に殺す母を代理人に立てているような気分になること。私はもうどのくらい蚊を殺さずに済んでいるか?とつらつら考えるに、アメリカには蚊がほぼいなかったことが助けになっていて、キャンプやハイキングでも高地を選べば水辺でもそれほどいなかったこともあり、もう20年くらいは軽く殺していないのかもしれない。ただし、車を運転していて、無差別に虫がシールドにぶつかってきて死ぬので、直接的で計画性や殺意はないものの殺していることには違いはないのですが。ネズミもアリも殺さなかったし、どうも徹底しているのである。カニが好きなのですが、カニも他の人に調理してもらっているし・・・。本当に偽善者なのである・・・。
イヌイットやアメリカンインディアンのように、自分に必要がない殺生はしない、というのが私の規範なので、自分が豊かになったり肥えるために、肉や魚を食べている意識はありません。なので、私の舌はいつまで経っても貧乏症なのでしょう。
明日は、ヒトから人への考え方を。
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