05/08/2007 にアップした文章です。
私がここのところ考えているのは、致命的な間違いについて。「やり直せる間違い」については、私はとっても寛大なのだ。自分が間違いばかり繰り返している正当防衛なのか?(笑)何度か書いていますが、学習の基本的成り立ちは、Trial&Error(試行錯誤で、間違いから成果が得られる)なので、失敗を恐れていたら何も生まれません。
私が通訳としてついている社長も、日本支社に赴任して26日めです。が、日本在住は12年が経過しています。アメリカで弁護士だったバックグラウンドのせいで、理詰めなのかと思いきや、実際はフランクでスケールがでかく、やはり実績が残せた人なのだ、と納得することばかり。尊敬に値する人ですが、彼の社員に対する質問の中に、「長いあいだ働いていていろいろな変化を見てきていると思うのだけれども、成功ではなくて、失敗やこの会社の悪いと思うところを教えて」というのがあります。その根底にあるのは、「成功は誰でも褒めるし尊ぶが、失敗や悪いところ(まだ改善されていないもの)こそが、チャンスなのだから」という論理。然りです。
夫婦間や恋人間、果ては友人や親子で、こじれすぎてしまってもう修復不可能だと言われる関係があるのですが、実際には本当なのだろうか?会社にしろ、運営や経営が悪いからと立ち直ることは不可能なのだろうか?などと、私は常々考えており、答えは、この「致命的で救いがたいエラー」にあると考えています。そのエラーとは、物事を修復できると思うか思わないか、の違いとでも表現すればいいのだろうか?手を替え品を変え、それを「希望」だとか「楽観」だとか表現してきましたが、それさえあれば、物事はどうにでも変化するのだろうと信じて疑っていません。
いい歳こいていても希望は持てるいい例です(笑)。
ただし、関係などにおいては、どちらかが逃げ腰では修復はありえないし、改善点についての無視や認識や受け入れがなければ、修復はありえない。だからこそ、問われる救いがたいエラーというのは、時と場合によって、「頑固である」「自分がゼッタイに正しいと思い込んでいる」「もうこの先には何もないと見切る」などがあるがゆえに、修復不可能になるのでしょう。
さらに、人間関係の定員問題があります。恋人であれば、常識的には2人。三角関係で3人。愛人をそれぞれ持っていても4人プラス。ところが、会社などになるとその規模は増えていきます。どのくらいの人々にどのくらいの発言権利があるのか?コミュニケーションの密度や質や量は?などを考えていくと、とんでもなく果てしないことになり、修復不可能という結論に至るまでには無理もないことがままあります。
弊社のように小さい会社ですら、修復不可能だと考えてしまえば、もうおしまいなわけです。ところが、私たちの場合は、外で稼げると思えば特に会社を閉める必要もなく、ネット販売もやれば、仲買もやるし、コンサルティングもやり、紹介業もあり、会社の語学派遣やら、カルチャーセンターやらいろいろに手出しができ、修復不可能だとはまったく思わないでいます。台湾にも会社があるので、日本の業績が上がらないのであれば、台湾に負担してもらうというネゴの技術が必要ではあるのですが、西さんが相手なのが幸いしており、特に不可能な領域ではありません。
しかし、大企業になると、やはりそれはわかる気がする・・・。複雑すぎて、もう気力そのものが萎えてしまうのでしょう。なので、やはり社長や重役クラスの力量というのは、実務も大切ですが、人間性が大切なのだということがここでわかり、ダイヤモンド社などが出している雑誌がビジネスマンに売れるのも、人を歴史上の人物にたとえたりすることも止まないのでしょう。
そして、校長センセはビジネスを教える先生なのですが、やはり奥が深く、経験を生かした上でのビジネスの実務面だけでは立ち行かず、心理学を学び、ライセンスをしっかりお持ちになり、教えてらして、さらにたくさんの人々を知ることにより、余計に奥が深いことを知っていらっしゃるのでしょう。だから、簡単に物事を決めることはおっしゃらず、著書にもあるように、「もっと考えましょう」ということを推奨なさっておられます。心の声を聞くだけでは、感情に振り回されることになり、実務の利益を考えると効率ばかり考える論理ばかりになる。このバランスをよく考えねばならぬことにお気づきになり、道しるべを残しつつ歩いてらしたのは、やはり校長センセの見極めの賜物です。
私は、実務がまったくできないと西さんにドヤされていますが、実際にその通り。考えてはいるのですが、たいへんに抽象的なことを確固たるものにして他人に渡せないという難点があります。他人がプレゼンしたものについて、「もっとこう」「これがたりない」「ここが華美」「ここが無駄」ということはできるのです。自分が絵も描けないのに、批評家にはなれるというまったくひどい根性だ・・・(汗)。けれども、それは救いがたいエラーではなく、日々いろいろなことに興味を持ち、自分以外の考えが正しいであろうことを前提とし、人々の意見を聞くこと・さらに検証することで、補ってきています。これがなければ、救いがたいエラーの悪循環をグルグルと廻っていることに気づかず、やはり無為に近い空虚な人生になりそうです。
よく「コレだけは言ってはいけない言葉」などというのを目にしたり耳にしますが、私は率直なので(謙虚ではないのだ・・・)、ある人にとってそんな言葉をよく口にしていることでしょうし、ここにも書き残していると思われます。ただし、それが救いがたいエラーだと考えるかどうかは、やはり受け手に反映されます。私は、それを正しいと思っているようにここでは見えているでしょうが、ある人には言ってほしくないという言葉にきっと感情と論理に支えられた裏づけがあるはずです。それがないのであれば、私は多少厳しくても敢えて言わせていただきますが(あるいは書かせて)、あれば尊重してきました。
私は身体的な欠点はどうでもいいことで、欠点などとは思っていません。自分がこんな疾病持ちなので、そう思いたくないわけです。与えられた機能を持つ肉体で、人は念じた通りになるべく近いように自己を実現していける、と信じたいわけです。ここで、「そうではない」と否定することは、容姿や身体的機能は絶対的である!とするのは、救いがたいエラーのひとつである「希望を持たない」「先を信じない」なのではないかと思っているのです。だから、禿げていようが背が低かろうが体臭が強かろうが、私はそれをマイナス要素だとは思っていませんし、それについて「コレだけは言ってはいけない言葉」だとも思わないがゆえに、それに対する対策をしっかり話せる間柄でいたいと、近い人間には思うのです(知らない人に「あなた臭いますね・・・」とは私も言いませんし・爆))。
英語の先生をやっており、みんなが宿題やクラスの中で間違いをするたびに、私は「将来が楽しみ」とほくそ笑むのです。がっかりはまったくしない。この間違いが明日を生む、と思えば愛しくてたまらなくなるわけです。私もそのようにして英語を学んだし、その前には他のことも間違いだらけから始まったのです。今もそれはまったく変わっておらず、自分にできないことはできないとはっきり言えて、できるようになったほうがいいことはいい歳をこいても、果敢にやっていこうと思うのです。ええ、まだ大学院受験は諦めていませんよ(笑)。むしろ、日々強い気持ちになっています・・・。
パチンコですら、「出ないよ、この台」と思っていたらやる必要はないのです。人生だって、「つまんない」「お先真っ暗」と思っていたら、相当に致命的で救いがたいエラーなのではないのでしょうか?人間関係については、自分に見切りをつけるのではなく、相手をそう査定し、相手を決め付ける傲慢な行為です。ぜひぜひ、ご一考を。
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