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嘘は本当に方便なのか?

10/10/2007 にアップした文章です。

 

嘘をつかなくなってから、長らく経ちました。もう30年は軽く経ったのではないかと思うのですが、ひとつだけ「別」としているのが、アポを取っていたときに、予定変更をしたいときの理由を言わねばならぬことで、商売敵から仕事をすでにもらってしまったときなどは、「もう御社は必要ないから」などとは言わず、「予定が入ってしまい、本日(明日など)は行けません」と言うことはあります。が、これも実際は、「嘘」でもないのかなと思います。罪悪感がないのは、特にコミットメントがある関係ではない、という、まだ知り合ってすらいない段階だったりするときで、お付き合いが発生したのちに、誰かに嘘をついたことはありません。律儀な私は、街頭アンケートのおばちゃんたちにも、「仕事なので」だとか、「アメリカ帰りなので生活用品はよくわからない」と、ちゃんと断る言い訳もしてしまいます(笑)。

嘘:(1)事実を曲げてこしらえたこと。本当でないこと。偽り。(2)誤り。間違い。(3)望ましくないこと。すべきでないこと。
方便: (名)〔(2)が原義〕(1)ある目的を達するため便宜的に用いられる手段。てだて。(2)〔仏〕 (ア)仏が衆生(しゆじよう)を教化・救済するために用いるさまざまな方法。(イ)真実の教えに至る前段階として教化される側の、宗教的能力に応じて説かれた教え。
(形動) 都合のよいさま。

仕事の締め切りにしても、私は「やる気がない」「いいアイディアが浮かんでこない」ことについては、正直に言います。遅刻しそうなときでも、英語講師は掛け持ちな場合がとても多いので、それも正直に言います。ただし、「あちらのほうがペイがいいから」などという優先順位については言いません(笑)。沈黙しているだけで、尋ねられてもノーコメントで避ければいいだけのことで・・・。

嘘をつかねばならぬとき、とは、一体どんなときなのだろうか?と、再び考えています。ここでもまた、Selfを守るため、生き延びるための保護・保障がキーワードで、心的サバイバルが問題になるのでしょう。大きな詐欺めいた嘘を、デビューしたてで開始するというのはありえない。なぜならば、子どものときにそれほどな大掛かりな環境は、まだ設定されていないからです。例外としては、子どもながらに火遊びで人を傷つけたり、殺してしまうことが可能性として否定できないことや、刃物や薬物などが関与してくると、あり得ないことでもないということで、現在のところ、ざらっと見てみても、その可能性というのはとても低いです。そんな事故を防止するために、まだまだ成長しきれていない子どもたちは、大人たちに見守られて暮らしており、それはイコール、大人の怠慢でもあり得るので、コレはないとしたいところです。

そもそも、「人によって見ている現実=事実、は違う」というところを理解していないと、嘘の解釈はできなくなります。が、まっさらな子どもは、まだここまでの理解を経ていません。心無い揶揄や、ある人にとっての当たり前が、受けた側にはとてもつらく、心的サバイバルを大きく低下することがあると、嘘をついてしまうことがあるのでしょう。たとえば、子どもであっても、持ち物=所有物の自慢はあります。親がどんどんバカになっているので、親心を楯にして、子どもたちにもいいものを持たせようとしますが、コレが仲間同士では仇になることがあり、迷惑を醸し出し、社会格差を生み、心の成長を妨げることにもなります。ちょっとしたかわいいリボンや靴、ネックレスや携帯電話(まぁ、幼稚園ではあり得ないのかなぁ・・・)などなどで、昔は「かわいい」で済まされていたものでも、極端なもの・お金がかかりすぎているもの・場にそぐわないものを身につけている子たちは、実在しますね(ま、コレもメーカーや経済機構や大人がいけないのだけれども)。あるいは、幼年期であっても、能力の差は歴然と生まれる。それが生物学的なことに支配されているということは、もちろん、その歳では気づけない。

それが常識になり、持てないものを持っていることにちやほやを開始する子どもたちもいて、屈しない・興味がない・持てない子どもたちは、差の論理から、対極に位置する子どもたちに、積極的でなくとも攻撃をします。そこで、窮地に立たされた子どもたちは、まず、心配を掛けないように、親に嘘をつく。「大丈夫だよ」「なんでもないよ」と。その人を思いやるためのWhite Lies(これを嘘として決め付けていいかどうかが、このあとの論議なので、嘘と仮定させてください)が通ると、エスカレートして、悲しいことやつらいことに、どんどん蓋をしていき、口では反対のことを言うようになる。逆に、優位側にいる人たちは、おもしろおかしかったことを、大げさに表現するようになり、現実から少しずつ事実が離れてくることが発生します。

これがそもそもの嘘の種、最初の嘘原体験、というのが、多くの人々の社会にもまれたデビューなのではないかと思うのです。それが、兄弟間だったり、親戚の子どもたちと遊んでいたときに起きたり、という、変形バージョンはあったとしても、です。

自分や周りの人々の心的サバイバル(芽の頃にはサバイバルと名づけるほどの大げさなものではないのですが)のために、事実を曲げる表現をしていくと、それが成功するたびに、状況がどうであろうと嘘を重ねることができる。しかも、内容もエスカレートしていくことができる。さらに、逆でも、人を揶揄したり、おもしろおかしいことを大げさに表現して味を占めていくと、今度は「愉楽」のために嘘をつくことが平気になるという、エスカレーション式の構図が見えてくるわけです。

この段階的なものを経ていくと、かたやいじめで自殺したり、かたや詐欺師になったり、と、極端な例が生まれてくるわけですね。倫理観にも影響を及ぼしますし、行動規範などにも大きく影響が出ます。「事実を事実として受け取り、それについて反応する」というのは、恐ろしく大切なボタン(ステージ・レベル)なのだということがわかります。

ストレスについていろいろな商品が売り出され、サービスが商品化されている昨今ですが、なぜそもそもストレスの影響を受けるのか?を考えると、この「罪になるほど、大声で怒るほどの嘘ではないもの」に対して、事実を事実として統一して見られない、人はさまざまだ、ということがネックになっているようです。

方便を使えるようになることは、本当にいいことなのか?しかも、子どもの頃から発達させていいことなのか?と、嘘をつかないで来られた私は思うのです。ただ、嘘をつかないがために、沈黙したりノーコメント宣言をしたり、と、工夫が必要だったし、嘘をつかないがためにダメになった人間関係も山ほどあります。そのときに受けた心的サバイバルの低下はもちろんあったのですが、嘘に慣れてしまった後の心的サバイバル低下と比べたらどうなのだろう?と、最近、よく考えるわけなのです。

子どもたちに、積極的に嘘をついて方便だと諭すことは、私には到底できることではなく、例外としての「ついていい嘘」も並べられません。まだ成功に遠いたいへんに努力している人に対して、「まだまだ努力が足りないのだよ」という言い方を私が身につけたほうがいいと思えることばかりでした。そりゃ、最終的には自分がイチバンかわいいことはみんな同じなのですが、その中で、「いつも試されており、他人と自分を同義に扱えるかどうか?が問われている」と想定すると、嘘をつくよりは、自分がしてほしいような扱いをしたほうがやっぱり嘘よりはよかったと、今、強く思えるのです。

ただし、パチンコで大負けした日には、嘘をつきたい気分になることもあり(爆)。ここのところめったにないので、助かっているんですが♪しかも、失敗やつらさを表現できるって、強みなんだと、人前で泣かない私はつくづく思うのです。

 

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