Feb 10, 2006に書いた文章です。
私の年齢は、リアルでおつきあいしている人々はほぼ知っているはずなのですが、みんなすぐ忘れます。数字はどうでもいいと思っている人々が多いからです。
私は自分の年齢をよく忘れるんだよなぁ・・・(爆)。US文化の中では、医者以外で年齢を尋ねる行為はほぼありません。IDを作成するときに生年月日を入れるところはありますが、それも更新時だけなので、記憶にしっかりある数字をただ書いている、という感じで、特に年齢を実感するものではありません。
が、大学を卒業して、会社を興したりする前から、ネット世界で「年齢を気にする人々」がいかに多いか、かなりうんざりしていました。真剣に引き算して、自分の年齢を数えはじめましたよ(爆)。会社を興してからは、それほど年齢を回りに気にされることもなく今に至っています。
ボキャブラリーの中に、「あ、同級生♪」とかいうのはあまりなく、ものすごーい古い歌謡曲などの話題やTVドラマやアニメの話になると話題になるくらいで、「あ、そういえば年齢違うんだった・・・」程度の意識しかありません。
東京で、2度目のBiz Dinnerのために選んだお店では、なぜか朱里エイ子の『北国行きで』が、出迎えてくれて、山口百恵やらその他、80年代風の歌がバンバンかかっているところで、そこで少しそんなことに触れた気がします。
社員Sちゃんはまだ20代なのですが、彼女には説明をすればわかるし、特に不自由は感じませんでした。ああいった共通項というのは、「説明が要らなくて済むインスタントな理解」という意味では便利ですが、誰かを除け者にしてしまう簡単なツールでもあります。なので、あまりはまらないようにしましたよ(笑)。
日本のTVを見ていて、「げぇ!余計なお世話っ!」と思うのは、(年齢)という表示がよく出ることです。もしも誰かの年齢を知りたかったら、それなりの努力をして調べて知れよっ!などと思うのですが、どうでしょう?Quasi-National TV(限りなき国営放送に近い)のNHKなどでは、そのへんの素人さんの年齢までよくいれてありますが、それが一体何の意味があるのだ?と思いますし、みのもんたもよく中継で年齢を尋ねていますが、年齢で何がわかるのだろう?と不思議です。齢を重ねたこと=よりよく生きてきたこと、とでも言うのか?と、げんなりする場面が多すぎます。
私は、他人の年齢もよく忘れますし、ほぼ気にしていません。Biography(伝記)を読んだり、訃報を読んだりして、歳月の重みを感じています。日本のTVを久々に見て、母に「ねね、加賀まり子っていくつになったの?」などと聞いても、「さぁ?」ばかりなので、ネットで調べてしまいました。他にも何人か調べたのですが、ああいう知りたい肝心なときには年齢表示が出ないのはなぜなのよぉ(笑)。この場合、私が年齢を知りたいのは、日本の文化に18年かなりさらっとしか触れておらず、加齢のスピードが知りたかったのです。心理学部にいたときに学んだのですが、脳を鍛えれば加齢を見た目だけではなく、中身から遅くできる、というのがあり、それは免疫学や行動学、その他と密接に繋がっています。食や眠りや薬の使用なども関連性があるので、気になります。できるだけ多くのデータがあるといいな、というのがあり、普段、アジア人に接するのも「その他大勢の中のひとつの人種」なので、日本に戻るとけっこう真剣にデータ集めをしてしまうのです。
私は、一般にネットでは年齢を明かしません。書いていることでだいたいの年齢を推測できるくらいの教養が読者にあってほしいし、年齢で物事を決め付けてしまう人々であっては困るし、というのがあります。さらに、負の作用としては、年齢から来る個々人が持つ勝手なイメージのラベル貼りを避けるためもあります。
年齢相応に振舞うことがあまりできず、いまだに年に一度はジェットコースター乗りまくりをしたり、公園や学校の校庭で見かけると、ついつい雲梯にトライしてみたり、パ・イ・ナ・ツ・プ・ル、チ・ヨ・コ・レ・イ・トなどとでっかくステップを踏んでいたりするところは、ちょっと心を許しまくった人以外には見られたくないところです(爆)。さらに、プールで自分独自で考え抜きながらやっているアクアサイズなんかは、他言するタイプの人に見られたらゴルゴ13を雇いたいですね・・・・・・・・。旅行先のホテルのベッドで、ついついトランポリンのようにジャンプしたりしませんか?あんまりしないか・・・・・。でも私はご機嫌がいいとよくやっていますよ♪
なので、女の子が「やけ食いした」と言っていても、その場面けっこう想像できますし(私の場合は、あまり食べまくることはなく、飲みまくるのですが・・・)、だらしなく1日中パジャマのままで過ごした休日なども、とてもよくわかります。大人になったからって特にみんな律儀に自立しまくってというのを、24/7続けられないですもんね。
英語では、Act your (own) ageという言い回しがあるのですが、「年齢相応に振舞う」というもの。私はあまりできていません。そもそも年齢を忘れてしまうくらいだし、いくつだとどう振舞わねばならない、というスタンダードを持っているわけでもありませんから。子どもっぽいことを、英語では、ChildishとChildlikeのふたつの語彙に分けます。幼稚な、稚拙な、という意味と、無邪気な、童心の、というふたつの意味なのです。大人になっても、Childlikeな振る舞いができることは大切なので、ぜひキープしたほうがいいです。さらに、「何の足しにもならないことにムキになる」というのもけっこう大切なことです。子どもの頃、小学校の昇降口の水道で、口に水いっぱい含んだあと、友だちと帰りながら、笑わせあって噴きだしたほうが負け、という、まったく意味がないような遊びに、ムキになれたほうが、きっと他の大事なことには、もっとムキになれるんじゃないかと、私はいまだに信じています。私はこの遊び、強かったですよ・・・。
さらに、年齢を気にかけてばかりいると、いわゆる天才に生まれてきた人々の苦悩は、きっとカケラしか理解できないことでしょう。私は天才に生まれなかったのですが、秀才にはなることができました。ガリガリ勉強するようになったのは、大人になって留学してからです。「子どもらしい生活ができなくなるから、普通学校に通ったほうがいい」「社会生活も勉強のうちのひとつ」と、本当に天才のThreshold(域)があまりわかっていない発言をする人々がたくさんいます。3歳でラテン語やユダヤ語を話せてしまう子どもたちというのは、けっこうな数実在し、わずかな時間で幾何くらいまでの数学を終えてしまえる天才児は存在します。その子たちの本当の倖せのためには、普通学校に通い、飛び級もしないことは、牢屋に繋ぐことと同義になってしまいます。私は一度だけ、そんなProdigies(神童)たちと話す機会があったのですが、やはり私の想像域を超えたものでした。さらに、私が通った大学も、神童とはいかずとも、各高校などで学年1・2位を争った人々が集ってきます。その人たちの生活はそれなりにつらいこと、あるいはアジャストメントを必要とされることが多かったようです。数学だけを2・3年飛び級したり、ボランティアワークだけをして高校3年目を過ごしたり、などという人たちは、決して稀ではありませんでした。私は、彼らの生きてきたプロセスは知りたいと思ったので、けっこう話は聞きましたね。
やはり年齢ではないと思います。特に、芸術系、音楽や美術などは、二十歳過ぎてからの開花では遅すぎるのでしょうし。
逆に、いい歳になったからと安心して胡坐をかいているようでもダメですもんね。死ぬまで学習なのは、誰でも同じですから、やはり年齢相応と思っているようでは覇気が足りないのかもしれません。
私は年齢は、ただの参考資料としかみなしていません。年齢が、特にものすごい重要な意味があるのは、本人が年齢を超・気にしている場合のみですね。
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