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究極の片想い

私が好きな歌に、浜田省吾の『片想い』があります。この歌は元々いつもひとりで口ずさむほどにかなり好きであったのですが、おそらくいちばん好きな歌になったきっかけになった人がいます。22歳当時、私が全身全霊で好きだった人は、名古屋に住んでいました。彼のために起き、彼のためにバイトに行き、彼のために将来を考え、愚かに成り下がり、それさえをも悦びとしていた時期がありました。

東京で懸命に働いていたときに、名古屋ベースで仕事をしているある人に出遭いました。私は当時4つのバイトをくるくるこなしていて、そこは飲み屋さんでした。ホステスでした。笑い話になりますが、3ヶ月しか続きませんでした。トライしたことだけでも価値のあることだったと思っています。名古屋が好きだったのは、その大好きな彼が居たからであったのですが、「名古屋に来ることがあればいつでも電話ちょうだいよ」と一言残したIさんは、社会的にかなり成功した人でした。それを現実視したのは後のことになります。

どのくらい手広く仕事をしているのかもまったく No Clue(手がかりなし)のまま、年に数度しか逢えない彼に逢いに行ってみることにしたとき、Iさんに電話してから出かけてみることにしました。新幹線の名古屋駅を出たところに待っていたのは、黒塗りBMWの7シリーズでした。サーキットでナレーターコンパニオンをしていたのでそれほど高級車に驚かない私ではあったのですが、その迎えに来てくれた人は、エレガントに荷物を受け取り、後部座席のドアを開け、冷房が効いた社内でいんぎんにIさんのことを社長と呼び、私をIさんの待つ会社まで運転してくれました。

秘書の女性の前を通過し入った社長室は20畳ほどある洋間で、大きなマホガニーの机の横にはどっしりとした地球儀がありました。私の顔の5倍くらいの大きさです。机の斜めうしろの壁には、熊が大きく描かれたカリフォルニアの州旗が飾られていました。机の上に足を投げ出し、スピーカーフォンで商談をするIさんは、「よぉ!来たな!」「ちょっと待って。これ、終わらせちゃうから」と笑顔を見せ、そのまま真剣な顔に戻りました。待っているあいだに陳列してあるあらゆるものを見学したとき、浜田省吾の『片想い』のゴールドディスクの楯を見つけたのです。他にもいろいろなアーチストのものがありましたが、私にはその文字が浮き上がって見え、それがいちばん日付の古いものだったこともきちんと見届けました。

「Iさん、どうしてホステスの私にこんなにすごい接待してくれるの?」と驚く私に、Iさんは笑って、「おおだいらさんとはお友達としてつきあっていくつもりだよ」と一言だけ返してくれました。その言葉は彼が死ぬまで続きました。先月の22日です。

それから2年、私が身体ひとつで名古屋に行くたびに、Iさんはお友達としておつきあいしてくれました。その私が大好きだった彼もいっしょに食事に招待してくれたり、仕事の合間を縫って、あるいは仕事の席上にまで「この人は僕のお友達のおおだいらさんです」と紹介して招待してくれました。

19歳、大学生のときに有限会社を設立した彼は、私と出遭ったときにはまだ31歳でした。ものすごい老け顔で40歳に見えていたものです。小柄で細い身体に、あのエナジーを見出せた私自身の好みに今は感謝しています。たくさんのお酒とたくさんのホテルの朝食とコーヒーを経て、私はIさんをどんどん知ることになります。彼の恋、彼の結婚、彼の子ども、彼の夢、彼の地元への情熱、彼の友人たち、どれを取っても私がそのとき死ぬほど好きだった若い彼よりも、ずっとずっと私好みでした。Iさんに妻子がいることで、「不倫だけはしまい」と思っていた私は、「Iさんは私なんかタイプじゃないわよね」と軽口を叩き、「おみゃぁには、○×がおるじゃねぇか」と言われ、私の本気だった告白はいつももみ消されていました。

週に1度はほぼ必ず上京するIさんの常宿は赤坂で、私はそのロビーに現われるIさんの姿を見ると、「ああ、私はこの人に恋をしている」と思ったものです。たくさんの人々や風景が止まり、Iさんだけが私に向かって歩いてくるところは、私のなかでかけがえのない風景になっています。

腎臓結石になったIさんにお見舞いの花束を病室に送ったとき、そのお見舞い返しに送られてきた彼の自宅の住所を知った私がしたことは、アドレス帳に大切に使わない住所を書きとめることでした。私の親友でさえ、私がこれほどまでにIさんを好きだったことは知りません。私はその名古屋の彼を気が狂うほど愛していた、というふれこみであったからです。それも事実でしたが、心の奥底の静謐なところで、Iさんへの恋心は消えることなく燃えていました。

私の渡米を誰よりも情熱的に歓んでくれたのもIさんです。こちらに来てから2回、ラスベガス旅行に誘ってもらい、LAとラスベガスで泊りがけデートを重ねました。もちろんIさんのお友達がいっしょで、私のアメリカでできた友人もいっしょでした。Casino(カジノ)のホテルというのは、大きなペントハウス風の部屋にベッドがある部屋がいくつもあるもので、私は一度だけIさんとひとつのベッドに寝たことがあります。何もありませんでした。あってほしかったのですが、何もありませんでした。

私のその名古屋の熱烈に好きだった彼とIさんは、何年かを経て友人になり、彼はIさんと名古屋でたまに遭遇したり、逢っていたりしていたようです。その彼への想いはみごとに風化したのに、私のIさんへの想いはいつまでも消えることがありませんでした。何人かの人に「Iさんという人がいてね」と描写をしてみるのですが、「本気で心から好きだった。今も好き」だとは言えずに、「彼が結婚していなくて、私が彼のタイプだったら、結婚したくない私でも結婚したかったし、家に納まりたくない私でも家庭に入ってもいいくらい、いい人なの」などと、出遭った時期が悪かった片想いをなぜかあっけらかんとしか話すことができませんでした。

クリスマスカードに電話、日本に帰ったときにも電話で逢う寸前まで段取りをしていたのに、去年も今年も逢えませんでした。たとえ逢っていたとしても、忙しいのは慢性的であったし、それでも体調が悪いなどとは言わなかったであろうし、明日また逢えるみたいな別れ方をしていたとは思います。これまでの14年間いつもそうでした。逢うたびに「Iさんは本当に私のタイプなの」「結婚してなかったらなぁ」「別れたら必ず連絡してよ。」と軽口をたたき、Iさんは苦笑するだけで終わりでした。

疲れたIさんの肩もみをしながら、浜田省吾の『片想い』を口ずさんだことを思い出します。カラオケには一度もいっしょに行ったことがないのに、私はいつも浜田省吾の『片想い』をIさんのそばで歌ってきたような気がします。私にIさんを思い出させるものや人やことはたくさんありますが、14年前にIさんと私の間柄を象徴するかのように現われたあの楯に刻んであった文字、「片想い」は歌とともにいつも私を泣かせてきました。これからはもう片想いを伝えられなくなってしまったIさんのすべてとともに私を泣かせていくことでしょう。

Iさんはどこかで私の本気さを受け止めてくれていたのでしょうか?知らぬふりをしていただけでしょうか?片想いを投げかけ続けることができなくなった今、Iさんが私にくれたすべてを心の底から大切にしていかないとな、と思います。世界中に私のような究極の片想いをIさんにしていた女性が何人かいたことを私は数人知っています。もてないと言っていたけれどもそれは大嘘でした。彼女たちの心にはどの歌が響いているのか、と考えています。

渡米しても、西さんに逢っても、さよならが言えなかったのに、勝手にさよならされてしまいました。せめて一度だけでも。愛を求めた片想い…。

What is love? In math, it's a problem In science, it's a reaction In history, it's a battle But in my heart, it's youWhat is love?
In math, it’s a problem
In science, it’s a reaction
In history, it’s a battle
But in my heart, it’s you
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