01/15/2007 にアップした文章です。
山本周五郎テーマ・コレクションからもらい続けています。いかにエキサイティングじゃない、凡々たる暮らしをしていることか(笑)。パチンコは勝っていますが、やはり数ヶ月前ほどの意気込みはなく、さらっとやって勝っている感じです。もう止めるのも時間の問題かな・・・。2ヶ月やらなかったので、やはりやめられるんでしょうね。こうして、パチンコという中毒対象物にも抵抗しているのか?では、飲酒や喫煙はどうなのだ?活字中毒は?他にも、大きな世間の憤りの対象になるものは山ほどあります。たとえば、税金を未納にしておいて、「あなたのところの税調会長が、市民のお金の一部を使い、愛人を囲っていたので、支払いたくありません」だとか、「文部科学省大臣は家賃がかからない事務所の運営費を900万も使っているので、弊社もそうしたいのですが」と税金を払わない旨を告げたらどうするんだろね・・・←こんな抵抗している人々いたらいいな♪
山本周五郎好きの人たちは、文筆業にある人々では、自分の作中の中の形容詞や具体例・比喩として、「山本周五郎の小説に登場する何かをじっと我慢している人物のような」などと使われます。現実を受け止めたあと、そののちに、自分の倖せを考えるという順番を忘れない人々が主人公であることが多いのですが、その中でも特筆すべきなのが、レジスタンス精神です。
抵抗:(1)外から加えられる力に逆らったり、張り合ったりすること。手向かうこと。さからうこと。 (2)そのまま素直には受け入れがたい感じ。反発したい感じ。抵抗感。(3)運動する物体に対し、運動と反対の方向に作用する力。抗力。
手向かわなければ、貧乏人はずっと貧乏なまま、不幸な人はずっと不幸なまま、騙される人はずっと騙されるまま、と、封建制度下では、そしてたぶん現代も、それに慣れ全面的に受け止めてしまうのは、維持よりも退化のほうに属すことになってしまうのかもしれません。なぜならば、テクノロジーはどんどん進化し、同じ年や近所の人々などは成長し、川ですら、山ですら、同じ形を留めておかぬからです。
さらに、一見、何の不自由もない人々であっても、山本周五郎の小説の中では、苦悶や悩みや疑問を持っている人が主人公になります。武家であっても武家の苦労があり、隣の芝生が青いことの例が限りなく出てきます。私が子どもの頃から、デヴィ夫人のようになりたいと思わなかったのも、美空ひばりのようになりたいと思わなかったのも、ケネディ夫人であるジャクリーンのようになりたいと思わなかったのも、やはり山本周五郎のおかげかもしれないな、と振り返れば思うのです。華やかさや立場や職業やいっしょにいる人間や生業などは、相当にどうでもよかった。それらを媒体にして、自分はどういう人間になれるのか?をいつも模索してきたようです。かと言って、男の人のようになりたいと偏って過剰に考えていたわけでもなく、アームストロング(月面に初めて着地した宇宙飛行士)になりたいと思わなかったし、ケネディ大統領のようになりたいとも思わなかったし、池田隼人になりたいとも佐藤栄作になりたいとも思わなかったのですね。
それは、父と母、他にもたくさんいた母の母である祖母やその内縁の夫や、叔父や叔母(父方)を見てきたせいです。大きな夢、野望と言われるほどのものを持つことは、分際を知らない無知であると、子ども心に肌でわかっていたせいなのかもしれません。だから、今の自分にできる、それよりも一回りか二回りだけの努力を、コツコツやるしかないと痛いほど知っており、山本周五郎の登場人物に慰められていたのかもしれないのです。流されないで、必ず歯向かっていく。今のままでは終わらない。意地でも反発する。
たとえば、私は長女で、初孫でも外孫であるから不幸だ、と思ったことがたくさんあったのです。それを幼いながらに口にすると、父は、「お父さんも同じなんだよ」と薄笑いを浮かべて話してくれたようでしたが、当時は内容を把握していたわけではありません。二十歳も近くなってから、そのことが痛いほどわかるようになったのです。「女だからというだけで、次男の父親に生まれただけで、特別に不当な犠牲を払っているわけではない」ということを言いたいがために、父は自分の境遇を不幸だと語るようなことは一度もありませんでした。「男で次男に生まれ、貧乏でまともに高校にも行かなかったし、手に職もつけられなかったから、特別に不当な犠牲を払ったわけではない」ということを、私に教えたかったのでしょう。
ただ、生まれ持った持ち駒を大切に抱きつつ、けなげにやってきたこと。ひとつの状況の中での反抗であり、身の処し方を教えたかったということです。今の状況が悪いから、どこかに逃げたいだとか、悪者や圧政を糺せとか、そういう単純なことではなく、やはり生は続いていき、積み重ねなのだよ、ということが言いたく、『とんびが鷹を』というエッセイにも書いた通り、父は私に広い世界に出て行ってほしいと、いつも心の底から願っていたわけです。
あるひとつの不遇や、生まれ持った環境を、過大にも過少にも評価せず、それがただありき、という現実認識をし、そのあと、その状況の中でどのように、何をなしえるのか?ということを、父には教わりました。山本周五郎の小説のほとんど、彼のお家芸の中軸はここにあるのだと言っても過言ではありません。
抵抗するためには、いろいろな手段があるとはいえ、「どうしても越してはならない一線」というのを、誰しも自分なりに持っているはずで、私の場合は、それは何だろう?と考えることになります。自分が自分でいるために、自分に対して納得できるために、決して自分の足で自ら越してはならない一線。それを越えてしまったら、自分がその先生きていても意味をなさない一線。たくさんありますが、私は、自分だけが得をしたり、栄誉や賛辞を受けたりする状況は、死んでも作らないようにしています。母はコレを非難し、「見栄っ張りのばらまき行為」と言いますが(苦笑)。恐怖のために大きなものに立ち向かわないということもしない。嘘をつかない。騙さない。友だちの男を取らない(コレはもう過去形で、この先はあるような気がしない・爆)。成長を止めるような態度は決して取らない。などなど、けっこうたくさんあり、「規律屋きくみ」になりそげ(爆)。
今までの経験では、想像には及ばないのだけれども、殺人や暴力は避けているが、越してはならない一線かどうか、まだちょっとまとまっていないところ。自分や愛する人を守るために、歴史の中でもたくさんの人々が殺人行為や暴力行為に及んでいるのだが、私はそれを「ひどい」とはまったく思っておらず、実際に、暴力を振るわれたときに、抵抗してこちらも自衛の暴力を振るったことはあり。子どもの頃はやんちゃだったので、その自衛やレジスタンスのための暴力を、大人たちに理解してもらえず苦労したのだけれども・・・(まぁ、やりすぎたということも不評には加担してるんだけどね・・・)。
はぁ、この1週間の読書は充実していました。7日で20冊読んでしまったのですが、もう夕方過ぎた日曜日だったので、図書館に行くのは明日です。なので、西さんが借りた分である、長塚節の『土』を読むことにしました。序文が夏目漱石による絶賛で、ある百姓の細微に渡る生活を描いたものです。ここでも、先に山本周五郎を読み直しておいてよかったと思うんじゃないかな。
抵抗していますか?格差社会の下層に落とされたり、留まったりしないでくださいね。あなたがあなたらしく存在し続けること。たとえあがきでもいいから、生きた証を残すこと。これはとても大切です。そして、きっと誰かの胸の中にずっと生き続けていくことができるという望みに繋いでください。
コメントを投稿するにはログインしてください。