03/21/2007 にアップした文章です。
気質というのに少し語弊があるとしても、適性や能力以前に、性格的なものがあるのではないか?と、ここのところ考えています。先生の大家である校長センセをよくよく見てみても(おいおい、そんなに眺めるなって!?)、やはり心理的なものに関わる、気質という、性格よりもっと生物学的な面があるようです。さて、私は?と、ここのところ、うららかな陽射しの中で考えているのでした。
気質:(1)言動に表れる、その人の身に備わった性質。気だて。かたぎ。(2)中国で、万物を構成する物質である気の集散運動によって形成される個体をいう語。特に、宋学では、人間の肉体および肉体に固有の心理的・生理的素質のこと。→気質の性 (3)〔心〕 人の性格の基礎をなす感情的反応の特徴。遺伝的・生理的規定が強いとされる。多血質・憂鬱質・胆汁質・粘液質の四分類のほか、心理学・生理学などに基づく種々の分類がある。
まぁ、この最後の4分類はたいへんに古い話なのですが(ルネッサンスの前くらいだね・・・)、遺伝子が発見される前には、人々がさまざまな憶測をし、本当にいろいろな解析をしてきたのですが、確かに生物学的要素が強いものが、気質となっています。
私の場合には、遺伝子にしっかり組み込まれた躁うつ病という診断があるので、MRIで見ても脳内ケミカルの分泌が平均的な図柄ではないのです。腰で2回、頭で1回、MRIに入りましたが、ほんのわずかな閉所恐怖症傾向があるので、あまり気持ちのいいものではありませんでした。あ、余談ですが、閉所が平気、あるいは大好きという人は、母親の子宮の中の感覚を身体でよく憶えているようです。しかも、大好きな人は、電車に揺られたりメトロノームなどのリズミカルな音を聴いたりすると、入眠が容易いようです。最近、疲れて寝つきが悪いな、と思われる方で、閉所がお好きな方は、ぜひぜひお試しください。これを行動修正と言います。
が、躁うつ病が先生の気質に関係あるかどうかは、また別問題です(笑)←こんなに書いてきて関係があまりないというのは、なんだか損した気分にさせたか?(笑)
まだまだ解明されてはいませんが、社会学的側面も遺伝子に長い長い年月のうちに刻み込まれていく、という仮説を証明するために、学者たちは日夜論文準備のための研究をしています。心理学だけではなく、教育学や宗教学など、人が人と関わる分野では、すべてが資料となりますが、それらをどう組み合わせていくのか?というのが難しいところです。
ネアンデルタールが出現したときにも、リーダー格は生まれていました。個人行動を死ぬまでしていたわけではなく、社会動物として群れを成し、協力しあい、進化を遂げてきたからこそ、ヒトの脳は大きくなってきました。社会動物とみなされる生命体のほうが、すべてではないにしろ(昆虫などの例もたくさんありますし)大きい脳を持っている確率は高くなります。日本だけ取っても、卑弥呼というリーダーがいたことや、125代も汲み汲みと続いている天皇や、武将やその他、リーダーとなる人々は、やはりグループで選出されていきます。そのときに重宝するのは何だったのか?ということで、社会的資質が、長い時間をかけて遺伝子に組み込まれていく、という仮説は、まったく妥当なもので、証明することが難しいだけで、否定する学者・素人は少ないことでしょう。
なので、生物学的な面で、リーダー格である遺伝子を持った人間が出現する・生まれるという考え方も、それほど突飛なものではありません。もちろん、ここにも統計学が生まれ、誰でも持てる気質のコンビネーションではなく、あるパーセンテージだけになるのでしょう。遺伝子は莫大な数の組み合わせです。なので、その組み合わせを持たない限り、という偶然(チャンス)にも掛かってくるわけです。当然、原始の頃は、まず「生き延びる」という絶対的条件が必要でした。どんなに優れた固体でも、病弱だったり、寿命が短かったりすることは、リーダーとして集団から頼りにはされにくい。それがゆえに、淘汰されて「世襲制」が生まれたのですが(血族の繁栄を守るために、価値あるものを親族外に出さないようにする知恵)、集団が大きくなればなるほど、文化的生活が進化すればするほど、リーダーの条件というものは、多岐に渡っていくことになります。
自分にはそれほどの能力や適性がなくとも、大きな図柄を理解していれば、他人に説明することができます。共通性や普遍性、分類する能力に長けているということです。これは、あくまで能力面で、誰にでも開発ができるのだろうと思うのです。教師になって、足りないのは、この能力ではなく、気質ではないかと、私個人は考えています。
私が最も大切だと考える気質はコレです。
滅私奉公:私心を捨てて公のために尽くすこと。
英語では、Altruism(愛他[利他]主義; 利他的行為)
山本周五郎が、実在した歴史上の人物を題材にした小説は、彼の作品全体の中では、わずかなパーセンテージとなりますが、その中に、由井正雪が選ばれています。教科書しか歴史を知らない人々にとっては、彼は、幕府に楯突いたイメージのあまりよくない人間でしょう。が、彼をこの滅私の立場から書いたものが、『正雪記』です。当時の江戸がいくら世界で一番の人口があったにせよ、3000人の門下生を持ち、さらに大名屋敷へ講義に出ていたというのは、相当な教える腕を持っていたに違いありません。残されている資料が少ないので、乱を起こしたことが「事実」として受け止められるのですが、もしかするとこの小説に書いてあるような、他人のギリギリの苦難を、どうしても放置しておけなかったのかもしれないな、と、考える余地はあります。実際に、末期養子制度(近世の武家で、家の断絶をまぬがれるため当主の危篤に際して急に願い出てする養子縁組。大名家の断絶が、浪人を大量発生させ、社会不安の原因となっていることから江戸幕府が、由井正雪の乱直後1651年より採用した相続救済制度。当主が五〇歳以下の場合に限って許された。急養子)が直後に発足されたし、改易や取り潰し政策をずんずん進めていたがゆえの苦悩が数々事実として残っているので、「もしかすると、もしかするかも」と思わずにはいられません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B1%E4%BA%95%E6%AD%A3%E9%9B%AA
栄達のためではなく、己ではなく他人に対しての利益を考えるというのは、大きな美徳のひとつです。先生の気質としては、これが備わっておらねば、と、私はやはり思うのです。自分の功績をくどくど並べ立てる人間にうんざりする私は、必要な場面がない限りにおいては、滅私の気持ちを大切にしたいと思っています。先生としての気質は持っているか?持っていると信じたいところです。校長センセも、この気質を溢れるほどにお持ちです。
やはり社会全体が、Me! Me! Me! 自己中、傾向にあるところで、先生を続けるのはたいへんかもしれません。が、マザーテレサのような人間も、確実に存在したのだし、それを支えに人類の未来を考えるゆとりがあるといいな、と思います。
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