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多様性に高い価値に置けるか?

07/22/2008にアップした文章です。

私が夏に負けている最中、いろいろなことが起きていましたが、どれにも共通して言えることは、多様性の価値についての、それぞれの思惑が少しズレていることがあるのかなぁと・・・。私の場合、子どもの頃から、言動や好き嫌いが、正規分布の平均値からズレることが多かったので、この多様性の幅が広い集団や場所に位置することはとても心地よかったのですが、そうでないヒトにとっては、多様性などなくてもかまわないわけで・・・。むしろ、心地悪いのかもしれず・・・。ニッポンという国や文化は、この多様性と向き合わなければ、やっぱりまた過渡期を迎えているように思えてならず・・・。



多様:いろいろなものがあること。変化に富んでいること。また、そのさま。さまざま。

一様:(1)みんな同じような様子である・こと(さま)。⇔多様 (2)ありふれているさま。普通。

 

私が帰国してきて改めて感じてびっくりすることは、よくあります。それはたいてい、この一様性についてなんですが・・・。

 

たとえば冬。もうみんなのコートが、黒か茶ばっかりで・・・。大人も制服を着ているのかと思えて仕方がない・・・。グレーなどもあるのですが、そこにはピンクや赤や黄色などはほぼなく・・・。たまに着ているヒトを見る時間帯は決まっており、朝ではなく、昼近い時間帯か夜。もちろん、着るものが合わせやすいので、そうしたConservativeなものを選ぶのは、常套なんですけどね・・・。しかし、それにしても、と思えるほどに制服化した色合いがずらーっと並ぶと、異様ですらあるわけです。サラリーをもらっていない類の年齢層ですら、ネイビーなどが加えられるだけで、それほどぱっとした色のバラエティがあるわけじゃないんですよね・・・。温かくてコートを着なくていい日などは、少し色合いは増えるんですが・・・。みんなカラスを嫌うのだけれども、私は「日本こそ、Men in Blackなんじゃないかと思う」と、ひとりでオレンジなどを着ていて恥ずかしかった記憶あり(笑)。

 

とはいえ、アメリカの学校でも制服導入を鼓舞している地域や団体もあるので、なんとも言えないんですけども・・・。貧困の差が割りと開いている地域では、中高生がファッションショー張りの「流行を取り入れたファッション」をして、親が困るという声に合わせて、制服化ということが歓ばれています。没個性化だという批判よりは、ないお金をさらに節約していくことのほうが、学業の場ではとても大切であるという優先順位のつけ方には納得。

 

どちらも、極端ではないようにやっていけないのかなぁ・・・というのがあるんですけどもね。

 

他にも、町中でのブランドバッグ率の高さや髪型の一致や日傘対策や化粧の仕方や電化器機などにもびっくりします。私は、アメリカではリベラルな学校に通っていたせいもあるのですが、「他人と違うこと」のほうがかっこよさの優先順位なわけで、同じというのはダサいわけです。ところが、日本の人々は、繊細さをそこでも活かし、同じものを持っている中で、特化する方法というのを生み出すのですねぇ・・・。

 

携帯ひとつ取っても、そこにストラップ文化ができたり、着メロ文化が派生したり、ものすごい工夫である(笑)。商業的にも、そこにゲームがあったり、モバイル技術が発達したり、ワンセグができたりと、まぁ、ものすごい工夫なのである。繊細であることを、どうして人間関係に使えないんだよっ!と思うのは私だけなのかしらねぇ・・・←ぼやきになってるけど(爆)。

 

私は、文明文化全面否定論者ではないのですが、繰り返して使用することによって自己能力を低めてしまう結果をもたらすものに関しては、かなり躊躇しており、ブツを持っているにしろ、その使用頻度については自分の中での取り決めをしています。

 

最近導入したのが、VeohTVというβ版のソフトで、それがあると無料動画がいくらでも見られるというもの。日本のドラマはどうでもいいと思ってきたのですが、見つけちゃったんですよ、時代劇の無料動画(笑)。そこまで時代劇が好きなのか?と問われると、お恥ずかしい話ですが、好きですねぇ・・・。なぜなのか?勧善懲悪だし、かっこいいし、そのあいだだけは温故知新している気になれるし・・・。で、昨日もそれで、鬼平犯科帳、中村吉右衛門版を見ていたのです、第一シリーズの1話から4話まで見られたし、刺客請負人という森村誠一原作の時代劇も見られたし、5時間半もTVを見ていたことになってしまうんですが・・・(汗)。まぁ、導入してからしばらく夢中になるのはよしとしておきます。が、これも気をつけないとなぁとは思っています。

 

このエッセイだとて、昨日のうちに書いておけばよかったものを、そのせいで、私のスケジュールは今日、押し気味・・・(汗)。

 

そして、多様性について考え物なのは、産業カウンセラー講座に通っていても、英語を教えていても、日々思うことで、もっといろいろな考え方の中で、Eclecticができてしまえばいいのになぁ、というもの。

 

Eclectic:a., n. 取捨選択的な; 折衷主義[派]の(人).

取捨選択:悪いもの・不必要なものを捨てて、よいもの・必要なものを選びとること。

 

世の中は広く、いろいろなモノやいろいろな考え方があり、それについて柔軟に観察・分析した揚句、取り入れるものと捨てていくものがあって当然だろう、というプロセスを、一様に拠っているとなかなかしにくいものなのか?と。私は、Carl Rogersが大好きですし、彼のいいところは大いに認めているのですが、それ一辺倒だけでは、この世の中の多様化した考えをすべて網羅するとは限らないという、限界も知っている人間でいたいと思うのです。もちろん、産業カウンセラー講座を開いている側にしても、それが大前提であるにせよ、「正しい答え」をメンタル問題に持ち出してくることが、どうも解せぬ・・・。そこに余地が感じられないことが多く、それがここのところの悶々とした鬱積になっていたことは明らかです。

 

英語を教えるにしても、学校の主義主張というのはそれぞれ特色としてあり、それが商業であればあるほど、ルール化しているのでしょうが、やはり私は取捨選択をする主体は、生徒さんであってほしく、それを徹底してできない状態を生み出すことに加担し続けるのは、精神衛生上よろしくなく、やはり自宅レッスンをどんどん進めて拡張していくしかないだろう、という結論を強化したようなお休みでした。

 

他人の多様を受け容れられる自分でいることが、私の長所でもあり、意志薄弱なところとの諸刃の剣ではあります。とはいえ、また口コミ生徒数が増えていけば、私は自宅で生徒さんが教えてもらいたいレッスンをできることになり、You are OK, I am OK, tooが実現できるので、やはり多様性を大切にしていきたいと、休み明けに思ったのでした。アメーバのように、形を自在に変えていけることは、下等動物だとののしられても、なんだかいいことなのかもしれず・・・。

 

日曜日の飲み会では、「抽斗の数」と「抽斗の広さ」でその喩えを話していたクラスメイトがいたような・・・←飲んで記憶が低下するのは、もう慢性アル中の証拠なのかもしれないと、不安に慄く・・・(爆)。

 

多様性に順応できたからこそ、私はアメリカ生活が楽しかったのだろうし、日本に戻って来てからのアジャストメントに時間が掛かったのだろうと思います。が、Eclecticな考えを貫こうと、またもや強く思ったのでした。