[1999年08月14日(土)]に書いた文章です
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私の夏は夕立がないと完璧な絵が描けません。なぜこんなに夕立を待ちわびているのか自分でもよくわからないのですが、そしてたぶん、もうあの夕立には二度と逢えないのではないか、とかすかに知ってはいるのですが、それでも私はこの先もずっと私の夕立を待ちわびてずっとずっと憶えていくことになるのでしょう。
衣更えが終って中学生のお兄さんお姉さんの制服が白っぽくなって来ると、「もういくつ寝ると夏休み」と心のなかでのカウントダウンが始まります。雲はどんどん羊の毛のように膨らんで縦に長くなり、盆踊りに出る夜店の綿菓子を彷彿させるようになります。プール開きが終り、潜水競争や碁石広いをし、いよいよ夏休みがすぐそこまで来ます。
プールや川遊びができなくて涼を求めることができないときでも、子どもの頃は元気でした。アスファルトは少なかったし、木々に囲まれた深い日陰がありました。蝉時雨を浴びながらきつい陽射しを避けて見上げる太陽は黄色と白の中間で、まぶしさに眼を閉じると残像がいつまでも残り、耳には時折そよぐ葉音まで聴こえるほどに、感覚が鋭くなるほどに涼しくなってきます。
いつしか麦わら帽子を脱いで髪から汗が引くのを待ちます。眼を開けてうずくまった地面を掘り起こしてみると冷たい土に触れることができ、爪に土が入るのも気にせずに掘り続け、サンダルや靴を脱いで足まで突っ込んでみます。
疲れていなければそのまま夕方までずっとずっと遊び続けます。「夕立になるから洗濯物を取り込むのを手伝ってぇ!」と家のなかから母が叫ぶ声が聞こえると、泥の手を外の水道で洗い自分の服で拭ったあとに、背の低い私でも届くところから始めて、背伸びをしつつ、二股の物干し挟みを器用に使ってするすると、日向の匂いのする洗濯物をうれしそうに取り込みます。
居間に放り込む私の背中に母は「濡れるわよぉ!夕立よぉ!」とまた叫び、私は壊れた父の大きなコウモリ傘を手にします。始めにぽつぽつと降ると、傘を斜めにしてそのなかにうずくまり、たくさんの蟻やカナブンを雨の洪水から救ったり、どんなにがんばっても避けても跳ね飛ぶ雨しずくが私の爪先につける、不思議な形の雨と乾いた土が作る芸術品を眺めます。夕立が行き過ぎると、傘を畳み、その足についた芸術品が剥がれ落ちてしまわないようにみんなで集まり競うのです。どんなにユニークでおもしろい形になるか、飽きもせずに言い張りあうのです。
遊び先で夕立に降られると里芋の大きな葉っぱを畑からもぎ取って傘の代りにします。大きくなるとアタマだけを覆うのもたいへんになってきます。「アタマは絶対に濡れてはいけない」と友達みんなで合議しあった時期がほんの少しありました。ビキニ環礁で核実験が行われたというニュースをさも知ったかぶりして話す子がいたからです。太平洋沖がどのくらい広いのかさえ想像もつきませんでしたが、一体いつその実験が行われたのかも知りませんでしたが、「ひめゆりの塔」や「はだしのゲン」を見た私たちはとても怖くなっていて、風向きの話をして髪が無くなることをとても怖れていました。それよりも何よりも、アタマが悪くなる、とアタマの構造も何も知らなかった私たちは怖れていました。アタマから入って身体中に入り込むというのをなぜか強く信じていました。どうして口からではなかったのかは今でもよくわかりません。
ついでに私たちは近所の家のわんちゃんたちが濡れそぼっていないか、パトロールをします。もしも毛がなくなってしまうと困るので犬小屋に入るようにと、ずけずけと他人の家の庭に入り込み、歓んで私たちに寄ってくる犬を無理矢理押し込みます。もう濡れてしまったわんちゃんがいると、その家の軒先にあるぞうきんかタオルを勝手に借りて拭いてあげました。それが終ると正義感に胸が充たされ、みんなで「今日もひとついいことをしたね☆」と小さく笑いあうのです。
もしも田んぼやプールや川にいる場合には、もうずぶぬれになって雨のなかで狂喜して遊びます。「ねぇねぇ、息が苦しくなって息継ぎに上がってきて、間違って雨を飲み込まないようにね」と真剣にアドバイスしあい、持っていったタオルや着替えが濡れてしまっていることにも気づかずに遊びます。そしてここでも誰かが「ビキニだからさぁ、雨水のほうが危ないからずっとこのなかに潜っていたほうがいいよ」と真剣に言っていた時期もあったのです。
こうして暑い日でもメリハリのある温度差を味わい、身体が遊び疲れるときには家に帰っておひるねをしました。そういうときには「おやつがあるよ」と言われても食べられないほどに疲れています。だるいのだけれども、とても気に入っている花茣蓙を敷きます。それにはとてもきれいな色彩で文様があり3枚に3種類の文様をその日の気分で疲れていても決めます。汗をかくとそのきれいな色が取れてしまうのではないかと心配しつつ、枕なんかなしで窓のそばに花茣蓙を敷き、網戸の外を見つめているうちにすーっと眠りに落ちます。蝉の声も遠ざかり、てのひらだけがやたらと熱くなり、いつしかだるいようななつかしいような気持になり、うたかたのなかでぼんやりとしていきます。母がばたばたと歩き回っているのも遠くなり、とても平和でとても静かな安心した気持でひとりの世界に突入します。
短い時間で眼がさめるといつのまにか辺りはねずみ色の世界になっていて、涼しい風で起こされます。遠くに雨雲が見えるのを網戸を開けて確かめ、花茣蓙がつけた畳み目の頬の感触をこすりながら空を見上げます。遠くに雨雲。近づいてくる。眼をこすり、サンダルを履いて外に出て、雨雲が近づいてくるのを見つめられるか、そのまま寝ぼけて起き上がれないままか、遠くに雷鳴を聞きます。どれくらいの時間が流れているのかわからないまま、いつしかぽつりぽつりと乾いた白っぽい茶色の埃の立った土に雨粒が落ちます。雨の匂い・・・。もわっとした空気が流れ、すーっと涼しくなり、ばしゃばしゃと雨が降り始めます。
とても切ない気持になりながら、身体はとても心地よく眼も鼻も耳も夕立と一体化しながら、いつも約束したように同じ音・匂い・風景にとても安心しながら胸が甘酸っぱくなります。バケツをひっくり返したように豪勢に降る雨の自然がもたらす強さに魅かれ、とても短い時間で通り過ぎる夕立をなぜか恨めしく思います。けれどまた来てくれると信用することができた子どもの浅はかさでした。
大人になり、アスファルトがどんどん増え畑がなくなり、エアコンガスが家々のまわりに蔓延し、約束された夕立はなかなか来なくなりました。それでも時々降る夕立にバイクに乗っていようが、屋内で働いていようが胸をどきどきさせ窓を開いたものです。あの雷鳴と雨音と雨の匂いをずっと待ちわびて。
地中海性気候には夕立はほぼ期待できません。今、日本に、実家のある東京に帰っても夕立は期待できるものではないのでしょう。けれども、たとえそれがわかっていても、私はずっとずっと夕立を待ちわびてしまうのでしょう。
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