ブログ

家族について(2)~壊れた家庭のやりなおし

他の家庭について、私は口を挟むことはできません。どんな家庭があってもOKだとするのが私のテイクだからです。けれども、たくさん書いて来たエッセイで、読者のみなさまが私の育った家庭がほのぼのと素朴で常に貧乏からしあわせにまっしぐらな家族たちだったと、間違ったイメージを与えてはいないかと不安になりました。

帰国して酔っ払った私が家庭の事情ってやつをポロリと話すと、みな意外な反応を最初にしたことでなぜか私の家族や私自身のことをよいほうに誤解してくれていたのであると思いました。私が見栄っ張りでここにいいことばかりを書くのがいけないのだ、と思われるかもしれません。けれどもやっぱり見栄ではありません。壊れた家族に囲まれていても、たとえその個人が家族を壊した原因のひとりであろうとも、どんな形のどんな状態の家族にも明るい未来は必ずあるのです。

不幸自慢は私の性に合いません。だからいいところの繋ぎあわせを、ともすれば消え入ってしまいそうな楽しかった想い出を暖めます。哀しくてつらかったことを何度も何度も呪いのように思い出し、自分を悲劇のヒロインにだけはしないように、というのが私の規範のひとつに入っています。「それでいいんだよ」と死んだ父からも声を掛けられているような錯覚も起こしますし(私は霊能力がないので彼とはコンタクトが取れないのである…)、未だに家族のもめごとが続くおおだいら家を「なんちゃぁこたない」とやっていかねばならぬときに、「どうにもならない」という否定が最初に来ることは決して問題解決にはならないと信じています。私だけではなく、家族全員、きっちり生き延びていかねばならぬし、生き延びていきたいと心から願っているからです。

その生命力の基本的なエネルギーが放射することを妨げてしまうような他人の「理想の家庭」(実際に「理想の家族」が長きに渡って営めるとは、私は毛ほども信じていません)との比較や、他人の家族の形態や状態を批判するような精神を持ちあわせることは、私にとってはどうも納得がいかないことです。詳細についての「意見を持つこと」と、批判をして「否定すること」は別のことです。自分のために選びとるのに資料として、真剣に眺め考えるのはいいことでしょう。他人のために「選んであげる」のはどこか違うと思います。

個人がそうであるように、ある時点で躓いてしまったときに「ふたたびしっかり生きよう」とする意志があるのは、子どもであっても無意識のうちにやっていることです。それが生命体に備わった大切な「生命存続」のための能力だからです。その力強さには個人差がありますが、私個人は、躓いた数やその質やどのようにその躓きを乗り越えたか、「個人でしか闘えない領域」と呼べることに真摯に直面することで強化されると信じています。

短いようで長い人生、一度も躓かないような輝かしい人生がそうたくさん転がっているとは到底考えられません。どんな人であろうと、自分なりの範疇での挫折や屈折や苦難に遭遇するものです。壊れたり、再生したり。それでいいのではないでしょうか?もちろんそれを回避するために細心の注意をすることだけに心奪われ、大らかさを忘れる羽目になる時期もあることでしょう。同じ失敗を二度としたくない、と念じるがゆえに自分の殻に閉じこもり、本来の自分を生きた心地がしないことも私には何度もありました。失敗を最小限にするために冒険心や遊び心を忘れたり振り捨てる自分が嫌になり、また外界へと出て行くわけです。そうやって無力に限りなく近かった子どもは大人になっていきます。青年期を過ぎて大人になっても、このプロセスは形や内容を変えてずっと続いていきます。死ぬまで続けていこうという気力がある人もいれば、途中で「これでよし」と放棄してしまう人もいます。現状の自分に「私はこうだから」と見切りをつけ躓きをも甘受し「あきらめる」ことを学ぶのもきっとアリだと思います。私はただそれを選ばないでとことんやっていこうという気力はまだあります←いつコト切れるかわからないけどね…。で、たまに休憩したりします。

個人でそうならば、きっと家族でも同じことではないか?と私は考えます。苦悶もなく凪いだ家庭のなかで、本当に家族は家族となり得ていくのかと考えたときに、壊れている状態があってもいいではないか、という肯定がまず先に来ることでかなりたくさんの人々の心に安堵がもたらされるのではないかと思うのです。その壊れている期間が長かろうと状態がどんなにひどかろうと、それについて何かを働きかければ必ず明るい未来が開ける道があるんだよ、と心から、本当の意味でみんなで納得してはじめて家族が癒されていくと思うのです。

家庭内暴力が起きたとして、暴れている長男だけが本当に悪いのか?その長男を圧迫して育てた父親が本当に悪いのか?あるいは父親に隠れてその長男を甘やかした母親が悪いのか?暴れている長男を尻目にマイペースで干渉をしなかった兄弟姉妹が悪いのか?みんながそれぞれどこか悪かったという認識を持って初めて、その壊れた状態が修正できる方向に行くはずです。問題を認識しないで壊れたままでいくのも、ひとつの選択です。あるいは認識していても現実逃避するのもまた別の選択です。家族をやめてしまう、という選択もあることでしょう。そして、家族のひとりだけががんばって修正しようとしても空回りになってしまいます。試行錯誤のなかで、長い時間をかけて、壊れた状態を直していく、ということがあってもいいじゃないか、と私は思っています←自分の家庭が壊れている弁護みたいに聞こえるか?

片親であろうが、ゲイカップルが親であろうが、養子縁組をした親であろうが、人種が違う(あるいは国が違う)親であろうが、養護施設での親代わりであろうが、家族がどんな形であれ、壊れる確率や条件やその状態が、社会一般に多い生みの両親が揃った家庭と条件がそんなに違うものでしょうか?家族である彼らからしてみれば、そんなに悪条件であるとは思えないことが私には理解できます。「出発点から家族として壊れている」と思ったり批判したりするのはどうしてなのか、却ってその意見のほうが理解できません。暖かく愛を注ぐ大人がいればいいではないか、と私は考えるからです。

家族を持つ動機も個人それぞれで違います。「家族を持って一人前」や「それが生命体の自然な姿の営み」という理由ならばよくて、両親が揃わないシングルマザーが人工受精で子どもを持つことが悪いという世論はなぜなのでしょう?(まぁ、未婚の母がだめだと受難を受けた時代が長く続いてやっとここまで来たんだから仕方ないのか?)そのシングルマザーが自分の子どもが理解できる年齢になる前に世間に冷たくされるからでしょうか?子どもが育ち学習を経て話し合いをして理解できて、本人と母親が納得していれば、誰がその母子に干渉する権利があるのか、私には思い付きません。「ママはね、あなたがどうしても欲しかったの。どうしてもこの世に、ママのところに来てほしかったの」なんてとっても切なくてすてきなことじゃないでしょうか?本当にそれが彼女ひとりの勝手なわがままと決め付けられるのでしょうか?要は形態ではなく、どんな関係を提供でき、築いていけるか、だと私は考えます。世間との折り合いを重視するならば、シングルマザーを排除し特別視するよりは、世間のアタマのほうを柔軟にしたほうが、これからももっと家族に選択肢が増えていいことではないかと思うのです。ひっきょう、それは家族のメンバーであるみんなが気持ちよく差別されずに過ごしていけることだからです。

どんな家族であっても問題は起きるのであれば、その問題は家族全員で解決するしかありません。解決できなくて犯罪者を社会に放出したからと言って、責任は「親や家族」という一点に偏って大きくあるわけではありません。確かに親が子どもをどのように育てたか、というのも原因のひとつにはなることでしょう。世間のネガティブなものから子どもを守ろうとする余り、逆に磁石のように悪い部分を引き寄せていることに気づかない親たちもたくさんいることでしょう。もしも親だけが子どもの人生や人格を作るならば、それはホラーストーリーのように恐ろしいことです。

子どもは自分を取り巻く環境のあらゆる物事に刺激され反応し、また刺激を外に出していきます。感性がまっさらな分だけ大人よりも敏感だったり、社会的な慣習や学習を済ましていない部分では驚くほど鈍感であったりします。大人であっても、そんな子どもの部分を持っている人はたくさんおり、そんな集まりの家族が壊れた状態になっても何ら不思議のないことでしょう。

犯罪者を家族から出してしまうのは、誰ひとりとして(例外はどこにでもありますが)本意なわけがありません。その家族を事件が起こってしまったときに糾弾することは誰にでもできることです。あなたの家族でなければいいことなんですから。私は生優しい人道主義を徹底したいと思っているわけではありません。問題を見る角度として他人を見るに当たって、自分だったらどうなのか?考えることはどんなときにも有効である、と思っています。長く壊れないで存続する家庭があるならば、それを見てみたいものです。波風が立ってもそれを乗り越えて来た家族が勝者で、乗り越えられなかった家族が敗者でもないはずです。それはやっぱり私たち誰にでも起こり得る哀しい悲劇であるわけで、それについて自分の家族のために準備はできても、他人の火事を見物して野次を飛ばすことはたいへん失礼だと思います。

やっぱり明日は我が身なわけです。どんなことでもそこから何かを学ぶ姿勢を忘れてほしくありません。壊れた家族をハナから否定するようなこと、そういう自分で在れることを疑問に思ってみてください。

 

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。