07/23/2006 にアップした文章です
ここのところ、Tiger Woodsの奇跡に魅了されて、夜中でも2日間 British Openを見てしまっているのですが、決定的場面に遭える確率が高いことになっており、かなりびっくりしています。彼の膝の手術や結婚、父のガン死を経て、それでもこのように大きな人、才能を生かし続けている人は、相当な水鳥大作戦(人が見えないところでの努力)をしているのではないかと、なんだか感動をしていたわけです。しかも、あの心と技を肝心な場面で形にできるってどうなのよ?すごすぎるよね・・・。
そして2日目。TBSでのR30という番組が、何なのかまったくわからないまま、Zapping女王(チャンネルをがちゃがちゃと廻す)な私は、見入ってしまいました。Tigerそっちのけで・・・(スポーツ番組ってスーパーショットは何度もビデオで流すし、サマリーがあるからいいわー♪)。
15年も続けている彼の活動を、私はカケラも、まったく知りませんでした。水谷修オフィシャルサイト
芯のところで共感できる人がいるのだなぁ、と思えて、本当にうれしく、が、しかし、日本の現状は本当にここまで悪くなっているのだな、と同時に悲しくもありました。彼が持っている統計がどのくらい正しいのかは、このHPが出版社運営サイトであることを見ても、多少は信頼していいだろうし、彼の履歴を見ても信頼率は平均以上に高いでしょうし、15年も夜の街を見回り続けている実績も評価できるものです。
そんなにリストカットが増えており、そんなに援助交際に対しての抵抗感がなくなり、そんなにドラッグが若年層を汚染しているとは・・・、と、やはり見たくなかった現状を見せ付けられたような気分になりました。18年アメリカに住んでいましたが、私はドラッグの売人を見たことはありますが、遭ったことはありませんし、声を掛けられたこともありません。そのような時間帯にそのような場所には出かけていかない、と意識して決めていることがあります。アメリカは人々が混在しているように見えても、実際のところは、住宅もSegregated(区別化・差別化されている)ところが多く、家賃が明らかに違い、土地の広さというアドバンテージにより、学区もしっかり分かれてしまいます。が、日本はやはり狭い。誰でも電車賃さえあれば、ドラッグが買えるところには行けるし、夜の街には灯りに集まる蛾のように人々は集まっていきます。
私の10代は幸運だったことに、バイトに明け暮れていました。貧乏すぎて遊ぶことは贅沢だった。たまのお休みにお友だちと待ち合わせをしてごはんを食べたり飲んだりすることは、1ヶ月に1回程度の贅沢だったわけです。バイトを1日休めば1万を失う。バイクや車のローンや保険代が支払えない。学費も払えない。貯金もできなければ、消しゴムや口紅も買えない。そういう事情から、私は遊ぶことに邁進することはできませんでした。楽しいことはたまにあればいい。長い労働が最初はつらいと思っていたものの、やっているうちにその中にヨロコビを見出せるようになってしまい、労働のほうがたまの遊びよりも価値が大きいものになっていくわけです。20代になってさらにバイトを各種掛け持ちしたときには、目標がありました。アメリカ留学です。ドラッグや賭け事やファッションなどなどにお金をかけているゆとりはなかった。20年後の自分を考えるに、やはり「乗るか反るか」を試されていたわけです。私の唯一の贅沢は、バイクと車で、それは移動手段としての言い訳ができました。特に高価な改造をしていたわけでもなく、深夜や早朝のバイトに短い時間で移動するために、どうしても必要なものでした。
適度に夜の街は知っているつもりです。バイトのあとに遊んだりもしました。今考えるとよくもまぁ、あんな元気があったもんだ・・・。でも、遊びに対してしらけていたのは否めない事実です。お祭りのあとのさみしさのような、所詮自分はひとりなのだ、核のところで私という個人はいつも試されているんだ、といつも感じていたような気がします。
そして、やはり水谷氏のような方々が実在していることについて、他人の助けを必要とするこの核の部分がブレている10代が多いことについて、心から強く考え、水谷氏と同様に思うのは、「問題は子どもたちではなく、環境を提供している大人なんだよ」ってことなのです。こうあるべきだという姿をそれでも押し付けて、どうあがいても出られそうにないトンネルに送り込み、自由や権利をどんどん奪い、圧力や圧迫をかけて夢が持てない人生のレールを敷いてしまう。大人が同様に、こうあるべき姿を守れなかったときには、子どものくせに、と自分は逃げ道を作る。くそくらえ、こうあるべき姿、と思うわけです。
「なぜ勉強をしたほうがいいのか」をきちんと子どもに説明できる人が、今の日本には少ないのではないかと疑っています。小学校5年生になった私の姪っ子は、長女として次女と三女に見せ付けるように、「塾には行かない」と言い張っています。成績がいいのか悪いのか知りませんし、小学校の成績などどうでもいいことです。調べ物ができて、字の読み書きがちゃんとできて、基礎の計算ができて、学習を嫌いにならない・むしろ新しいことを知ることが楽しいという全体的態度を身につけてくれれば、私としては、子どもは時間が許す限り外で遊んでいればいいと思います。それよりも、知らない人についていかないことや、挨拶をすること、食べ物を大切にすること、身体を鍛えること、自分なりのいろいろな考え方を身につけることなどなどを勧めます。
「なぜ勉強をしたほうがいいのか」という問いに、「いい学校に行けないから」「いい学校に行けないと人生つらいから」「人並みの人生を歩んでほしいから」などなどの戯言を吐く大人が多すぎるのではないかと思うのです。歴史で認知されていない人々をすべて含め、私たち人類は、あらゆる生命体の恩恵の上存続することができています。その感謝を深めるため、さらにその気持ちと知識を次世代に伝えていくために勉強したほうがいいわけです。みんながニュートンやダーウィンやアルキメデスやアインシュタインになれるわけもない。自分の考え方や楽しみや喜びに見合った方法で、次世代に伝えていくことができるようになるために、勉強はしたほうがいいよ、と、どうして子どもたちに伝えてあげられないのか・・・。楽しみながらお金を得たり、家族を増やしたり、出来うる物事を増やしたりして、人は生きていくわけです。
夜回り先生の本を読むかどうかは別にして、彼を頼ってしまう子どもたちがたくさんいることは、やはりいいことではありません。魂を失い、行き場を見出せないたくさんの子どもたちがいる証拠なわけです。私も10代はとてもつらかった。どんな大人になったらいいのか、先々に対しての希望が持てませんでした。10代なんかには戻りたくないです。あんなにつらい時期はなかったですから。多少いい先生だなと思っても、「自分のために少しでもいい学校に行ったほうがいいよ」という人々が多く、父は自分の学歴コンプレックスをあらわにしており、私が楽しく勉強を開始したのは、24歳を過ぎてからのことでした。そしてそれは今でも続いています。まだまだフルタイムで学校に行きたいのは、楽しいからです。
彼の出演した番組を見ていて、さらに問題点がたくさん見えてきましたが、今日はこのへんで。
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