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猫がいない日々

3月8日にアメリカから連れてきた5匹のうちの最後の猫、さくらが逝ってしまい、すでに2か月弱経ちました。ぼーっとした気持ちはまだまだ慣れないことも多く、猫砂や残ったフードを観るたびに、たまにまだ泣いています。話しかけるクセはようやく治まった感じです(笑)。

 

いない人に向かって話しかけるのはヤバいよねぇ(笑)。危ない人だ。(・・;)

 

私が赤ちゃんの頃は犬がいて、それは犬小屋で外飼いだったのですが、私は無類の動物好きで、嫌いな虫すらいないくらいで、触れない動物は何だろう?と、今もたまに考えています。あ、毒物照射や社会的に触れてはダメ!と禁じられている、などの生物は敢えて触りませんよ(笑)。幼稚園の頃は、虫・小鳥に限られていたのですが、小学校からはチャボ・カエルやおたまじゃくし・ヘビ・うさぎ・犬・猫といろいろなものを拾ってきては、面倒をみてきてしまったのです。そして、本格的に両親から認められて、猫が飼えるようになったのは、小学校高学年でした。

 

その後、渡米するまで猫がいる生活が続き、渡米したあとは、賃貸だったので自然と契約書にペットOKなどというところを探したわけではなかったのです。その後、隣の母猫が我が家の地下室で猫を4匹出産し、そのうちの2匹を育てるためにも、と、引っ越しをしようとしていた矢先、父がガンであることがわかったのですが、1匹はもらわれていき、うどちゃんを連れて帰国しました。その当時は、JALのキャビン内に猫を連れていけたのです。100ドル余分に支払うだけで!睡眠薬は座薬で入れて我慢してもらったものの、大きく不安にさいなまれることなく、検疫所で問題視されることもなく、1993年、うどちゃんは留学したのでした(笑)。

 

彼の日本生活はご機嫌だったようで、魚をたくさん食べれる日々は楽しかった様子です。外にも出てみていたし、冒険の日々でした。まだ1歳半くらいだったしね・・・。

 

そして、父が死んで1周忌が終わったあと、私はまたうどちゃんを連れてアメリカに渡ります。が、その前にNHKで派遣の仕事をしていたときに、筑波学園都市にあるJAICAで国の代表としてエンジニアリングや農業を学んでいたアフリカ人の英語を翻訳することになり、彼らを訪れたときに、夕食をいっしょにすることになったのです。なんと!肉のハナマサというスーパーが当時、しゃぶしゃぶと焼肉の食べ放題を、学園都市でやっており、そこにアフリカ人を連れていってみたところ、大惨事に・・・。

 

彼らは、野菜を一切食べることなく、お肉だけを90分食べ続けたのでした・・・。(・・;)

 

私はいろいろと説明をしてみたのですが、3人に負け、もう日本語が話せない人に徹することに(笑)。そして、そのスーパーの駐車場でタビーの仔猫に出遭ってしまい、持ち帰ってしまったのです。

 

かん太と名前をつけ、その子もアメリカに連れて帰りました。その子が、わずか1年後に交通事故で死んでしまい、悲しんでいたところ、当時の配偶者がSPCAで猫を2匹もらってくれました。それがハイジとタンゴの兄弟でした。

 

その後、行きつけのお鮨やさんのお願いを聞いてNO!と言えなかったため、寅次郎とさくらの兄弟猫をまたもやもらってしまい、5匹になったというわけです。

 

彼らは本当に長生きしてくれました。そうした意味では、みなを4-5回も引っ越しさせてしまっても、多頭飼いだったので、きっとさほどのストレスじゃーなかったんだろうな、と。

 

そして、今、誰もいなくなってしまったことを持て余し、どうしたものか、と空虚な気持ちでいます。どうしましょうね・・・。