日本でも痴情や貧困以外の動機から生まれる事件が多くなりました。アメリカに住んでいるとAOLや他のメディアを通してしか情報が得られません。だから安直に判断したり、分析したりということを避けていました。今回7週間(うち1週間は台湾)日本に居て、それなりに感じて考えたことは、個人がそれぞれ「犯罪への覚醒」をすべきであるなぁということでした。
簡素に分類してみると、昔はモノを盗むにしても(いったいいつ生まれだ?と言われてしまうのか?)、生活がひもじくて最低限の生活を維持する、あるいはそれより少しだけいい想いをするために盗みってもの全般の多くが位置していたと思います。万引きにしろ、強盗にしろね。でも、少し豊かになって、毎月保険金を掛けることができるようになり、保険金殺人やらコンピューターシステムを使った横領や、自分の心を満足させるための貨幣価値だけを求めない盗みというのもどんどん複雑に枝葉が分かれてきました。たとえば売春などにしてもそうで、最低限の生活を支えるという影はもうほぼなく、「国民水準以上の裕福な暮らし」を求めるがゆえに、という要素が強いことでもわかります。
そして外国人居住者が増えたことから犯罪の種類や質も変化して、あの石原都知事発言になるんでしょうか?個人的に私はあれはたいへん不愉快でしたが…。
それと同様に殺人も簡素なところからどんどん複雑になってきたのだなぁと感じました。私個人は在米12年になりましたが、アメリカではその簡素で貧困や無教育のなせる犯罪と、複雑で入り組んだ資本主義特有だったり、心理的満足を充たすための犯罪との格差や種類が豊富だと思います。それがいいことか悪いことなのかは、この話の目的ではありません。それでも日本と北アメリカの人口は大きく違います。テレビ局が何チャンネルもあるせいやら(ごく水準のケーブルの入っている我が家では、およそ70チャンネルほどでしょうか)、テレビそのものを見ない人口もかなりいるので、ひとつの事件をメディアが大きく取り上げることが分散されているような気がします。いろいろな社会問題が提示され、そのすべてを網羅していくのはかなり無理なんじゃないか?と思うのです。がゆえに、チャンネルごとでの特色や性格のようなモノが濃厚に出るようになります。いわゆるSegregation(区別)です。日本ではマスコミ各社のどのスポーツ新聞を見ても、どの女性週刊誌を見ても、どのワイドショーを見ても、それほどの大差はないような気がしました。「うーん、この微妙な差がいいのよね♪」と言われたらお手上げ万歳です。確かにパーソナリティが醸し出す差異というのはありましたが、コメントの傾向や世論の作り方の作意には同様な流れを感じました。
昔は朝日新聞といえば「左翼的要素」が色濃かったものですが、今となってはそのような印象は受けません。朝日ジャーナルが廃刊になり、AERAが創刊しましたが、文章が短くなっていて「これが民衆に受けているわけねぇ」などと思ったわけです。視点としてはいいものもありますが、ジャーナル時代のような深いつっこみはなくなっているんじゃないか?と郷愁感に浸ってしまいました。←こんな個人の哀愁はどうでもいいことなのだろうけど…。
そしてその犯罪に対しての、日本の民衆の記憶の短さ、というのもたいへん気になったところです。たくさんの人数を殺しただとか、金額や損害が大きかったものは記憶にとどまっているのでしょうが、たった1年前に起きた事件に対しての記憶が薄れているか失われているという現象は、やはりマスコミ他からの能動的な発信に対して、受け手の受け止め方に問題があるのかな、と思ったわけです。ニュースなら信頼できるがワイドショーは低級だとか、コメンテイターの社会的地位や露出度などがそのまま反映されてしまっている、という印象も受けました。
自己というフィルターを通して「事実」を見られなくなっている、自己の「現実」と事件に登場する他人たちの「現実」を混同させている、自分でモノを真剣に考えるいとまがなく受け皿になる受け身的な社会見学をしている、というところなのでしょうか?
「犯罪者はある一定の特色や性格を持ち、穏やかに普通に暮らしている人には起きない」という保証などはこれっぽっちもないこともあまり理解されていないようです。どんな人間にとっても「殺意」「反倫理的言動」「衝動」は避けられない要素であり、すべての人間が犯罪に対して「明日は我が身」という意識を持たねば犯罪への覚醒は始まりません。その微妙な組み合わせがもしも自分に起きてしまったら、という意識がない限り、そのモラルの支えとなる法律に対しての見解も持てないし、当事者(加害者側であれ、被害者側であれ)となったときの身の処し方も甘いものとなるのは必須でしょう。
被害者と加害者の距離感が隔てられているのもこういった背景があるのではないかと思います。山口県で起きた母子殺害の公判で、被害者の夫および父である男性は控訴を決めました。当時18歳であった少年が「死刑」にならなかったことを不服とするものなのか、それともそれはただ形になっただけであり、「被害者の会」の草の根運動を展開するための布石なのか、インタビューを見て著書をちらちらと見ただけでは真意のほどはわかりませんでした。
仮説的な答えならば誰でも持てる、という哲学的なお話になりますが、私個人は「目には目を、歯には歯を」を信じていません。公の場で何度か発言しましたが、私は「死刑という制度は容認しますが、執行には反対」という立場を取っています。それが自分の身内であってもそうか?と問われてもそれは変わりません。犬ネコと人間をいっしょにするな、というお叱りもありましたが、私のネコはひき逃げをされました。その人個人を恨む気持ちはありません。そのひき逃げという行為は憎みます。1ヶ月ほどごはんが食べられず寝ることもままならず、数学の試験を延期してもらったりして日常生活をそれなりに潜り抜けたなかで考えたのは、「恨み」という気持ちは何も生まないということでした。これがネコではなく西さんであっても同じではないかと思います。「子どもがいないからあなたにはわからないわよ」というまったく理屈の通らない非難だけは止めていただきたいものです。
日本は加害者にやさしく被害者に冷たい法制度を取っていると言われています。確かに国が提供する「愛する者を失った人々の会」やそのセラピーを国費で賄うなどの法令はありません。あればいいことなのでしょうが、ない場合にはあなた個人は何をすればいいと思いますか?自分が被害者になるまで安直に待ち、自分にまだそれが起こっていないあいだはそういった事件の被害者に強く同情するだけでしょうか?「明日は我が身」と思えば、新聞投書もできるし、雑誌投稿もできるし、ボランティアの会をイエローページで探すこともできます。本屋さんで本を買い求めることもできます。公判を傍聴することもできれば、貨幣での寄付だってできます。何もしないあなたが第三者で居続けることを選択したときに、「何か」をしている誰かを責め立てたり、逆に強く同情したり、自分の祖国を揶揄するのは、自分の人間性をも下げている、とみなす人が多いことは避けられないことになります。何より、自分を正当化するのに苦労することでしょう。
私自身こんな想いが出発点になりました。犯罪に対しての見方・考え方を身につけることは、孤高の人を気取らない、日本を棄てたわけじゃないという気持ちの顕れでもあり、私にとっては大切なことです。ひとつの事件を一般化せずに、ケーススタディをする気持ちを失わず、自分にできる最低限のことから始める、という気持ち。他人のことでは済まさない、済まされない、犯罪率の多い国に住み、あらゆるメディアから流れる犯罪をどのように「怖がらずに」受け止めればいいかという自衛。
「私に限って」「うちの子に限って」などという幻想を持たずに、しっかりと自分が社会の一部に実在することを確認するためには、そこで起きている犯罪も、たとえネガティブな部分が大きかろうとも受け止めていかねばならぬと思います。こういった覚醒がなければ、これからどんどん増えるであろうインターネット犯罪や裁判(名誉毀損や著作権など)に対応しつつ、楽しいネット生活は送れないことでしょう。
大袈裟すぎるよぉ?でしょうか…。私はそうは思わないんですよねぇ。知り合いの知り合いくらいには殺された人がいたりします。彼らはとても善良に見えていたし、そんな事件に巻き込まれるような不用心な人たちでもなかったはずでした。私も自分のことをそう思って高を括っていました。生き方を自分で選択できるのならば、死に方はどうなんだろうか?と考えたときに、少なくとも犯罪に巻き込まれて死にたくないなと思うようになりました。たとえ巻き込まれるようなことがあっても、自分で最善を尽くした形にしていきたいと。なので、Webに写真を載せるような無茶はできないし、所番地を書いたり、誰かが推測できるタネは極力書きたくないと思っています。日常の生活もそうです。アラームシステムが本当に必要なのか?とよく言われますが、あったほうがいいと思っているし、駐車場も建物から離れ場場所よりは近いところのほうがずっといいと思っています。
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