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勝てば官軍論理か・・・

2007年3月にアップされた文章です。

政治については語るまい、といつも考えていたのですが、日本に戻ってきて半年が経とうとしており、どうしても避けては通れないくらいの情報量に晒されてしまっています。ニュースを見ていて思うのですが、私がアメリカで、映像つきではなくニュースを受け取ろうとしていたけなげな努力は防衛としては大正解だし、繰り返しを避けるために、1日1回としていたのも正解。しかし、日本にいると、どこからか入るもんなのよ・・・。トホホ、これはつらい・・・。まるで聖書やお経の「繰り返し効果」を実感しているような気分。ボリュームの大きい、インパクトのある内容を、繰り返し繰り返し、飽きない報道で受け止め(自然、人々の口にも上る)、その報道が費やす莫大な費用の一部を、私も負担していると思うと、なんだかとても情けない・・・←スポンサーになっている企業の製品買っているからね・・・。

 

そんな中、またもやネガティブなこんな話;大臣クラスの人って、誰かに原稿書いてもらってないんだっけ?会見はまだしも講演会やシンポジウムなんかは、原稿あるんじゃないのか?と、40分の内容すべてをチェックしてみたい気分にも駆られてしまっています。しかもなぁ・・・。自分の事務所の経費問題があったのに、「ほとぼり」ってもんを知らないのか・・・。いじめ問題でも毅然とした態度を取ったようには私には見えず、その後、怪しいお金の流れ問題で、今度はコレ・・・。4ヶ月でこんなに問題作れてしまうのだなぁ・・・。けっこう感心かもしれない。しかも、私個人が考える相当に大切な「教育」というポジションで、こうした観念から出発されていては、なんだか日本のお先真っ暗さ加減を見てしまったようで、たいへんに気分は重くなります。http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/feature/news/20070226k0000e010030000c.html 「人権だけ食べ過ぎれば人権メタボ症候群」というのがタイトル。内容は予想できるでしょ?この発言は不正解ではなくとも、そのあとの「大和民族」という表現で、日本の定義に触れているのが問題です。

 

私が申し訳なく、知り合いやお友だちと連絡を取るため、程度にページを設けているMixiでは、すでに、伊吹文部科学大臣を褒めるBlogを書いている人がいた・・・。ちょっと読んでぞっとした。中曽根発言の「大和民族」ではなく、日本のことを「同質的な国」と表現したことが、「うまい!」ってことらしい。でも、よくよく見てみると、数十人の人たちが自分のBlogに書いており、意見はさまざま。やはり、彼の発言を肯定する人たちも多い。うーん・・・。だからおもしろいのだろうけれどもなぁ・・・。

 

そろそろみんなでこの安倍内閣プロットを考えてみてもいいと思うんだけれども、誰かの差し金で(黒幕か何かが居て)、順番に積極的に「公的失言しようぜ」が執り行われているのではないか?(爆)もともと、首相の価値観の『身からでた錆』の延長に見えるので、当然組閣も彼の意思が反映しているに違いないので、まさか、とは思いたいけれども、なんだかこうも続くとねぇ・・・。さらに、地方政治のレベルでも、市議レベルでも、みんなで足を引っ張ることをしてくれるのは、なんだか何かが故意に動いていると見えてしまう・・・。私はちょっとばかりCIAやスパイモノを読みすぎているのか?(爆)いや、私だけではなく、Mixiでもこう考えた人はいたようだった・・・。ふぅ、よかった・・・。

 

そもそも、公人が国の下僕として、「権利や自由」について解析するのはいいとしても、そもそもの権利や自由に組み込まれているはずの、個々人の価値観について、真っ向から勝負し、「モラル・観念・あるべき正しい姿」などを、法律等をふんだんに思い切り使って、国民操作しようとしていいんだ・・・。自分が置かれている立場を、フルに活用し、影響力を計算し、いかにも学があるような含蓄を並べて、世論や国民の心の中までをコントロールしようとする態度を容認していいんだ・・・。というのが呆れるポイント1.です。憲法でしっかり保障されているように;すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。http://constitution.at.infoseek.co.jp/kokumin.htm 

 

この最大の尊重を崩してしまわぬ限り実現できない政策なら、お捨てなさいと言いたい。そんな教育再生論を振りかざしても、いい国民に恵まれるわけもなく、いい国民が育つわけもない。すべての国民に共通する権利は、伊吹大臣でも持っており、それを使ってもいいですが、どうも論理崩れしているところがわかっていないようだ。国に生まれ育ち、憲法や住んでいる地域の条例等を守って、税金を納めている限り、教育を受け、勤労している限り、他の何を措いても、まずありき、の権利と自由なはずでしょう。だったら、権利と自由の解釈を好き勝手にできない事例をたくさん作ればいいし、悲しい身勝手な解釈をしない人間を育てるシステムや基礎を作るのは、あなたの部署なんじゃ?と言いたいです。

 

物事には、二元性の持つ悲しさがあり、確かに「権利や自由」という名の下において、好き勝手なことをする事象や事物や団体や人々というのは、実在します。どんな社会問題でも、差異があり、白黒はつけられない物事を扱っているのだという認識が必要で、そのために「通常はそうであっても例外にはうんぬん」という物言いをするしかないことが多々あります。これを考えると、伊吹文部科学大臣すら、自分の権利と自由という名の下に、好き勝手なことを言っているわけで、国民であるかぎり、他の誰かと自分を隔絶することはできない・・・。むしろ、公人としてのパワーをフルに使っていることが、卑怯ですらある・・・。

 

権利や自由について、伴う義務や責任について言及するのではなく、権利や自由を振りかざすことについて、をこう喩える;バターを食べ過ぎるとMetabolic Syndromeメタボリックシンドロームにかかってしまう。脅してすらいるのか・・・。どうして、人権や自由がバターに喩えられるのか、頭の中が理解できないが、バター製造の会社もとんだ災難だ・・・。こんなの何だって言い換えられる。

 

歴史的観点も同様。学者により解釈が違うことを、「事実」としてしまう構えがすごい。謙虚さなどカケラもないのね・・・。大和民族の定義や日本人の定義、あり方や来し方を、大臣クラスの人間が公的に発言するには、慎重な態度が必要です。なぜならば・・・。

 

社会問題を孕む社会科学においては、「正解」「絶対」はない!という事実前提が必須だからです。しかも、時間は止められないわけで、物事は刻々と変化しています。微量であっても、今現在この瞬間においても変化はしている。これらを理解しなければ、どんな段階・人々・問題・タイミングであっても、話し合いはそこから進まないのです。だから戦争は終わらないし、諍いはやまないし、負の感情に満ち満ちた社会を子どもたちに見せていき、それをモデリング(模倣)されることになってしまうのです。自分の意見(サイド・同じ考え方の集合体)だけが正解、正しい、順当、正義、普通、などと考える人間たちが集まったままで、それを多数決という名の下で通していると、その意見に準じない人々に犠牲を強いることになることに気づけないわけです。そんな前提すらわからない人が、どうして大臣なのか?わかりやすい喩えだと単純に、メタボ症候群を使って適切なのか?

 

だから、いじめ問題や教育再生会議やその他、問題が山積なのだよね・・・。タイトルの「勝てば官軍」は、大臣になった人間であれば、大前提である社会科学の存在意義やその前提すらひっくり返していいのか?ということが言いたかったわけです。アジア諸国が日本をまだまだ脅威に感じていることを鑑みることもなく、移民が増えてきた現状を踏まえることもなく、「同質的な国」についての詳細説明が報道にも顕れず、タイトルだけで話が先走るであろう問題の大きさを考えないのは、危険きわまる行為です。あなたの意見はいかがですか?公人になったときのことも考えてみてくださいね。

 

ちょっと古い記事でごめんなさい。書きためているので申し訳ないっ!

 

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