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指標を決めつつ行く

2006年に書いた文章です。

 

指標:1.物事の検討をつけるためのめじるし。2.計算尺で、左右に動かして目盛りを合わせる器具。カーソル。3. [数学]任意の整数の対数を求めると、正または負の整数小数との和として表される。この対数の部分を指標という。標数。
Role Model:役割モデル

子どもの頃からヒントさえもつかめていない世界や事実というのが、すぐそこにうようよあることは何となくわかっていました。その不知を知に変えていくために、本能からなぜなぜ小僧になっていたのですが、どうも答えがばらばらなことが多いこともよくわかっていました。それがまたまた不思議を呼び、「子どもってたいへんだなぁ。早く大人になりたいなぁ」などとため息をついていたもんです。

けれど、どうでしょ!大人になったって同じようにたいへんじゃん…(汗)。世の中は答えがはっきりしない物事に充ちていて、無理矢理答えを押し付けてくる団体や人々やら個人にあふれているではないですか。それを情報過多の悲劇、と言って一言で済ますこともできますが、実はそんなに簡単に言えてしまうものではないとやっと気づいてきました。30歳半ばをやっと過ぎたところです(爆)。

私なりの指標がたくさんのモノごとについてそれぞれあったはずですが、それを足元から掬っていくような新発見にも遭遇することが多いのも事実です。「こんなはずじゃなかった」ことはよその誰かにだけに起こり、「私だけには起きるわけがない」という言い聞かせはひとときの安心しかもたらさないということがやっと身体でわかってきたところでしょうか。その指標が果たしてどのくらいのブレのゆとりを持っているのか、毎日まいにち見つめて「がんばらないとやっていけないようになってるんだなぁ、誰だよ、こんなふうに世の中を複雑にしたやつ…」と笑いさえ出てしまう最近です。

そしてやはり学習は死ぬまで続いていくのだなぁ、としみじみ考えてしまうわけです。

どんなことでも、自分がどのように受け止め取り入れ、処理して自分のものにしていくか、ということが鍵になってきます。人間は強いところもたくさん持っているけれども、同時にその極にある弱さも同じように持っています。その量や質の鍛え方はやっぱり個々人のものであり、その幅の心地よさを決めていくのは自分でしかありません。「遊んでばかりいるのは楽しいけれど、たまには鉛筆を持って机に向かって勉強しないと馬鹿になるかもしれない」くらいの分別は小学生にだってあります。その「たまには」の頻度を決めるのは親でもなく学校でも先生でもなく、結局は自分です。誰が廻りで何を言おうと、真実のなかに嘘が混じろうともそれらを全部スクリーニングしていくのは自分でしかできない領域です。もしも自分で決めてこられなかったとしたならば、あとからひずみが出る可能性を残していきます。

「癖をつけてあげることはできる」とたくさんの人がもっともらしく言いますね。私の父もそうでした。たとえ料理ができなくても、母親がしている横に立っていれば必ず憶えるとか、興味が今に湧いてくるとか。ぎゃはははははははは、まったく起きなかった奇跡…。トライはあの手この手をしたようです。優しいネコなでトーンから、それこそ縁側からすっとばされるくらいのケンカになったこともあります。そして最後に父は「おまえは自分がやりたくないことを避ける卑怯者だ」と言い放ちあきらめました。私はそれに対して、「いつかやりたくなくてもやらなければいけないようになるから、それまで執行猶予をくれてもいいじゃないのよぉ!私がやりたくなるまで待ってよ」と、この問題について終結したのが、私が19歳の頃です。

今でも害の多い癖とたくさん闘っていますが、それは私が自分で自分につけたものなので、「しゃあない、つきあっていくか」というのばかりです。誰かにやられたなどと思い暮らすのはまっぴらですね。時間と心の無駄です。実際、誰もそうはしていないし、逆に言えば出遭い見かけたすべての人にそうされてきたわけです。鎖に繋がれてご飯も食べさせてもらえなかった、というような極端な癖のつけかたをされたわけでもなく、小言をいくら浴びせられていても私には選択の余地がいつでもあったのです。(そうでない人や状況もあるのはわかりますが、人質まがいの話はここでは抜きにします。)

身についたわりといい癖というのも、「これはこうしたら?」とか「ただただ披露してもらった、見せてもらった」というのはありますが、やはり何をどう言われてもだめなものはだめでしたし、いいことであったとしても、それを自分に取り入れるまでに何年もかかったこともありました。記憶の隅に残っていてよかったなぁと思える宝物はたくさんあります。けれども、それは「癖をつけられた」ことではなくて、物事を真剣にいつでも自分で考える態度を尊重してもらえたことによるのではないか?と思っています。そこには自分で決めるという余地がある。もちろん、うちの両親だってパーフェクトじゃないですから、私が彼らの思い通りにならなかったときにぶっ飛ばされたこともあります。でも基本は私を別の人間として尊重してくれていたことを、今、心の底から感謝しています。

他人は放任主義であるとか、躾がなっていないとか、世の中に害悪をひとり送り込んだなどと、いろいろなことを言いますが(爆)、本当にそうなのかどうかは誰が決めることでもないし、多数決でもないので、私が自分のなかの規範や神様に対して恥ずかしくなければいいことでしょう。恥ずかしいところは今でも直していくように奮闘中です。

たくさんの披露してもらったものの中から自分にぴったり合った指標を見つけるのはたやすいことではありません。子どもの頃には芸能人を目標にした人もたくさんいることだろうし、政治家(??笑)や歴史上の人物や、親戚のかっこいいおじさんおばさんだったり、先生や習い事先でのあこがれの人や学校中のヒーローやヒロインであったかもしれません。それらの人々をRole Modelとしてそのある時期をくぐりぬけ、楽しく暮らしていくことはとってもいいことです。楽しいし、刺激されるし、ぼやけたことが多い世の中ではっきりとした指標を持ち、模倣学習ができることでしょう。けれども、その人丸々を鵜呑みにしても何もいいことがないことはわかってきたはずであるし、見えているものがいかにカケラな少ない情報かもどんどんトライのなかでわかってきます。それがわかるようにならないとだめなんだよね…。

でもどうでしょう。わかってきていたはずなのに、どうしても見えるものだけで判断しがちである現状は。一度だめだと思ったものにもう一度チャンスをあげられない現状は。氷山の一角だけを見て事実の素顔を見た気持ちになってしまうのはなぜなんでしょう?

たくさん取り入れてきた指標は、そのカーソルがバンバン動くことが大前提になっている、ということさえも実感していないことも怖いことです。学歴を得てもそのあと邁進しなければ何もならない世情になるかもしれません。実際そういう風潮に移行してきている手応えが日本でも感じられます。いくらきれいでも年老いたときの美しさについての追求がなければ張りのある肌もなくなります。どんなに健康な人であってもナマミの身体はいつか少しずつガタが来ます。どんなに大切な人がいても、ナマミである以上、移動していったり死んでいったりします。どんな文化であろうと、どんなに時間が経過しても変わらない普遍的なものを自分で見つけることができたら幸いであると思います。けれども、場所を変えたり、時間が経過したら、いつでもその指標を変えられる準備や柔軟なものの考え方は必ずできます。

昔好きだった矢沢永吉が50歳になってもまだまだ現役Rock’n’ Rollerであることや(来月SFでコンサートやるから行くんだ♪)、かわいくてきれいで輝いていたCharlies‘ Angeles(チャーリーズエンジェルズ)の女優たちの人生やキャリアがまだまだ方向性を変えたり変えなかったりして続いていることや、22歳の小娘だった私にいろいろなことを披露してくれて自分の人生をがんばっていた人が亡くなってしまったことや、私の家での留学を終えた人たちが日本で何をしているのか想いを馳せてみたり、日本の社会で起こっていることを考えてみたりして、その指標のさまざまさや幅や深さやあれこれを考えてみました。

私はいろいろな人のカケラをたくさん指標にしてきましたが、この人が死ぬほど好きだという、決定的な個人がいなかったことを少しさみしく思いながらも、これでよかったなと思っています。永ちゃんのコンサートでタオル投げたり、ジャイアンツの優勝決定戦を見るために徹夜して並んだ経験はありません。「どうしてあこがれの人がいないのか」と何人かの人に聞かれたことがありますが、それは横柄で自分の今の現状に優越感を抱いているからではなく、たくさんの人たちのカケラかけらを大切にたいせつに受け止めてきたからです。ひとりだけ、あるいは少数にのめりこむことが怖かったから、こういう人間になりました。熱にうかされたようなファン心理も長く続いた試しはないし、ひとりの人間の真似っ子もしてきませんでした。

指標に幅を持たせバラエティをつけてくることで、私は典型的なあらゆるものになる可能性を棄ててきました。毎朝ごはんにお味噌汁を「はい」と手渡す母親にはなれなかったし(ま、トーストでもいいけどさ)、シャワーのたびに足のすね毛を剃る美意識のある女性にもなれませんでした。白衣を着て研究所に立てこもる研究者にもなれなかったし、ブリーフケースとノートパソコンを持って世界を飛びまわるビジネスマンにもなれませんでした。ピアノの前に必ず1日3時間座る音楽家にもなれなかったし、ひつじの顔を400匹も見分ける羊飼いにもなれませんでした。

けれども、その少しづつの美点を取り込みながら、自分にぴったり合ったものをまだまだ探していっている道のりは楽しく、「なぞだらけのこの世の中はおもしろいよ」とはしゃいでいます。不安や恐怖をもたらすモノごとが少しずつ減ってきて、「お楽しみはまだまだこれから♪」と、遅い学習のスピードに納得をしています。Role Modelになり得る人々がこんなにもたくさんいることに感謝しつつ、そのよさを見出せる余力がある自分に歓びつつ、まだまだ死ぬまで(あるいは死んでも)指標を決めつつ、学習は続いていくのだなぁ、行かねばならぬ、と思っているところです♪

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