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生命を失うつらさ

11/08/2006 にアップした文章です。

 

けっこう長いあいだ生きてきたので、かなりな数の方々に死に別れてきました。先日、私のなかよくしてもらっているお友だちのお家のフェレットのコパルちゃんが、腫瘍が悪化してあっけないほどの短いあいだに神様に呼ばれました。私は、と言えば、意気地なしが昂じて、彼女との連絡に使っているAOLのメールを開けることができず、連休中も仕事をしていたのですが、仕事用のメールにはOutlookを使って見ており、自分が彼女からの連絡を避けていることを、十二分に意識して、まるっきりだらしない臆病者でした。何を言っても慰めにも支えにもならぬことがわかっており、ただただできることはいっしょに居てもらった小動物について、彼との想い出いっぱいの時間ともたらしたものについて考えないように、時差攻撃での現実逃避を提供することくらいで、死に別れについては、個人が闘う領域なのです。私には何もできないことがわかっており、ネットではなんとなく言いたくないことも多かったのです。

私がしたかったことは、Hugsだったのですが、彼女のSOSはAOLのほうに届いており、荼毘に付したそのあと、私に会いたかったというのに、私は今日、月曜日の朝にそれを知りました。大反省です。私にできることであればしたかったのに、私はひとりで自分のことに重ね合わせ、腎臓病のうどちゃんのことを考えたり、家出してしまったアヴィのことを考えたりしており、さらに私の廻りで死に別れた人々のことを思い出しており、そこからまたまた逃避するために、図書館に行き、大量18冊の本を借り、仕事をこなし、久々に母の不在のために料理もし、TVでゴルフとバレーを見て、時代劇ミステリーまで見ていたわけです。なんたるChicken!(臆病者)だこと・・・。彼女にはそばについていてくれる人がいることはわかっていたし、お父様もご健在で、ひとりで抱えきれないものは、きっとどうにかできる人だとも信じているし、私も手をこまねいていたわけです。

私は映画や読書以外ではひとりきりで泣くことを決めているのですが、金曜日以降、トイレとシャワーと布団の上でかなり泣きました。その涙の中で、本当に私が一度だけ会ったフェレットの彼に向けて泣いたのは、一体いかほどだったのでしょうか・・・。

私の最初の死に別れは母の母である祖母で、昭和45年の3月に5年以上のガンを患って死にました。ニコヨンをしていた祖母には、青い自転車を買ってもらい、武蔵野日赤まで叔父の自転車の後ろに乗せてもらって何度もお見舞いに行きましたが、廊下に轟く叫び声ばかりが想い出になっています。当時の保険や医療では、祖母には充分なモルヒネは投与されておらず、本当に痛かったのでしょう。その後、母が抜け殻になって、私の生活も大きく影響されました。真っ暗でなければ眠れなかった私は、その頃から2年弱、マメ電球を点けていないと眠れなくなりました。母が車の免許を取れたのと同じ時期に、私はまたもや真っ暗にしないと眠れない子どもに戻ったのですが、長い長い時間が掛かったお別れでした。

それから、中学の同級生の自殺が2回あったことで、10代後半は暗いものになりました。どちらも高校に上がって1年以内のことです。さらに、曾祖母が老衰で死に、はとこが先天性の病気で小学校4年生で死に、私のバイクを修理してくれた通りすがりのバイカーも、笑って手を振った5秒後にダンプに轢かれて、私の目の前で死にました。友だちが病気で死に、アメリカに渡ってからもヘリコプターの教官であったBobが日本人の女性学生といっしょにSan Pablo Bayに墜落して亡くなりました。私に翻訳を依頼したユダヤ人の弁護士も亡くなり、お友だちの親御さんも亡くなりました。父もガンで死に、祖母のお見舞いのときに自転車の後ろに乗せてくれた叔父もガンで死にました。何よりも、私が今の私になるために尽力を尽くして愛を惜しみなく与えてくれた大恩ある紳士がふたり、私の渡米中に亡くなりました。そのあいだ、動物にも死なれ、父方の祖母にも死なれ、親戚にも死なれ、年季は入ってきたはずですが、何度体験しても学習することは、まったくできていないようです。そのたびに、それまで機能していたはずの身体も心も頭も麻痺します。時間がうつろなものになり、元の生活に戻るまでにはたいへんなエナジーが費やされます。

私は結婚式には、生涯で4度しか出たことがないのですが、お葬式には5倍ほど出ています。渡米していたなかったらもっと多かったことでしょう。それは私が義理堅い人間だから、ではなく、あくまで自己中心的なことです。別れを言わなければどうしようもできない心持を慰めるために、私が選んで出かけていくわけです。私以外のたくさんの人々から祝福される結婚式に出席せずとも、罪悪感など私の中に生まれないのですが、お葬式は自分の心を落ち着かせるため、自分が故人にさようならを告げるために行くのです。故人のためなのではないことを、私は重々わかっています。お墓参りも同様です。

そんなわけで避けたい話ではあるのですが、「どうしてひとりで生まれてきて、ひとりで死んでゆくのか?」という大命題なので、避けてばかりいるわけにも行きません。冷静なときにはこの答えをおぼろげながら知っているとはいえども、死に別れしている、さようならを言っている最中には、どうも凛とした態度が取れないでいます。ましてや、私以外の人がどんなことを感じ考え、人としての信念や理念を培ってきたのかはバラバラです。

英語では、I have been there. I am here for youと至って簡単に表現するだけで、特に言葉を必要としない場面ばかりを見てきました。「わかるわ。私はいつでもあなたのためにここにいるからね」というシンプルな表現と暖かいHugs、抱擁。私も何度かそんな言葉と温かみに救われてきました。究極のところ、生死観はそれぞれが確立せねばならぬ領域で、正解などなく、死に別れることは誰にとっても何度経験しても、容易になることなどではないです。

つい先日も、不覚にも植村直己について熱く語っている人が出ている深夜の番組を見て、大げさに泣いていました。一度も会ったことすらない人なのに、です。夕べも織田信長とその廻りにいた人々に想いを馳せて泣いていました。なんとまぁ、安い涙なのか…と自分で呆れつつも、映画やドキュメンタリーで泣いてもいい、と決めている自分のご都合主義にも、同時に笑ってもいました。人が死ぬということは限りなく悲しい。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%9D%91%E7%9B%B4%E5%B7%B1   植村直己

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7 織田信長

そして、(お友だちのフェレットの)「コパルちゃんが死んじゃったよぉ」と母と西さんとさとみちゃんに報告しても、なんだか涙が出てきそうになり、必死で堪えたのです。うどちゃんの腎臓病を想い、他の5匹のネコたちのことも想い、過去私といっしょに暮らしてくれた小動物たちのことを想い、たくさんの死に別れた人々を想い、こうしてまたもや私の大命題:「どうしてひとりで生まれてきて、ひとりで死んでゆくのか?」は、確固たる信念と理念を固めているのだろうか?と疑うわけです。疑う余地はまだまだたくさんあります。

それでもまた午後には営業のため外に出て、仕事を進めていかねばならぬ日々に同時に感謝もしました。ずっとそれだけを考えねばならぬ状態だったPTSDでの自分を思い出してしまったわけです。それでも、考えることは悪いことなどではなく、逃げることも一時的ならば悪いことでもないよなぁ、と緩みを以ってぼーっとして歩いていました(今日はけっこう歩いた…)。戻ってくるとお友だちからメールが届いており、想いがこもった文が綴られていました。返事を書くことができるのかどうか、躊躇しつつ、先にこのエッセイを仕上げているところです。

遠いアメリカでネコたちが元気でありますように。いいシッターさんでありがとう、と東の空を見上げて祈りました。同時にいろいろな人が死に別れることにより、死んでしまった生命と自分のそばにいる生命をうんとうんと大切にしていくことができるよう願うのでした。

コパルちゃんは胸の中で生き続けていきます。Titanic My Heart Will Go onの歌詞を今頃噛み締めてくれているといいな、と思います。http://www.lyrics007.com/Celine%20Dion%20Lyrics/My%20Heart%20Will%20Go%20On%20Lyrics.html  

 

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