04/10/2007 にアップした文章です。
何度か書いたように、私は、毎日一度は必ず泣いています。知事選に向かった折、小学校の校庭の桜がはらはら舞い落ちるのにも涙が浮かんだり、加藤清正と忍びのやり取りを読んで泣いたり(『火の国の城』池波正太郎)、駅近くでサバイバルをしているネコちゃんを見てほろりと来たり、と、まぁ、この心は忙しいのよ(笑)。当然、泣くというのは、私の感情の顕れで、1日24時間で、かなりの感情のアップダウンがあり、喜怒哀楽が激しいことに、気づきながら暮らしていけるようになったのは、心理学をやり始めてからなのかもしれません。
すでに意を決して書いた通り、私は躁うつ病で、しかもラッキーなことに、躁状態が極端ではなく、ただ、マイルドに健常者よりも目に見える程度、という状態で脳が動いています。鬱になる割合は、10代までは多かったのですが、やはり私の場合は、躁に支配されている時間が圧倒的に多く、とにかく、学習のみでやり過ごして来た感があります。医者には数度行きましたが、最終的に頼りになるのは己のみ。家族だって、私本人ではないのだから、まったくのところアテにはなりません。彼らにも彼らの感情があり、脳があり、仕事があり、事情があり、生活があるわけです。途中、「うーん、疲れちゃったなぁ。ダメだったら死んじゃってもいいかな」などと思ったことも数え切れないほどありましたが、30歳を過ぎて、「どうしても自分から死んではいけない」と堅く決意しました。それから大学に戻り、心理学をしっかり学ぶことになりました。それがよかったようで、学習の成果は、日々の生活に生きています。
しかし、考えてもみていただきたいのが、健常者であっても、感情の波は必ずあること。私の場合は、躁うつ病のために、スケール(尺)が大きなものなだけであり、誰しも喜怒哀楽とナマミをコントロールしつつ生きているわけです。私は、喜怒哀楽を顕すことは、昔から「必須」だと考えていましたが、それは理屈にも見合うことになることを心理学を学んで証明されてきました。ならば、なぜ西さんのような、無口で喜怒哀楽の波を表現しないよう律している人を選んだのか?これもまたいとをかし・・・。
ヒトのキャパシティを、容積と考えてみます。そこには喜怒哀楽に分けられる感情がたくさん詰まっており、その感情は均衡を保とうとします。いつも怒ってばかりいる人間は破滅しますし、いつも笑っている人間などはいないわけです。でも、自分がナマミだということは知っており、感情の起伏がそこそこあると思っているのに、他人についてはそうではないかのような前提をしてしまう。人間は驕った生き物である瞬間が多いものです。自分だけが、感情のコントロールが利かないような気がしているのは、謙虚だから、なのではなく、他人が不安定であることは、「信頼できない」「不安」だからで、もしも「だらしない;いつも時間に遅れる、こぎれいにしていない、お金にルーズ、異性関係にゆるい」であったとしても、そちら側で安定してくれているほうが、なんとなく、これ以上突き詰めて考える必要もないので、ありがたいから、便利だから、とやっているに過ぎないわけです。
でも、自分に起きる様々なことは特別。家を守る人間には家を守る人間の、外で働く人には外で働く人の、接客をする人には接客の人の、子どもには子どもの、学生には学生の、などなど、あらゆる事情があり、あらゆる体験があり、毎日、喜怒哀楽は繰り広げられています。
そんなこんなが面倒で、なるべく感情の起伏に気づかずにいる人たちもいます。気づかないようにしたほうがラクじゃん、と気づいたあと、いつのまにか本当に感情の起伏を抑えてしまい、そこで安定してしまった人というのは、やはり実在します。もちろん、生まれ持った気質があり、人によりスケール(尺)は様々です。けれども、西さんなどは九州男児の典型のように、「熱い男」なのよ(笑)。でも、感情をなかなか表に出さない。それは「かっこいいことではない」「潔くない」などに分類されているからのようです。マラソンはいっしょに走ったことがないのですが、テニスやスキー、山登り(実は私が行ける程度はハイキングね・爆)でも、西さんにもやはりきついことはあるらしい。いや、きついことを体験したいがためにスポーツをやっている、ひとりSM男なのである(笑)。でも、歯をくいしばるのが、あまりに日常的で自然で、いつのまにか歯をくいしばらなくても、我慢できるようになってしまったようで、登っている途中でも、風に吹かれて涼しい顔をしているようにしか見えない・・・。そんなとき、私はたいへんに彼を憎たらしく思うのです(笑)。
が、感情に蓋(ふた)をするのは、実際はあまりよいことではないのです。忘れ去れるほどのささやかなことであればいいんですよ。けれども、忘れられないほどの衝撃・強い感情というのは、やはり実在します。
ここで厳密を規すために、『時間が解決してくれる』という便利語について解説。時間が解決したのではないのですね、コレ。人の記憶というのは、Short Term(短いもの)とLong Term(長いもの)があり、何度も繰り返すことにより、Short TermはLong Termへと組み込まれることになっています。が、ものすごい衝撃・感情・経験・発せられた源(人やモノなど)や、それらの組み合わせにより強い記憶になると、Short Termでも繰り返さずに済むことがあります。これらが、蓋をしてはいけない感情だと見極めてください。そして、『時間が解決しないもの』は、同じ感情が湧き上がる場面を繰り返し、それが何度も似た考えや感情を引き起こすと「忘れにくい」と解釈できるわけです。
失恋した人に向かって、『時間が解決してくれるよ』などと野暮なことを言うのはやめましょう。あなたが、どのくらいその人の想いが深く、どの程度のおつきあいだったか、きちんと把握しているかどうかを考えてみてください。「死んだ子の齢(よわい)を数える」人だってたくさんいるわけです。その人たちにとっては、時間は問題や悲しみやつらさを解決してはくれません。そんな気休めのことを言うくらいならば、彼らが「同じ感情や考え」を繰り返さないで済む、具体的な方法を提示してあげてください。それが、本当の親切や愛情というものです。
私は、感情に蓋をするのがたいへんに苦手なゆえに、毎日泣いているわけですが、怒りやヨロコビに関してもこれは同じで、母がTVと会話をしているのを見て、「あー、この人の娘なんだなぁ」と思うのです(爆)。私は、TVとは会話しませんが、TVに向かって怒ったりしてるし、雑草がコンクリートに負けずににょきっと生えていると、足を止めてしゃがんで見入ってニコニコしています。泣くというのは、強い感情に私が抗えなかったときの表現の結果で、それは、私の日々には不可欠なことになっています。もしも、これらの感情を裡側にすべて貯め込んでいたら!?と考えると、おぞましくて、たぶん、私はこの世の人ではすでにないことでしょう。そんなわけで、私はエレベーターでも人と話しちゃいますし、それで気分がいいと、玄関先から母に話しかけています。
ある程度の我慢はしますが、表現することを怠っていると、母は永遠にTVをつけており会話を続けるので、私が会話の相手になることにしています(笑)。西さんにしても、放置しておくと、ずっとひとりで何かをしていることが無痛なので、遠慮なくズケズケと話しかけることにしています。私は、いくつものことを一時にこなすことができるので、誰かに何かを邪魔されている、という気がしたことはあまりありません。ただし、勉強中だけは集中したい、という強い願いがあるだけでしょうか・・・。私の喜怒哀楽を見ていると、「紙芝居みたいだ」と西さんに言われたことがあります。きっと、起承転結とか、そこに感情に伴う理論があるんでしょうね・・・。まぁ、昔話テキな稚拙なものかもしれませんが・・・。あるいは四コママンガくらい?(笑)。
我慢すると貯まっていくので、ぜひぜひ、感情の波は自分で受け止めてください。コントロールできるようになったら、「放し飼い程度」に御してみてください。放置や権威的締め付けはいけません。これは、動物を飼ったり、子育てにも通用することだと思うのです・・・←ひどい喩えかしら?
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