09/21/2006 にアップした文章です。
世の中はバランスを保ちながら時間軸としては前に進んでいます。退化するところもあれば進化するところもあり、不幸な人もいれば幸福をまっしぐらに進んでいる人もいる。貧乏人もいればお金持ちもあり、絶滅種が増えることもあれば新しい生物や植物が生まれることもある。
そんな当たり前のこと;自然の摂理を見ることができているかどうか危うい人々もまた増えているのが問題なのが昨今ですが、今日は必要悪について。
必要悪:ない方が望ましいが、組織などの運営上また社会生活上、やむをえず必要とされる物事。
暴力団は必要悪であるという言い方をする人々がいます。私も説明が面倒なときには、そのニュアンスを使うことがありますが、暴力団の存在を全面否定しないのにはコレだけではない理由があります。私は「やむをえず必要とされる」とは思っておらず、「排除しても排除しても存在してしまうもの」と自然の摂理について考えているのです。社会生活も所詮は生命体が織り成すもので、自然の摂理ではたくさんの力関係のスペクトラムがあります。そこで『サバイバル』という命を賭けた勝負に挑むためには、パワーゲームにいかに勝算を強くして勝ち抜くかは、脳が発達した者であれば考えることです。その勝算の理屈や気分のよさなどの価値観が違うだけ。私は単純にそう考えています。
政治家をやろうが、暴力団をやろうが、サラリーマンをやろうが、実は核(コア)はさほど変わりはないのだ、という冷たい見方なのかもしれません・・・。生き延びていくという試練の前には、その小さくても重要な差はやはり二次的なことになるわけです。あくまで第一義は生命を続かせることなので、それがなければ二次的なことなど生まれるチャンスもなくなる・・・。人殺しは絶対にしない、と私が言い切らないのは、もしも自分が誰かに襲われたときに防衛して誤って殺傷しないことなど、まったくのところ確約できないからです。さらに、何を糧にして生きていようとも、誰かに認めてもらうことを私個人がそれほど欲していないからです。他人にすばらしい人間だと思われずとも、自分と自分のごくごく身近な人だけが知っていれば、あとはどうでもいいことです。キリがなさすぎる。
暴力団がなくなるわけがないと予測する理由に、人々はGodfatherシリーズ(原作者;Mario Puzzo)にあれほどに魅入られ、喜太郎が山口組の組長の長女と結婚したときにもそれについて大々的に触れ、日本でも『仁義なき戦い』はクラシックの名盤です。今も暴力団が進化しているのに、東大卒や海外名門校卒の人々が増えていることにもあり、きちんと上場している会社を持っていて多角経営に参加していることなどもあります。資本主義の波に乗ったとしてもその精神や歴史をどうやって問うていけばいいのかまで打ち出せず、存在そのものを全面否定することは、私にとっては愚かです。
一度書いたかもしれませんが、私のハワイの会計士の親友はホステスをしていた時代があるほどに、波乱万丈な人生模様をしてきました。彼女がホステスのときに、指名してくれたひとりが暴力団の幹部で、翌日ランチに行ったあと、ケーキのおもたせをもらい、そのケーキの箱の下にはお金がたんまり入っていたのです。確か100万くらいだったと・・・。会って意気投合して翌日にすぐに食事にいっしょに行ってくれ、いやな顔もせずに楽しい話をし、また遊ぼうね、と言えた彼女の豪気さに対するせめてもの、形にしたお礼だったそうなのです。
さらに、コレも一度書いたことがあるかもしれませんが、私は夜中に何軒かのはしごのあと泥酔して、ロアビルの前でクラクションが鳴り止まない車(リンカーンだった)のボンネットにハイヒールで飛び乗り、クラクションを停めたことがあります。クラクションって角度問題だというのは映画で知っていたので、なるべくボンボン跳びはねたんですよね・・・。ボンネットは傷だらけになりました。数分後に黒尽くめの男の人たちが車に近寄ってきたのですが、ちょうどタイミングがいいことにクラクションが止まったのです。そこで両腕をひょいと掴まれボンネットから下ろされ、幹部らしい人の前に出されたときには、友だちはもう電信柱や看板の陰に隠れていました。が、紳士は丁寧に「機転が利いたようだね。傷のことは気にしなくていいよ。本当にありがとう」とお礼を言ってくれて、お小遣いを5万ほどくれました。
いやー、こう書くと「何でも金なのかい」と皮肉る方々もいるかもしれません。確かに不器用なのかもしれませんが、感謝をお金で表せないで口ばかりの人たちよりもいいではないかと私は考えます。さらに、お礼もまともに口にできない人よりもずっといいではないかと考えるのです。
暴力団のほかに、風俗があります。必要悪なのかどうか・・・。コレについても私は同じ考えです。私にはできることではないが、できる人々がいたっていいじゃないか、と思うし、その存在を撲滅せよとは思わない。自分の娘であっても、その職業をひとときでもしたことで、続けることで、引き受けなければならぬ代償について説明はします。それでもいいと彼女がその時点で言うのであれば、止めたってやるでしょう。飯島愛のように本を出して生涯をぶちまけて認めてくれる人たちもたくさんいますから、修正が効かない部分も減ってきているのかもしれません。悪かどうかを決めるのは本人であり、他人ではないというのがポイントですか。私には必要ではないが、なぜ「悪」とまで言い切るのかは、ちょっとおこがましすぎて私には理解できないところです。
あなたにとっての悪がみんなの悪とは限らない。
これは意識して暮らしたほうがいいことだと思うのです。どうしようもない戦後の貧乏な中、テントが乱立し食べるものを求めてさまよった経験のある人々はぐんと減りました。それについて「どうでもいいわ。私には関係ない」と冷たく言い放つ人たちがたくさんいます。小松左京の『日本沈没』がもしかすると数年後、数十年後などに起きるかもしれないと覚悟して暮らしている人もいれば、いない人もいます。なので人々の考え方や暮らし方には違いが出るわけです。その違いを統一しなくてもいいだろう、と私は思うのです。それが自然の摂理の法則でもあるのですから・・・。
支配するほうがまとめやすい。それに賛成して従順に生きていく人々がラクという意味では、物事にはマニュアルがあったほうがいいのかもしれません。がゆえに、それに準じていない人々を「必要悪」として異種とラベル貼りをするのは簡単すぎてとてもお手軽です。
私個人の考えで言えば、お金を有り余るほど持っているのに寄付もせず、あるいは税金対策のみのために心のこもらない寄付をし、体裁を考えて行動する恵まれた人々のほうが、貧乏で日々をサバイバルだけに費やしている人々にとっては「必要悪」に見えるのではないかと思うのです。当然、お金持ちの中にも心を砕いて要所要所に寄付をしている人々もいれば、お金を作るプロセスできちんと社会倫理を考え、社会貢献しようとする人々もいます。その違いがわかるほど、ゆとりがある庶民ばかりであればいいのですが、サバイバル;自然の摂理は厳しい。
老齢者が増えていく中、さまざまな政策もお金を持っているだろうと予測される高齢者層の自己負担率を増やそうとしています。これも必要悪なのでしょうか・・・。政治家がやれば許され、暴力団や風俗業界の人々がやると許されない?それはダブルスタンダードです。
というわけで、私は必要悪というボキャブラリーは今後使わないことにします。
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