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病気と動物と子ども

09/23/2006 にアップした文章です。

 

映画や物語の題材としてコレに勝るものはないとされていますが、私もご他聞に漏れずこの3つの題材のストーリーにはついつい泣けてしまいます。そして、感動されない人々に対しては「どうして心動かされないのか?」と不思議な気持ちになりました。

日本では古くは、「みこ&まこ」の『愛と死をみつめて』が大流行し、私も歌だけならまだ歌えます。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E3%81%A8%E6%AD%BB%E3%82%92%E3%81%BF%E3%81%A4%E3%82%81%E3%81%A6 解説にあるように、このストーリーにinspire(刺激・誘発)されてできたドラマや本などがあり、その恩恵をたくさんの老若男女が受けているわけです。

母の弟は昭和36年、私が生まれる以前に骨肉腫で死んでおり、もう40年以上経った今ですら、母は弟の名前である「かつみ」という音を聴いただけでも泣くし、骨肉腫という種類の病名を見聞きしただけでも泣くし、この手の理不尽な病のストーリーには滅法弱いです。その後、母の母、私の祖母も子宮ガンを原発にし、全身転移で亡くなっており、父もまた胃ガン原発の転移ガンで亡くなっています。が、母は最後までしぶとく生きてくれることでしょう。残される側の苦しさ・つらさ・さみしさ・悲しみはいかほどなものか。母を見ていると考えるわけです。そして、こういったストーリーにお目にかかるたびに、いろいろな思い出や想いが濁流のごとく心の中に入り込んでしまい、目の前にあるストーリーだけではなく、今までのすべての体験へと繋がっていきます。

愛する人が病に倒れる。なす術もなくただそばにいて見つめていくしかない。その人が生きた証となる以外に道は残されていないわけです。そんな想いをしたことのある人が、泣かないにしろ、心が動かないわけもないわけですが、このような経験も「するまでわからない」人がいることが、私にはどうも世間が乾いているバロメータになるような気がするわけです。

否定するわけでもなければ、楽しいことだとも思ってはいないのでしょうが、「単に暗い気分」になるだけで感情が渦巻くことのない人は見てきました。ある人にとっては、経験したことがないからわからない。ある人にとっては、所詮他人事。ある人にとっては、人はいつか死ぬんだから仕方がない。反応はさまざまでした。どうであれ、私は喜怒哀楽がのっぺりしていることに対して「恐怖」とまでは行かずとも、背中がゾクゾクする気持ちになったのは確かです。それでも、おつきあいを続けた人たちはいましたが、この点において「あれ?」と感じた相手とは、いずれうまく行かなくなるという結果は圧倒的に多かったのです。

動物モノにしてもそうで、私は恥ずかしながら『南極物語』を読めても見られてもいません。100%の確率でつらくなることはわかっているからです。動物がどんなにすばらしい存在であるかは、すでにしっかり身に染みてわかっており、悲しくなるのであればどうも見たくないわけです。しかも、死んでしまった13頭の犬に対してどうしたらいいのか、今ですらわかっていないわけですから。うひー、このリンク見ただけで大粒の涙がぽろぽろ出てきちゃいました…。究極の選択をした人々に対してどういう心持ちだったか想像しただけでもダメだ・・・。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%A5%B5%E7%89%A9%E8%AA%9E しかも、私は高倉健のことは、もう無条件で好きなのです。あの寡黙な顔がどんな演技をするか想像しただけで、見る気がしなくなってしまう・・・。なので、当然、ハリウッドでリメイクされたEight Belowも見ることはできないです。

動物は嫌いだ、というのは生理的な嫌悪があり、それは仕方のないことです。犬が好き・猫が好き・カラスは嫌いなどなど、ある個人の経験がその人の考えをシェイプしており、それに関して私がどうこう言えることでもありません。ただ、「生命が失われることに対して」なんとも思わない人には、空恐ろしさを感じるのです。たとえそれが動物であっても、私には同じことです。では、食べるために育てたり捕獲したりする動物は対象外なのか?と、私はもう20年以上苦悶しているのですが、24歳で知り合った最初の英語の先生であるMaryは完全なベジタリアンでした。彼女は植物に関しては同じセオリーは使いませんでした。私はその生命の威厳に対して、自然の摂理を生物でみっちり習ってからベジタリアンになる可能性はすっかり捨てました。が、やはり完璧なまでに潔いわけでない私は、自分で手を掛けることはできないし、どんな生命であっても失われたことに対しての畏怖を持ち続けています。畢竟、それが食べることができ続けていることへの感謝を増幅させており、私という人間が謙虚でい続けるためには、必要なことだと思っています。この点では、Native Americansについての俗話や伝説などをたくさん読みました。とても参考になりました。

子どもが不幸になるとは限らないので、子どもが主人公のストーリー、絵本やその他食わず嫌いですが、「子どもが病気」というコンビネーション設定ものはどうしてもダメです。極力避けています。実生活で、カリフォルニアはOaklandの Children’s Hospital でボランティアをしたのですが、あれを職業にしている人々はすごすぎます。私は短い3ヶ月、しかも週に2回でもとても消耗しました。しまいには、私にとってはラクな、日本語から英語の翻訳に切り替えてほしいとまで懇願した次第です。母親になったことはないのですが、子どもが病気設定だと親の究極の苦悩を描いており、その点で「失った機会」について思い出させられることもイヤなのかもしれません。子どもを持たなかったことに関して後悔はしていないのですが、経験(至上)主義な人々の、「子どもを持ったことがないからわからないに決まってる!」というのにはうんざりです。子どもを持たなければ人の痛みがわからないのだとしたならば、その人はおそらく子どもを持てない痛みもわからないのでしょう。「子どもを持てなかった時期があったのだからわかるわ」というのは、まやかしです。結果論として持つことができたのですから・・・。そして持てない人間が子どもが病気であるストーリーに対峙できないことも、持っている自分が感じるよりも浅い・薄いなどとみなすのは、なんだかおかしいという「機会」がもたらす不可思議についてうんざりなのです。

うどちゃんの腎臓病というエッセイは、時間が経っても読んでいただけています。検索機能のおかげなのでしょうか・・・。うどちゃんが病気という最悪なことは予期もしており、ネコたちに我が家に来てもらえたときから覚悟をしていたとは言え、はんぺんのようなヤワな心を持った私(こういう分野において)には、世界がグルグル廻ってしまうことです。そのうどちゃんの腎臓病や、まだ私のわかっておらぬ範囲のほかの5匹のネコたちの死ぬまでの病気について考えるだけでも心は痛い。元気でいてくれる母がいつかは死にゆくことを考えても心は痛い。西さんのように死についていろいろ考えている場合には少しだけ救われますが、私の心もちとしては大差はありません。

ストーリーに弱いのは、自分に当てはめて考えてしまえるからなのでしょう。これが共感能力なわけです。

共感:(1)他人の考え・行動に、全くそのとおりだと感ずること。同感。 (2)〔心〕〔sympathy〕他人の体験する感情を自分のもののように感じとること。(3)〔心〕〔empathy〕⇒感情移入

心理学ではコレをempathyとします。同情の意味を含むsympathyには少しノイズが入ります。この共感能力を持てるか持てないかで、個人の人間関係は大いに変化します。畢竟、人生も大きく変わります。塾や習い事をいくつも掛け持つよりは共感能力を持っていたほうがいいことのほうが多い、と私は思うのです。私のように30歳過ぎて大学に行き、倖せに暮らすことも不可能ではないのですから・・・。

とにかく、病気と動物と子どもストーリーにはほぼ確実にやっつけられているとは言え、それでいいんだなぁと苦笑する日々です。

 

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