はい。心理レッスンをして「考え抜いて正しいと思う理想の自分になる!」を教えている立場にも拘らず、なかなか煩悩から抜けきらぬワタクシです (・・;)
こうやって見てみると、本当にまだまだ修行は続くのよねぇ・・・とため息が出てしまいますね。除夜の鐘をすがすがしい気持ちで聴けるの??と不安になってしまうほどです。まぁ、だから人間らしいのさ、などと言い訳はしたくないところです。
Dalai Lamaに会いに行った(いやいや、見に行ったんだけどね (・・;) 実際は)あとから、日本人としての仏教の捉え方について、あれこれと考える機会がたくさんありました。日本人はどのように仏教を?というのは、神仏習合という考え方を知ると早道なのだろうと思います。
特に私などは、父の実家が神主を24代目が継いでいる環境にあり、伯父もバリバリにまだ現役なので(もう80歳を超えて持病なしです)、3代が分業している状態なのですが、私はこの環境を「基準」と捉えてきた節があるので、ますます仏教についてはわかっていなかったかもしれないのです。そこで、アメリカに渡り、宗教学を白人男性(しかもギリシャ系アメリカ人)から学ぶことになり、とても新鮮なあれこれを魂にも入れることになるのです。
とはいえ、血肉や骨に染み渡ってしまっている神道の柔軟さは抜けることなどはなく、やはり中心・核にはこれがあるのかもしれないですねぇ。
それでも、小学生の頃から合気道をしばらくやっていたせいもあり、真言密教などはとても好きなのです。 高野山 真言宗
なので、真言宗と対になって捉えられている天台宗の千日回峰行などのニュースも胸をわくわくさせながら見てしまうのですね。
ここまでやれば煩悩を超えたところに存在できる瞬間が長いはず。せめて万分の1くらいでも叶わせたいと思いますが、意気込みだけでいかんせん、煩悩に惑わされ続けております。明日の除夜の鐘を聴くときには、耳で聴かずに心で聴くことができるように、と切に願っているところです。
コメントを投稿するにはログインしてください。