新しい学習法を試したいけれど、これまでの学習方法を完全に捨てるのは惜しいと感じるかもしれません。そのため、私たちは無意識のうちに繰り返してしまう行動が多くあります。
その典型的な例が、「日本語を英語にそのまま直して話したり書いたりする」ことです。これは、意味が通じなかったり、論理が成り立たなかったり、不自然すぎて相手が理解を諦めてしまったりするなど、英語を母語とする人や、習熟した第二言語話者にとっては「そのような話し方は面倒だ」と思われてしまう残念な結果につながります。
なぜなら、そのような方法は相手が理解に至るまでの道のりを複雑にしてしまうからです。
日本語と英語では来越した道のりが違います。なので、伝達の際に重要視するものが変わってきて、それが文法や話し方に定着しており、日本語をそのまま英語にしても違和感が残るわけです。
ただ、どんな言語を学んでも必ず「訳」はついてくるもので、どの程度どのように何を目的として、ではあることは前回のコラムで言及しました。翻訳が文化や時代背景や状況判断なども含めた意訳も辞さない正確にならない人にとっては、訳は邪魔でしかないです。
では、言葉に代わるものとして何を使うのか?映像です!頭の中に浮かぶ映像で補完します。私はコレを20年少し前から言い続けてきているんですが、ようやく検索すると同じことをおっしゃっている英語を教えている立場の人たちが増えてきました。
聴こえてきた音から拾えた語彙だけでも映像の中に入れることができれば、あとは理解と直結させるだけで、すべて、あるいはたくさんの言葉が必ずしも必要でないことは、日本語だけで生活していても同じだということは、試してみればわかることです。
日本で生まれて育った赤ちゃんが自由自在に日本語が操れるようになるまでの2年から4年くらいにやっていることと同じことをしてみればいいわけです。そこに訳などありませんでした。日本語を修得した方法は、聴けたものに意味付けすること。そのときに使うのは言葉だけではなく、むしろ、映像や実際に目の前にあることが圧倒的な割合を占めていたはず。その後、日本語が自由にかなり使えるようになってから、目に見えないものや概念、抽象的な事象などが理解できるようになったはずなのです。
大人になる前に、外国語においてそのような学び方が当たり前、と周囲の人たちの99%に言われてしまったら、そうするのが当たり前と思いますよね・・・。でもそうじゃないんですよ、脳を正しく使おうとすれば訳には無理があるわけです。
耳が聴こえず、口が利けないHelen Keller:ヘレン・ケラーがどうやって世界を理解したのか?を想像してみてください。お芝居や伝記で知っているかと思いますが、他の五感に頼ったわけです。触る・匂う・味わうことで理解しようとして、時間は掛かったけれども脳内になんらかの想像の産物が生まれたからこそ、理解に到達したわけなのです。
見える・聴こえる私たちは、それらを使わず、言葉を多用しすぎて遠回りをしてしまってきたようです。
あなたも日本人の友人にちょっと複雑なことを話されたときに、映像で理解しようとすることを確認してみてください。訳は最低限しか必要ないのです←もう一度①を読んでみると主旨がわかります。
映像にできる脳を持つこと。そのほうが外国語はもっと自然に使えるようになっていきます。騙されたと思ってやってもらいたいことです。って、騙してませんけど(笑)。





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