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母は強し

アメリカに住んでいる頃に書いた文章で、10数年前のものです。母はすでに77歳になりました。来月78歳になります。

 

私は、母をとにかくあらゆる人に会わせてしまいます。私が小学校3年のときに、家が貧乏だからイヤだと言い張り、彼女を大きく傷つけて以来からの習慣です。それまでは、着たきりスズメな私でしたが、立ち居振る舞いに貧乏を出したくないといつもびくびくしていましたし、近所の友だちと放課後は遊ぶことにしていて、学校の反対側に住んでいる友だちとは遊んでいませんでした。

母は、私が幼稚園の年長のときに、自分の母親を子宮ガンと転移ガンで亡くしました。もともと引っ込み思案で、どもりや対人恐怖症があったのに拍車をかけ、裡にこもり泣いて食事もしない日々が続きました。お手上げ万歳になった父の計画で教習所に強制的に通わされ、教習車で教官が何度も母を送り届けてくれました。運動神経も鈍い上に、心理的負担が大きく、彼女としては未知の世界であり、母親を亡くした傷も癒えているわけではなく、かなりのオーバータイムの上、やっと車の免許は取れました。が、その頃から少し、母のなかで何かが変わってきたようです。

その後、家で内職をしているときに、カルピスにジンを入れて飲むようになりました。カルピスを飲むと舌に膜ができ不愉快だという話をすると、叔母(母の妹)が、「おねえさん、ジンをちょっとだけ入れるとなくなるよ」と言ったからです。その頃の彼女は、とても無知で、アルコールは「ビール」「ウイスキー」「日本酒」しかないと思っていたので、ジンがアルコールだとは思わなかったのでした(笑)。そして、朝、家事を済ませたあと、内職をし始め、私たちが学校から戻る頃にはすっかりいい気分になっており、なんと、2ヶ月以上もその原因がわからなかったのでした・・・。

ある日、お友だちの家で開かれるお誕生会のことについて話すと、「うちは呼べないね」と。そこで癇癪を起した私は、「貧乏なんて大っ嫌い!なんで私を産んだのよ!」と致命的な一言を発してしまったのでした。近所の友人が、影でそれぞれの家の経済事情などを話すこともなく、幼いときはそれでよかったのです。が、新興住宅地で建売がたくさん建ち始め、粋でおしゃれなお誕生会をやることが流行になり、私はとても肩身の狭い想いをするようになりました。「一生懸命なんだけどどうしてだろうね」と、祖母が死んでしまったときの後のように意気消沈した母を見て、私はものすごい反省をしたのです。

そして、「貧乏でもいいから友だちを呼ぼう。母を見てもらおう」と決意したのでした。それから、学校に忘れ物を届けに来てくれた母をバンバン紹介するようになり、「引っ込み思案じゃダメだよ」とPTAの役員の書記を薦めたりしました。洋服をとっかえひっかえしたり、楽しそうで、それでも緊張して、PTAにも参加できるようになりました。

明るくなった母は、それから外のスナック通いを始めます。2学年年下の弟は、まだ夜が怖く、暗闇を怯えて姉としてはたいへんでした。外から鍵をすべて掛けて出かけてしまっていたのです。今レポートすれば、虐待母として家裁に連れていかれちゃうことでしょう・・・。が、時代はそうではなかったのでいいのです。叔母のジンをアルコールだと理解してから、お酒を飲んで酔った気分が大好きになり、現実逃避の場所をやっと見つけたんでしょうね・・・。

明るくなった母は、それからもだんだん明るさと強さを増していきます。どんな友人も、私の母を楽しい人だと褒めてくれますが、母親じゃないからラクだろね、という感想はあります(笑)。私が体験したよりもずっと、想像を絶するほどの貧乏暮らしをした母は、一度も新品の教科書を使ったことがありません。民生委員の人が中古の教科書を家に届けてくれ、土間にはだしで降り、畳のない暮らしをしていたくらいです。そんな母は食べ物に弱いっ!

隣のおばちゃんがおまんじゅうを1個くれると、母親らしい母親ならば、弟のいる私と弟に、半分づつ割ってくれると予想することでしょう・・・。が、私の母は違うのですね。お風呂や物置やトイレ!に隠れておまんじゅうを独り占めして食べてしまいます(爆)。「ただいまー!」と駆け足で玄関に入ると、口をまだもぐもぐさせた母が立っていたりしました。今でも、「あげるよ」と譲ることはあまりせず、してくれるときは、何が彼女をそうさせているのか?と疑問を抱えてしまいます。「具合悪いのかな?」「コレ嫌いなのかな?」と。

私がバイトで稼ぐようになって、最初にしたことは、自分の口紅を自分で買ったり、下着や洋服を限られた予算のなかで買ったことですが、二番目は「母に食べさせること」でした。ウェイトレスをしていたので、家の食卓に出ないものが出ると、社食割引で半額になるので、母を連れて行ったものです。彼女の誕生日のときには、盛大に都会のど真ん中に連れていったり、USに来たときも同じように食べ物で釣るのですね・・・。

ちなみに、USの一皿の盛りは、日本人が慣れているものとはまったく違い、とてもとても量が多いです。シックなレストランは別としても、ファミリーレストランの量はハンパじゃありません。私の長い渡米の17年のなかで、そのお皿を平らげた女性は二人しかおらず、ひとりは母で、もうひとりはまだ21歳だったわが社で働いてくれている女性です(笑)←登場させてごめんよぉ。ちなみに、彼女と母はなかよしです。私は17年のあいだ、一度も完食したことはありません。

私とリアルタイムでおつきあいすると、日本での食事にはもれなく母がくっついてきます。韓国料理の冷麺を生まれて初めて食べたときのコメントは;うわぁ、こんなおいしいものを41年も見逃していたなんて!倖せのひとつを見逃してたわ。他の食べ物でもよく言いますが、コレ(笑)。

そんな母が切なくなり、二度目に大きくかばったのは、父の通夜と葬儀のときです。泣いてどうしようもなく、それでもこまねずみのようにくるくる働かなければならなかった母は、泣きながらカツどんを食べていました。「だんなを亡くしてよくもあんなに食欲があるわね」という陰口をたたいた人に、ケンカを売ったのは私です。

こんな母にもらった私の一番の宝物は、楽観的なところです。よく働き、たくさん苦労しましたが、彼女は一度たりともギブアップすることなく、いつも物事を楽観的に見てこれました。ときどき躓いてはいましたが・・・。そして、また数ヵ月後、彼女をUSに呼び、盛大に働いてもらう予定です。掃除や裁縫、整理整頓が得意な母の娘は、どれも平均点くらいしかできません。この前は、ソファカバーと椅子カバー、布団カバーを縫わせてしまいました・・・。貸してほしい人がいたら、私がエージェントですのでご連絡ください>でも、食いますのでご注意を(笑)。

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おかげさまで母はまだまだ食い気中心にかなり働いてくれています。家で英語を教え始め、その後オンライン化し、実店舗まで調布駅前に作っても、彼女だけはあまり変わりません。私のことを「おねえちゃん」と呼ぶので、ガイジンの友人に「あれ?きくみはママのおねえちゃんなの?」と突っ込まれて笑っていました。相当受けたようです。「そうよ、私はまだ40代なの♪」などとおちゃめでした(笑)。

母は強し
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