感じ考える量とか方向性の数とか機会数は、幼い頃よりは少し落ちたかなぁと思うんですが、質は確実に上がっています。アメリカで過ごしていた約20年間もそれを停めることもなく、あらゆる新しい刺激や、自分と違う考え方との遭遇などにより拍車をかけ、ものすごく落ちた感じはしていません。緩やかに、業務が増えた分だけ減ったかな、程度ですかね。
幸い、この年齢になるまでゲームにもさほどハマりませんでしたし、中毒化するほど推し活もしてませんし、熱中しても緩やかな中立に戻すことはかなり訓練できていて、たとえば買い物などもやりすぎた!と感じたときには、消耗品を買って満足しておきます(笑)←最終的には使うので無駄はないし・・・。
そうした意味でまだ新しい発見は未だ全然存在します。(◎_◎;)
なので、相変わらず感動したり、悲しんだり、焦ったり、情けなく思ったり、などなど、涙することは多いのです。1日1回以上泣いてますね・・・。(^_^;)
ドラマのこともあれば映画のこともあるし、ニュースかもしれないし、読んでいる本だったりもする。時には私のそばで実際に生きている人の境遇や暮らしを思っての
少なくとも、年齢を重ねてきて、さまざまなことに鈍感になっていないことは感謝です。
たとえば大の男が狂いそうに女のヒトのことが好きだと泣いているのにもらい泣きしてしまったり、戦争写真でも胸がつぶれそうになって泣いてしまったり、愛されたいと訴えかけている人を観ては泣いてしまったり、と、もうね、枚挙にいとまがないくらいに材料は転がっています。そのたびに、フェアではない世の中に切なさやわびしさを感じつつも、直截的に怒ったって何も変わらないので、そこは堪えて、どうにかして応援ができないものかと考えたりするのも、なかなか回り道ではあっても、世界のすべては繋がっているので、きっと分子が振るえて繋がっていき、きっといつか到達するんじゃないかと、想像しつつ、せっせと最低でも一日一善をするのでした。
泣かなくなったらもう傲慢が乗数で増えていってしまいそうで怖いです。自分がうんとちっぽけな弱者だった頃のことを忘れてしまうのは、ありえないほどの恐怖です。認知症になって自分を忘れてしまったらどうしよう、と思うくらいの恐さ。
そんなの当たり前でしょ、と言わずに、いつでも説明することを厭わないニンゲンでいるためにも、いろいろな新しいことを知り、びっくりしたり、泣いたりはしていきたいですね、死ぬまで。
つい昨日は、夏梅の寝姿がかわいすぎて、無防備すぎて、あまりに信頼してもらえていて泣けた・・・。そして歴代のネコたちを思い出して、この無償に近い彼らの愛に値するニンゲンでいたいと思って泣けました。まぁ、純粋だけど、彼らの第一動機はごはん欲しい、なんだけどね・・・。(◎_◎;)。でもお腹がいっぱいでも下心なくても、くっついて眠ってくれたり、ちょんちょんやってくれたり(存在アピール?)、心臓の鼓動を聴かせてくれたりすると、泣けますね。
今日はベランダで干してある洗濯ものと格闘している姿を観て、笑っていますが、あまりに笑うと泣けてくるのでそろそろ本気で仕事に戻ります(笑)。
