鬼薔薇事件のときにはUSにいて、Berkeleyにて心理学を学んでいました。学校でもかなりな話題になり、授業中にもその解析の一部が成されました。犯罪心理学の部署はないのですが、ヒトの心理の基本のところに寄せていき、どこからどう心の動きや行動などが派生したか?というような分析を聴いた記憶があります。
USではB級といわれる映画も山ほど見てきたのですが、犯罪や心理サスペンスは嫌いでもないので、よく見ていましたが、ナイフでこれだけの数を殺傷するというのは、もう水準値から遠く遠く離れている事項ばかりが集まった集大成です。おそらく、USでもびっくりしているのは、拳銃ではなく、ナイフでの数、ということなのではないでしょうか?ざらっとは見ましたが、記者たちはかなり驚いていて、それについて書いていますね。
ヒトはどこまで自己を誇示したいのか?というのが、犯罪のポイントとなります。Copy catという映画でも、模倣犯が次々と史上に残るSerial Killersの犯行を真似るのですが、結局彼は自分の生命よりも名誉を取ることになるわけです。ゆえに、捕まろうとするのですが、現場の刑事が許さずその場で射殺余地なし、という状況を作り出せる運びに相成るわけです。
平和になったがゆえに、暴力が加速する、という諸刃の剣を受け入れる準備が、市民たちにないことが、まず最初の懸念でしょうか。当然、平和なこの世の中で、そんなことを考え実行する人たちがいるなんてことはありえない、という想定は危険すぎます。
私個人は、ついつい最近までオンラインで顔出しすらしていませんでした。英語スクールを設立してすぐに、顔出しを要請されましたが、できるだけ避けていたのです。おばばになり、どうでもよくなった時点になったことと、先が見えてきたためUSに戻る目標に具体化プロジェクトが立てられたことと、youtubeを始め、動画が今後の21世紀前半ではキーポイントになることを加味し、ようやく顔出しを開始した次第です。
私などが犯罪の標的になるか?というのは、おこがましいというのは違うと思うのです。ネットが発達して、もしかすると平均値を大きく離れた人を求める人間に、情報を得られてしまえばありえない話でもなく、想定されきるすべての防御対策を立てたあと、Facebookもデビューしました(笑)。とはいえ、更新しておらず、スクールのBlogのアップのためにしか使っていないんですけどね (・・;)
Serial Killersを作るのは誰か?という究極の命題は、犯人探しをしたいわけではないですが、広義にはなりますが、社会全体です。最も責任が重い人を探してそれでおしまい!というのは、あまりに短絡的です。私は裏表のない人間なので、マナーで人前でおならはしないですけど(笑)、たいていのことは見せてしまいます。それでもおつきあいいただける人は、私の裏表のなさを本気で理解してくれますが、そうでない人はずっと疑い続けるはずです。
ゼッタイのないこの世の中でゼッタイに信用できる人たちに囲まれて暮らしていければいいんですが、社会が広がり、国際社会になり、多様的な考えが増え、貧富や教養、信念や思想に差が生まれると、もらい事故の確率スポットに、たまたま居合わせることだってあるかもしれないのです。
日本の平和ボケは天下一品で、みなさんにももう少し警戒を深めていただけたら、と思うことは多いです。FacebookやInstagramに子どもの写真とか載せるのやめませんか?(・・;) 余計なお世話かもしれませんが、自衛ができない人や許可を与えていない人の写真を載せちゃうのは、著作権や肖像権の概念がなさすぎます。自分がやられたくないことはやらないようにお願いしたいです。
そうしたささやかな積み重ねは、世知辛い世の中を作るかもしれませんが、その世知辛さを緩和するコミュニケーションの取り方を考えていけばよろし。ヒトはなぜか犯罪に魅了されてしまいます。明日は、2005年に書いた雑感をアップします。
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