1999年あたりに書いた文章です。
36年前の今日、私は生まれました。もしかするとこれで286回くらい生命体として生まれてきたのかもしれないし、初めて人間という生命体になったのかもしれないし、何だか考えてみると不思議です。輪廻転生がないとしても、母の胎内からコード(へその緒)なしでひとつの生命として息ができ独立した日です。うーん、不思議。
私は朝の潮の満ち引きの不思議に合わせて生まれました。母にとっては1度の流産と1度の死産のあとに、やっと生きたまま生まれた赤ちゃんでした。落胆を2度味わった父は病院に来ることもなく、仕事場に居ました。どこを運転していたのか覚えていないそうです。けれども仕事をして家に帰ったときに、小さな骨壷の準備をしませんように、と祈って運転していたそうです。
母には祖母がついていて、よくドラマで父親がやる廊下でうろうろ、というのを祖母はやりませんでした。彼女はお産婆さんが来るのが間に合わない出産をしていた女性なので、手仕事をして待っていました。祖母は半分文盲で字があまり読めませんでしたし、読みたいとも思わないで明け方の廊下で何をどうして時間をつぶしていたのか、はっきりはわかりません。編み物もしませんでした。母もそのことは聞いていないそうです←そりゃそうか?痛かっただろうしな…。
私は家からバスで12分プラス徒歩5分の駅向こう側の病院で生まれました。婦人科の検査で利用したことがあります。6年ほど前です。大きなビルに変わってしまったということですが、家族経営のその病院は変わっていませんでした。私を取り上げた医者は引退していましたが、息子さんが院長をしていました。検査の順番を待つのに暇だったので、病室を見舞い客のようにしてふらふらしてみました。母の病室も大部屋だったって言ってたなぁとか、新生児室のスペースは大きくなってたって言ってたなぁと思いながら、ほんとうにWander(さまよって)しまいました。
当時家には車がなかったので、私はバスで帰ってきました。祖母と母と3人で。その日の写真は今もあります。イマドキの子どもはおサルみたいじゃなくて、顔がやたらとはっきりしている赤ちゃんが多い、と聞きました。私が自分で写真を見るとやっぱりおサルじゃないです。贔屓目でしょうか?かなり顔立ちがはっきりしています。手がやたらかわいいです←これはどの赤ちゃんも同じだな♪写真を撮るというのは当時、現像代を含めて大イベントだったので自然なスナップ写真というのが今ほどないですね。「さささぁぁ!がんばって撮るわよ!」という意気込みが伝わってきます。後ろの背景がたくさん見えていればもっとよかったなぁと思うのですが、わりときれいに片付いていてちとおもしろくないかもしれません←すごいあまのじゃくなのか?見れば「うーん、これは何?」と気づくくらいの生活用品は見えます。その程度です。
私が小学校にあがるまでの写真はやたらとたくさんあります。長女の醍醐味ですな♪お誕生日のたびに撮るという贅沢はそれほどありませんでしたが、今、弟夫婦が娘たち3人のためにそういう気遣いをしているところを見ると「おおお!いいっすねぇ♪」と目を細めてしまいます。しかも気軽にスナップが撮れるので飾り立てているのは七五三と入園式やお宮参りくらいで。3人の姪っ子たちはわりとまんべんなくひいきのないような数だけの写真が今のところはありますね。いいことです。弟が自分の写真が圧倒的に少ないことがさみしかったからでしょうか?それとも義妹が細かい心遣いのできる女性だからでしょうか?でも何だかいいな☆と思っています。
私が母と父からしつこく自分の子どもの頃の話を聞き出そうとしたのにはきっかけがあります。小学校1年生の担任の小西いねこ先生が、松谷みよ子の「小さいももちゃん」という本を朗読してくれる時間があったからです。いちばん最初のお話が「ももちゃんが生まれた日」というタイトルでものすごく楽しいお誕生日なのです。じゃがいも・にんじん・たまねぎが3人でカレー粉を担いで「もしもーし、ももちゃんのお誕生おめでとうございますぅ!ももちゃんに食べてもらおうと思ってきました」って言うの(爆)。でもももちゃんのママは「だめだめ、だめですよ。ももちゃんはまだ赤ちゃんだからカレーは辛くて食べられないの」って断ります。もう少し経ってミルク以外のごはんが食べられるようになったら戻ってくる約束をするわけです。ガムも来て「ああ、こーんなちっちゃなお口じゃ食べられないや」ってびーんと伸びて帰ります。そういうおもしろい日を自分が覚えてないのは、何だかへんだぞ、と思ってしつこく尋ねることにしました。
まだ6歳くらいだから、家にも野菜やガムやパンツが訪ねてきたのかなぁなんて思ってしまったのですね。私はスローなところはものすごいスローな子だったので、現実にないこと・有り得ないことだ、とはまったく思っていなかったわけです。と言うか…、今でも野菜やガムやパンツが赤ちゃんのお誕生日に訪ねてきてもけっこう不思議じゃないし、おもしろいなって思っているのかもしれない…(汗)。
でも実際はくぅくぅとずっと寝ていたのですね。私が生まれた日には。母も疲れのために朦朧としていて、授乳のために看護婦さんが私を連れてきてくれたときも、「かわいい」よりも「眠たい」だったらしいし。彼女は6歳の私から始まり、毎年まいとし、「ママは急にママになったわけじゃないんだもん」と言っていましたね。たぶん今でも国際電話をしたら同じこと言うでしょう。彼女はそういう人です。そしてふたりで私の子どもの頃からの写真を見て、これは私のバイトが忙しくなるまで続きました。日ごろのたくさんの悪態もぺちんと叩かれることも、怒鳴ることも、お仕置きも、ぜーんぶすーっと消えていく瞬間でした。そこに弟が混ざってきて、写真を汚したり、どんどん後ろにページを進めようとして、ケンカになり、Bonding Moment(つながりの瞬間)はあっけなく終わってました。でも、今思うと、その現実のなかの非現実的なような、自分の覚えていない過去についての物語がとてもとても意味のあることであったと思います。
今、私の生命を直接この世に送り出してくれた両親とは物理的にいっしょに過ごせないのですが、西さんと誕生日にまつわる話をします。西さんのお誕生日も今月なのです。そう言えば彼は私の誕生日は忘れないなぁ。えらいぞ♪そして彼は毎回両親に感謝しています。私の誕生日と自分の誕生日の2回は必ず、誕生日は自分の可能性が生まれた日であることを忘れません。
彼のお母さんは、毎年3回、3人の息子のために、本人たちが不在であるにも拘わらず当日にはお赤飯を炊きます。お父さんはお赤飯が食卓に上ると「おお、今日はどれの誕生日だったかい?」と尋ねることなくその夜ペンを執り手紙をしたためます。西さんは40歳なので、もう39回もお母さんは毎年忘れずにお赤飯を炊いてくれていたのですね。そして彼らもそこで、私たちもここで、過去・現在・未来をさまざまな想いを胸に抱いて過ごします。
私の母はきっと今年も忘れているでしょ(爆)。時差も把握できずに12年ですし、彼女には感傷的になれる時間はとても少ないです。それが健康なしるしになっているので私は全然気にしません。彼女には彼女らしい人生をずっとずっと過ごしてもらいたいです。
感謝の気持ちがあふれる誕生日、希望に充ちて明日に繋げられる誕生日、いいですね。自分がプレーンシンプルに丸裸で生まれてきたことを知り、過去・現在・未来をスコープして考えて感じることの多い日。そういう意味で私は他のイベントをあまり大切にしないのですが、誕生日だけは何となく別格にして大切にしています。お正月もハロウィンもクリスマスもメモリアルディも終戦記念日もそれなりに大切だし、みんなとシェアしたいですが、お誕生日だけは丸裸にまた戻って最初からやり直せるような気がして、それでも過去をEmbrace(抱擁)できて、未来に可能性が広がる日です。そして1年のほかの364日も大切にたいせつにしていこう、と誓う日です。
あなたのお誕生日にも、私は同じ気持ちになってあなたのことを想っています♪忘れていても翌日にはちゃんとそう思ってますのでご安心を。あ、申請してない方は恥ずかしがらないで教えてくださいぃ!プロフィールがないとわかんないし、サイキックじゃないのでねぇ!よろしくぅ!
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